第33話 まず、隗より始めよ。
(一)
ぱちり
小気味良い音と共に道雪が白石を置く。
紹運はしばらく盤面を見詰め、熟考した後に音もなく黒石を置いた。
すかさず、道雪が白石をぱんと置き、紹運は呆れ顔で対局相手の顔を見詰めた。
「筑後は保てなんだか…。」
顔も上げずに言う道雪を見詰めながら紹運は応えた。
「は、統実殿では若すぎましたか…。」
「そればかりではあるまい。筑後の総兵力は二万、一万五千の国人を鎮実の二千と蒲池家の三千の併せて五千でかろうじて抑えておったのだ。蒲池の三千が抜け、斎藤の兵二千だけでは、仮に鎮実が生きておっても抑えきれなかったであろう。」
「なるほど、それは筑前も同じでございましょうな。総兵力三万、国人二万五千を我等高橋勢三千、立花勢二千の五千で押さえておるところ、大友家の威勢盛んだったころならともかく、耳川の敗戦が痛い今となっては…。」
「熊めの調略の手も、大分入り込んでいるのじゃろう。」
「例の京から来た軍師とやら、さかんに国人共を訪ねまわっている様子。」
「取り込まれているのは誰と誰じゃ?」
指す手を止めずに言う道雪に応じながら紹運は言った。
「取り込まれておらぬ者を言った方が早うござる。ほとんど…。」
道雪がくわっと目を見開いて顔を上げた。
「なんとか…なんとかせねばならんの。」
紹運は頷いて
「このままでは…最悪、筑前も失うこともあり得まする。」
「わしの目の黒いうちはそんなことはさせんと言いたいが…。」
「敵の勢いますます盛ん、それに比べて我が方は…。」
「良き材料が見当たらぬか…。」
義統、紹忍、宗麟の顔が道雪の脳裏をかすめた。揃いも揃って現実が見えておるのか…。
「それにしても…。」
紹運が遠くを見る目をして言った。
「蒲池家のあの変わりよう…。当主が代わっただけでああも変われるものか。」
家督を継いだ蒲池鎮漣は、怒涛の如く周辺の城を攻略し、二城十二万石の領地をわずか半年で四城二十万石にまで増やしている。鎮漣は今や筑後の金狼と呼ばれて恐れられ、かって義軍で知られた蒲池軍は、今や餓狼の軍と呼ばれ忌み嫌われている。
「今から思うと、鎮漣の餓狼の性ゆえに鑑盛殿は、なかなか家督を譲られなかったのであろう。」
「冷酷非道の熊に貪欲な餓狼か…。厄介な敵でござるな。」
「さて…。」
道雪は日光の差し込む庭に目を転じて言った。
「熊と狼、いつまで仲睦まじくいられるものか…。」
「誰か!」
突然、気配を感じた紹運が大声を上げた。
障子越しに影がまろび出て平伏した。
「弥七郎にございます。父上がこちらと聞いて参りました。」
道雪はその姿を見て目を細めた。
「おお弥七郎、少し見ぬ間に大きくなったか?」
「はは!」
「申されるな道雪殿、大きくなったは、なりばかりでござるよ。」
父の言葉に不本意な顔をした弥七郎に紹運は尋ねた。
「立花まで追って来るとは、火急の用か?」
「はは!」
弥七郎は畏まった。
「道雪様もおられるとは好都合と思い、お願いがあってまかりこしました。」
「なんじゃ?」
「軍学を…、軍学を習いたいのでございます。」
「軍学…とな?」
紹運は息子の顔を覗き込んだが真剣そのものだ。
「そうか…、お主もそろそろ元服じゃ。軍学を習うのは遅いくらいかもしれぬな。」
道雪が目を細めながら言った。
「したが…、誰に習うと言って、石宗殿は身まかられたしの…。」
「それですが、道雪様にぜひ!」
聞いた道雪は腕を組み困った顔をした。
「確かにわしは石宗老師の弟子じゃが…、師匠に不肖の弟子と呼ばれたとおり、あまり真面目には学ばなかったからの。」
一を聞いて十を知る、天才型の弟子・道雪に、師でありながら石宗は教授はおろか、あまり口出しもしなかった。確かに天才型に教育は難しい。教えを受けるにも、人に教えるにも。
「紹運、お主の倅じゃ。お主が教えるのが筋。」
紹運は大仰に両手を振って答えた。
「私は…、父と共に筑前にいた関係も有り、石宗様に直に教えを受けておりません。石宗様の弟子であった兄から時々手ほどきを受けていた程度、とても教えることなど。」
鎮信の教え方が良かったのか、それとも紹運もまた天才肌なのか。いずれにせよ、ここにいる大友家の双璧たちに教育を求めるのは無理そうだった。
「そうじゃな。石宗師の弟子で優秀といえば、まず志賀親次殿じゃ。ただ弥七郎と同い歳ゆえ、教えを受けにくかろう。領地替えがあったばかりで忙しかろうしな。そうなると朽綱鑑康殿じゃが、これも親次と同様に領地替えで忙しかろう。はてさて…。」
「そうですな…!」
紹運がポンと手を叩いた。
「肝心な方をお忘れですぞ。石宗様に『軍学においてはわしも遠く及ばぬ、弟子入りしたいほどじゃ。』と言わしめたお方が…。」
「ああ、あの糞坊主か…。」
道雪がにやりとしたとき
「誰が糞坊主じゃち?」
障子ががらりと開いて、埃だらけの墨染の衣が現れた。
「宗運様!どうしてこちらへ…。」
問う紹運にすっと手を上げて
「久々に腐れ縁の生臭坊主の顔でも見ようち来たばってん。人のおらんち思うて、糞坊主ちゃえらか言われようばいね。」
道雪が楽しそうににやにやしている。
「何(なん)を言いよるか!糞じゃ足らんくらいじゃ。」
「なんちな!こん生臭が!」
弥七郎がおろおろするくらいきっと睨み合っていた両者は、一瞬の沈黙を楽しんだ後、はじけるように笑いだした。
「しばらくじゃ…。」
「おお、まっこてしばらくぶり…。」
甲斐宗運は座りながら言った。
「とこい(ろ)で、何の話な?」
(二)
でかいな…。
篝火燃える城の中庭で、数十人の男たちに囲まれ、親泰と対峙してあらためて金牛は思った。
体格差は想定以上だ。
だが自分には様々な男どもと互角以上に戦ってきた経験がある。
自信はあった。
でかいが、その分小回りは利かなそうだ。
そういった相手と戦うときは、速さで翻弄し、一瞬の隙を突くことにしている。
「背中を地面についた方が負けだ。いいな。」
「うりゃ!」
説明の途中で、気合いと共に猛然と親泰に突進する。意表を突かれた親泰が、両腕を伸ばして慌てて捕まえようとする。
そこをギリギリですり抜けて背中合わせになる。
すかさず半回転して斜め上方に思いっきり体重を乗せつつ左手を振る。
その拳は振り返ろうとした親㤗の鼻っ柱をとらえた。
ぴゅーっと血がしぶく。
「でた!姉さん得意の裏拳だ。これを食らって立っていた男はいねえぜ!」
美馬が歓声を上げる。
見ると親泰の鼻は、折れてしまったのか鉤状に曲がっている。
血が諾々と流れ、深傷を負っているのは明らかだった。
しかし、それを意にも解さぬように、親泰は冷然と立っている。
「どういうことだ!普通は立っていられないはずなのに。」
美馬の声が悲鳴のように響く。
「馬鹿どんめ…金髪のおんな、若を本気にさせたばい。」
肥後の熊の名は伊達ではない。まつろわぬ者の王・熊襲武尊の生まれ変わりと言われる親泰の持ち味は怪力と頑丈さ、そして何度倒されても立ち上がる不屈の魂である。この身体と心の頑健さで、田北や斎藤など並みいる大友の勇将にも勝ちを収めたのだ。
鼻から血をぼたぼた流しながら、しぶとい”熊”は金牛の前に仁王立ちした。
「まだ足りないならくれてやるさ!そら!」
ぐっと拳を固めて、左右の頬桁を強か殴りつける。そのたびに血が右へ左へと飛び散った。
「くっ…頑丈なやつだね、効いてないのかい!」
拳を繰り出しながら言う金牛の声をどう聞いたのか、親泰は気味悪く、黙ってにたーっと笑った。背筋がうそ寒くなる。
「うりゃぁぁぁ!」
己の怖じ気を吹き飛ばすように、気合いを上げ打ちかかった金牛の右の拳を、親㤗は左手で無造作に掴んだ。
「ぎゃぁぁぁーっ!!!」
まるで拳が万力で挟まれたような痛み、拳骨が全部砕けてしまったかと思った。
続いて腹に丸太で殴られたような衝撃。
ごふっ…、口から胃液と共に血が流れ出る。
左で金牛の拳を封じながら、
空いている右手で、親泰が腹を思いっきり殴ったのだ。
がはっ、がはっ。
背中を丸めて咳き込む金牛を、無表情な顔で親泰は引き起こし、今度は右から思いっきり顔を殴りつけた。口から血と共に数本の歯が飛び出す。
たまらず身体は左へぶっ飛ぼうとするが、親泰は右手を離さず引き戻した。
気を失ったのか金牛はくたっとしている。
「金牛!」
「姉さん!」
「参った、参ったから、もうやめとくれよ!」
「もう遅か!」
叫ぶ誾千代と美馬、蜊に一法師が冷然と言い放った。
「若はきれらしたばい。きれた若は誰も止められんど。まさに熊じゃけん。相手を殺すまで止まらんど…。」
(三)
「こんなことをしてどうして剣の修行になるんだ。」
愚痴を言っても仕方ない。
仙は切り立った崖を、足場を探しながら登り始めた。両手には清水のたっぷり入った木桶を下げており、まさに足だけを使った崖登りである。
「無茶苦茶ってなぁ、半年で一人前にしろっていうお前の父の手紙の方が無茶苦茶だろうがよ!」
やりたくなければ帰って良いと長恵は言った。そう言われると逆に引き下がれぬ。
「剣の修行なのに、木刀一つ振らせてもらえぬのですか!」
「そういうことをやりたきゃ、よそのお上品な道場で木刀踊りでも習うんだな。うちにはうちのやり方ってもんがある。」
剣術とは足腰だ。しっかりした下半身による足さばきが全てだ。
これがタイ捨流の奥義であると長恵は嘯いた。
タイ捨流に決まった型無し
無形であり、水の如く雲の如し
刀を振るだけでなく、足技投げ技眼つぶし何でも有り
勝てばいい戦場剣法さ
煙草をぷかぷか吹かしながらそう言われると、どこまで本気やらわからなくなる。
なんとか崖を登り終わって帰ると、今度はだだっ広い道場の拭き掃除だ。毎日はしなくていいのではとの思いが頭をかすめるが、隙間だらけ、天井にも穴だらけの道場には一日経てば埃が積もっている。
へとへとになって終わると、こんどは山に入って薪拾い、うず高く積んだ薪を運んで風呂を焚き、洗濯して風呂の掃除までで一日が終わる。
これでは態の良い女中ではないか。
修行とだまして家事をさせているのではないか。
疑問はふつふつとわき上がるが、一日の疲れに泥のように眠り、あっという間に朝が来て、また水汲みから一日が始まる。
おかしいとは思っていても、岡本の爺は肥前へ帰ってしまったし、身寄り一人無き地で誰を頼れば良いのか。
「おい!」
何かがぶんと飛んできた。
わずかに身をかわし、飛んできた物をはしと右手で捉えた。
「何ですか?」
「落しもんだぜぇ。」
見ると小さな薪である。
「こりゃ失礼。」
そう言うと仙は薪をもって風呂の方へ走った。
「ほーぉ…。」
見送りながら長恵は感嘆する。
「さすが熊の子だ。わずか数日であの身のこなし、思ったよりずっと筋が良い。こりゃ本当に半年で剣の奥義を極めるかもしれんて。」
(四)
親泰が拳を振るう度、赤い血が打ち水のように辺りに散らばる。
右手を握られたままの金牛は逃げることも倒れることも出来ない。
「気を失って無抵抗の者にあそこまで…。」
歓声を上げる男たちにまじって見ていたお福は、思わず輪の外へ後ずさった。
暗闇から伸ばされた白い手がお福の肩を掴む。
「ひっ!」
振り返ったお福の口を細い指が塞いだ。
「若、そろそろ止めを!」
「大女め、一方的に殴られちばっかいで面白うなか!」
周囲を見回してにぃと笑った親泰は、両手で金牛の喉をしめ上げ、そのまま高く持ち上げた。
「おお、いつもん…。」
「そのまま地面に叩きつけち、脳天ばぶち割っちしまいはっとな。」
「こら残酷か!」
そう言いながら歓声はどんどん高まり、辺りは興奮の坩堝と化した。
「姉さん、目を覚ませ!」
「金牛の姐御!!」
思わず懐に手を伸ばした誾千代を美馬が止めた。
「やめときな、これは姉さんの戦いだ。信じて見ているんだ。」
「しかし、このままでは…。」
首を締めあげられている金牛は、目をつぶったまま無反応だ。身体全体に力が入っておらぬように見え、気を失っていると思われた。
親泰は歓声にこたえる様に、目いっぱい手を伸ばして、力無い金牛の身体を高く持ち上げようとした。抵抗ない敵に一瞬の油断が生まれたか、手を伸ばしきったために、ほんの少し力が緩んだ。
「!」
金牛はかっと目を開けるや否や、両足を持ち上げて親泰の首を挟みこみ締め上げた。半死と思っていた敵の突然の反撃に動揺した親泰は、喉から腕を放してしまった。勝利の一瞬の機会、それを見逃さなかった金牛は、脚を支点に思いっきり上半身を振り子のように振った。
うぉぉぉぉ
男たちからどよめきが起きる。
金牛と共に反転した親泰は、頭から真っ逆さまに地面に叩きつけられた。
頭がくらくらし世界が歪んで見える。
なんとか起き上がろうとした親泰が見たのは、宙から降ってくる丸太のような金牛の腿だった。
一瞬の沈黙
脚を伸ばして座るような形の金牛の下には、仰向けにひっくり返った親泰がいる。
「背中ば…背中ばつきんしゃった。」
「若の負けばい。」
「信じられん。」
家臣たちが呆気に取られている中
誾千代、美馬、蜊は金牛の名を呼びながら駆け寄っていった。
「勝ったよ、姫さん。」
血だらけの顔の金牛が笑った。
「よぉ大将、私の勝ちでいいんだな!」
親泰は身体を起こしながら言った。
「ああ、負けた負けた。見事にやられたばい。そいにしてん、あげな技は初めて見たばってん、なんて技な?」
「ああ、あれかい。あれは借力(ちゃくりき)と言うんだよ。朝鮮の妓楼にいた小さいころ、物好きな客に教えてもらったんだ。」
「そん金の髪、白か肌、青か目は朝鮮のものな?」
「さあね、私の母は肥前から連れてこられたこの国の人間らしいけど、父が何もんか知っちゃいないよ。」
「そうな。悪かこつば聞いたね。」
「あんた…。」
「なんね?」
「意外と良い奴だね。」
「意外ちゃなんね!」
金牛と親泰は笑い合った。
不思議な光景だと思った誾千代だったが、肝心なことを言った。
「約束だ。法姫を返してもらおう。」
「ああ、もちろんばい。おい…。」
親泰は一法師を手招きした。
「姫様をお連れせんか。」
「そるが…。」
一法師はバツが悪そうに親泰の耳元で何事か言った。
「なんちな!姫がどこにもおらんだと!」
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