線香花火か、あるいは打ち上げ花火か

七咲

第1話

 空一面を覆う、美しい花。

 暗闇を掻き消し、空だけでなく川の水面にまで明かりをともす。

 爆ぜる音が高鳴る拍動に拍車をかけて祭りはより一層、盛り上がる。

 その輝きは一瞬であるけれど、人の心にはずっとずっと残っている。



 昼休憩が終わり午後の業務が始まろうかとするときに、同僚と比べると片付いているデスクに戻った正弘は、すでに隣に座っている上司に声をかけた。

「上村さんって、確か二世帯住宅でしたよね。ちょっと話を聞きたいので、今日明日あたりで飲みに行きませんか?」

「おぉ、いいぞ。お前、もしかして家建てる気か。そういや、こないだ昇進したからな。でもあれもなかなか悲しいもんだぞ。下の子供らはすぐ出てっちまうしなぁ」

「うちは子供いないんでそのことは問題ないんですが。なにせうちの親父にちょっと問題ありまして」

 あえて詳しくは語らない。その「あえて」の部分をスルーしてくれる上村とは役職が違うものの長い間、親しい間柄だった。

「聞きたいことがあったら相談してくれよ。そっち方面に詳しい知人もいるから紹介できるし。おっ、もう始業だな」

 一言で軽く礼を述べて、会社の無駄遣いとしか思えないほど新しく薄いパソコンを素早く起動して仕事にかかる。体が妙にけだるく、やる気が出なかったが、仕方なく午前中に片付かなかった作業に取り掛かった。

 この数十分後には住宅どころではなくなるのだが。


 父親が倒れて病院に搬送されたと会社にかかってきた電話で聞いて、正弘は入社してから三度目の早退を願い出た。

 というよりはむしろ事情を知った上村に急かして帰されたといっていいような状態だった。

「お先に失礼します」

 そういうと飛び出すように会社を抜け出して、横断歩道をわたる子供のようにキョロキョロと辺りを見回し、運よく空いているタクシーを捕まえた。

 病院の場所を早口で運転手に告げた後は、深くこうべを垂れて考える。バカ親父のことを。


 並外れたお祭り男。それが正弘の父親、菊二郎を表すのにはぴったりの言葉だった。

 花火師を生業として、祭りのたびに身銭を削ってでも派手な打ち上げ花火を完成させていた。数年前に還暦を迎えた時でさえ、花火を作っていた。


 ところどころ塗装が剥げかけて少し古びた病院の前で、タクシーが停まる。お釣りをもらう時間すらもったいなく思い、五千円札を荒っぽく渡して菊二郎のもとへ向かった。

 菊二郎は今、ICU(集中治療室)にいるらしい。それだけ危険な状態なのかと考えると気が気ではない。四階にあるその部屋まで可能な限り早足で向かう。


 菊二郎は長い間、正弘に跡を継ぐように、花火師になるように説得をしてきていた。

 正弘が小学生だった頃から菊二郎は自分の仕事を正弘に手伝わせ始めて、その当時は正弘も自分は菊二郎の跡を継ぐのだと考えていた。

 しかし、中学校に入り、現実的に将来を考え始める時期になると花火師という職の穴に気づいてしまう。

 安定しない収入、労働時期の短さ、火薬の危険。

 当時から安定志向の強かった正弘は反抗期も相まって、不安定な父のような生活を嫌った。

 菊二郎はそれに対抗するかのように己の生き方を貫いていった。


 ICUの前の長椅子には既に数名が悲痛な面持ちで座っていた。皆、正弘の見知った顔だ。正弘の妻、母親、妹、そして叔父夫婦。

 まだ整っていない息を落ち着けつつ近づいていく正弘に、いち早く気づき声をかけたのは正弘の叔父にあたる章三郎だった。とはいえ、動揺が隠しきれていないのは明らかで、どうにか声を絞り出したような様子ではあったが。

「正弘、久しぶりだな。会社の方は抜けても大丈夫だったか? この間昇進したばかりだろうに」

 いつの間に昇進した話を聞いたのだと不思議に思ったが、大方母親が話したのだろうとあたりを付ける。

「そこは問題ないですよ。むしろ上司に背中を押されたくらいですから」

 それからしばし、沈黙がその場を深い霧のように包んだ。息苦しさが立ち込める。

「本当に、兄さんは馬鹿だよな」

 叔父がぽつりと、本当に何の気もなしに放った言葉に正弘は深く深く同意した。


 数年前に、ある出来事が起きた。矢田川花火大会がこの世から姿を消したのである。環境問題や資金調達が困難になったためであった。

 名古屋生まれ名古屋育ちの菊二郎は近隣のすべての花火大会において、なにかしらの関わりを持っていたが、特に昔から力を入れているのは矢田川花火大会であった。菊二郎の収入もかなりの割合を矢田川花火によって成り立っていた。

「俺ぁ、あの矢田川での花火に感動して花火師になるって決めたんよ。だから俺が正弘におんなじようにキレーな花火を見せてやりてぇのさ」

 酒が入った菊二郎はいつもこのように浮ついた様子でいっていた。もはや正弘にとっても、恐らくは親しい人にとっても耳にタコができるほど聞いた話であろう。

 だが、菊二郎の強い想いは叶うことなく、矢田川の花火はもうこの世にはない。

 持ち前の負けん気で仲間を募って花火消滅を食い止めようと試みたが、その抗議活動は非計画的で協力者は少なく、結果は知っての通り。

 しかも抵抗が失敗に終わっただけでなく、痛い反動も菊二郎は受けた。年齢的な問題もあるだろうが、階段を転がり落ちるように急速に仕事が減ってきたのだ。本格的に花火大会が大きな業者便りに移行しだしたという事情も重なり、名古屋最大のみなと祭花火大会からは完全に断絶されていた。

 それでも躍起になり鉄のような意志で無理を重ねて花火作りに没頭し、不整脈を起こし倒れて現在に至る。

 倒れた時もこの夏のための花火を作っていたそうだ。作り上げたとしても、打ち上げるあてはあまりないのに。

 花火の打ち上げ場を所有して、打ち上げ師として現役の叔父が偶然仕事場をのぞかなければ確実に菊二郎はあの世行きだったらしい。


 菊二郎と面会ができるようになったのは、一晩中不安が圧し掛かった最悪な夜が明けた翌日の事だった。

 日の差し込まないどんよりとした暗雲を窓の外にとらえながら、正弘たちは破裂しそうな風船に触れるように、努めて丁寧に菊二郎に声をかける。

「親父、もうこれ以上無理するのはやめてくれ。こんなに頑張らないでもいいだろ」

「そうよ、お父さん。死んでしまったら元も子もないでしょ」

 菊二郎は岩のように硬い表情のままむっつりと黙ってそっぽを向いた。

「俺ぁ、自分がやりたいようにやるだけだ」

 ぽつりと一言、不愛想に発してから一切口を開こうとしない。普段の様子と違いすぎるこの頑固親父のような態度からも強い決意が感じられる。

「兄さん、花火を作ったとしても発注依頼が来ていないんだから仕方ないだろ。それに、今はどこも大手組合に頼んでるから……」

「うるせぇ、自分の金で作って自分の金で打ち上げれば問題ない。俺が一人で馬鹿みてぇに打ち上げとったらあんなバカに任しておけねって、誰か来てくれる。俺ぁ、俺ぁ花火と離れたくないんよ。……それが、…それがそんなにいけないことなんかなぁ」

 珍しく涙声の菊二郎は目を真っ赤にしていた。それを見た親族一同は何もいえずに引き下がった。

 その後は入院の予定等を話して、薄情に思われるかもしれないほどすぐに帰った。肩に重石がのっているようにずっしりとした嫌な空気から逃げたかったのかもしれない。

 叔父の車に全員乗せて帰ってくれるといったので、それに甘えようとしたところで、正弘は茶革の使い込んだ自分の財布がいつも入れているはずの定位置にない事に気づいた。たぶん、尻ポケットに入れていたから病室で座った時に落としたのだろう。

「ごめん、叔父さん。財布忘れてきたから取りに戻る。帰りは会社によるから俺はタクシーで行くよ」

「そうか、じゃあ、またな」

 そっけない、というよりは長らく親しくしていなかったためによる簡素な言葉を背にして正弘は病室へ戻っていった。

「親父、ごめん。財布忘れてた」

 菊二郎はむっつりと黙って正弘の財布を渡した。正弘が忘れていたことに気が付いていたらしい。だったら教えてくれればいいのにと心の中で文句を垂れる。

 相変わらず不機嫌ではあったが先ほどよりは頑なさが少し抜けているように見えるのは気のせいであろうか。

「ありがとう」

 少しくたびれているが、その部分も気に入っている長財布を受け取る。

 思えば、この財布も数年前に菊二郎が正弘の昇進祝いにプレゼントしたものだった。にっこりとはじけるような笑顔で渡された。頭をくしゃくしゃにされた。本当は自分の跡を継いでほしいのに。それを抑えているのに気づいてしまって、その時の正弘は何とも形容しがたい複雑な心境だった。

 そのことを思い出したからか、正弘はそれと意識したわけではなく、なんとなしに菊二郎に言葉を投げかけていた。

「少し、話してもいいか?」

「ああ、好きにしろ」

 いざ話そうと思うと、竹のように頭の中が空っぽになってかなり焦る。矢田川の件から頑なになった父親と長らくまともな対話をしていないせいだ。

 ようやっと絞り出すように発した声は寒い季節の蚊のように弱弱しく、菊二郎に伝わったのか不安になるほどの声量だった。

「もし、さ。俺が親父の跡を継ぐっていったらこんな無茶はやめるのか?」

 菊二郎は一寸の迷いもなく、炎のともったような目をして即答した。

「やめねぇ。俺ぁ、息子に我慢させるようなことはしたくねぇんだ。俺の作った花火で、お前が感動して花火師をやりたいっていうようになるのが俺のずっと持っていた夢だった。だけど、今は違う」

「じゃあ、今の夢はなんだよ?」

 へへ、と今年で六十五歳にもなるのにまるで少年のように笑う菊二郎を見て、懐かしく思う。長らくこんな楽しそうな表情の菊二郎は見ていない。

「今の夢は、矢田川の花火を復活させて、どえらく綺麗な花火ぶっ放してよ」

 やっぱり家族よりも花火のことで目を輝かせるのだと一抹の寂しさを覚えた。

「それで、そのばかみてぇに綺麗な花火を見たお前を、花火師になればよかったって後悔させること」

 不意に、胸を打たれた。心はカウンターパンチを食らったボクサーのようによろめいている。

 正弘は何も言えなかった。

「俺ぁ、結構きつく言ってたけどよ、お前の生き方を否定する気なんて欠片もないんだぜ。短くてもいいから派手に散る打ち上げみたいな激しい俺の生活。安定した線香花火みたいな、小さくても安定したお前の生活。どっちもありだろう。今までごちゃごちゃ言って悪かったな。好きに生きろよ」

 なんで、なんで。

「なんで今そんなこと言うんだよ。もう死ぬみたいなこと言うなよ。あんたは俺の尊敬する親父なんだよ。自分ができないから、余計に親父の生き様がかっこよく見えたんだよ」

 目頭がじんわりと熱くなった正弘は、自分の涙を見せないように病院で怒られないギリギリの速度での駆け足で逃げ去るようにして病室を去った。

 

 俺も、かっこ良い人生を送ってやる。好きに生きてみせるよ、親父。


 父親が危篤だからといって長期有給を取得した正弘はその翌日から、菊二郎の仕事仲間や町内会をあたって回った。矢田川花火を復活させるという目標のもとで。

 話す人は誰しもが、「父親と同じ事をしている」と少し呆れた様子であるのが見て取れたが、正弘の考えは父親のそれとは少し異なっていた。


 菊二郎にできないことをしよう。それが正弘の考えであった。

 例えば、仲間への直接的な交渉は付き合いが長く気心知れた菊二郎が適任ではあるが、具体的な計画、一般市民への呼び掛けなどは菊二郎にとって不得手であるのは明らかだ。

 正弘は早速、花火大会の関係者のもとへ向かい情報収集を実行し、几帳面にデータを整えることで、いくらかの問題点が明確にわかってきた。

 要は後援が少なく、資金が足りないのが一番重要な点であり、それを後押しするように近隣の人々からゴミや騒音といった苦情や環境的な問題も挙げられていた。

 リサーチが一通り終わり、数日ぶりに出社した日に、正弘が真っ先に向かったのは上村のもとだった。

 新人時代から困ったときは仏のように救ってくれた上村を、正弘は心底頼りにしていた。内心では菩薩のように崇めたいと思っているほどだ。

「それなら、組合でも作ってみたらどうだ。ポスターとか貼れば多少は人が集まるんじゃないかと思うんだが」

「そんな簡単に作ったりできるものですか? ちょっと詳しく知りたいんですが」

 上村は少し困ったように眉毛を八の字にしたような顔をした。どうやらさほど精通しているというわけではなさそうだ。

 しかし、友人に詳しいものがいたので、正弘はそいつを飲みに連れ出して飲み代と引き換えに情報を得た。


 アドバイス通り制作したポスターのおかげもあってか、仲間も増えて徐々に追い風を感じられるようになり始めた。

 しかし、再興した矢田川花火大会を菊二郎に見せるという夢は七日を過ぎた蝉のように、儚く散ってしまった。


 菊二郎の病状が、それはもう、医者の想像のはるか上を行く急ペースで悪化してしまったのだ。

 珍しく定時に仕事をあげて見舞った病院で不意に告げられた。今日行った検査で明らかになったらしい。

 明日の夜には緊急手術を行わなければ危ない、と医師はいいづらそうな口調でいった。また、成功する確率があまり高くないともいう。正直いって、分のいい勝負ではない。

 手術への同意書、詳しい術式などの説明は母に任せて正弘は学生時代以来の全力疾走でタクシー停留場へ行き、菊二郎の花火師仲間のもとへ乗り込む。タクシーを降りてからも走って行った。

 いい大人が息を切らしてきたので面を食らっているような表情をしていたが、事情を説明したら得心がいったようだった。

 説明の時間で心拍も精神も落ち着いた正弘は頭を深く下げて請った。

「お願いです。父のために花火を打ち上げたいんです。協力してください」

 返事はNoだった。

 『いやだ』と断られたわけではないが、急過ぎて対処できないといわれる。

「基本的にできた花火は大手業者が管理してるからここにはほとんどないんだよ。あれば譲ってもよかったんだが……」

 確かにそうだ。大量の花火を保管業者以外が管理しているはずもない。この辺に火薬の塊が大量にあったら怖いだろう。冷静になれなかった熱い鉄板のような自分を恨む。

 父になにもしてやれない無力感と、悲しさとで、たらりと涙が出てきた。

「正弘、そんなに泣くなよ。菊なら無事に帰ってくるから。そうだ、二つしかないけど出来たての花火。『菊』っていうんだ。あいつにぴったりだろう。章三郎にいえば上げてくれるから」

 流れのままに、無難に二つだけの花火を打ち上げる。そして自分自身を納得させる。おれはちゃんとやったのだと。それが正弘の生き方。

 もし、菊二郎だったらどうするだろうか。ぐるぐると同じようなことを思索しているうちに一つ、考えをもらった。

 そのためには、何人かに謝らなきゃいけない。

 正弘は携帯の短縮ダイヤルで妻へ電話をかけた。

「もしもし、ああ。正弘。ごめん。先に謝っておく。………………」


 打ち上げ師の章三郎に頼んで、打ち上げてもらう。同僚という屈強そうなおじさん方も集まっている。

 空一面を覆う菊の花火。暗くなり始めた空を明るく染めるそれは短い時間ではあるけれど花火大会をほうふつとさせるものがあった。

 「菊二郎」へ手向けた花火。

 パーンと派手に散って、パラパラと消えていく。

 菊二郎は花火のようにあっさりと消えないように、祈りながら見納めた。


「それにしても、家買うために貯めてたお金をほとんど花火上げるために使うなんて、どっかのバカ親父みたいだぞ」

「いいんですよ。そんなどっかのバカみたいになりたかったんだから」


 来年にはこんなものじゃない。

 花火大会を復活させてやる。

 だから、早く元気になれよバカ親父。燃え尽きるんじゃないぞ。


 脳裏に焼き付いている、父が魂を込めるようにして作った色とりどりの花火。

 暗闇を掻き消し、空だけでなく川の水面にまで明かりをともす。

 その輝きは一瞬であるけれど、人の心にはずっとずっと残っている。

 正弘の心にも、父の花火がずっとずっと残っている。


  完

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線香花火か、あるいは打ち上げ花火か 七咲 @sasakuto

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