風の物語

夏海惺(広瀬勝郎)

第1話 鼠

    鼠



 生物の時間だった。

 建付けの悪い古い木造教室の引き違い戸が神経を引き裂く音を建てた。戸を開け教師が教室に入って来た。

 梅雨明けの前の集中豪雨が降り続いていて、教室の中は薄暗かった。

 教室の後の棚にカエルのホルマリン漬け、それに人のガイコツや、ネズミ、猿の標本が所狭し並べられている。

 陰欝な表情をした教師は教室にいる生徒全員の顔を見回した。

「今日は、授業を始める前に面白い話をしよう」

 一瞬、ざわめきが起きた。

「面白い話」

 その生物の教師のイメージからは、ほど遠い。一体、どのような話をしようと言うのだろうか。きっと見た姿の印象とはかけはなれて突飛もなく面白い話に違いない。

 誰もがそんな期待をした。

「君たちはレミングスと言う生き物を知っているか」

 全員、無言で頭を横に振った。

「鼠の一種だが、北欧に生息している。面白い生態を持っている生物だ。

 彼らは、自分たちの種族の数が増え過ぎると、集団で旅をする」

 彼らは自分の種族と自然のバランスを保つため自然の摂理に従い、遥かに遠い北洋海に向かって突き進み、次から次へと海の中に身を投じて行く」

 雲が垂れ下がる薄暗いノルウェーの夏の空の下草原を覆い尽くし、前進する繁殖し尽くした鼠の群れが、やがて北の冷たい灰色の海に吸い込まれていく姿を想像した。

「はたして人間はどうだろうか。歴史上、このような行動は採らなかっただろうか。これから先はこのような行動を選択することはないだろうか。困ったことに人間も生物なのだ。

 人もそんな歴史を繰り返してきた。

 歴史にも残らない民族の移動もあったに違いないが、ゲルマン人の大移動、蒙古の東欧遠征、アメリカ大陸へのヨーロッパ人の植民。

 そして、最近では日本の満州国への開拓団の派遣」

 自問自答するような教師の独り言に、全員、気味悪そうに静まり返っている。

 これが面白い話だろうか。

 夢も希望もない話だ。

 受験前で気が立っている。

 余計なことは聞きたくない。考えたくもない。

 期待が大きかっただけに反感も大きかった。

 たまりかねて私よりずうと賢い女生徒が何を言いたいのですかと、厳しい非難を込めて涙声で教師に質問した。

 教師は簡単に女生徒の質問をはぐらかし、授業を始めた。

 

 あれは、何年前のことだったろうか。

 随分と時が経ったような気がする。

 私は、群衆の中に立っていた。

 群衆は手に手にホウキを持ち、横須賀の京浜急行線の駅の前の狭い広場や、それを中心にして伸びる道路に集まっている。

 米軍の海軍基地に通ずる道路は勿論、観音崎や馬堀海岸に通ずる道路は、蟻のように群がる人々で足の踏み場もないほどの混雑である。見渡すかぎり人の群れで埋まっていた。 私もホウキを手に、その群衆の波の中に、もまれながら立っていた。人が多すぎる。

 何が始まるのだろうか。

 昔このような風景を見たような気がする。周囲の建物や商店、街路樹もすべてである。

 ただ、その時は群衆は威勢よく、「反米、反帝国主義、日米安保条約反対」と叫んでいた。

 とにかく昔からデモの多い土地柄であった。今日もその延長であろうか。しかし、あの時とは違いひどく陰欝な雰囲気が群衆を包んでいる。

 それらしいノボリも垂れ幕も懸かっていない。集まった群衆も活気がない。

 何が始まるのだろうか。

 そばに立つ者に聞いても声には出さず、無言で頭を横に振るだけであった。しかし噂では奇跡にも似た途方もない何かが起きるらしい。その噂で集まってきたのである。

「市民はホウキを持って全員集まれ」

と言う命令だった。

 誰の命令なのかもはっきりしない。命令の媒体もはっきりしない。

 テレビでも新聞でもなかった。

 もし集まらなければ、云々と言うような罰則を示されている訳ではなかった。

 私も何も分からないまま、集まって来たのである。

 私のような無力で平凡な男にとって、疑問を感じず従うことが一番安全であった。

 集めたと思われる男が駅の広場の中央の台上で演説を始めた。

 ロック歌手がマイクを自由に扱い、舞台上を走り飛び跳ねるように振る舞っている。まるで有名なロック歌手の舞台か、あるいはヒットラーの演説のように人々を扇動した。

 話しの内容は聞き取れない。

 派手な素振りは官能的であった。

 アジル言葉に合わせて、群衆は手に持っているホウキを上下に上げ下げし始めた。群衆の一員として動作を繰り返すことは、ひどく安心出来ることであった。

 単純な運動で微かに汗ばんできた。開放感を味わっていた。

 同じ行動を繰り返すに連れ、言葉を理解できるようになった。

「殺せ。殺せ」

 と叫んでいる。

「呪われた者たちを血祭りにあげろ」

 果たして、同調してよいのだろうか。微かな良心のうずきを感じた。だが一瞬の出来事だった。すぐに周囲を囲む息詰まるほど人のことを思い気持ちを持ち直した。少し整理した方が良いのだと思ったのである。なにしろ人間が多すぎる。

「彼らは地球のごくつぶしに過ぎない」

 自分には絶対に痛みが回ってくるはずはない。私には無関係な出来事である。

 周囲の群衆もみんな台上の男の声に合わせて、安心してホウキを上下しているのではないか。

 演説する男のそぶりも自信に溢れている。

 

 男たちは自信を取り戻していた。

 女たちは彼の身のこなしに官能的な喜びを味わっていた。

 歓喜し、失神する女も現れた。

 昔、このような時代があったような気がする。何時だったか思い出せない。深く考えると吐き気を催した。

 演説が終わると群衆は街中に別れて行った。

 私も群衆の後を続き、一軒一軒の戸を乱暴に打ち破り、家々に押し入り、今日の集会に参加せず、家の中に残っている者を捜した。

 呪われた血を持つ者は集会に参加出来なかったのである。

 病気を患っている者。不具者。

 家に押し入った群衆は、容赦なく手に持つホウキで、彼らは打ちのめすのである。

 襲う獲物が消滅したのを確認した群衆は広場に戻り始めた。まるで凱戦する兵士のように血の付いたホウキを高々と頭上にかざしながら。

 

「カオリは大丈夫だろうか」

 私はフット不安になった。

 目で捜して見るが、カオリの姿を見なかった。人が多いせいだろうと思い、自分の心を慰めた。

 台上の男がアジを始めた。

「呪われた血に近い者を殺せ。

 ホウキに血の付いていない者たちだ。

 彼らの周囲にはそのような縁者がいる。彼らの心に同情心が沸いたのだ」

 次第に自分の周囲から姿を消す者が多くなった。

 私達は何回も出動し、そして血塗られたホウキをかざしながら駅の前の広場に凱戦をした。

 出動のたびに真新しいホウキが群衆に無料で配られた。

 群衆は気前の良さに喜んだ。

 

「いかがわしい仕事に従事する者を殺せ」

 とうとう恐れていたことが、自分の身にも降りかかってきた。

 恋人であるカオリもその一人である。

 いつか来るのでは微かに恐れていた。

 生理現象を伴う焦り、まるで足が地面から浮き上がるような焦りを感じた。

「何とかしなければ」

 彼女は横須賀の西の方にある辺見と言う所にあるスナックで働いていた。

「そうだ生理現象だ」

 下腹部を押さえながら、わざと大きな声で「生理現象。生理現象」と叫び乍らながら、次第に群衆から離れて行った。

 坂道の多い横須賀の街を息を切らせて走った。明るい月明かりが逃亡を助けた。

 空一面が厚い雲に覆われているが、満月の月が浮かぶ付近だけが雲が切れている。厚く黒い雲が空を被っているが、その雲の淵さえ月の黄色い明かりが照らしている。

 一陣の風が吹いた。

 街中に張り巡らされた電線が一斉に、切ない鳴き声を上げた。だが月も雲も動かない。

 まるで監視をしているようである。

 いくつもの峠を越えたような気がする。

 樹の間や草叢の中を走った。

 捜し出した後の手立ては決めていない。

 何処かに身を隠せる所はないだろうか。

 とにかく何処かに逃がしてやらねばならない。しかし狭い日本中この有様だと言う。

 今は、そういう時代なのである。

 フッと鹿児島にいる家族のことを考えた。

 はたして無事だろうか。

 

 走りながら、私は「そうだ」と手を叩いた。

 幾ら気の狂った群衆たちでも、絶対に手を出せない所が一つだけある。

 それは横須賀の沖の東京湾に浮かぶ猿島と言う何の変哲もない小島である。

 その島は、ずうと昔、太平洋戦争の頃、東京を守るため帝国海軍が島全体を要砦化した島である。砲台や弾薬の貯蔵所、防空壕跡が島全体に今でも隈なく残っている。

 しかしカオリを守るのは時代遅れのそれらの施設でもない。亡霊たちである。

 この巨大な要砦を造るために使役された朝鮮の人たちである。彼らは徴用に日本に連れてこられて、その島で多くの者たちが恨みを残しながら土に返り、魂魄は亡霊となったのである。しかし、あの時代の日本の出来事ととして珍しいことではなく、日本中の各都市はアメリカの絨毯爆撃により灰燼に帰し、広島と長崎には原爆が投下された。日本人男性の多くは徴兵され戦場の露と消え女性も焼夷弾の餌食になった。当時、日本と韓国は日韓併合により統一国家となり、ロシアの進出に備えていたのである。その点では、かっての日本人の選択は大きな誤りだったと言える。日韓併合などという過ちを犯しさえせねば、日本は大陸国家なる陸軍主導の空理空論に無縁で、日本海や東シナ海を頼る海軍、空軍の防衛力で備える道も出来たかも知れない。日韓併合は日本にとって地獄への一里塚だったと言える。

 彼らが幽霊としてこの世に存在し続けている理由は、この世の人々が望むからにほかならないはず。幽霊として残していた方が都合が良い集団があるからであるはず。そのせいで私は現実にこの目で彼らの亡霊を見てしまったのである。

 仲間に唆され、肝試しに、夜、その島に泳いで渡った時である。

 岸に近づくと、その島の一面にニョキニョキと白い人間の腕が地中から生え、オイデオイデをしていた。

 風のせいではない。風に逆らい自分の意志で揺れているのである。

 噂通りの光景であった。私は岸に辿り付けず逃げ帰ってしまった。

 だが亡霊たちは理不尽に虐げられた人々に対しては、決して害は加えないと言う。

 そこまでカオリを逃げさせることが出来たら、彼女を生きのびさせることが出来るに違いない。

 亡霊たちは、きっとカオリを守ってくれるにちがいない。

 

 やっとカオリを見付けることが出来た。

 カオリは店のウィスキーをしまう戸棚の中に隠れていた。

 容易には見付けることの出来ない場所であったが、その棚の横に血のついていない箒が立てかけられていた。

 戸棚の戸を開けると、カオリは大きな御尻を入口に向け、頭を戸棚の奥に擦り付けるようにして隠れていた。

 手で固く耳を覆っていた。

 まるで隠れて食べ物をむさぼり食う鼠の姿に似ていた。

 彼女は自分の命をむさぼっているのである。

 私はカオリの足を掴み、戸棚から引きずりだした。

 カオリが鋭い悲鳴を上げ、私に襲い掛かってきた。

 私を暴徒と勘違いしたのである。

 彼女は耳を塞いでいた。彼女の手を耳から無理にはぎとり耳元で叫んだ。

「カオリ、逃げろ。ここにいたら絶対に捕まる」

「何処に逃げろと言うの」

「猿島に逃げろ。そこで、騒ぎが収まるまで亡霊たちと一緒に生活するのだ」

「いつ騒ぎが収まるのよ」

 泣き声であった。

「つべこべ言うな。いつか収まる。五十年前にだって、このような時代があった」

 そうだ、忘れてしまった。

「あの頃、このような社会状況を何て呼んでいただろうか」

 胸に大きな石を飲み込んだようで重苦しい。思い出さなければいけない。

 こんなに焦るなんて。

 大事な言葉だったに違いない。

「せ」

「せ」

「せん」

 思い出せない。

 昔の言葉だ。切れる息を我慢しながら僕は走りながら、振り返っていた。

「せ」

「せ・」

「せん」

「せん・」

「せん・・」

 そうだ、もう少しだ。

 幼い頃に苦しんだ吃音の癖を思い出していた。

「せんそ・・・・」 

 もう少しだ。

「そうだ。せんそうだ」

 今では、その言葉さえも死語になってしまったが、戦争という固有名詞で呼ばれていた。

「カオリ。同じようなことを、人間は、ずうと繰り返してきたのだ。夢を捨てるな。とにかく逃げるんだ」

 お互いに取り交わす声は絶叫であった。

 群衆の足音が近づいて来る。

 もう時間の余裕はない。

 カオリを連れて、海岸へ急いだ。

 逃亡の途中、厚い黒い雲の間に浮かんでいた月は、雲の裏に姿に消し、闇夜になった。

 茶色に濁る白い三角波が闇夜に浮かんでいる。

 波打ち際で、波にもて遊ばれる白い物体が闇夜に浮かんでいる。

 白い発砲スチロルの固まりであった。

 大きな固まり探し出し、それに彼女をしがみ付かせ、力任せに闇夜の海に押し出した。

 

 再び群衆の中に戻っていた。

 群衆の数は少なくなっていた。

 だが私の周囲には、二重三重、嫌、幾重もの人垣が出来て、息をするのも苦しく、風など全く吹き込もない無風地帯になっていた。

 私の持つホウキに血がついていなかったせいである。群衆は血に染まったホウキを容赦なく私の上に振り降ろした。

 次第に意識が遠退いていった。

「カオリは無事だろうか」

 それが、最後の意識であった。

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