第14話
窓のない通路を歩いていた姫は、進行方向から聞こえる物音に足を止めた。
(また一人いる……)
非常灯と携帯端末のライトだけの心もとない明るさも、長時間身を置けばいくらか目が慣れていた。
通路の隅に疼くまった人影。
遭遇は避けるたほうが無難だろうと、もう何度も迂回している。その都度、防火シャッターに遮られては、また道を変えているのだ。
(仕方ない、通り過ぎよう。見たところ大して動けなさそうだし)
姫はライトを自身の足元の少し前だけを照らすようにして、ゆっくりと歩き始めた。
まどかの時は追いかけられた。
だが今回の異常行動者は、姫の存在など気にもせずに呻いて引っくり返った手足をゴキブリのように動かしているだけだ。
(人によって違う……まどかちゃんはいっとう特殊だった……? それとも時間が経ったから……あれだけ動けば肉体にも疲弊があるはず……)
無事、異常行動者の横を通り過ぎ、曲がり角を曲がってから立ち止まる。
「……ハァー」
項垂れ、姫は首輪型無線機のスイッチを押す。
バッテリー切れをしたそれは当然なんの音も立てない。
今度は携帯端末から110番にかけてみる。やはり繋がらない。
「そうだ、非常用災害伝言ダイヤル……」
117じゃなくて、171。
でもあれはすぐに誰かと繋がれるわけでなく、その名の通り伝言専用だ。今の姫の目的にはそぐわない。
「…………」
数時間前、まどかとともども間違えたクイズの問題だ。
結局、姫は携帯端末を鞄にしまってとぼとぼと歩きだした。
(後悔しない選択をする、後悔しない選択をする、後悔しない選択を……)
同じ言葉だけを脳内で繰り返した。
胸の内にくすぶるこの不快感が何なのか明確にしてしまえば、絶対に大変なことになる。
今、とてもつもなく、きつい。
そんな曖昧なところで精神を押し留めておく必要があった。
・
・
・
飲み物を買いに出て三十分近く。
なんとか智成のいる第一資料映像保管室まで戻ってきた。
否、なんとか、というほどでもないのかもしれない。
ひょっとすると、無意識に遠回りをしたかもしれない。
もっと早く無茶をして、遭遇した異常行動者を撒いて辿り着くこともできたろう。
もし部屋の中の智成が――……。
その考えが脳裏を過るほど、足は鉛でもつけられたかのように重くなるのだ。
けれど彼は高熱を出していた。
あまり遅くなって、取り返しのつかない事態になってはいけない。
……別の意味で既に取り返しのつかない事態になっている可能性もあるが。
「あ、そういえば、停電って……」
電子ロックの存在を思い出し、姫は暗闇の中で顔色を白くした。
あと少しの道のりを駆けてあっという間に扉前まで辿り着いた姫は、暗闇の中でロックされている状態である証拠の赤いランプを確認し、どっと
「独立型……!」
停電の際に閉じ込められる人が出ないよう、対策は取られた設計だった。
星の夜で得た教訓を日本の人々は忘れていないらしかった。かといって主電源を断たれた電子ロックのバッテリーがいつまで持つかは分からない。
姫はそのまま金属の扉に耳を押しつける。
中で何かが暴れているような音はしない。
立ち上がり、固唾を呑んでからカードキーを通す。
ピピッ。開錠音を聞き、姫はゆっくりと取っ手を握り扉を開いた。
「王子様……?」
いつでも逃げられるようにカードキーは片手に握ったまま、恐る恐る入室する。
部屋の奥、パソコンが置いてある場所まで足を進めると、壁に背を預けて座っている智成の姿が見えた。
部屋を出た時よりも一層ぐったりとした様子の彼を見つけ、姫は慌てて傍まで駆け寄る。
呼吸を確かめる。
息が熱い。
でも、息はしている。
高熱とは違う安堵の息をホウッと吐いた姫は、智成の肩を小さく揺さぶった。
「ん……姫ちゃん……?」
「はい、姫です」
「……戻って」
戻ってきたのか。
掠れきった声は全部は音にならなかった。
姫は笑い、「気分はどうですか?」と尋ねる。
「最悪、かな」
汗で濡れた顔で、智成は苦く笑った。
ぼやけた視界をちらつく金色の輝きを、智成の瞳がぼんやりと追う。
「どれくらい経った……?」
「少しですよ。ちゃちゃっと行って帰ってきましたから! 停電しちゃったから、暖房も切れたみたいですね。寒いですか?」
「いや…………熱い」
「じゃあ良かった。冷たいの買ってきたんで! 飲めますか? あ、なんなら口移しで」
「自分で飲めるよ」
「ガーンッ」
むくりと起き上った智成に、姫は顔を歪めて大袈裟に嘆いてみせた。
ペットボトル一本さえ重たく感じ、智成はなんとかスポーツドリンクを口に含む。さっぱりとした味が、ぼやけた意識を僅かに覚醒させた。
唸りながら項垂れる姫の気配に、智成はペットボトルの口を見つめて言う。
「何があるか分からないからね」
「……、そんなぁ~! 姫だったら王子様となら何かあったって」
「姫ちゃん」
「そうだ! タオルも持ってきましたよ、とりあえず身体が冷えないように汗を拭いて」
「姫ちゃん」
馬鹿みたいに明るい声を出す少女の手を引く。
水分を口にしたお蔭か幾分か良くなった視界で、智成は諌めるように姫を見つめ、そして彼女の唇が切れているのに気づいた。
滲んだ赤が幼い印象の彼女をどこか艶やかにしている。
「……怪我を?」
「暗かったから、転んじゃって!!」
「転んだって……」
見れば、智成が握った姫の手首はまだ赤い痣がある。服の袖は酷くよれていて、何かそこに強い衝撃があったことは明白だった。
姫の笑顔は形だけであれば完璧に取り繕われている。
形の良い眉は優しい弧を描き、青い瞳は三日月のように細められ、小さいがぽってりとした唇はえくぼを携えて上向きになっている。
それでも、消せないもの悲しさがある。
一つの表情しか持つことのできないアンティークのビスクドールが、時が経てば経つほどその雰囲気を仄暗いものにする不思議さのように。
「噛まれたか?」
「いいえ」
嘘だらけだが、それは本当なのだと智成には感じられた。
「姫ちゃん」
「はい」
「君は隣の部屋に」
「…………」
両膝をついていた姫は、動かずに顔だけ俯かせる。
乱れたツインテールが僅かに左右に揺れた。小さな反抗だった。
第一資料映像保管庫は沈黙に包まれ、智成の熱く短い呼吸の音がやけに広がる。
「……っ」
やがてそこに、引き攣ったような呼吸が混じった。
泣くのを堪える幼児のように震えた姫が、自身の足に爪をたてている。
「何があるか分からないから」
「……っ、……っ」
「姫ちゃん」
今度こそ大きく頭を振り、姫は拒絶の意思を示した。
潰れた呻き声が小さな唇から漏れるのを聞き、智成すら泣きたくなる。
「隣の部屋に行ってくれ」
「どうなるかなんて、まだっ、分からな……」
「行くんだ」
「……さ、がっ」
「……」
「たいさが、間違った選択はするなって」
「隣へ行くのが正解だ」
「後悔しないほうを選べって!!」
引き攣れた悲鳴をあげながらも、姫は顔をあげない。
くううと喉が高く鳴った。
「――……後悔しないほうを選べ、か」
焼けるように熱い大きな手が、腿を掻く手を優しく剥がす。
「それならやっぱり君は隣の部屋へ」
「……っ」
「例えどうなろうと、それが僕の後悔しない選択だ」
「ううう~っ」
迷いのない透き通った声だった。
堪えきれずに溢れた涙が二人の手の上へと零れ落ちていく。
「嫌だぁ、嫌だ、いやだ……いやだ……!」
「姫ちゃん。僕に後悔させないでくれ」
「やだ、やだ、やだぁ、やだぁ」
整った顔はくしゃくしゃに歪んで、涙と鼻水で顔が汚れていく。
拒絶を意味する言葉でもそこに怒りはなく、悲しみばかりが声を濡らす。
そこには彼女の諦めがあり、智成はそれに安堵した。
「嫌です、嫌です、おうじさま……!」
腿を掴んでいた白い指は、今は縋るように智成の手を掴む。
本心の見えない人形のような彼女の青い瞳が、今は悲しみできらめいて智成を見つめている。
悲しい、悲しい、と彼女の瞳が、眉が、頬が、唇が語っていた。
その心は智成へと伝わり、智成の瞳にも涙が滲む。
こんな状況だというのに自身より目の前の少女のほうが哀れに思え、そのちっぽけな存在に対する愛おしさは何よりも大きなものになっていくようだった。
縋る指に自身の指を絡め、智成は震える声で言った。
「僕は君の王子じゃないから、君は行っていいんだ」
「……っ……っ、ともなりさん」
大きく頭を振り、少女は男の名前を呼ぶ。
男の黒い瞳が、驚きに開いた。
「智成さん」
自分の名が、自分の唇へと吸い込まれる。
やけに冷たく感じる柔らかなそれを口元に感じ、智成は自然と目を閉じた。
無理に押しつけられたそれを迎え入れるように熱い唇が啄む。
引き攣った泣き声はキスを繰り返す間に、やがて静かに消えていった。
顔の角度を変えるたび、頬をつたう涙が赤を溶かして舌に触れる。
鉄臭く塩辛いキスがおかしくて、智成は喉の奥で笑った。
その声に反応し、閉じられていた瞼の下から濡れて光る青い瞳が覗く。
彼女の瞳は再び硝子のような透明度を取り戻し、じっと智成を見つめていた。
「駄目だってば。何があるか分からないのに」
「……」
「あと、君、結構ちゃっかりしてるね」
「……」
笑う智成に、姫も唇だけで笑ってみせる。
「何があっても、後悔するなよ」
「しません」
名残惜しむようにいつまでも自分を見つめる瞳から、智成は目を逸らした。
「行きなさい」
「…………」
白い指が智成の節くれだった指から逃げてゆく。
離れかけたそれを咄嗟に握り直し、智成は青い瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「隣へ行ったら、しっかりカードでロックするんだよ。電力が戻ったら、真っ直ぐに外まで逃げるんだ。この部屋の鍵を開けちゃいけない。何があっても。分かったね。君ひとりで行くんだ」
熱で震えそうになる声に芯を通し、一文字も彼女が聞き逃さないようにする。
青い瞳が悲しみを表に出したのは一瞬で、精悍さで上塗りされた表情で姫は大きく一度だけ頷いた。
智成の手から力が抜ける。今度こそ姫は手を放し、立ち上がった。
足音が遠のくのを聞きながら、智成は静かに目を閉じる。
ピピ。
棚の向こうから聞こえる小さな開錠音は、まるで世界崩壊の音だ。
孤独という恐怖に全身を包まれ、智成の喉が引き攣る。
熱があって良かった。あと少しでも体力があったら、彼女を引き留めるために叫んでしまったかもしれない。
纏わりつくそれを耐えようと眉間に皺を寄せた時、身体に衝撃が襲った。
「――……」
細いわりに力のある腕が智成をめいいっぱい抱きしめている。
「ありがとう」
苦しいほどの締めつけは一瞬にして去ってしまった。
全てを振り払うように駆け去っていく足音。しかし、残った温もりが恐怖をじわじわと溶かしていった。
扉の閉まる音がする。
不思議なことに、最後の言葉のお蔭か最早後悔がなかった。
孤独なことには変わりないが、選択を少しも悔いていない。
これで良かった。正しいことをした。
智成は壁に預けていた頭を床までずり落とした。
――身体が発火したように熱い。
思考がマグマに溶けるようだ。身体を巡る血液が脈打っているように感じる。
悪寒と火照りを同時に覚え、体内を虫が這いまわるような違和感と、植物が花を咲き誇らせるために急激に成長しているような恍惚があった。
変化だ。自分も世界も変わっていっている気がした。
肉体の痛みが彼女の残した安らぎに溶けていく。心は穏やかだ。
このまま、このまま眠ろう。
心は、穏やかなまま。
愛に満ちたまま。
身体の痛みから逃げるように、智成はゆっくりと眠りについた。
◆◆◆
「…………」
ずるり。
第二資料映像保管庫の扉に背を預け、床に座り込んだ。
カードキーでロックされたこの厚い扉でも、叫び声くらいは通すだろう。
眉間から顎にかけて両手で顔を覆う。
それでも大きな目は隠さず、真っ暗な部屋の明かりの消えた電灯を見あげた。
明かりが点いたら、ひとりで外へ逃げる。
明かりが点いたら、ひとりで外へ逃げる。
明かりが点いたら、ひとりで外へ逃げる。
明かりが点いたら、ひとりで外へ逃げる。
◆◆◆
2049年1月1日 02:23 港区付近
停電により信号が機能しなくなった夜の東京にはクラクション音が鳴り響いていた。道路にひしめき合った車体は亀よりも遅くのろのろ進む。
普段は四角い窓から細かに光を零して景色を彩るビル群は、悪魔のような影となって星明りを隠している。
「外は出歩かないでください! 速やかに屋内に避難し、電力の復旧をお待ちください! 外は出歩かないでください! 速やかに屋内に避難し、電力のお復旧をお待ちください! まとまらないで! 道を開けてください! 自家発電のある建物で電力の復旧を待ってください!!」
車の群れに囲まれて身動きができなくなったパトカーから、苛立ちの隠しきれていない声が拡声器から広がっている。
こんな深夜であろうと一年で最も外出率が高い一日である元旦。
それに加え、東京都内の謎のウイルスのパンデミックと関東大停電。
不安を煽られた人々は、明かりを求めて建物から出てくると、車が動けないのを良いことにライトで光る道にこぞって集まっていった。
中にはお祭り気分の若者いるようで、ときおり事態に関わらず不謹慎な明るい笑い声があがっている。
――バイクは車と車の間を縫うことができるが、さすがにその隙間に人間がひしめき合ってしまえばどうしようもない。
「だーめだこりゃ。どっかでバイク下りるしかないよ、ボン助」
「チッ。明かりに群がりやがって、虫かよ」
「自家発電設備があるようなビルは、一般人をそうホイホイ建物に入れたりはしないみたいだしねぇ。エントランスくらいは解放してるみたいだけど」
フルフェイスのマスクを脱ぎ、那岐はところどころ明かりを灯すビルを見る。
どこまでも続く人込み。
遠くから悲鳴があがる。
「またいるみたいだ」
「いちいち押さえこんでたらキリがねぇ。放っとけ」
そう言う鳳助のバイクグローブには血液が付着していた。
少し先からバイクのエンジンを吹かす音が聞こえる。
通行人への威嚇行為に留まっているなら良いが、そのうち人を轢きかねない。
そんな大佐とは相反しすっかり諦めたらしい那岐は携帯端末を取り出した。
「……大手企業のSNSはどこもサーバー落ちしてるなぁ。ネットニュースはかろうじて生きてる……あ、やっぱり交通規制かかってるよ。駄目だ駄目だ、バイクは無理。足で行くしかないよ」
「チッ、しゃーねぇ。……大佐! そこいらの駐車場にバイク置いてくぞ!」
『このままここに置いてったほうが早い』
「阿呆抜かせ! 一台いくらすると思ってんだ!!」
「あーそうか、非常用災害伝言ダイヤルって手もあるのか。大佐、姫が伝言残してるかもよ」
『とっくに確かめた。伝言はない。どうせ時報にかけたんじゃないか』
「あはは、あり得る」
わざとらしい明るい笑い声を出しながらも、那岐は冷めた瞳で携帯端末から現在の東京の状況を探っていた。
伝言がない理由として、もっと別の可能性もある。だが三人の誰もがそれを口にはしなかった。
《アポカリプスって個人サーバーが無料開放された。この状況でまだ生きてる》
《ユーザー急増中。呟き機能で、リアルタイムで周辺の状況が分かる》
《動画も投稿可能。やばい映像がめちゃあがってる。大丈夫なのかコレ》
「――……物騒な名前だなぁ」
呟きながら、那岐はすぐさまアポカリプスにユーザー登録をした。
するとすぐにリアルタイムの呟きが見られるようになる。
《停電の原因はまだ不明らしい》
《今回の騒ぎはアメリカの仕業!》
《母と連絡がつかない。どうしよう》
《殺人ウイルスがばらまかれた》
《この緊急事態にデマ書き込む奴なんなの?》
《どれ信じればいいか分からんな》
《異常行動者、動かなくなった》
《ケータイの電源もうなくなっちゃう》
《なんか終わったっぽい?》
《奇行を繰り返してた男が急に死んだ》
《やつら動かなくなったんだけど》
「ボン助」
携帯端末を投げ渡され、鳳助は画面に目を通す。
そしてライダージャケットの袖を捲り、腕時計を睨んだ。
「…………およそ三時間ってとこか」
過去の事例とは比較にならないほどの長時間に、鳳助は目つきを一際険しいものへと変えたのだった。
◆◆◆
2049年1月1日 03:00 若草テレビ 第二資料保管庫
パチン。
突然、視界が光りではじけ飛んだ。
あまりの眩しさに、瞬きの回数が極端に少なくなっていた眼球が酷く痛む。
真っ白な光を放つ蛍光灯を暫し凝視し、姫はゆっくり立ち上がった。
「明かりが点いたら、ひとりで外へ逃げる」
躊躇もなく、焦りもなく、確かな足取りで、彼女はたった一人で部屋から出ていった。
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