Mental High
John Doe
第1話 これって変ですか ー始まりー
私は人生が楽しくてたまらない。正直、私は何もしていないのにこんなに幸福でいいのかと時折疑問を感じてしまう。とにかく楽しいのだ。絶えず押し寄せる多幸感の波、根拠のない明るい将来への展望、自分は不老不死なのではないかと思わせるような感覚。体は機敏に動くし、疲れを知らない。もちろん疲れを感じることはある。それでも一寝入りすれば、たちまち気分爽快。
気持ちが落ち込むこと? そんなのあるわけない。仕事は、無遅刻無欠勤、バリバリ働けているし、一度したミスはほぼ繰り返さない。上司から叱責されることはほとんどないし、まさに順風満帆という感じだ。たまにかかりつけの医師に相談することがある。「こんなに幸せでいいんでしょうか?」と。決まってその医師はこう答える、「まあ順調に来ているんじゃないですか」。会社の健康診断でも検査の数値が悪くて引っかかることはまずない。
私がこんな状態になったのは、おおよそ10年前からだ。その当時、私は大学院に在籍していた。学部生時代、歴史学の学徒を志していた私は、当時自分が専攻している歴史分野が自分の大学にないと知り、近所の他の大学に大学院生として入学した。他大学とはいえ、学部生時代に在籍していた大学の近所ということもあり、すぐにその大学の雰囲気に慣れた。指導教官も何かと気にかけてくれた。ゼミの雰囲気は和気藹々としていた、先輩方は優しく(一部例外はあったが)、同級生も他大学出身の私を気にかけてくれた。大学院生というのは、単に研究だけしていればいいというわけではない。指導教官やその大学が主宰する学会の裏方も勤めないといけない。ただ私の場合は、先輩がほぼそれらを引き受けてくれたから、研究に没頭できた。純粋にやりたいことをやれる環境が整っているというのは、非常に居心地がいいもので、ついつい長居をしがちである。それでもいつかはそこを出ないとならない。その頃からだ。私のメンタル・ハイが始まったのは。
大学院生の修士課程は最短2年、最長でも4年である。ただそこには「休学」という期間は含まれない。私費留学や体調不良などのため、一年単位で大学を休むことができる。私の同期の多くは3年で大学院を修了し、社会に出て行った。結論から言うと、私は大学院に5年在籍した。最長4年プラス休学1年である。
休学前から私は就職活動を始めていた。いつまでも学生というわけにはいかない。ただ先ほども述べたように、なにぶん居心地のいい場所から出て行くのだから、あまり気が進まない。まあ、とりあえず一社内定をいただければ、いいやくらいの、呑気な感じでやっていた。今時の意識高い系の人々とは逆のことをやっていたような記憶があるから、それも無理はない。むしろこの頃からだ、元気になっていったのは。この頃から、眠らなくても大丈夫になってきた。眠らない、上等上等とその時は思っていたのだが。もらえなきゃもらえないでいいや。そもそも社会に出るよりも、象牙の塔に籠っていたいタイプだし、経済的にも比較的恵まれてるし、てなことを考えていた。もちろん、内定獲得虎の巻のような本を買って、それを熟読するというわけでもない。面接(大抵芳しくない印象の)の後、本屋に寄って反省するなどするわけもなかった。あまりの楽天的発想に自分でも驚いて、いわゆる「躁病」ではないかということでちょっと気にかかって近所の心療内科を受診する。最初の方で登場した医師はこの時からの付き合いである。
結果:異常なし。
結局、内定は一社ももらえなかった。じゃ、最後の手段だ。指導教官に話して博士課程に進ませてもらおう。くらいに考えて、修士論文の執筆に向かう。最後の手段もこれがなきゃ、どうにもならないから。休学期間をのらりくらりと過ごし、修士論文をどうにか書き上げ、指導教官に修士論文完成の報告と博士課程進学の希望をそれとなく伝えてみた。すると思いもよらぬ答えが返ってきた。指導教官が定年退官するという。まあ、その指導教官は年齢からすれば当然の年齢の方だったので、「ふーん、そうなんかー」くらいに考え、新しい進路を考えざるを得なくなった。籠ろうとした象牙の塔の住人から、門前払いを食った私は、あまり深く考えることもなく、教員の道を選んだ。理由はそれまでに蓄えた知識が役に立つだろうという、安直なものだった。家族もその方針をよしとした。
そこからだ、私のメンタルが何か「異常」な状態になったのは。
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