第19話 討つ敵は龍田の川の紅葉かな
(一)
「うわーっ!」
「どうなされましたか?」
「大事ない。」
褥までびっしょりと汗が染みだしている。
どうしてだろう、この日向に来てから毎日あの日を夢に見る。
思い出したくもない恐怖の記憶。
田原親賢は枕元においた徳利から、震える手で濁酒を盃に注ぎ一気に飲み干した。かっと熱いものが胃を貫く。
それで嫌なことをまた思い出し盃を放り投げた。
「親貞さまー!」
目の前には、胸から槍で貫かれぐったりとした総大将大友親貞がいた。
大雨が陣幕を叩き、断続的に稲妻が光る。
夜半、突然の奇襲だった。龍造寺隆信が八百で籠る水之江城を包囲していた大友軍三千は長滞陣に疲れていた。総大将であるべき宗麟は実弟の親貞にそれを任し、一万の兵を連れて遠く太宰府へ参詣に行っていた。三千でも立花道雪、高橋鎮種、角隈石宗など名だたる武将が参加し、大友軍には兵数以上の強さがあったはずを、すっかり油断してしまい夜宴を催したところを、鍋島直茂、百武賢兼ら龍造寺決死隊五百に突かれたのだった。直茂らと道雪たちが激戦を繰り広げる中、単騎抜け出した成松信勝が本陣に騎馬のまま乗り込み、逃げ回る親貞を一刺しで貫いた。
親賢は折り重なる盾の中に蹲り、ぶるぶる震えながら貫かれる親貞を見ていることしか出来なかった。
今でも、稲妻に照らされる深青の甲冑と黒い馬、激しい雨に打たれる成松信勝の氷のような切れ長の目を忘れることが出来ない。
そして、今の状況、あのときと非常に似ているのではないか。総大将の義統や宗麟は遠く耳川の彼方和田越にあり、敵の城を囲む大友軍は精鋭ぞろい、しかも長滞陣で攻城軍は疲れてきている。まさに秋雨の季節であり、稲妻もぼちぼち見られるようになった。
「いや違う、違うぞ。」
わしは総大将ではない。ここは本陣ではない。よってこの陣が奇襲の標的となることはない。さらに今山では籠城軍との兵力差は四倍程度であったが、今は七倍近い兵力差があるのだ。断じて同じではない。
そう言い聞かせながら、膝の震えがなぜか止まらない親賢であった。
(二)
「一大事にごあんど!」
「いけんしたか?」
城主・山田有信の問いに、賄い役の六反田権兵衛が答えた。
「一の曲輪に続いて、二の曲輪の井戸も干上がいもした!」
「ついに水もか。」
大友軍の包囲から十日あまり、食料がほぼ底をつき、生存に必要な塩も無くなった。そしてついに水まで尽きたというのだ。
「井戸を掘い下げても駄目か?」
「やってみもしたどん、一滴の水も出らんごっごわす。」
「他ん場所は?」
「城が伊東方から我が方にないましたとき、水の手は調べましたどん、望みは薄かち思いもす。」
「小丸川に水汲んけ出っしか手がなかか。」
「夜間に何度か試しましたどん、大友の物見に見つかっせえ、皆やられてしまいもす。」
「うーん…。」
有信が考え込んだ横で、鎌田政近も有栄も頭を抱えている。
そこへ、かんかんの態で二の曲輪から比志島国貞がやってきた。
「有信!水はいけんすっとか、ここで火矢でん打ち込まれたら、こん城は一巻の終わりじゃっど。」
「比志島さぁ、そげん申されても、今となっては雨水でん貯めんと手が無かち思いもす。」
「雨水ち、雨はいつ降っとか?」
「雨季ゆえ、そんうち降りもんど。」
政近が口を挟んだ。比志島はそれが気に入らなかったらしく噛みついた。
「鎌田どん!おまんも知恵者、知恵者ち呼ばれとっとじゃっで、呑気なことを言うちょらんで、こげんとき知恵ば出さんな。」
「申し訳ございもはん。」
「まったく、公子(きんご)さぁも公子さぁじゃ。軍法戦術に妙を得たりと日新公に言われたとじゃけん、こげんとき知恵を出さんでどげんすっとか。やっぱい、母親が違う分、他ん御兄弟とは違ごやっとか。」
「比志島さぁ!」
有栄が青筋を立てて国貞の前に立った。比志島は明らかにその勢いに押された。
「こいは口が滑った。じゃっどん水はいけんかせんとな!」
比志島がほうほうの態で二の曲輪に引き上げるのを苦々しく見送りながら有信が言った。
「そういえば、家久様はどこじゃ?」
(三)
「姉御、姉御、あれ何とかしてください。辛気臭くていけねえや。」
美馬が金牛に言う。言われた金牛も前を見てため息を漏らした。
「しっかりしてるとはいえまだ子供だよ。あんなもん見せられて、いったいどう言えっていうんだい。」
高城へ帰る途中、誾千代も弥七郎も明らかに塞ぎこんでいた。
子供心に、民草の家を焼く自軍と、それを見て狂喜乱舞する宗麟の姿は大変な衝撃だった。
わかりやすく自分は正義、敵は悪と思いたい。
それは子供の心理かもしれないが、戦国の世の現実は非常なる衝撃を持って、十歳と十一歳のふたりに襲いかかっていた。この現実を自分なりに解消せねばならないが、どうしたらいいのかわからない。
「姫、ひーめ!どうしたんだい?いつもの姫様らしくないねぇ。」
金牛も理由は十分わかっているが、放っておけなくて話しかけた。
「金牛!」
「なんだい?」
「お主の目から見て、大友は悪か?」
「うーん…。こんな世の中だ。どこの大名も似たり寄ったりじゃないのかい。」
「だが、理由もなく民の家を焼く大名はそんなにおらんのではないか!」
「理由ねぇ…、たぶん理由が無くはないんだろうよ。ただ、それが民が受け入れられる理由かは別問題さあね。」
「その理由とは何じゃ!」
「あたいは大友の殿さまじゃないからわかんないよ。学もないから難しいことも分かんないしさ。」
「……。」
「何が正義か、正しいことかが分かりにくい世の中さ。あたいは思うねぇ、こんな世の中だから、自分の思うままに生きるってことが大事じゃないのかい。」
「自分の思うまま…。」
金牛は馬を寄せて、こぶしで誾千代の胸のあたりをつんと突いた。
「姫は、今まで思うままにやってきたんじゃないのかい?この世のしがらみと関係なく。そう見えたからこそ、あたいら気儘な風盗賊は、ついていきたいと思ったんだがね。違うかい?」
「………。」
「姫、ここに来たのは、あんたなりの理由があるんだろう。自分の気持ちに正直になりなよ。会いたい人に会いに来たんじゃないのかい?」
誾千代が、わかりやすくはっとした顔をした。
うなだれていた弥七郎の耳もピンと動いた。
「大友がどうとか、自分でどうにもならないことはどうでもいいのさ。今大事なことは、自分のやりたいことをやるってことじゃないのかい?」
誾千代は馬の腹を蹴り、馬は南へ向かって走り出した。
「あんた!あんたは着いて行かなくていいのかい?」
美馬が弥七郎に聞いた。
「わしは別に…関係ない。」
「馬鹿な男だね。このままよその男に盗られていいのかい?」
「関係ないと言っておろうが!」
「あーあ、とんだ坊やだ。今の姉御の話を聞いてなかったのかい?意地はってんじゃないよ!」
美馬は弥七郎の馬に近づくと、その尻をバンと叩いた。馬は驚いて南へ駆けだす。
「しっかりやんなよ!」
そういう美馬に近づいて金牛が言った。
「ああ、若いっていいねぇ。」
(四)
出陣時期を見極めていたある夜、島津義久の夢の中に、見たこともない装束を着た一人の老人が出てきた。その老人は次の和歌が書かれた一枚の短冊を義久に手渡した。
「討つ敵は龍田の川の紅葉哉」
夢の中で義久は、「あなたは何者でいらっしゃいますか?」と老人に問うた。
老人は「私は霧島神宮の神の使いである。」と答えた。
はっと夢から覚めた義久は、戦の吉凶を占う軍配師・河田駿河守を呼んで、この夢の吉凶を判断させた。
「川に浮かぶ紅葉は、艶やかな反面、木から枯れて落ちたもの。敵の大友は勢いがあるように見えて実は衰運にあり、この戦は間違いなくお味方勝利ということでありましょう。」
次の日、義久は各地頭に招集をかけるととも、薩摩大隅の国中に次のような飛札(緊急命令を記した高札)を立てた。実はこれは包囲戦が始まったばかりの天正六年十月二十二日のことである。
「今回の戦は島津にとって危急存亡の危機なりき。老いも若きも武器を取れるものは全員出陣せよ。」
翌日、国中から内城前にぞくぞくと兵を率いた地頭たちが集まって来た。
総兵力は二万(三万との史書もある。)、国土の割にもともと人口が少なく、うち続く戦乱で疲弊した島津家にとって最大に近い兵力だった。近いというのは、相良氏の侵攻に備え、大口の新納忠元、出水の島津義虎は動かせないからである。
ただ、乾坤一擲の戦いであることを踏まえ、忠元は嫡子忠尭に百の兵を与え、出陣に参加させている。
他に参加したのは、島津義久五千、義弘二千、歳久二千、伊集院忠棟四千、島津忠長二千、征久二千、平田光宗百、上井覚兼百、川上忠智二百、河田駿河守百、樺山玄佐二百、肝付兼護五百、猿渡信光二百、頴娃久虎三百、佐多忠増百、伊地知重興二百、種子島時堯百、梅北国兼百、田尻但馬五十、東郷甚衛門五十、北郷時久六百である。
十月二十四日、義久はこの軍を率いて鹿児島を出立した。
軍は吉野山から隼人、横川を経て霧島神宮で先の夢の歌に起請文を添えて戦勝祈願したあと、庄内から日向紙谷城へ入ったときは二十七日になっていた。
まず、伊集院忠棟、上井覚兼、樺山玄佐の三将、計四千三百の軍を家久留守城の佐土原の守備に走らせた。義久は残りの一万五千余りを率い、十一月二日には自ら佐土原城に入った。
「歳久、よかか。」
義久は弟の島津歳久を呼んで命じた。
「乱破どもを使い、島津が薩摩大隅三万の兵でやってきたちう噂を捲いてまわれ。」
「はは!」
「そいだけじゃなか。同じように二万で来たちう噂と、四万で来たちう噂も捲け。」
「はは!」
「そいと味方ん陣を離し、旗を多めに立てて、敵ん物見に容易に兵数をかぞえられんようにせい。」
「承知でござっど。あとは?」
「よか。」
歳久はそそくさと陣幕から外へ出ていった。
義久は星の瞬く空を見上げて独り言?を放った。
「さて…あとは高城の兵糧じゃつどな。」
陣外の繁みが揺れて、鶴のように痩せて背ばかり高い老将が現れた。
「万事おまかせを。」
(五)
誾千代は先ほどから蒲池軍の天幕の近くをうろうろ歩いている。金牛からああは言われたが、いざとなるとどんな顔をして会えばいいか分からないのだ。
突然、天幕の中から言い争う声が聞こえてきた。しばらくして、見覚えのある大男が天幕から出てきた。三郎が左手に取りすがっている。
「兄上、ここで仲たがいなどと、お考え直しください!」
「三郎、お主も宗麟を見たであろう。なんで我らがあのような男のために命をかけねばならぬ。」
「宗麟公はともかく、蒲池家は累代、大友家の恩を受けてきたのでござる。」
「そんな、見てもおらぬことで責任は取れぬわ!」
「兄上!」
「悪いことは言わぬ。三郎、おまえも来い!」
「私は父上に従います。」
「孝か。義だの孝だの一文の価値もないではないか。」
そう言うと鎮漣はさっと馬に跨り行ってしまった。
天幕からまた二人出てきた。
「田尻の叔父上、鎮久兄も行かれてしまうのですか?」
田尻鑑種は蒲池鑑盛の妻の弟で、三郎たちの叔父に当たり、外戚ながら蒲池家の家老職を務めていた。蒲池鎮久は蒲池家の長男だが、妾腹ゆえ家は継げず、柳川の城代家老を務めている。
「おお三郎、すまぬが大友殿のやり方にはもうついてゆけぬ。頑固にそれに従う義兄上にもじゃ。わしは太郎と共に筑後に帰る。」
「鎮久兄上もですか!父上は一番頼りにされていますのに…。」
「すまん…。」
弟たちと比べ、地味でおとなしい兄は頭を下げて言った。
「わしがこんなことを言うのもなんじゃが、父上を頼むぞ。」
「…。」
鎮漣に従い、実に過半数の兵が日向を離れて行った。結局、残ったのは鑑盛と統安直属の兵千のみである。
初めて見た肩を落とす三郎に、誾千代は近寄りたいが近づけない。
しばらく星を見ていた三郎は陣幕の中へと消えて行った。
「なんだ、あれは!」
そのとき、高城の方角から叫び声が上がった。
思わず、そちらへ走る。
「も、も、物の怪…。」
見張りの兵たちが腰を抜かしている。
指差す城の方を見ると、星明かりに何か動いているのが見えた。
目を凝らすと
なんと人間が宙を飛ぶようにすいすいと、ほぼ垂直の城壁を「歩いて」上がって行く。
「稲綱(いづな)の法じゃな。初めて見たが…。」
後ろにいつの間にか角隈石宗が立っている。
「石宗さま、あれはいったいなんなのです?」
誾千代の問いに城から目を離さずに石宗は言った。
「古来からある陰陽の技よ。とはいえ今はすっかり廃れ、術者もほとんど残っておらぬがな。」
「石宗様も使えるの?」
「馬鹿を抜かせ。知っておるだけじゃ。才なくして習得できるものではない。しかし、島津と言う家は面白いの、鉄砲という新しいものを持っているかと思うと、伝説となりかかった技の使い手もおる。古い新しいに関係なく、使えるものは何でも使うか、そう考えると何やら背筋が寒いな。」
高城内では歓声が上がっていた。
「これは、これは宮内次衛門殿。」
有信は見知っているようだ。
「梅北左衛門尉のとこいの家臣ではなかか。今の技は?」
「鎌田さぁは初めてでしたな。こん次衛門殿は陰陽道の使い手、不思議の術を使い、こいまでも何度も奇跡を起こしたお方じゃ。」
「陰陽は不思議の術ではごわはん。世の理を知り、それを使いこなすもの。」
「ふん!」
比志島国貞が鼻を鳴らした。
「面白か。こんよぼよぼが雨でも降らすっとか!」
「雨を降らすことも出来はしますどん、水が欲しかなら水源を探すっとが早道かと。」
「なんちな!こん井戸が二つとも干上がった城中に水源があっち言うとな。よっし、今すぐそん水源を見つけちみれ!」
「お安いご用。」
次衛門は懐紙を取り出すと、何事かさらさらと書きつけ、風にフワッと浮かせた。紙はまるで生き物のように城中を飛び回り、ある壁の前ですっと落ちた。
「ここごわすな。」
「よおーし、誰か掘って見い!」
城兵が土を掘ってみると、ほどなくしてちょろちょろと水がわき出し、やがて清水のようにどんどんと流れ始めた。
「怪しか術を、なんのまやかしか!」
気味が悪くなったのか、それとも恐怖か、国貞は刀に手をかけて言った。
「怪しか術ではございもはん。ふたつの川に挟まれたこの地、もともと無数の水源を持っているのでござる。普通には探し出せぬそいを探したにすぎもはん。」
天守からその様子を見ながら、家久は口の端を緩めていた。
「うらやましかこつ、国兼、本当にお主の家来たちは面白か男ぞろいじゃの。」
水の手が回復した高城は息を吹き返した。島津本軍も南東佐土原に集結した。いよいよ、大友と島津の激突が始まろうとしている。
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