第62話 天下無双

(一)

 天正九年の春のことである。

島津家久は佐土原城廊下で座り込み、いつものように足の爪を切っていた。

小鋏でぱちりぱちりと庭に向けて爪を飛ばす。

目の前にひらひらと蝶が舞っている。

大きな黒い羽根を、誇らしげに日の光にきらきらと輝かせ

踊るように植え込みの方へ

そこには、黄色と黒の縞も鮮やかな女郎蜘蛛が巣を張っている。

蝶は巣の存在に気づいてか気づかずか

その周囲をひらひらたゆたい

蜘蛛はいらついたように、前脚でその口を何度も擦った。

家久は爪を切るのも忘れ、一心に見入っていた。

後ろに影がさしても気づかない。

「こら熱心か…、命を取られてん気づかんごたる様子じゃ。」

「おう国兼か。」

 家久は振り返って言った。

「そん蝶は伊東ん残党ごわすか…、そいとも大友?いや…。」

 その問いには答えず、家久はにやりと笑って言った。

「聞いておっぞ。水之江で熊を相手に大暴れしたそうじゃの。」

「はて…お耳に入っておいもすか…。」

「入っちょうも何も…あげな仕業が出来っとは、日の本広しと言えど、お前だけじゃっどが。」

 やれやれ、それなら当然、君主義久の耳にも入っているだろうと国兼は思った。

「ま、お前は家や君臣の理屈などでは縛りきれん…。そんこつは兄上もよう分かっておらるっじゃろう。」

「はぁ…。」

 国兼は興味が無さそうに生返事して言葉を続けた。

「今回は又七郎さぁ、えらく御辛抱でごわすな…。」

 北日向の門川攻めのことだろう。家久はうっすら微笑んだ。

「なに…歳久兄上に比べれば、何ほどのことも無い。」


 島津歳久はこの一年、水俣を攻めては下がるという不可思議な行動を繰り返している。一向に変化を見せない戦局に、最近は伊集院忠棟など家中のうるさ方から、相良攻めの総大将を更迭すべしとの声すら上がっているほどだ。

 一方の家久も、北日向攻めに関して兄に負けない不可思議な行動をとっていた。

北日向門川城の長倉祐政率いる伊東家残党は、ここ一年増え続ける兵力を背景に、盛んに耳川を超え日向中央の島津方各城に攻めよせてきた。これに対して家久は、籠城策を指示するのみで援兵を出さず、徹底的に伊東家残党を無視した。国人が守る城には落城してしまうものもあったが、そもそも門川から遠いことと、耳川を挟んでいるため補給路を十分確保できない弱点を利して、家久は長倉たち本軍が引き上げてから、悠々と軍を派遣したちまち城を奪回した。

 ここ一年の日向の戦局は、この繰り返しに終始した。遠征を繰り返した長倉たちは兵糧に事欠くようになり、今年になってついに禁じ手としていた北日向の国人領を攻めだした。そもそも北日向は伊東領ではなく、この戦略転換は北日向の人心を伊東家残党から離した。かってほぼ大友領だった北日向の国人民人の敵は、いまや大友家を破った島津家ではなく、門川入城当初は喝采を持って受け入れられた元日向守護職・伊東家となった。


「とこいで…立花家ん姫はどげんなった?」

 以前助けた勝気な姫のことが気になったのか家久が問うた。

「はぁ…あん後、甲斐宗運殿がお連れして、今は傷の手当ても含め、阿蘇にいるち聞いちょいもす。」


(二)

「まったく…何も考えんで突っ込むともいい加減にしなっせ…。おまんは元服した高橋家の跡取ぃばってん!」

 宗運の叱言をどこ吹く風で、統虎はざっと湯音をさせて右腕を持ち上げた。火傷は殆ど治ったようだ。

「お師匠様、お誾は今どうしているのでしょうか?」

 阿蘇筋湯の湯気にかすんだ宗運は、にっと笑って言った。

「やっぱい、命をかけて救った女子んこつは気になっばいな!安心せえ、火巫女様にお任せしておけば、なんも心配いらんけんな。」

 そう言われても、阿蘇に連れて来られたときの状況を知っていればいるほど、身体はともかく、心が大丈夫になったかが心配である。あのときの誾千代は、まるで生気が無かった。生きながら死人のようだった。何が原因かは明らかだ。金牛という女は、お誾にとってそれほど大きい存在だったのだろう。

 さて、もう一つ気になることがあった。

「筑前に関して、何か情報は入っておりませんでしょうか?」

 自分がいない間に熊がどう動いているか気になる。

 宗運は真っ赤になった禿げ頭を手拭で拭きながら統虎の問いに答えた。

「筑前か…筑前ち言うより、筑後が大変ばいた。」

「どういうことでしょう?」

「蒲池の鎮漣よ…。龍造寺と手切れしたあん男が大暴ればい!」


 筑後の金狼と呼ばれる蒲池鎮漣は、柳川中心に南筑後を完全に掌握し、傘下国人領も含め筑後半国以上の四十万石をその影響下においた。先代で三千だった兵力は、今や約一万五千である。古の項王、呂奉先にも例えられる戦上手の鎮漣は、その兵を縦横無尽に操って、龍造寺の勢力圏である北筑後を日一日と侵食し続けていると言い、これを黙って見ているわけはない隆信と、近々の決戦は避けられぬところという。

「鎮漣は密かに筑前の秋月種実や肥前の筑紫広門と結んでいるちぃ噂もあっ。そん話が本当なら、いくら龍造寺が三万の精兵を誇ろうとも油断はできんばい。」

 確かに…それが本当なら、近い将来統虎の前に立ちふさがるのは、肥前の熊ではなく筑後の金狼かもしれない。

「私はいつ筑前に帰れるのです?」

 城に戻ったら、やりたいことは山のようにある。

 立ち上がった統虎は、腰の激痛でまた湯の中に座った。

「ま、焦るな。じっくり怪我を治すこつも大事ばい。なにせ一度死にかけたんだけん!」

 宗運はそう言うと再び湯の中に身を沈めた。


(三)

ぴちょん…ぴちょん…

洞穴に滴る水の音

目を開けたまま土に突っ伏している誾千代は静かにその音を聞いていた。

今は昼なのか夜なのか

揺らめく蝋燭の灯りにそれを知る手掛かりは無い。

自分がなぜここに閉じ込められているのかもわからない。

いや自分は生きているのか死んでいるのか

そんなことすら、今の誾千代にはどうでもいいことだった。

阿蘇に来れば一層思い出す。

ただただ金牛に会いたかった。

空いたままの目から涙がこぼれ、土に吸い込まれていく。

格子戸を開けて何者かが入ってきた。

「なんだい…全然食べていないじゃないか!」

燭台で器を照らして火巫女が言った。

「お主、食べなきゃ死んでしまうぞよ。この粥は薬草入りで栄養もある、元気も出る。さ…。」

 木の匙で粥を掬って口のところに持っていくが、誾千代は無反応だ。

「食べよ…いや、食べねばならん。お主には果たさねばならぬ天命があるのじゃ。」

 粥をぐっと口に押し込んだ。それを誾千代はぺっと吐きだす。

「強情な子よ…。だが食え!お主の命はお主のものではないのだ。天命を背負った者の命は神に委ねられているのじゃからな。」

 誾千代がぐっと火巫女を睨む。

「わしの命が神に委ねられているなら、なぜ金牛一人助けられないのだ!」

「それは関係ない。その者の命運じゃ。」

一瞬…ぐっと詰まったが、誾千代は言葉を続けた。

「金牛を降ろしてくれ!金牛と話がしたい。」

「だめじゃ。」

「なぜだ!」

「冥界にあるその者が望んでおらん。」

「嘘だ!」

「嘘ではない…。その者は会いたくないと言っておる。」

「金牛が…?なぜだ!」

「自分の役目は終わった。これ以上、姫様と会うはただの未練じゃと言うておる。姫様のためにならぬと。」

「嘘だ!」

「嘘ではない。よう考えてみよ、あの者はそのような者ではないのか…?」

「…………。」

「吾は実は、神降ろしなどせずとも常に冥界とはつながっておる。生きていながら生きていない。神に身を捧げた巫女とは本来そのようなものよ。今一度言うぞよ。この吾が言うことに嘘は無い、金牛とやらはお主と話すことを望んでおらぬ。」

「…くっ!」

誾千代が再び土に突っ伏したのを見て、出ていこうとする火巫女に背中から声がかかった。

「ここはどこじゃ?なぜわしを閉じ込める?」

火巫女は振り返った。

「ここは阿蘇白水にある風穴じゃ。阿蘇で一番神聖な気の立ち込める場所、邪気の近づかん場所ゆえここに入れておる。」

「なぜじゃ!」

「お主は父から雷斬りの太刀を受け継いだ。あれは護りの太刀である一方、呪いの象徴でもある。その呪いに惹かれ、ありとあらゆる禍々しいものが寄ってくる。お主の父のように、心も体もそれに打ち勝つ強さがあれば良いが、お主はそのどちらもまだまだじゃ。それが証拠に、太刀を暴走させ死ぬところだったそうではないか。まずこの清浄の地で、神聖なる気に護られながら心と体を鍛えよ。今、その心がボロボロの状態で、ふらふら出歩けば魔のものに魅いられる危険がある。よって閉じ込めておるのじゃ。どうじゃ、わかったか…。」

頭を上げ、火巫女を睨みつけていた誾千代は、再びうつぶせに突っ伏した。

「ふん…。頭では理解できるようじゃの。気もちが追いつかんだけか…。まあよかろう。」

火巫女は笑いながら風穴を後にした。


(四)

 そのころ、筑後に出兵した隆信率いる龍造寺軍三万は、肥前国境近くの柳島のあたりで、筑後川を挟んで蒲池軍一万五千と睨みあっていた。龍造寺軍は各隊五千ずつの六隊で構成され、先鋒中央を鍋島直茂、先鋒右備えは龍造寺長信、左備えは龍造寺信周、後の中央・本陣を隆信と政家、右備えを後藤家信、左備えを江上家種という布陣で川に沿って鶴翼に開いていた。

 対する蒲池軍は、鎮漣を中央として嚆矢の陣形を組み、中央を突破して短期決戦に持ち込もうという構えに見えた。

 筑後川に架かる橋は、蒲池軍の手で全て落とされたが、雨季前で水量の少ない時期のこと、大河といえどなんなく渡れる様子であった。

「慌てんでよろし…、いきり立った敵はいずれ川を超えようとするやろ。水量が少ないとはいえ、川底の泥でぬかるんで必ず速度は落ちる。川半ばに差し掛かったと見たら、一斉に矢の雨を浴びせれば、半数ほどは苦もなく討ち取れまんで…。」

 木下昌直の言は極めて道理だった。隆信も頷き、龍造寺軍先鋒は岸に沿って弓矢を揃えた。

 「そんな簡単に行くものじゃろうか…。」

 軍議の後、自らの部隊へ引き揚げる途中で百武賢兼が疑念を述べた。

 「確かにな…。」

 成松信勝が賛同した。

「筑後の金狼…そうたやすい相手ではあるまい。」


「蒲池軍が動き出しました!」

本陣に伝令が走る。

「案の定、我慢がきかんくなったんでっしゃろ。」

昌直が目の上に手をあて遠く川向こうを眺めた。

蒲池の旗・三つ巴紋がゆらゆらと慌ただしく揺れている。

その動きはどんどん激しくなっていく。

「矢を番えよ!」

鍋島直茂の声が先陣で響き渡った。

川に沿って展開した龍造寺軍が一斉に弓を引く。


「ゆくぞ!勇気ある者は我に続け!」

蒲池鎮漣が馬上声を張り上げ、鞭を入れるとゆうゆうと河原へ下って行った。

騎馬の蒲池勢が次々と後へ続く。

ざっ

馬の膝近くまで川に浸りながら、鎮漣は速度を上げにかかった。

「先頭を走るか…。」

直茂は一瞬その蛮勇にあきれたが、すぐさま下知した。

「放て!狙うは蒲池鎮漣じゃ!」

何百もの矢が同時に放たれ、放物線を描きながら、疾走する鎮漣目がけて集まって行く。

「ふふん!」

鎮漣は馬上で鼻で笑い、得物の方天画戟を頭上でぶんぶん回した。

襲い来た矢は戟に当たり真っ二つに折れてばらばらと地に落ちる。

「なんて奴だ!」

直茂が驚嘆の声を上げる。

ざざっ

うぉおおおおおおおおお!!

対岸に上がった鎮漣は雄たけびと共に河原を駆けあがった。

鍋島軍中央に馬を乗り入れ、戟を振りまわして、群がる兵を文字通りなぎ倒していく。

「はははははははは!弱い、弱すぎるぞ。こんなものが龍造寺か!」

次々と岸に上がった蒲池軍騎馬兵は、主君に続けとばかりに中央の鍋島軍に突っ込んだ。川中で食いとめるつもりだった鍋島軍の動揺は激しく、懸命に立て直そうとする直茂をしり目に、次々に蒲池兵に討たれていった。


(五)

「どうした?鶴翼を活かして信周と長信に包囲させんのか?」

「蒲池が鍋島の中に入りすぎだす。引き離さんと鍋島まで包囲することになりまっせ!そいよか陣を再構成しまひょ…。」

「どうするのだ?」

「蒲池の突撃力は凄い!敵ながらあっぱれや…。こうなったら本陣を下げ、右翼と左翼を前に置いた縦深陣をひいて、層を厚くし敵を疲れさせまひょ。」

隆信は頷いた。昌直は本陣を後ろの松林の手前まで下げ、その前に後藤家信、江上家種、龍造寺長信、信周を縦に並べて配置した。

「第二陣、信周様の隊、突破されました!」

「第三陣、長信様の隊、同じく突破!」

伝令が入れ替わり立ち替わり本陣へ駆けこんで来る。

「第四陣、突破されました!」

「第五陣、家信様が陣頭に立たれ指揮をされていますが、蒲池兵の強さが際立っており、おそらくあと一刻も持ちますまい!」

「突破された第四陣より前は何やってんねん!」

「騎馬に引き続いて渡河してきた歩兵と交戦中!これもなかなか手ごわく。」

 豪壮な槍の如く真っ直ぐ突き抜けた鎮漣の騎馬隊千とは対照的に、老練な田尻鑑種率いる徒歩武者一万は、直茂たち先鋒三軍をひきつけつつ、ゆらゆら捕え所のない落ち葉のような戦い方をしている。

「ええぃ!江上隊に騎馬の尻を突くように言いや!!」

弾かれたように走って行く伝令と交代に新たな伝令が駆けいった。

「第五陣突破されました!今は百武隊、成松隊が前に出て防戦中でござる!」

「なんやて!」

昌直のこめかみで血管がはじけそうに脈打った。


「!」

物も言わず右から突きだされる鋭い一撃を鎮漣は戟で軽く受け流した。

「うぉおお!」

左から気合いと共に真一文字に振り下ろされた太刀をかわし、右からの槍を戟を一閃させて今度は跳ね返した。

「ははは、龍造寺の竜虎と聞いていたがこの程度か!ほらほら、今度はこちらから行くぞ!」

戟を振りかぶって左を狙う。二十斤もある武器の目にもとまらぬ一撃を、賢兼は何とか刀で打ち返した。

すこし態勢を崩した鎮漣を信勝が突いていくが、野生の動きでそれをかわした金の鎧が、今度は信勝目がけて戟を振り下ろした。信勝はごろごろ転がって避ける。

「ははははは…。なかなか手ごたえがあるではないか!楽しや…戦はこうでなくては!」

「ぺっ!」

 信勝は口に入った泥を吐きだし、槍を構えて鎮漣に向かって突進した。


うぉおおおお

本陣の後方で喚声が上がった。

「今度は何や!」

「森の中から…伏兵です!奇襲でござる!」

「何やて!こっちは肥前やぞ…筑後の蒲池勢が潜んどったちゅうんかい!」

「いや…。」

「なんやねん!はっきり言え!」

「紋は寄り掛目結!筑紫家の紋どころにそうろう…!」

「なんやて!筑紫広門が!」


「蒲池勢とはさみうちじゃ!一気に熊めを討ち取れ!!」

筑紫広門が、馬上で槍を振るいながら叫ぶ。

筑紫勢二千は龍造寺本陣が下がるのを待って、伏せていた林から飛び出した。

「まったく恐ろしい男よ。居もせずに全てを見通しておる。」

 この策は蒲池鎮漣、それと秋月種実の三人で協議し立てたものだが、龍造寺軍はこう配置しこう動くと言った予想は種実一人の考えによった。


「御館さま!こう先手先手とられては、作戦の立てようがありまへん…。ここは一度引きまひょ。態勢を立て直さんと犠牲が増えまくりでっせ!」

昌直が出す情けない声に、隆信も不承不承応じた。


龍造寺軍三万は蒲池・筑紫連合軍一万七千の前に敗退した。

それも肥前の地で敗れたと喧伝された。

龍造寺の威信は大きく下がり

代わって蒲池鎮漣を人々はこう呼んでもてはやした。

龍造寺の竜虎が束になってもかなわない

天下無双と




































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