第13話

 2049年1月1日 01:13 東京湾アクアライン


 アクアラインに入った大佐たちは反対車線にずらりと並んだ車を横目に、若草テレビを目指していた。

 進まない前方車両に焦れてかクラクション音が連発している。

『すごい渋滞だ』

『とりあえず東京から逃げようってんだろ』

 那岐と鳳助の無線越しの会話を聞き流し、前方に見えた車の横を走りぬけた。

 危険な走行をする大佐に追いつくために二人もスピードをあげる。

『テレビ局に着く前に捕まりそうだよ』

『警察も今はそんなことしてる暇はねぇだろうさ』

 ブオオン、ブオオン。

 三台のエンジンの嘶きは海底トンネルに入ると反響し、その音を更に荒げたのだった。


◆◆◆


 同時刻 若草テレビ


 カードキーによってロックされた第一資料映像保管庫に籠り、一時間以上が経過していた。警官や機動隊がやってくる気配は未だ無い。

 智成の顔色が悪い。

 貧血を起こしたように蒼白で、冷や汗をかいている。

 椅子に座るのも辛いらしく、床に腰を下ろして壁に背を預けて目を閉じ、じっと不快な気分の悪さを耐えているようだった。

 時折、気にしたように手の傷を撫でる。

 姫は何も言わず、じぃっと智成の隣に座り、どうすべきか考えていた。

 映画やドラマでよく見る展開に、背筋が凍りそうになる。


 ――大丈夫、まだなんの確信も確証もないもの。


「姫ちゃん」

 不安に塗りつぶされそうになった心を見抜いたかのように、智成が不意に彼女の名前を呼んだ。

「はい」

「隣の部屋に行きなさい」

 開いたばかりの口を閉ざし、姫は食い入るように智成を見る。

 重たそうに瞼を開けて、智成は姫を見つめかえした。

「具合、悪いんですか」

 一目瞭然であることを姫は馬鹿みたいに尋ねてしまった。

 長い睫毛の先から汗を垂らし、智成が苦く笑う。

「うん、だから……君は隣の」

「飲み物を」

 言葉を遮り、喉に力を込めて大きな声を出した。

「飲み物を、取ってきます。スポーツドリンク系がいいですかね」

 なんの感情も取り繕われていない。

 整った顔にあるのは、人形に似た底知れない何かだ。

 無に思えて、底のない、何か。

 姫の考えを見抜けず、智成は暫し口を閉ざした。

「……外は危険だよ」

 智成は言った。喉が渇いてか、声が掠れている。

「それより、君は隣の部屋へ」

「いってきますね」

「……姫ちゃん」

「自販機は動いてるだろうし、すぐ戻ります」

 もの言いたげな智成から視線を逸らして姫は立ち上がった。

 首から下げたカードキーを手に持ち、赤い顔の智成を見下ろす。

「すぐに戻りますから」

 にっこりと姫は笑う。

「…………」


 それが嘘であるならそれでいい。そのほうがいい。


 智成は扉へと向かう姫の背中を見送る。

 お前を見捨てると言えないまま、善人を取り繕って逃げ出すならそれで良い。

 危惧すべきは彼女が正直に戻ってくることのほうだった。

 彼女は本心が読みづらい。

 どのみち動くこともままならない智成は、棚の向こうで聞こえる開錠音をただ聞いていることしかできなかった。



 自販機で飲み物を買うも何も、小銭を持っていない。

 扉を出るなり鳴るロック音を背後に姫ははたと気づいた。

 給湯室でコーヒーの一つでも淹れれば良いかもしれないが、貧血にコーヒーが良いとも思えない。ここはやはりスポーツドリンクだ。

 他にも何が必要になるかも分からないので、姫は楽屋に戻り自分のかばんを持ってくることにした。

 テレビ局内の静けさは増していた。時折り聞こえていた悲鳴や呻き声もない。

 曲がり角や物陰への警戒は解かぬまま、姫は楽屋まで戻った。

 ――どうせなら最初から持ち出すべきだった。財布なんて誰に取られるかも分からないし。

 ショルダーバッグから不必要と思われるものを抜き、なるべく軽くする。

 テキパキと作業を終え、姫は楽屋を出た。

(自販機……)

 番組の放送前では立ち寄らなかった自販機に向かう。

「……!」

 下ろされた防火シャッターを見て、姫は無言で踵を返す。

 いつもは何かとぺちゃくちゃ喋っている彼女が、表情を消して黙々と行動している姿は、普段の彼女を知っている人間からしたら奇妙な光景だろう。

 だが今、そんな彼女を知る者はもちろんいない。

 仕方なく他の自販機に向かい、六時間ほど前に智成と肩を並べていたベンチのある場所に辿り着く。

 微弱なモーター音を響かせるそれの前に立ち、モニターに表示された飲み物の前で人差し指を彷徨わせる。スタンダードなスポーツドリンクをタップした。

 電子マネーは金銭感覚を狂わせるという両親の教育方針によりマネーカードを持ち合わせていない姫は、律儀に小銭を一枚ずつ投入口に押し込んでゆく。

 ゴトンとペットボトルが落ちる。


 ゴウン。


 突然、視界が真っ暗になった。

 屈もうとした姫は身体を強張らせて周囲を見渡す。

 停電らしい。

 建物内だけではない、窓の外も闇が深まり、地上のパトライトの赤が向かいのビルに反射しているのがかろうじて見える程度だ。

 非常用電源が作動し目の前の自販機が再びモーター音をあげ、廊下のところどころ足元に配置された非常口への電灯盤も緑色の光を帯びた。

 自販機の煌々とした明かりを頼りにスポーツドリンクを取り出し、かばんへとしまう。そして携帯端末を取り出し、ライト機能を使って来た道を照らす。

「……!」

 廊下の奥に人影がある。

 青い目を凝らし、姫は浮かんだ影を睨んだ。


 ウェーブのかかった長髪を垂らし、亡霊のようにぽつねんと佇む女。


 その女が着る服が見覚えのあるものだと気づき、姫は静かに息を止めた。

 直立。そんな簡単なことが難しいのか、ゆらゆらと身体が揺れている。

 女がガクンとしゃがんだ。

 骨盤を開き、カエルのように足が曲がる。両腕はだらんと下に下がり、地面につくと指先がガリガリと廊下のマットを掻いた。

 真っ直ぐ前を剥いていた指先が位置を調整するかのように開いてゆく。

 俯いていた首が持ち上がる。前髪の隙間から、瞳孔の開いた垂れ目が覗いた。


「まどかちゃん」


 姫は光を彼女に向けたまま、様子の変わったメンバーの名を呼ぶ。

 カフー、カフー、と軟口蓋なんこうがいを閉じては開く湿った呼吸音が繰り返されるその口から涎が落ちる。潔癖症の彼女には考えられない光景だった。

「まどかちゃん」

「カフー」

「パンツ見えてるよ」

「ウウゥ」

「…………」

 姫は鼻からひとつ息を吸い込み、まどかのいる方へと歩き出した。

 智成のいる部屋にはこの廊下を戻るしか道がない。

 まどかの向こうにある曲がり角に視線を向け、通常と同じ歩調を保つ。

 前髪の隙間からぎょろりと覗いた瞳がじっと姫の動きを追っている。


 ――コレは


 真横を通り過ぎる姫を、首を捻ってまどかは目で追いかける。


 ――動きが制御されている。今までのとは少し違う。


 スタジオ内で見た異常行動者たちも、人によってそれぞれ異常行動の差があった。ただ全身の筋肉を強張らせている者もいれば、四肢をあちこちにぶつけながらとはいえ階段を上った者もいる。他人を攻撃した者もいれば、痙攣だけ繰り返して動かなくなった者もいた。

 無事に横を通り過ぎることができたが、まだ油断はできない。

 曲がり角へ辿り着いたら走って逃げる。

 心に決め、一歩一歩慎重に進もうとしたその時。


 ――彼女の指先がマットを僅かに抉る音で、姫は駆けだした。


 獣のように四肢で地を蹴りまどかが姫を追う。

「まどかちゃん! 正気に戻って!」

 振り返りざま叫ぶが、まどかは本能のまま獲物を追う獣のような瞳で姫を見ており、そこには理性が見当たらない。

 ある程度距離をあけてから姫は立ち止まり、応戦しようかと構える。

 迫ってくる長年共にしたメンバーに躊躇ばかりが膨らんだ。

「やっぱり無理……!」

 再び逃げ出そうと踵を返した時、まどかの身体が廊下を転がった。

 手首が体重を支え切れず、捻りそのまま横転したらしかった。

 隙ができ、逃げるには絶好のチャンスだ。

 しかし振り払おうとした親愛が、尚も姫の足を地面に縫いつけてしまう。

 頭部を強く打ちつけたまどかがふらふらと起きあがる。

 へたりこんだ彼女は両手で身体を支えながら、上半身を起こした。

 そして。

「!?」

 奇妙な光景に姫は後ずさる。

 まるで子供向けアニメで観た、キャラクターが感電した時のように、まどかの頭が、手が、足が、順番に高速で痙攣したではないか。

 ぎくりとまどかの肩が上がる。

(……あ)

 

 ヤバイ。


 弾かれたようにまどかが再び姫へと向かってきた。

 スピードが違う。走り方が変わった。

 今度こそ姫は踵を返し、全速力で足を動かした。

(速い!)

 廊下の突き当りにある鏡が、姫を追うまどかを映し出した。

 獣のように四つん這いで地面を蹴り進んでいる。

 まるで、骨格そのものも変わってしまったのではないかと錯覚するほど、人間にはありえない筋肉の使い方をしていた。

 番組の制作室が並ぶフロアに入り、姫は【未知満ちた世界への道】の製作室へと逃げ込むなり扉を閉めた。

 まどかが扉にぶつかった音を背に、部屋の半ばにある机の下に身を潜める。携帯端末の明かりも念のため消した。

 多分、アレに扉は開けられない。ここを去るのを待てばいい。

「…………」

 姫はバッグ越しに冷えたスポーツドリンクを撫でた。

 体当たりが繰り返されているのか、扉がバンバンと鳴る音が続く。

 ここにいれば安全だが、智成が死んでしまうかもしれない。

 けれどまどかから逃げて第一資料映像保管庫まで辿りついたとして、もしその扉から今と同じ扉を鳴らす音が聞こえたら?

「う……」

 不安で声が洩れるなど、大人になってから初めてだ。

 閉じたくなる瞳を開き、足を抱いてなるべく小さくなりたくなる衝動を耐え、いつでも動ける体勢を保つ。浅くなりそうな呼吸を、無理やり深いものにした。

 緊張で強張る筋肉を弛緩させようとして、指先が震えているのに気づく。

「――……」

 悲鳴が咽喉からずるずる唇まで這い上がる。

 無意識に喉に手をやった姫は、首輪型の無線機の存在を思い出した。

 指先に力を込めて、の小さな通信スイッチを押す。


『――、ひめ、姫、聞こえるか』


「!」

 大佐の声だった。

「聞こえるよ」

『そっちも停電したか』

「あーうん、してるしてる。でも大丈夫だよ……何とかね」

 止む気配のない体当たりの音に、姫はぼそりと付け足す。

 遠くにいる弟の声が彼女に理性を齎してくれた。

『東京一帯大停電さ。こっちはレインボーブリッジで足止め喰らってるよ。バイクでも進みが悪くてね』

『だあああ邪魔なんだよ! 車から出んじゃねぇ!! コルァ!!』

『ボン助、イージーイージー』

『いざとなったら轢けばいい』

『うん、大佐は黙ってようか』

 非常事態の中でいつも通りの調子を保つ三人に、笑いが鼻から抜けてゆく。

 だが、気が抜けたのは一瞬だった。

 扉への体当たりの音に続き、取っ手が弾かれたような音をあげる。

「!」


 ――開いた?


 フロアマットの擦れる小さな音が耳に届き、姫は息を呑んだ。

 先ほどまでの暴走とは正反対に、まどかは音を忍ばせているようだ。

 姫は草葉の陰で身を潜めるガゼルと同じになった。

「…………」

『姫、どうした』

 沈黙の気配だけで姉の異変を感じ取ったのか、大佐の声がする。

 今は通信を切るボタン一つ押すのも騒音になる気がしてしまい、イヤフォンも外せないままもう片方の耳でまどかの気配を探る。

『何かあった』

『襲われているなら音がするはず』

『お前ら喋るな』

 鳳助が言った。

『……隠れてる』

『!』

『馬鹿が。部屋から出たな』

 こちらの状況にいち早く気づいてくれるのはありがたいが、一言余計である。

 姫は慎重に机の下から這いだし、身をかがめたまま移動を始めた。

 ズリ、ズリリ……。

 僅かなマットが擦れる音が、まどかの居所を教える。

 出口を目指したいが、それより先にまどかが姫のいる通路へ近づきそうだ。苦虫を噛みながら、姫は仕方なく部屋の奥の通路へと移動した。

 このまま対角線状まで移動して、隙をつき一気に外へ逃げだせば……。

 ほとんど明かりのない暗闇の中で目を凝らしていた姫は、突然目の前に現れた小さな人影にヒュッと息を呑んだ。

「…………うっ!?」

 宇宙人……。

 番組マスコットのグレイ星人くんの等身大模型……。

 小学生ほどの背の高さのそれは、闇に紛れると怖さ倍増である。

 銀色の肌に頭でっかちな顔、大きな二つの瞳。

(脅かさないでよ!)

 乱れそうになる鼓動を打つ心臓を落ち着けながら、姫は無機物の宇宙人もどきを睨む。

 プラスチックの大きな瞳はそんな彼女の顔と、その背後にもう一つの影を映した。

「ガアアアッ!」

 咄嗟に目の前のグレイ星人くんを手に取り、背後へと投げつける。

 机を飛び越えて姫は出口を目指した。

『手加減するな。危険が長引くようなら先にこっちが殺せ!』

「できるわけないでしょう!?」

 それは技術的な問題か、精神的な問題か。

 無茶な要求に否定の声を荒げた。

『甘さのせいで自分がやられたらどうするんだ!!』

「だって……!」

 相手はまどかだと口に出しそうになるのを呑みこんだ。

 常軌を逸した鳳助の命令に、那岐が批難の声をあげる。

『ボン助、無茶言うなよ! そんな簡単なことじゃない! これはゲームじゃなくて現実なんだぞ!』

『じゃあみすみす殺されればいいってのか! おい大佐、お前もなんとか言え!!』

 苛立った鳳助の声の後、すぐには大佐の声は続かなかった。

 制作室から逃げ出した姫はまどかが後を追ってくるかを振り返り確認する。

 脳震盪を起こしたのか、立ち上がった彼女はふらついて一度倒れ込んだ。

 しかし、ゆらりと再び立ち上がる。

 まどかは顔や腕に擦り傷を作り、頬を自らの血で汚していた。

「……っ」

 このまま逃げれば、彼女が傷だらけになって自滅する可能性もある。

 それは果たして自分にとって幸運と呼べるだろうか?

『姫』

 弟の声が鼓膜を震わせる。

『誤った選択はするなよ』

 ――誤った選択?

 こんな非現実的な状況で何が正解で間違いかだなんて、一体どうやって。

 黙っているのは自分だというのに、こっちの身も知らないでと叫びそうになる。

 実際はひたすら沈黙しているだけだが、それでも大佐は姉の心にあらゆる迷いと躊躇と動揺があるのを見抜いているかのようだった。


『後悔しないほうを選べ』


「――……」

 はたと、答えに行きついたように姫は青い瞳を開いた。

 イヤフォンが、ピー、ピー、とバッテリー切れを告げる音を流している。

 それに混じり、彼らがいる場所の喧騒と悲鳴の気配。

『ボン助、前にいるアイツ』

『ここいらはもう出るらしいな。……おい姫ェ! くれぐれも情けない真似だけは』

 鳳助のがなり声が消え、無線機は役立たずとなった。


「まどかちゃん」


 よたつきながらも机を這い上り、彼女は一直線に姫の元へ向かおうとしている。机の上にある文房具を掻き分け、二つ机を跨いで通路にべしゃりと落ちる。またよろよろと立ち上がり、また机に這い上がる。

「め、……ググ」

「……!」

「いや…ウウ…」

「……まどかちゃん?」

 傷ついた額から流れた血が目に入って涙を流しているだけかもしれない。

 それでも、まどかが泣いているのを見た。

 呻き声の中に言葉が混じるのを聞いた姫はもう迷わなかった。

 精悍さを宿した目でまどかを見据える。


 ――どうなるかなんて分からないけど、それでも後悔しないほうを選ぶ!


「まどかちゃん! おいで!!」

 姫は一声かけて制作室から逃げ出した。

 廊下を走り目的に適した部屋を探す。

 正月生放送バラエティ番組の題名と『小道具置き』と張り紙のある会議室を見つけ、扉を開けて駆け込む。

 会議テーブルの上の上には多種多様な小道具がずらりと並んでいた。

「何か使えるもの、何か使えるもの……」

 携帯端末のライト機能を再び灯し、机の上を探る。

 ハリセンやピコピコハンマーでは戦えない。

「いい物あるじゃん!」

 バラエティ番組様様!!

 姫はカラフルで小さなバズーカと、ゴムパッチン用の平ゴムを確保した。その他に養生テープを腕に通し、椅子を一脚部屋の角へと持っていく。

 廊下から呻き声が聞こえてくる。

 扉から外を覗くと、まどかがこちらに向かってくるのが確認できた。まるでヤモリかナナフシのように彼女は床を這っている。

 まずはこの部屋へ誘き寄せる。

「おーい、こっちこっち」

 大仰に手を振ってみせれば、まどかは獣めいた声をあげながら四肢をのたのたと動かし、次第にその勢いをあげてやってきた。姫は室内へと逃げ込む。

 扉の縁に手をかけ立ち上がったまどかは、筋肉で強張った指先を姫へと向けて襲い掛かる。

 バンッ!

 カラフルなバズーカからネットが発射された。

 見事にそれはまどかの頭から覆いかぶさり、彼女を捕らえる。

「アガガガ」

 とはいえ、所詮バラエティ用だ。

 網目は荒いし、完全に動きを拘束できるわけでもない。

 しかし知能が落ちていると思われるまどかは、普段であれば手こずりこそすれど一人で脱出するのも容易なそれの中で動きを鈍らせていた。

 フッ、と勢いよく姫は腹から息を吐いて気合を入れる。

 足掻くまどかの胸倉をネット越しに掴みあげ、椅子のほうへと引きずった。

「ギャア! アガア!」

 まどかはネット越しに姫の手首を掴む。

 潔癖症のおかげで短く切りそろえられた爪は幸い肌を裂くには至らなかったが、痣は免れないだろうほど締められる。

している。やっぱり他とは違う)

 我武者羅な抵抗を抑えつけるのに苦労しながら、姫はまどかをなんとか椅子へと押しつけた。

 途中、何度も手や足や胴に手足が当たり、痛みが襲う。

 それでも姫は奥歯を食いしばって平ゴムを手にし、片方を椅子の足に縛りつけた。そこからぐるぐるとまどかの身体と椅子に巻き付けていく。

 まどかが目の前に垂れる金色の髪に噛みついた。

 頭を持っていかれそうになり、首の筋が引き攣る。

「グウウウウ!」

「大丈夫だよまどかちゃん」

 姫は額を汗で濡らしながら、笑顔を貼りつけて明るい声で言った。

 両手を動かすのはやめず、平ゴムの端を結わく。

「ウウウウ」

「クイズで正解しまくりの頭の良いまどかちゃんなら、これくらい簡単に解けるでしょ?」

「ギャア!」

 ドカリ、とまどかの頭突きが姫の口元に直撃する。

 口の端が痛むのを感じながら、それでも姫は笑っていた。


「あなたが、なら」


「ウウウ」

 養生テープを切り取り、まどかの口元に貼りつける。足元も左右それぞれで固定した。

「ウウウウ! ウウウウ!」

 暴れるせいで椅子は横に倒れ、それでもまどかは足掻こうとしている。

 姫は小道具の中にあったカッターを手に取ると、まどかの目の前に示した。

「これ! 何に使うか分かる!? どうやって使うか! まどかちゃんなら分かるはず!! 解くのなんて、簡単だよ!!」

 鎖や麻縄を使ったわけでもない、簡単な拘束。

 養生テープなんて簡単に千切れる。

 平ゴムだって、カッターのスライダーを親指で押しあげ、刃を出し、グリップを握って、刃をゴムに当てて動かす知恵さえあれば。


 今の状況で、できることはこれくらいだ。


 過去、確認されている異常行動者は皆、暴走ののち命を落としている。

 それでも、それまでせめて彼女が他の誰も、彼女自身含めて傷つけないように……。

 ただの自己満足と言われればそれまでだ。

 姫はまどかを見つめたまま後ずさり、三メートル離れた床にカッターを置いた。

「もう行くね」

 

 ――どんな結果になっても、後悔しない行動を取った。

 

 黒い前髪の隙間から覗いたまどかの瞳は、ぎろぎろと姫を見つめている。

「ウー、ウー……」

 鞄に入ったペットボトルを確かめ、まどかに背を向ける。

 彼女の視線が痛いほど背中に突き刺さっているような気がした。

 姫はもう振り返らなかった。

 扉の取っ手を握り、扉を閉める。

 震えそうになる指に力を籠め、しっかり扉を閉じたことを確認してから、姫は智成の元へと向かった。


「……め、ちゃん……行かな……で……、ウウ、ウウウウ」


 涙で濡れた呻き声は誰にも拾われることはなく、暗い部屋に消えていった。


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