第34話 森の都

(一)

「姫様、そんなに急がれては転びますぞ…。」

左手に杖をついたお福婆が、右手をのばしながら言った。

「大丈夫よ。こんなに整備された道だもの、仮に転んだところで怪我なんかしないわ。」

法姫は宙を飛ぶように軽やかに歩いている。目が見えぬことなど嘘のように。

お福はため息をつきながら考えた。姫様の天真爛漫はいつものこと、しかし裏切ったことを打ち明け、詫びを入れたとはいえ、なぜこんなにも自分のことを信じてくれるのか。お福が法姫の立場ならあり得ないこと、自分を死地に追い込むような者は二度と信じぬだろう。やはり育ちの良さゆえなのか…。

 お福は頭をぶるぶると振って足を速めた。とにかく…、とにかくもう二度と裏切らぬ。自分や息子たちがどんな目にあおうと、母親に殺されかけたこのかわいそうな姫を守り抜こうと決めたのだ。

「お福や…。」

 法姫が振り返りもせずに話しかけた。

「は、はい!」

「阿蘇の宮までは、あといかほど?」

「そがんですな…、今日は大津に泊って、明日早く立野を越えて赤水、乙姫を抜け、夕刻には入れましょうか。」

「そう…。」

法姫は大股でぽんぽんと二つほど前へ跳んで見せた。

「本当に阿蘇の巫女様は死者と話させてくれるの?」

「そこはもう、えらい評判で…。おらの小さい時分から、阿蘇にお力のある巫女がござらっしゃると聞いて育ったもんですだ。」

「ええっ!お福の小さい頃って…、阿蘇の巫女様はいったいおいくつなの?」

「同じ方ではござらんで、何代も代替わりなさっちゅう話ですだ。ただ今の巫女様は、阿蘇のお大名のお母様で八十歳を超えてござるとの話ですだ。」

「そう…。」

また歩きかけた法姫に、今度はお福が聞いた。

「誾千代様には何も言わず出てきてしまいましたけんど、こいで良かったとでしょうか?」

遠目にも法姫の顔がこわばって見えた。

お誾に申し訳ない気持ちはある。しかし三郎が死んで以来、大友家の人間であるお誾に、どうしても顔を合わす気になれなくて避けてしまう。お誾が全然悪くないことはわかっていてもである。

「命がけで姫を取り戻そうとしてくださったに…。」

すたすたと法姫の足が速まった。

お福はため息をついて法姫の後を追った。


(二)

 女の足でそう遠くに入っていないだろうと、隈部勢の力も借りて探したが、法姫も福もいっこうに見つからなかった。阿蘇に向かったことだけは確か、誾千代は親泰たちに別れを告げ、法姫の足取りを追うことにした。

 菊池から阿蘇に向かうには、険しい菊池渓谷を遡る方法、整備された日田街道を行き、合志村から隈府、大津へと抜け立野峠へ向かう方法、旭志峠を越え直接大津へと向かう方法の三つがある。法姫の目とお福の年を考えたとき、最も可能性のあるのは日田街道を下る道だ。街道が整備されているだけでなく、宿場町などもあるからだ。女二人で野宿は難しい以上、街道が常識的な選択肢だ。日田街道を急いでいるが、いっこうに法姫らしい女二人連れとは行き会わなかった。

 早く追いつかなければ、またどんな危険な目にあうかわからない。焦る誾千代に金牛が言った。

「阿蘇は遠い、しかも山の中だ。隈府か大津のどちらかに泊るはずさ。」

 腫れは大分引いたが、膏薬を貼りたくった顔は行き会う人がぎょっとして振り返るほどだ。

「大丈夫さ、隈部親泰が書状を書いてくれたんだろう。赤星統家が力を貸してくれるよ。」

 熊本城主・赤星統家は菊池三老の一家の当主であり、玉名・大津・隈府に渡る三老いち広大な領土の支配者である。菊池渓谷を遡らない限り、法姫たちは赤星の領土のどこかを必ず通るはずで、目の見えぬ高貴な娘と老女の道行きは珍しいので、必ず統家の情報網にひっかかるはずであった。

 統家は裏表のない、気質のさっぱりした良い男だと親泰は言った。必ず力になってくれるはずだと。

「熊本城を奪われたもんで、親父殿(隈部親永)は憎んでおっばい。ばってん、おるは良か人間ち思うとたい。城ば奪われたとは戦ん結果だけん。」


 隈部氏の領地・合志村を出て肥後の国府である隈府に入ると、もうひとつ、親泰が言っていたことが良く分かった。

「柳川が水の都ならば、隈府は森の都ばい。なぜかち、行ってみればわかる。見てみれば一目瞭然ばい。」

「なんだこれは…。」

 誾千代が絶句したのも無理はない。その町は他のどことも違っていた。

町の中に森があるのではなく、森の中に町があるような造り、道の真ん中にすら平気で大木が生えているというのか、大木を避けて道が出来ているというのか。これは森による自然の要害でもある。

 その緑の森からにょきっと生えるような、赤土の段山(だにやま)の上に、赤星の居城・熊本城は立っていた。後に加藤清正が建てた豪壮なものには及ばないが、肥後の国府を守るに相応しい、二つの天守をもつ大きな山城である。


(三)

「お師匠様、お待ちください!」

 弥七郎は跳ね起きると、身支度も早々に走り出した。前方をすたすた歩く小柄な僧形が見える。弟子にしてもらったは良いが、ここ数日の宗運の気儘さに正直閉口していた。食事もとらず深夜まで筑後山中を歩いたかと思うと、突然野宿を始める。疲労困憊の末、このように油断して眠りこんでいると、いつの間にか出立している。軍学が学びたくて弟子になったのに、これではまるで修験者ではないか。

「何か言いたそうな顔ばいね。」

 見失った宗運は、いつの間にか道脇の大木の根に腰かけ、袋から干し飯を出して齧っている。思わずぐぅーっと腹が鳴った。

「ははは!腹で返事すっとは器用かね。」

 大笑いした宗運は、干し飯の袋を投げてよこした。弥七郎は情けない顔で師匠を見ながら、干し飯を口に流し込んだ。

 ごほんごほん

 宗運は、むせ返る弥七郎に竹筒を差しだし、背をさすってやった。

「こんいやしん坊が!一気に食うからたい。」

 むせて涙を流しながら、弥七郎は宗運に言った。

「私は軍学が教えていただきたいのです。僧侶の修行がしたいのではありません。」

「そぎゃんたい。だけぇ、こぎゃんしち教えとっばい。」

「これのどこが軍学の修行なのですか。」

「わからんね?」

「わかりません!」

「頭ん固かね。誰に似たな?紹運はそこまで無かばい。やっぱい爺様ね?」

「!」

弥七郎は真っ赤になった。それを見て宗運は、やれやれと言う顔をした。

「しょんなかね、二度は言わんけん良く聞きなっせ。お前(まん)は軍学は座学で習うち思うとるかもしれんばってん。そげなことしてん身につかんばい、いんにゃ、頭でっかちになってしもうて百害あって一利なしばい。軍学とは軍を動かす術を学ぶこつ、軍も人の集まり、飯も食えば糞もし寝もすったい。すなわち軍学を学ぶとは、歩き方、寝方、飯の食い方、人の日常を学ぶことなり。」

馬鹿にされているような気がした。そんなことは習わんでもわかる。

「なんね?納得いかん顔ばいね。そんなら聞くばい、野宿して腰ん痛かったろ?」

確かに…、弥七郎は腰をさすりながら頷いた。

「寝とるときに敵に襲われたら?腰をさすりながらは戦えんばい。かと言って眠らんわけにもいかんばい。はてさてどうしたらよかな?では、飯ば食う時に襲われたら?」

考えてもみなかった。弥七郎は話に引き込まれた。

「どこで寝るか、どうやって寝るか、どのくらい寝るか。何を食べるか、いつ食べるか、どのくらい食べるか。山道でん、どこを歩くか、いつ歩くか、どのくらいの速さで歩き、いつ休むのか。こいを知るのが軍学、実際に体感するのが最も早道。そん身体に憶えこますったい。」

なるほど、聞けば納得のことばかりだ。

「さ、説明は終わりたい。行っばい。」

「どちらへ向かわれるのです?」

弥七郎の問いに、宗運はわずかに顔をしかめた。

「質問が多かね…、まあ良かばい。まずは阿蘇のお山ばい。菊池渓谷を遡り我が主であり阿蘇神社の大宮司・阿蘇惟将様のところへ行く。そん次は滝室坂を越えて豊後竹田へ…、旧知の志賀親次、朽綱鑑康と邂逅した後、日向門川へ入る。」

言うや否や、がばっと起き上がった宗運は歩き出している。弥七郎は慌てて後を追った。


(四)

 夕刻、仙は球磨の山中に入り薪を拾っていた。それを遠目に見つめる二人の男がいる。

「本気でよろしいので?」

「ああ、もちろんだ。たまに稽古に来たんだ。師匠の手伝いもしてくれよ甚兵衛!」

 にやにや笑っている長恵に対して、鶴田甚兵衛はにこりともせずに森の奥へと消えた。

 ひゅっ

 薪の駕籠を置いて飛びのいた。

 ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ

 仙のいた場所を狙って、正確に何かが飛来する。何、拳大の礫が地面に突き刺さる。転がって躱しながら仙は叫んだ。

「誰だ!」

 返事は無い。その代わりにばらばらと猛然たる勢いで礫が降って来た。大木の裏に逃げ込む。間をおかず今度は逆側から礫が飛来した。

 いったい何人いるんだ?

 これが修行なのはすぐ分かった。長恵の修行はいつも唐突に始まるからだ。

 今回はいつもにまして激しい。

 避けながら、どこから飛んでくるか探ろうとした。少なくとも三人、そうでなければこの間隔で、別の角度から飛んでくるはずが無い。


「ほぅお、見事な足さばきだ。伊達に毎日、沢や山を走り回っちゃいねえか。」

 木の上から見つめる長恵は満足そうだ。

「それにしても、わずか一月で甚兵衛の礫をあそこまで躱せるようになるとは…。それも女の身空でだぜ。これを天賦と言わずして何と言う。」

 礫を投げる甚兵衛も舌を巻いていた。

「女子だからと手加減などしていない。いや、自然と手加減しているのか?そうではない。わしは本気なのだぞ!」

 礫を避ける仙には新たな感覚が芽生えていた。

「見える…。見えるばかりではない。考える前に身体が動いている。なんなんだ?どうしてしまったんだ、あたいは一体?」

 樹上の長恵は呟く。

「仙よ、これぞタイ捨流の極意、足さばきなり。常人が十年やっても身につかぬ足さばきを、わずか一月で身につけおった。あっぱれ。…しかし、これが人ならぬ熊の血というものなのか…。」


(五)

 巨躯の親泰を見た後だからなおそう感じるのかもしれないが、大きな熊本城の主・赤星統家は小さな男だった。いや、背の話のみである。初めて会った誾千代たちの話を親身に聞き、即座に領地中に法姫の情報を集めるよう手配してくれた。その手際に、誾千代らは背とは違う度量の大きさを感じた。

「目の見えぬ娘子の旅、お付きの婆がいるとはいえ、蒲池鎮漣殿は御心配しきりであろう。」

 誾千代たちは知らぬことだが、鎮漣の(亡くなった)先妻は統家の娘である。

 親泰の書状に目を通してこうも言った。

「隈部氏とは敵同士ではあるが、わしは個人的に親泰殿を信頼しておる。あれは気持ちの真っすぐな良い男だ。」

 そして、金牛を見て言った。

「お主が親泰殿と勝負して倒した金牛か。源平合戦期の巴御前もかくやという剛の者よの。誾千代殿も良き家臣を持たれた。」

 金牛は畏まったが、誾千代は手を振って言った。

「金牛は家臣ではありませぬ。」

「それでは、…金で雇った従者か何か?」

「それも違いまする。」

「それでは…?」

 しばらく考えて誾千代は言った。

「金牛はわが友でござる。」

 聞いた金牛がびっくりしたような顔をしたが、その答えを統家は気に入ったようだった。

「友、なるほどな友か。久しく聞かぬ言葉だった。」


「父上!」

 まだ幼い姫が走りこんで部屋に入るや統家に抱きついてきた。

「おお、銀杏よ。お客様がびっくりなさるぞ。」

「父上、お客様がお出でなのですか?」

 誾千代と歳がそう変わらないだろう男子も現れた。

「新六郎、こちらは立花誾千代殿じゃ。まずは挨拶をせぬか。誾千代殿、嫡男の新六郎と娘の銀杏でござる。」

「赤星の新六郎にございます。」

「銀杏と申します。」

 二人とも幼いながらも儀礼に則った挨拶をした。しつけの良い賢い子供たちだと金牛は思った。この孫のような年齢の子どもたちを、統家が可愛がっていることもすぐ分かった。

 そこへ使い番がやってきて、統家に何事か耳打ちした。

 聞き終わった統家はにこっと笑って言った。

「朗報にござる。」

 誾千代は膝を乗り出した。

「法姫たちの行方が分かり申した。今は肥後大津の宿、明日には阿蘇へ登るため立野越えをするつもりと存ずる。」


























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