第75話 雲霞の一三夜丸

(一)

「お方様、どうしてしまわれたのじゃろう…。」

「うん…?」

「先ほどからぼっとして、あーあ…裁可せねばならん書に墨が垂れるっ!」

 静香の叫びに、誾千代はうつろな目でこちらを見た。

せっかく上程した文書に、筆の先端からぽたりと墨液が落ちた。

「ああ…。」

 誾千代は落ちた墨をぼうっと見た。

「お方様、それではお召ものが汚れます。さっ、筆をこちらへ。」

 近が慣れた所作で片づけた。

「ふむ…。」

 いつもの誾千代らしくない、のろのろと近の邪魔をせぬよう立ち上がる。

「なんか病かな…?いつもなら立花山に泊られて朝登城されるのに、昨日から三日月にお泊りのようじゃし。」

 書類の束を抱えながら由利が言った。

「病だとしたら、御医者様でも治せない奴だろうよ…。」

 近が目くばせしながら言った。

「えっ、大変だ。重いのか!」

「馬鹿だね巴…そう言う意味じゃないよ。」

「私は静香だ。その名を口にするな!」

「あっ見てごらんよ、ほら今度はそわそわしだされたよ…。」


そうか、三郎様であるわけないからな。…それにしても生き写しだ。

若者は一三夜丸と名乗った。

年は十八だという。

当世風の派手な錦の羽織袴に、月代を剃らず長い髪を後ろに束ねている。

「諸国を気ままに旅する牢人でござる。」

名のりには名のりで返すのが礼儀だ。だが誾千代は一分嘘をついた。

博多の商人の妻ということにした。

河原に腰を下ろして話をした。

不思議な感覚…初めて会った気がしない。きっと三郎様に似ているからだ。

誾千代は、初対面の男に気づかず思いのたけをぶつけていた。

一三夜丸は静かに、そして熱心に話を聞いてくれた。

「家を継いでいくことは大事かもしれん。だがそれでは妻とは、女とは子を産む道具ではないか…!だから側室もかかえるのだろう。じゃが、男と女とはそうしたものか…。そうであれば、あまりに女がみじめではないか。」

一三夜丸はすっと立ち上がった。

「私は諸国を旅して、いろいろな人、男、女、夫婦、見て参った。たしかに、夫婦にはそうした面もござるが、男と女、そうというばかりではない…。」

誾千代も立ち上がった。

「学者か坊主のようなことを言うのだな。」

「そなた様こそ…側室とは、まるで御領主の奥方様のようなことを。」

しまったと思った。

男は懐から横笛を取り出した。

「今宵の月は霞に隠れ、出ては引っ込み、なかなか本心を見せぬ。ここはひとつ、悩める月を慰めるため一節捧げましょう。」

びょうっ…

激しく吹き出された音色は、優しく、また激しく

まるで誾千代の心を奏でるように流れた。

いつしかまた腰かけた誾千代は、時の経つのも忘れ音色の渦に包まれた。


(二)

「あれ?お方様は…。」

 書類の束を抱えた由利がきょろきょろした。

「えっ、さっきまでそこに…。」

 静香もきょろきょろあたりを見回す。

「どうやら、出て行かれたようだよ。」

近が外を指さしながら入ってきた。

「えーっ!この書類の山、どうすんねん!」

 書類の山を抱えて座り込んだ。

「あんた…浪花の出だったかい?」


 縁があればまた…

そう言って別れた。縁があれば…

誾千代は桃色の小袖姿で、博多の街をうろうろと歩き回った。

珍しくうっすら紅も引いている。

若い侍を見ればどきどきした。


違う  これも  違う


そうではない。市内の見回りだ。私は人妻だから

頭ではそう言い聞かせながら、目は艶やかな羽織を探している。

ぽん

後ろから肩を叩かれた。

「また、お会いできましたな…。」

白い歯がこぼれる。

少年のような

なんと人を惹きこむ笑顔

「ああ…。」

「もしかして…私を探して下さったか?」

誾千代は真っ赤になった。

ぷいとそっぽを向く。

「そんなことはない…偶然じゃ!」

一三夜丸は回り込んで顔を見た。

「それならば御縁があったということ…うれしうござる。」

誾千代はさっさと前に歩く

「そうか…よかったな。それじゃあまた…。」

「お忙しいのか…。」

「ああ…忙しいのだ。」

目を合わせられない。心の臓が痛いくらいにどきどきした。

「まだついて来るのか!」

いつの間にか郊外に来ていた。

「はい…せっかくの御縁なので…。」

「わしは忙しいと言っておろうが!」

「でもおぎん様…言葉と裏腹にずいぶん楽しそうですが…。」

ここは?平尾村のあたりか…

前に人だかりが見えた。

何だ?

近寄った誾千代をばつの悪い思いがとらえた。

「弥七郎…。」

百姓や家来に囲まれた統虎がそこにいた。


(三)

「殿さま自らそがん働かれんでも…。」

庄屋の彦兵衛が言う。

「なんのいい肩慣らしだ。」

統虎はそう言いながら、百姓と一緒に鍬を振るっている。

お付きの家来たちも仕方なく、一緒になって作業している。

荒れ地を耕して新田を増やそうとしているらしい。

「ただでさえ、税ば四公六民にしちいただいて、みんな感謝しちょりますのに、これ以上お世話になっては、罰が当たりますばい。」

統虎は切株を掘り返しながら言った。

「いやいや、情けは人のためならず。収穫が増えれば人口も増えやすくなる。人口が増えれば兵が増えて領地を守りやすくなる。これは我が為にやっておるのだ。」

「そげなこつ言っていただいて…まっこち、あいすみまっしぇん。我ら百姓も新領主さまのために頑張りますで!」


「立派な殿さまだな…。」

一三夜丸の口調が変わったが誾千代は気づかなかった。

「ああ、評判らしいな…。百姓たちの暮らし向きも良くなったらしい。」

誇らしさと、いろいろな後ろめたさと

気づかれないよう木の陰から見ていた。

「良くなったぁ…?百姓の暮らしが…?」

口調が変わったのに誾千代も気づいた。

「そうじゃ、流れ者がよう知らぬのに批判めいたことを言うのか!」

「よう知らぬか…それじゃあついてきなされ。」


 一三夜丸が案内したのは村はずれだった。

川沿いに建つ家は、村の中のものと異なり壁も屋根もボロボロ、雨が降ったら大変だろうという状態のものが多い。

「ここは…?」

 顔が泥だらけでやせ細った少女、五つか六つくらいの子がぼろぼろの駕籠に野草をいっぱい積んでやってきた。

誾千代たちを見るや、つぎはぎだらけの服を翻して家らしい建物に逃げ込んだ。

「あの草は…?」

「おそらく夕食さ…。」

「えっ…あんなものが!」

「ここはな…水呑み百姓と馬鹿にされる土地を持たない百姓たちの集落だ。大雨で川が増水すりゃあ家なんか流される。そんなところにしか住めない貧しい者たちさ。労働の対価にわずかな米しかもらえないここの連中は、稗や粟さえ満足に食えない。あれはもっぱら田のほとりに生えるもの、土地の持ち主のもんだからな。だから野草を食う。栄養が無いからやせ細り、飢饉のときは仕事が無いから真っ先に死ぬし、口減らしで子を売ったり殺したりする。領主がいくら善政をしいてもここまで届かない。領主は主に税をいじり、ここは税と無縁だからだ。だからといって、先ほどの庄屋なんかに水呑み百姓への給金を上げろということは、いい領主でもできないのさ。庄屋の財産に干渉することになるから…。これでも…、よう知らぬと言うか?」

誾千代は膝をついた。

「いや…知らぬのはわしのほうだった!」

「知らんで当然だな…。どんな大店の奥さまか知らぬが、三日何も食うものが無くて、ひもじさに木の根や雑草をかじったことなど無いだろうからな…。もし、領主にあったら言ってやんな、こういう者たちを救う策を考えてくれとな。」

「お前もそんな辛い目にあってきたのか…。」

一三夜丸は道端の草をぱっと千切って口に咥えた。

「昔のことは忘れたよ…。」

誾千代は目に涙を浮かべている。

それを見て一三夜丸は少しびっくりした。

「おいおい泣くことは無いだろう…。」

「だって…わしは…。」

頬を涙がすーっと流れた。

「いきなり悪かったな…お詫びにいいところに連れて行ってやる。ついてくるか?」

誾千代はこくりと頷いた。


(四)

「ここは…?」

一三夜丸が連れてきたのは、筑前山中の古びた社だった。

木の鳥居にかすれた字で白蛇神社と書いてある。

「子がほしいと言うていただろう。ここは子宝に霊験あらたかという神社だ。知る人ぞ知るだがな…。」

落ち葉を掻き分けて社殿へ向かった。

社の中を覗き込むと、なにやら白いものが見えた。御神体の白蛇だろう…それにしても違和感がある。

身体を前にのばして更に覗きこんだ。

白いものが、まるで縄のように絡み合っている。

腰をかがめて覗きながら聞いた。

「これは…蛇か?」

「そうだ…牡と雌のな。」

「何をしておるのだ?」

「交合っているのだ。」

「…へえ。」

よく見ると、縄のようなものは少しづつ、ぞわぞわと動いている。

「どのくらい…こうしているのだ?」

「さあな…一月何も食べずに交合うこともあると聞いた。絡み合ったままひからびて死ぬこともあるとな。」

「それは…獣とはいえ、愚かしいことだな。」

「そう思うか…。」

はっと振り返った。頬が赤くなり、すぐ社の方へ向きなおった。

もう社の中など見えていない。胸の鼓動が激しくなった。


どん…どん…どん


社殿の後ろで大きな音がした。

「そうか…今日はあの日だったか。」

「あの日とは…。」

「来ればわかる。」


社殿の後ろには櫓が組まれ、若い男女が集まっていた。

櫓の上には太鼓、笛を持っている男もいる。

そのうち、調子のよい笛、太鼓に櫓の下の男女は踊りだした。

「これはなんじゃ…?」

「この社の年に一度の祭礼だ。近郷近在の男女が集って踊る。夫のいる者、妻のある者も混じっている。」

「へえ…。踊りに来るのか。楽しそうじゃな。」

「ただ踊るだけならその辺の祭りと同じじゃ。この祭礼には平安の御代から続く特徴がある。」

「なんだ…。」

「見ていればわかる。」

男女は輪になり、だんだんと組んで踊るようになり、ひと組またひと組と踊りの輪から外れていく。

「何をしに行くのだ…?」

「見てこいよ…。」

誾千代はやぶの方へ向かった。

艶めかしいあえぎ声が聞こえてくる。

藪から出た女の白い足が、太鼓の音に合わすように調子を刻んでいる。

「!」

頬が真っ赤になった。社殿の白蛇そのままに絡み合う男女

藪のあちこちにその姿はあった。

「これが子宝に霊験あらたかな正体さ。」

後ろに一三夜丸が立っていた。

「子が出来ぬのは種と畑の相性がある。子が出来ぬ夫婦はここへ来て別の男女と交わるんだ。それで子が出来てもお互い様、自分の子として育てる。古来からの決まりさ。」

「しかし、それではやはり男女は、ともに子作りの道具でしかないのか?」

神官の恰好をした男たちが誾千代の言葉を聞きつけてやってきた。

「なんだぁ!」

「なんか文句があんのか!」

「参加しねぇんならどっか行け!」

とまどう誾千代の腕を一三夜丸がぐっと掴んだ。

「走るぞ!」

「あっ…待ちやがれ!」

森の中を跳ぶように走っていく。

まただ…

また感じた。

初めてではない。この男と会ったのは…


池のほとりまで来た。後ろを窺っていた一三夜が安心したように言った。

「もう追ってこないようだな。」

誾千代は胸を押さえて息をはぁはぁさせている。

「まったく…あんなところに連れて行くからじゃ。わしは人妻じゃぞ…無駄にどきどきさせてどうする。」

再び腕がぐっと引っ張られた。

「何を…!」

唇が吸われ、口の中に舌が入ってきた。

必死で振りほどこうともがいたが、抱きすくめる力は信じられないほど強い。

抱かれて更に感じた。

やはり…前にどこかで…。

一三夜丸の舌が誾千代の舌に蛇のようにからみついた。

舌をほどこうとすればするほど妖しくからみつく。

誾千代は無我夢中でわからなかったが

逃れようとするその舌の動きは、次第に…更に絡みあおうとする舌の動きに変わっている。

するりと袂に手が入ってきて、柔らかな乳房を掴んだ。

思わず声が漏れる。

それは、自分でも今まで聞いたことのない声だった。

















 



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