第2話
メルヘンな廊下をしばらく進むとハートが描かれた小さな扉が見えてきた。私でもなんとか通れそうな扉である。ここまできたのだ。思い切って扉を開ける。扉の先にはいくつもの扉が取り付けられた廊下が続いていた。
扉、扉、扉。本当に扉だらけだ。一応目視できる範囲に廊下の果てがある。しかしそこにも扉がある。廊下の中央に小さな机がある。机の上にはなにかが置いてあるが、とりあえずこの廊下をいろいろ見て回らないことには始まらないだろう。
幸か不幸か、扉は一つも開かなかった。メルヘンな扉。お菓子の扉。機会仕掛けの扉。ダークオークの扉。鉄の扉。ガラスのものと思われる扉。狂気を感じさせる扉。学校を彷彿とさせる扉。実家で見たことあるような扉。どう見ても風呂場に繋がっていそうな扉。画家が描いたと思えるようなデザインの扉。これだけ扉があれば一つや二つくらい開いてもおかしくはないと思うのだが、一つも開くことはなかった。すべての扉のノブを回してみたが、虚しい努力に終わった。
正確に言うと、一つだけ開くことには開いたのだ。問題は開いたかどうかではない。通れないのだ。扉があまりに小さすぎた。およそ二十五cmくらいの身長の人間ではないとくぐれないのではないか、と思われるほどの大きさの扉なら開いた。しかし私の身長は百六十程度はあったはずなので残念ながら潜ることもできない、というわけだ。
こうなると後調べていないものはただ一つ。廊下の中央に意味ありげにぽつんと置かれた机である。目を向けないようにしていたが、怪しげな黒い物体がその上に鎮座している。さてこれは何なのだろうか。私にはどう見ても焦げたパンにしか見えない。
恐る恐る近づく。怪しい黒い焦げ模様がついたパンである。近づけば近づくほどパンに見えるようになったが、部屋に入った瞬間の角度では黒光りするGに見えなくもない物体である。探索を最後にする気持ちも察して欲しいというものである。
さて、この怪しげな空間にてそびえ立つこの摩訶不思議なパンは一体何者なのだろうか。黒焦げなのも意味不明であるが、そもそもこの空間にパンがあるということが既に理解不能だ。
パンの周りを一周する。遠目にちらちら見るが、ごく一般的な焦げたパンにしか見えない。恐る恐る触れてみる。触った限り焦げたという一点を除けば普通のパンだ。試しに手にとってみる。パンに触れていた部分の机に何かが書かれていたというわけでもないらしい。ではとパンの裏側を見てみる。やはりというかなんというか、書かれていたのはこちらであったらしい。なになに……。
俺を食え
俺を食え? どういう意味?
頭の中にたくさんのハテナが浮かぶ中、それは起こった。手の中のパンが突然動き出し、私の口めがけて飛んできたのである。
何を言っているのかわからないと思うが自分でもわからない。ただ突然、私の心の準備が整う前に、そのパンは私の口めがけて飛んできたのだ。
あまりに突拍子もない出来事に対応できず、私は開いた口に入るパンを止めることもできずに受け止めてしまった。慌てて口から出そうと躍起になるが後の祭り、既に半分が口の中に入ってしまっている。最後の足掻きとして口の中のパンを取り出そうとするが、どうにも意味のわからない力で口の中に進み続けているらしく、口の中から出せる気配もない。しばらく奮闘してみるが、口に放り込まれているパンのせいで息も苦しくなってきた。これ以上は持たない。口の中に広がる、焦げたくせに妙にうまそうなパンの香りも手伝い、なんだがパン相手に戦う自分がアホらしくなってきた。もしかしたら毒が入っているかもしれない、とか、焦げたくせに妙にうまそうな匂いがするのでもしかしたら怪しげなものが入っているかもしれない、とかいろいろ考えるべきことはあったのかもしれない。しかしそれ以上に顎も疲れ、息苦しかった。早くこの虚無感に包まれた戦いから解放されたかった。口に含まれたパンを噛む。そして味わう。美味しい。なんだ美味しいじゃないか。そのままパンを飲み込み、最後まで味わって食べることに成功した。
飲み込むこと十数秒。特に何もなさそうなのでホッとしていた、その時異変が起こった。ひどい目眩と立ちくらみと共に周りの景色が変化する。この感覚、前にもどこかで……。
周りの景色が歪み、暗くなる。そして謎の布のようなもので覆われる。これは穴の近くで目を覚ました時と似たような状況だ。今度はどこに移動したのだろうか。しばらくして目眩もおちついたところで立ち上がり、布をかき分け外へ出る。外へ出ると、周りの扉と机が妙に大きくなっていたこと以外は何も変化はなかった。
否、変化はあった。なぜが服が脱げていて、今の私は全裸だった。
ひっ……!?
思わず情けない妙な声が出てしまった。パンプスだけ履いてるとかいう高等なプレイか何かかと思っていたがそんなことはない。ジャケットもシャツもスカートもストッキングもパンプスもショーツもブラもすべて失われていて、生まれた時の姿であった。
ちょっと、なんで……?
声に出てしまったらしく、思った以上にシュールな自分の姿とシュールなつぶやきが部屋に響く。おそらく今、最高に阿呆な絵面になっていると思う。慌てて布の中に隠れこむ。布の中で落ち着くために深呼吸を繰り返す。落ち着いてきたので周りを眺めていると状況が少しづつわかってきた。
まず、私はどこにも移動していない。これは先ほど外へ出た時の景色から明らかである。しかし妙に部屋の景色が大きくなっていた。そして机も大きくなっていた。極め付けにはなぜか裸の自分。さてこれらが意味することとは。
結論が出た。あり得ないが、それしか考えられない。勇気を振り絞り布の外へ出る。そして大きな布を広げる。悲しいかな、自分の考えと事実は一致していた。
さきほどの大きな布たち。それは先ほどまで私の裸体を隠していたはずの服たちであった。まだ私の体温がほのかに残っていたようだが、広げる過程で全て失われてしまった。そして服も部屋も机も私を除いて大きくなったとはとても考えにくい。どう考えても私だけが小さくなってしまっていた。
原因は先ほどのパンだろうか。そうだとすると私は大変なものを食べてしまったことになる。人類の歴史上初の体が縮んでしまった人間ということになる。体が縮んで小学生になってしまうわけではなく、手のひらサイズにまでなってしまったのである。こういう時は服ごと手のひらサイズになるはずなのだが、どういうことだが自分だけが小さくなったらしい。
後悔しても仕方ない。今更大きくなる手段もなさそうだ。ジャケットの胸ポケットに入れてあったハンカチで体を包み、立ち上がる。最低限の装甲ではあるが、これで人にあっても最悪なんとかなるだろう。もっとも、この身長であることが一番の問題といわれてしまえばそれまででもある。
体が縮んでしまったことで一つだけメリットが生まれた。それは例の潜れなかった扉を潜れるようになったということである。つまり先に進めるということである。先に進まないと現状を打開できない。勇気を振り絞ってハンカチを纏い扉をくぐる。
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