Packet 17.対価
見目麗しい女の左手には菓子の詰まった袋が一つ。右手の細い指の合間には串団子が挟まれて、三本のうち一本がその綺麗な口元へと消えていく。病院内を闊歩する姿だけは大人の女性に違いないが、満面の笑みで頬張るその様は児戯に喜ぶ子供それだ。
「ま~た子供の姿でお年寄りたぶらかして、とても神代の者とは思えませんよ? その顔は」
女の行く手を遮る様に現れた少年は痩けた顔で嘆息し、供物が必要ならば相応の場所を提供すると提案する。
不躾な態度を見せる少年に、されど女はその挨拶を一蹴すると、菓子袋から甘味物を幾つか取り出し投げ渡した。
「病院ではその姿なんですね」
「子供のままじゃと看護婦が構うてくるんでな、こちらの方が動きやすい。今日は妃奈子の見舞いか?」
「ええまぁ、それもあるんですけどね」
ここ数日で見受ける品の数々を指摘されて少年、我妻は鮮やかな袋のうち一つを食べ終えた天戸の眼前へと差し出した。
「今日は天戸様へのお礼が目的ですよ。姐さん、見つかるの遅かったらやばかったですから」
「童が気にする事ではないよ。もとより聞かれたから答えたまで──おぉ! 冬治の所の菓子ではないか!」
「冬治さんから持っていくならこれだって聞きまして。喜んでもらえてなによりです」
稲荷ではなく洋菓子で瞳を輝かせるお狐様に我妻は笑いを堪えつつも菓子箱を彼女の手元へ持って行く。今にも涎を垂らしそうな天戸はその味を思い出しながら箱へと手をかけようとして──その手をピタリと停止させた。
「いやまて、なにゆえお前さんが今更に菓子折りなんぞ持ってくる?」
「え? だから姐さんを助けてくれたお礼に──」
「お前さんのような男は翌日には礼を持ってくるであろう。それこそ相手の好物なんぞ調べる間も無くな」
「遅くなってすみません。最近ちょっと立て込んでまして」
「怒っておる訳ではない。ただそれだけならばお前さんは最初に謝るはずだろう? この菓子折りは一体なんぞ?」
たじろぐ内面と飲み込む言葉も見透かされているのではと思う天戸の瞳に、ばつを合わせる言葉や表情も、取って付けたお飾りは捨て置いて我妻は本題を切り出すべく口内に残る菓子を嚥下する。相互利益ではない、ただ享受するだけの願い事をするのは何時ぶりだろうかと振り返りながら見える神に乞い縋る。
事の成り行きとこれから起こる出来事を彼女へ伝え終えると、我妻は気恥ずかしさからか珍しく視線が泳がせた。
「つまりは厄介事に首を突っ込んだ友を助けて欲しいと」
「ようはそう言う事です」
「甲斐甲斐しい限りだの。しかし我妻よ、うちらの有り様を忘れた訳ではなかろうて」
目の前に顕現する神は殻である──そう言ったのは彼女自身。瀕死の布津巳を救う為に、彼女は自らの魂を差し出した。
最古は神の使者、ゆきゆきて神の末席に加わろうとも、今は一人の少女に己が自由を許されている。
二人が離れれば離れるほどに体の動きは遅く重くなり、長引けば長引く程に力は弱まり殻もろとも消失する。
優しき人は床の上、故に願いは届かない。願いを聞き入れる神はここには居らず、佇むはただ一人を守る神。
彼女もまた許容をしない、出来はしない。たとえ主君がそれを望んでも決定権は既に無い。彼女もまた判決を待つ罪人なのだから。
「うちが尚も赦されておるのはあの子の警護と治癒の為。役目を終えた後うちがどうなるかは父君母君にしか分からぬ」
「じゃあせめて蛍姉ぇが持ってたお守りみたいな、ご利益のある物だけでも」
「あれにご利益なんぞありゃせんぞ、精々野犬に噛まれぬ程度じゃて」
見つけたのはただ自分の臭いを追っただけ。今はそんな物を創る力さえ無いと聞くと、とうとう我妻に焦りが見える。
旧知の者は数居れど、頼れる相手は数少ない。心強い兄妹は、揃いも揃ってあちら側。自身の決断とはいえ枷で鈍重となった我が身では、半身を削って行く他ない。
二面性の秤がぐらぐら揺れて支点が悲鳴をあげ始めると、彼の両手は天戸の肩を力強く掴んでいた。
「じゃあ、じゃあ何か打開策をおくんなましぃ~! お知恵を拝借しとう御座いまするぅぅぅ!」
「ええい鼻水を拭け! そんなに助けたいのならおぬしが助ければ良いじゃろう!」
「無理なんすぅ~。龍神祭の企画で雁字搦めになってて、身動きどころかまともに睡眠もとれてないんすよぉ」
「そんなもの親父殿の仕事だろうに、さっさと返上してしまえ」
「自分でぇ、考えてぇ、実行したんすよぉ」
「身から出た錆ではないか!」
救い求める民草の姿はかくも哀れなりけり──磯巾着から逃れる様に廊下で揉める民と元神。互いが互いに譲らぬ様は微笑ましくも可笑しくもあり──公の場でその様な喜劇を演じてしまえば、そうなるのは明白だった。
「二人とも、何してるの?」
郊外に佇む古い屋敷。字面だけならホラー小説の冒頭だが、彼にとっては現実だ。しかしその屋敷を前にする彼の心境はあながち間違ってもいない。
阿蓮と力強く銘打たれた表札の隣には大きな門扉。竹垣と木々で覆われた敷地の中は外からでは窺い知れない。何度も巡った体は熱を発し、緊張かはたまた冷却機能なのか発汗による水滴が伸ばす腕を重くさせる。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ、叔父貴がお待ちです」
一時間弱の葛藤のすえ開けた扉の前には大柄な男がそびえ立ち、乙女の様な声をあげそうになった踏御は寸でのところで手で蓋をした。
総門を潜った先には如何にもな景観が広がり、静けさから聞こえてくる添水の独特の響きが、屋敷上空へと吹き抜ける空と共に一種の解放感を感じさせる。
屋敷へ入り案内されるままに奥へと進むと、道中出会った組員達が此方を確認しては凝立した。一見するとその様子は踏御を敬う姿勢に見えなくもなかったが、彼らが敬っているのは長である老人ただ一人であり、少年が老人の御客人であるからこその表れだった。
短くも永い道のりを終え、ようやくたどり着いた一室の前で案内人が膝をつく。頭を垂れたまま客人が到着した旨を淡々と伝えると、襖の向こうからしゃがれた声が入出を許可を言い渡した。
踏御は通されるままに恐る恐る開かれた襖の先へと足を踏み入れると、そこには今までの和とは違う洋風のソファーと赤い絨毯が彼を出迎えた。
「何時までぼーっとしとる。はよ座れ」
聞き慣れてはいないものの体に確りと刻み込まれた御仁の声に、最も近いソファーの端へといそいそと腰を落とす。心許無い隅の安心感を享受していると中央に座る様指示を受けて彼はやむなく安らぎを手放した。
「最近は座布団の上に正座っちゅうのも辛い輩がおるからな、不格好やが客人呼ぶ場所だけはこうしとる。まぁ今時珍しい事もないやろ」
襖の扉に落ち着いた色の壁紙、そして洋式の家具。総門からの印象で違和感しか感じなかった部屋ではあるが、畳に洋風ベッドを置く家庭も珍しくない昨今では確かにと納得できるだろう。
しばしの雑談の間。踏御が屋外でとった不審な行動に対し笑い飛ばされたりもしていたが、お喋りだけならば気の良い老人でしかない。
茶請けを持ってきた組員が去り、客席から離れた執務机から席を移した老人が少年の前に腰を下ろしてようやく、緩んでいた心は足の幻痛と共に相手の認識を改めた。
「そういえばお互い自己紹介がまだやったの。わしの名前は
老人が少年を見る目が一瞬で変わる。子供ではなく取引相手へと今変わったのだ。それでも彼が痛みに顔を歪め怯んでしまわずに、組員に連行されるよりも先にこの場に辿り着けたのは、ひとえに我妻からの情報提供があったからだった。
曰く御仁は誰にでも真摯であり外道ではないと
曰く御仁は筋を通すと
曰く御仁は等しく容赦がないと
御仁とひとたび誓いを交わせば、彼は相手が赤子であれ尽力を惜しまない。しかしそれは相手が誓いを守れなければ、今際の際に伏せる老人でさえもその手で殺すのと同義なのだ。
決して軽くはなかったが騒動の果てに忘れようとしていた踏御にとって、友人からの電話は御仁の機嫌を損ねない為の吉報でもあり凶報でもあった。
「さて史、お前さんがどっから情報をもろうてわしの家にやってきたのは問わん。わしらとの約束を冗談やと笑い飛ばす阿保共とは違うのもええこっちゃ。そやけどそれはそれ、これはこれ、お前さんには確り貸を返してもらう。ええな?」
「……はい」
「元気が無いなぁ、ええねんな!?」
「は、はい!」
強制であれど同意を得た御仁は、それでも満足げにソファーに背中を預けて茶をすする。生きた心地のしない踏御も勧められるままに熱い液体で舌を焼き、味の分からぬ洋菓子を口の中でかみ砕いては砂にした。
「そんでや史、お前さんには女子高に通ってもらう」
「は──はい?」
「聞こえへんかったか? 女子高や女子高。まさか出来ませんなんぞぬかさんよな?」
可能か不可能かであれば可能だろう。女ならば容易、男であっても最悪手術と面倒な手続きさえ済ませれば後ろ指を指されても通学自体は可能だ。
問題は突拍子もない提案の意図が踏御には分からない事。詳しく聞かされずともあれだけの犠牲の下に変質者へ強制転属が対価では、今際の笑い話にもなりはしない。
突然命を絶たれる心配は無いとは聞いていても、覚悟を決めてこの場へ訪れた以上。機嫌を損ねる事になったとしてもその意図を聞かざるを得なかったが、御仁は問いには答えてくれず、止む無く話を進めるべく口を開く。
「あ、あの。転校は、今からですか? それとも女になってから、ですか?」
決死の質問を聞いた御仁は堪えきれずに馬鹿笑い。相手の顔に唾を飛ばさん勢いで破顔すると、膝を数回叩いた後。すまんすまんと謝罪を述べた。
「冗談や冗談。あんまり縮こまっとるからつい悪い癖がでてしもうたわ」
「じ、冗談ですか」
「いうて半分は本当やけどな。お前さんには隣町まで出向いて欲しい」
御仁が言うには隣町に滞在し、とある事件を解決して欲しいとの事で、元女子高へ通うのは滞在期間中の学業先というだけだった。
春頃起こった誘拐事件。それと似た失踪事件が隣町でも発生しており、それを危惧した学園長が御仁を頼って来たのが発端である。
「学園長とは昔からの付き合いでな、これ以上生徒にも犠牲が広がる前に何とかして欲しい言われてまぁ難儀しとったところなんや」
「あの、警察の方はなんて?」
「ポリさんも頑張っとるみたいやがどうにも跡を追えんみたいでな、わしらも裏から目は走らせとったが、どうやら春に沸いた阿保共とはちいと訳が違うらしい」
「その解決を俺に、ですか?」
「聞けば我妻さんとこのボンボンと一緒になって探偵ごっこみたいな事もしとったみたいやないか、それの延長線じゃ」
御仁はいとも容易くものを言う。だが説明が続くにつれて踏御の表情は次第に陰り、春先の一件を思い出していた。
当時は結果として彼らが解決の糸口を掴んだものの、人が追える痕跡や特徴は多く存在し、当然ながら警察もアタリはつけていたし最後は個人を狙った計画犯。深井の犯行は別と考えても、連続誘拐の一件はいずれ足が付いていたであろう。
だが今回は知らぬ地での失踪事件。ましてやどれもこれも痕跡が追えず、本職の人間が難航している事件を子供一人で解決しろと言っている。それがどれだけ無謀なのかは、ごっこと揶揄されても経験のある踏御自身がよくよく理解出来ていた。
「なんや不服か?」
「いえその、そんな難事件を俺一人で解決出来るかなって不安で」
「出来るかどうか不安? そうやのうてするんやろうが」
老いた手は懐の煙草に手を伸ばすと、慣れた手つきで機械の片腕から火を出し着火する。奇妙なギミックに驚く間もなく吸い上げた煙は少年の顔めがけて吹き付けられた。
「坊主、これはお前さんが先に切り出した取引や。うちらの兵隊を我がの身に値段付けずに買い取ったのはそっちやろ? 商談は成立したんやから、お前さんはわしの言い値をはらわにゃならん。それが筋や」
「それは確かに、そうです……」
「それにな坊主。お前さんじゃ到底成功せん仕事を任せる事も出来るし、それでとちって事故死にすることやってできる。そうせえへんのはこれが歴とした商売やからや」
出資した限りは儲ける。ただの享楽で殺すのならば組の為に先立った者達に示しがつかぬと御仁は言う。殺されたいのならば殺されるだけの下ごしらえを済ませて来いと御仁は嘲笑う。今のお前には死ぬ価値すら無いのだと──
「お前さんが事件を解決出来ればそれでよし。でけへんかったらわしの顔に泥を塗る事になる。そしたらお前さんが好きな死に方を選ばせたるさかいな。安心せぇ、ちゃんと親御さんが弔えるようには計らったる」
「わかり、ました」
少年は改めてこれが大人の世界、裏の世界だと痛感する。結果を出せねば簡単に死へと直結する世界。決して甘さや酔狂などではなく確固たる利益を求め、過不足なく対価を払い受け取る世界。
友が電話の最中に吐き捨てた罵倒の真意が、此方を思っての言葉だと今更ながらに理解する。
「腹は決まったか?」
「はい」
「そしたら準備せえ」
「は、え?」
「腹決まったんなら早い方がお前さんもええやろ。親御さんとこっちの学校には手回ししといたるさかい、なあんも気にせず行ってこい」
御仁が言うが早いか踏御の周りを数名の男たちが取り囲む。ずっと待機していたのだろう。あっという間の出来事に、少年は焼けた舌を噛んだ痛さに唸るほかなかった。
「期限は夏休み前日まで、嬢ちゃんとかと楽しい思い出作りたいんやったら精々きばりや」
痛みに耐えて言葉にならぬ絶叫を残し、子供にしては長く大人にしては短い彼の一月が始まった。
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