第63話 白水渓の黒馬

(一)

ぴちょん ぴちょん ぴちょん

水の音が一定の調子を刻む。

聞こえるのはそれと風の音だけ 

火巫女が去って何刻、何日たったのか?

蝋燭の灯りだけの風穴では全くわからなかった。

床にこぼれた粥を何気なく見ると

まるで自分の分だと主張するように

舌をチロチロ出しながら一匹のイモリがその上にでんとしていた。

その姿がどことなく滑稽で笑みがこぼれた。


「ほら、こいつらも小さいながらに一生懸命生きているのさ…。」


ある雨の日、田の横で金牛が蛙を踏みつけないようそっと歩きながら言った。

思い出すとまた涙があふれた。

イモリは、冷たくなった粥の上でこちらの様子をうかがっている。

まるで、食べていいか許しを乞うているかのようだった。

「腹が減っているのだな。…いいから食べろ。」

ちろちろちろちろ動く舌が何事か訴えているようだった。

しばらく粥の上に座っていたイモリは赤い腹を見せ

方向を変えるとするすると壁の方へ向かい

隙間に潜り込んでいなくなった。

蝋燭が風で揺れるくらいで、周りに動くものはいなくなった。

風の音や水滴の音も消えた。

ふいに寂しさが押し寄せてきた。

誾千代はがばっと起き上がり、膝を抱えて頭をうずめ、声を殺して泣いた。


(二)

 何日も姿を見せない友を心配した賢兼は、水之江の郊外にある信勝の屋敷を訪ねた。最近千石取りに加増された信勝の屋敷は、その半分の知行しかない賢兼のものとは比べものにならない立派さだ。瓦葺の門構えと言い、月山のある庭と言い、玄関の竜が書かれた衝立と言い…

「これを見たら、小鶴はまた尻を叩くな…。」

 久しぶりに来た賢兼は、土産が濁酒ひとつだったことも気になったほどだった。

この広大な屋敷に、信勝は老夫婦の小者と三人で暮らしている。

 もう三十半ばで、道を歩くと年頃の娘たちがため息をつくくらいの凛々しさだが

なぜか嫁を貰わず、子もいなかった。

 石高からいって用人を雇ってもいいのだが、必要ない、わずらわしいと言ってそれもしない。

 玄関で翁に案内を乞うた賢兼は、中へ上がらずそのまま庭へ通された。



 どしゅっ…ばしゅっ…ずしゅっ

 

 槍が突きだされる度に汗が飛び散る。

 信勝は玉砂利を敷いた庭で汗だくになって槍を振るい、一人稽古していた。

 声は出さぬが、凄まじい気合いに声をかけるのもためらわれたほどだ。


「なんだ来ていたのか…。」

いつもとは逆だな。

そう思いながら無言で徳利を掲げた。

なぜか照れくさく、自然と笑みがこぼれた。


 その日は月夜だった。

月山に登る三日月を肴に、信勝と賢兼は酒を酌み交わした。

「やはり…気にしておるのか?」

「なんじゃ…。」

「そのう…泥を舐めさせられたことをじゃ。」

「ああ…。」

信勝の目が闇にらんと輝いた気がした。

「あれは屈辱…だが、わしはまだ生きておる。生きている限りはやり返すさ。」

言い終わるや、盃をくっと開けた。

賢兼は何も言わず、徳利からなみなみ酒を注いだ。

月がおぼろに二人を照らしていた。


(三)

 泣き疲れて眠った誾千代は、じっと注がれる視線に目が覚めた。

闇の中に赤く輝く目がじっとこちらを覗いている。

物の怪…?

目ばかりの化け物?

闇に目が慣れ、その姿がおぼろげにわかってきた。

馬…馬なのか?

闇よりも深い漆黒

つやつやと光り輝く毛並みに

逆立った鬣は燃える炎のように赤く

知性の深みを感じる目は、白兎のように真っ赤

倭馬には珍しく細くひきしまって脚がすらりと長い。

興味深そうに誾千代を見つめていた馬は

ぷいっと踵を向け風の流れ来る方

入口であろう方角に向けて軽やかに駆け去った。

「あ…待って!」

格子戸まで駆けよった。

意外なことに鍵はかけられていない。

戸を開けてふらふらと出た。

風穴内は迷わなかった。道に沿って蝋燭が灯されていたからだ。

月明かりがさした。

出口…

ふらふらと歩み出る。

風穴の外は深く暗い森だった。

どどどど…

微かに水の音のような

誾千代はそちらへ向かった。

岩の間を清水が流れている。

ふいに喉の渇きを覚えた誾千代は、魅いられるようにそちらへ向かった。

ひと掬いして喉に流し込む。

うずきのような渇きが襲ってきた。

びしゃびしゃびしゃ

じかに清水に口をつけて、獣のようにむさぼり飲んだ。

そのとき、ふいに水の中から伸びた手が誾千代の頭を掴んだ。

ずぶずぶずぶ

川の中へと引きづりこまれる。

ごぼごぼごぼ

意識が遠くなった。

水中の黒い影

金色の目

このまま死ぬのか…。

それも悪くない気がした。

ひぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいん!!!

水中にまで甲高い嘶きが響き渡った。

黒い影が口惜しそうに手を離す。

何ものかが誾千代の襟を捕え、水の中から引っ張り出す。

「ごほっごほっ…。」

岸で水を吐きだし、救ってくれたものの姿を見た。

馬…さっきの黒馬…。

黒馬は明らかに、しきりと何かを訴えている。

誾千代には不思議とその意図が分かった。

「乗れ…背中に乗れというのか。」

釣り込まれるように背に跨った。

黒馬はひとこえ鳴くと、竿だって勢いよく疾走した。

川も森も流れるように過ぎていく。

良い気持ちだった。

月明かりさす幻想的な森、誾千代はこの世のことをしばし忘れて、ただひたすら走りまわる馬に身を委ねた。


(四)

 水俣は袋村の関所番である野崎兵伍と福原左納助は、押し寄せる島津兵を見ても慌てなかった。いつものことだからである。さっと攻め寄せ、水俣の町の手前でさっと引く。意味がわからぬ気持ちの悪い動きだが、慣れてしまえばなんということはない。しかもこの一年同じ動きだ。慣れるなと言う方が無理だった。水俣城主である犬童頼安からは、無理に戦わず山に逃げ込めと指示がしてある。なぜなら、島津はいつも関所を抑えも破壊もせず、粛々と薩摩へ引き上げるからだ。

 山に隠れて他の番兵と共に関所の様子を窺った。島津兵が続々と通り過ぎていく。

「いつもより…ずいぶん数が多くは無かな?」

 左納助がいぶかしがった。

「確かにな…。いつもの千、二千くらいの数じゃ無かごたる。」

 兵伍が言う間も、ぞくぞくと兵士が過ぎていく。

「こら違っ。いつもと違っ!すぐに頼安様に知らせんと…。」

 兵伍と左納助は頷き合い、水俣城へ向かう間道を走った。


「これはどうしたことじゃ!」

 佐敷城の天守で、日頃は冷静な赤池長任が声を上げた。

 早朝の佐敷湾に、朝日に照らされ、丸に十の字の旗を掲げた大小の軍船がひしめき合っている。

「肥後水軍はどうした?やられてしまったのか?」

 側近の平井金盛が言った。

「佐敷にある肥後水軍の旗も丸に十の字に混じって見え申す。どうやら、知らぬ間に裏切られていたようでござる。」

「何とな…。」

 長任はしばし言葉を失った。

「とにかく、人吉の殿、水俣の犬童頼安、八代の東長兄に使いを出せ。急いでじゃ!」


 人吉城では相良義陽が顔色を無くしていた。

家老の深水長智が冷静な報告を続ける。

「水俣城は、島津義虎、新納忠元らが率いる六千によって、佐敷城は伊集院忠棟らが率いる大隅勢五千、八代古麓城は島津征久、忠長ら四千がいずれも包囲しております。」

「同時にかっ!しかしいったいどこから、どうやって!」

岡本頼氏が声を張り上げる。

「船を、想像できぬ位な船を使ったとしか考えれれませぬ!佐敷や八代へは外海から天草を回り込んで…。」

「あの荒海をか!」

「おそらくは…いやっ、そうでなければ…。」

そこへ、伝令が泡を食って駆けこんできた。

「落ち着かぬか!どうした?」

義陽が珍しく大声を出す。

「ははっ…申し上げます!」

その様子から、一同に緊張が走った。

「敵将・島津義弘…飯野より庄内(今の都城)あたりの兵三千を率いて、この人吉に向かっております!」


















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