コドモによるオトナみたいな読書感想文

神楽坂

吉村萬壱『ボラード病』を読む。

この物語は人間の「狂気」を描いた物語であり、その記録だ。「結び合い」という言葉のものに集結し、団結し、異端となるものを教化し続け、それでも狂気に犯され続けるものをどんどん排除していく。その結果、排除されてしまった「大栗恭子」が書いた手記がこの物語の基になっている。

途中で(判読不能)など、手記を読んでいる「読み手」のまなざしが登場する。それはおそらく我々読者と同じ目線、つまり「正常者」の位置から眺めている目線だ。

その「正常さ」を逆手にとって、「恭子」は手記を書き連ねていく。

興味深いのは母親の描き方だ。一見、過保護な母親と対立しているように見えるが、病院についていく場面などを見るとまだ母親と密着しているようにみえる。「海塚」の人間とは完璧に対立する。貧乏として同質に語られる「浩子」や「健くん」とも決別し、死んだ「アケミ」と同調していく。

そのような人物関係を序盤に設定し、海塚ボランティアの場面で全ての価値観が反転する。母親とは決別し、お隣の「野間さん」や「川西」と密着していき、「海塚讃歌」に引き込まれていく。嫌悪感を抱いていた「浩子」や「健ちゃん」が輝いてみえるようになる。価値観の転換、コペルニクス的転換といってもいい。

しかし、実際には価値観が転換したわけではない。最後の章を読むとこの手記はただの「反省文」だということがわかる。「恭子」は教化されてもいないし、「正常さ」を手に入れたわけではない。

私たちはこの見せかけの転換や、「恭子」の「狂気」を「正常さ」を携えながら読むことで「狂気とはなんなのか」「正常とはなんなのか」と考えさせられる。自分たちが今享受している「正常」や「普通」というのはかりそめのものであって、本当は「普通」なんてものはないのではないか、と考える。そして自明になっている「普通」を批判する。「普通なんてものはうわべのものだ」、と。それは誰にでも思いつく思考だ。

しかし、その思考こそがこの本に仕掛けられた「罠」だと言えるだろう。私たちはかりそめの「普通」から逃れることはできない。結局は個人にとって、ある集団にとって、地域にとって、国家にとって、世界にとっての「狂気」を探し回り、それを排除することで「正常」を形作ることをやめることはできないのだ。それなのに、このような物語を読んで「狂気」と「正常」の境界線が揺らいだ「ような気になる」のだ。それこそが読書による快楽なのであり、吉本隆明が言うような読書がもたらす「毒」だ。私たちは毒を摂取し続けているにもかかわらず、それに気付かず、自分の意識化で引かれている本当の境界線に目を向けることなく、表層の境界線を揺るがすことで何かを考えたように思い、満足し、そしてまたいつものように自分の中の境界線を用いて「狂気」を見つけ、自分の「正常」を裏付け続ける。

この物語が持つ「毒」からも誰も逃れることはできない。しかし、自分が服毒していることを自覚するのとしないのとでは何かが違うのではないか。私たちは何からも逃れることはできないのだ。そんな私たちの限界をまざまざと見せつけられているような気がしてならない。

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