報告

 ご祝儀の計算をして、披露宴には参加しなかったが祝い金をくれた人にお礼の品を送り、一部の人たちに結婚報告のはがきを送って、やっとすべての清算が済んだ。だいたいイベントというのは後片づけのほうが面倒なものである。当然支払金のほうが祝い金を上回っているが、幾ばくか返ってきたので飛紗は「なんや得した気分」と言っていた。人生において上から数えたほうがはやそうな大きな出費を、金額は関係なく「懐に戻ってきた」という点に注目した感想は眞一のなかにはなかった。普段はどちらかといえば後ろ向きな思考をしているのに、こういうときは前向きだ。

「なぜ、俺を、呼ばない」

 すでに五回は繰り返されている文句に、スマートフォンを耳から離して嘆息する。どんなに音量設定を下げても脳にまで響くようでたまらない。この野太く低い声は女受けがいいと本人はのたまわって自慢にしているが、うるさければ低かろうが高かろうが雑音に変わりなかった。

「だいたいあんな美人が知り合いにいるなら紹介しろ。普段はつんとしてきつそうな雰囲気だが写真だと大切なひとにしか見せない笑顔って感じで最高じゃないか。俺ならあの顔を引き出せる。絶対に口説き落としてみせるぜ」

「あなたほんとうにばかですよね」

 これが毎日仕事では複数いる部下に指示を出して着実に出世しているというのだからぞっとする。妄想が入り混じっているのに概ね真理をついているところがまたなんとも言えない。それなりの大学も出ていたはずだが、野生の勘だけで生きていないか。いつ話しても何がしかの不安が煽られる。

「結婚報告と書いたでしょう。私の妻です」

「妻ってお前、お前が結婚するわけないだろう。何を言っているんだ?」

 笑い声まで聞こえてきて、頭が痛くなってきた。話にならない。電話をスピーカにして、テーブルに放置する。論文を読む片手間に相手をするくらいでちょうどよいだろう。

「それじゃあ何に呼ばれるつもりでいたんですか」

「お前の結婚式だろ? 自分ではがき出したくせに忘れたのか」

「あなたどうしてそんなにばかなんですか?」

 重ねた罵倒になんだと、と憤慨されるが、もはや溜息しか出てこなかった。兄の聰一なら適当に流して適当に揶揄して、いつの間にか会話を終わらせるのだが、一人で相手をするとただただ疲れる。父と別れた母が再婚した相手の連れ子である久雄は、いつでも眞一に対して親身な様子で兄めかしてくるが、眞一からすれば正直なところ迷惑以外の何者でもない。久雄が兄のつもりはないし、家族という意識も希薄だ。

「とにかく一度会わせろよ。俺がツンデレずきなのは眞一だって知ってるじゃん」

「知らないですし興味もないし、私の奥さんだって言ってるでしょうが」

「あっ?」

 しばしの沈黙が下りる。やがてやっと物事を飲みこんだらしい久雄が、奥さん、と繰り返した。

「お前結婚したのか? 三月も終わりだっつうのにこの前雪降ったのお前のせいか」

 もうそういうことでいい。充分相手をしたので、そろそろ電話を切ってしまいたかった。しかし久雄がたたみかける。

「なんだよ、はやく言えよ。えー、眞一が結婚? そりゃ美人なんだろうな。新婚なんてもうかわいくてかわいくてしょうがないんじゃないの」

「別に新婚じゃなくてもかわいいです」

 スピーカにして耳から離しているのにうるさい。論文の気になるところにマーカーを入れてページをめくる。

「お前の恋人ってまじでみんな美人だったもんな。いっつも告白され」

 ぷっ、というそっけない音のあと、ぷー、ぷー、と電話が切れたことを表す機械音が鳴り響いた。着信拒否にするとあとが面倒なので、電源を切って放り投げる。これで「電波の届かないところか、電源が入っていないため」つながらない旨を自動でアナウンスしてくれるだろう。

 どうでもいいことばかりする男だとは思っていたが、余計なことをする男ではなかったのに。眞一の膝に頭をのせている飛紗が、案の定体を丸めて、顔をうつむかせた。

「みんな美人やったんや。ふうん」

 これまで頑なに飛紗がイメージできないよう黙ってきたかいもなく、とんだ爆弾だ。確かに、過去はなくなるわけではないのでいずれどこかで漏れただろう。しかしタイミングが悪い。やましいことはないのは当然だが、もうしばらく悪い方向に想像力豊かな飛紗の心労の芽は摘めるだけ摘んでおきたかった。それをあのばか、と三回目の罵倒を心のなかで呟いて、論文をテーブルに置く。

 左手の薬指が自信にはなっても、話して平然としているだけの安定はまだない。夫婦になったとはいえ気分は半分恋人みたいなものだ。

「美人にいっつも告白されとったんや」

 うつむいて表情が見えないので、側頭をなでる。別にみんな美人だったかというとわからないが、どこかしらにかわいい部分はあった。久雄とは違って面食いではないのでどうでもいいといえばどうでもいい点だ。飛紗をおそろしく美人でかわいいと思っているのも惚れた欲目だと理解しているし、もし久雄が「みんな美人」に見えたのなら嫉妬からくる補正がかかっているだろう。昔から恋人をほしがるわりに目的を履き違えているのでふられ続きで、人の恋愛に対して厳しい。

 ふふ、と突然飛紗が笑い出した。ちらりと眞一を見て、ふふふ、とまたうつむいて笑う。なに、と耳を軽く引っ張れば、やめて、とはしゃぎながらも観念したように眞一に顔を向けた。

「奥さんとか新婚とかって、照れる」

 目尻を下げて薄く頬を紅潮させながら言われて、愛しさが込みあげる。なんでもしたくなってしまう。あんなに昔はどうだったのかと気にしていたのに、少なくともいまの飛紗には、これまでのことは不安要素として成り立たないもののようだ。自分にはないが相手にはある、という引け目と自信のなさが、結婚を機に薄まったのならよろこばしい。心のなかで久雄への暴言を撤回する。

 膝に座らせて後ろから抱きしめると、くすぐったいと身をよじらせた。唇を寄せた瞬間にテーブルに置かれた飛紗のスマートフォンが鳴り、我に返ったのか恥ずかしそうにしながら顔をそむけて手に取ろうとする。その手をそっと重ねて制し、

「あとで」

 と一言告げれば、無理に向かせなくても飛紗のほうから唇が近づいて重なった。ふふふ、とまた堪えきれないように笑って、脚を折りたたんでゆらゆらと揺れる。機嫌がいい。

 上からのしかかるようにしてテーブルに置いた論文を拾いあげると、もう一度飛紗のスマートフォンが鳴った。今度こそ手に取り、タップして表示させる。パスワードはかけなくてよいのかと見るたびに思ってしまうが、飛紗が気にしている様子はない。

「心寧ちゃんや」

 示されて画面を覗く。正確には心寧の母であるマキからのラインだが、律儀にも「心寧です」と書かれていた。見ている間にも新たなメッセージが表示されていく。

「飛紗ちゃんへ。久雄おじちゃんが飛紗ちゃんに会ってみたいって言っています。いっといてって言われました。」

 飛紗は「ひさちゃん」、眞一は「しんいちくん」、椛は「もみじちゃん」なのに、なぜか久雄だけは「おじちゃん」と呼ぶ。父親の聰一と同い年だからだろうか。当の久雄は自分だけ特別扱いだと嬉々としていたので別によいのだが。眞一に電話がつながらなくなったので、聰一にでも連絡をしたのだろう。はた迷惑な話だ。そういう根回しだけははやいのである。うまくいくかは別として。

「漢字使えるようになっとる」

 内容ではなく、心寧の文章に感心して飛紗が言った。もちろんマキに助けてもらいつつだろうけれど、文章としてきちんと成り立っている。まだ小学校に上がる前と思えば上出来だ。

 飛紗が返事をしようとすると、マキからの着信があり、そのまま電話に出る。電話口では心寧がしゃべっているようで、飛紗は「うん」と「ありがとう」、それと「わかった」を繰り返す。なんとなく音は漏れ聞こえてくるが、何を言っているかまではわからない。

「眞一くんに代わる?」

 普段呼び捨てなので、心寧に合わせた呼ばれ方は新鮮だ。スマートフォンを渡されて、耳に当てる。

「もしもし、心寧です。しんいちくん?」

 弾んだ声が聞こえてきて、そうです、と答えた。すると奇声のような、的を射ない言葉を興奮気味に語ったあと、「ちょっと待ってね」と電話口で深呼吸するのが聞こえてきた。

「あのね、おじちゃん……あっ、久雄おじちゃんがね、ひさちゃんに会いたいって言ってた。伝えてって。でね、でもね、おじちゃん、おかあさんにもいろめつかうから、ひさちゃん会わなくてもいいよって、いま、お電話したの。文字だとおじちゃん見ちゃうかもしれないからね、しんいちくん、おじちゃんがひさちゃんにいろめつかったら、おとうさんみたいにいやな気分、なるでしょ?」

 相槌の間もなく、一気に言われる。色目を使う、というのがどこまで理解できているのかはわからないが、内容は聡明だ。これまで注意したさまざまなこと――誰かについて話すときは相手にわかるように言うこと、物事は順序立てて説明すること、言いたいことはまとまってからは話すことなど――をきちんと学習している。ばれると都合の悪いことは証拠を残さないあたり、非常に賢い。久雄よりもよほど話が通じる。

「ありがとう。心寧は頭がいいですね」

「あたまいい? しんいちくん、あたまがいい子、すき?」

「うん、頭のいいひとはだいすきです」

 きゃあとはしゃいだ声が聞こえたかと思うと、もしもし、と低い声に代わった。聰一だ。

「お前のおかげでうちの娘がノーベル賞でもとりそう」

 目の前に座っている飛紗が、スマートフォンをとられ、本も近くになく、間を持て余して論文をちらりと覗いたものの、すぐに戻した。立ちあがろうとしたところを腰に腕を巻きつけて阻止する。手足は冷えていることが多いが、背中はあたたかい。

「久雄がわめいていたぞ。だから面倒になる前に手を打っておけと言っただろう」

 面倒になる前も何も、常に面倒なので顔を突き合わせていないだけ電話のほうがましだ。一方的に会話を断つこともできる。そもそもその会話が成り立たなかったが。

 腕のなかで抵抗されて、離してやると飛紗は台所に入っていった。冷蔵庫を開ける音だけは聞こえてくるから、飲み物でもいれているのだろう。

「それより一つ聞きたいんだが、眞一お前、母さんに式の日程の連絡ってしたか?」

 当然していない。結婚することと、挙式することのみ伝えて、あとは場所も日時も言わなかった。腹を立てて言う気にはならなかったというほうが正しい。答えると、だよなあ、と聰一が不思議そうな声を出した。

「寺内の義父さんが知ってたみたいなんだよな。椛も言ってないって言うし」

 そうなると情報元は母親の梢でしかありえない。父の晟一に引き取られた眞一からすると、母の再婚相手である寺内は久雄以上に遠い存在で、親戚どころか知人としても意識が薄い。寺内からしても同じだろう。聰一も椛も承知であるから、必然的に、誰かが梢に伝えたということになる。

 二つのコップを持って、飛紗が戻ってくる。水をいれてきてくれたようだ。飛紗のほうは湯気が立っていた。先日柚子茶を買ってきていたからおそらくそれだろう。一度テーブルに置くと、また眞一の足の間に座った。

「まあいいや。お祝い送りたいって言ってたの断ったけど、かまわんだろ? 絶対住所母さんに漏れるし」

 持つべきは理解のある兄である。どんなに折合いが悪くとも、母親との付き合いを完全に絶つことを考えていないのは尊敬に値する。離婚後も引き取られて育ててもらった分、最低限の義理は返す、マキや心寧を不仲に巻きこまないという方針で、本人は飄々としているがなかなかできることではない。

「飛紗ちゃん、うちの母親と連絡とってたりなんかしませんよね」

 画面を拭いて、スマートフォンを返す。飛紗は受け取ると、そのままテーブルに置いた。

「うん。結局連絡こんかった」

 ふうふうと柚子の香りが漂うコップに息を吹きかけながら、何のこともなしに言い放つ。いったいどういう意味か、聞いてみれば会ったとき渡した手土産のなかに、連絡先を書いた手紙を入れておいたらしい。しかし今日に至るまで、音沙汰はないと言う。

「捨てられたかもしれんなあ」

 それはそれで仕方がない、とコップを傾けて、まだ冷えていなかったのかあちちと慌てた声を出した。猫舌なのだからしっかり冷ませばよいものを、熱いものがすきなので気が逸るのだ。難儀である。

 まさかそんなことをしていただなんて、知らなかった。母親相手になるとどうも視野が狭くなっていけない。

「式の日程も書きました?」

「あっ、ごめん、書いた。あ、でも日程だけやで? 場所とかは……いや、そういう問題と違うよね、ごめん。あそこまで険悪やと思ってなくて、あと啖呵きる予定もなかったから」

 思い出しているのか、飛紗が体を小さくするように首をすくめた。もう一度腹に腕を回して、背中にのしかかるようにして体をくっつける。梢に来てほしかったかと聞かれれば、来てほしくなかった。だから招くつもりははなからなかったし、聰一が言ったように、住所すら教えるつもりがないので結婚報告のはがきも送っていない。

「ううん、いいんです。飛紗ちゃんは飛紗ちゃんのしたいようにしてくれれば。兄に聞かれてなぜかなと思っただけなので」

 飛紗は家族と仲がよいから、深刻なイメージはできなかったのだろう。眞一も詳しくは伝えなかった。むしろそこまで誠意を持って接してくれていたことにありがたさを感じる。

 親子ならいつかわかりあえるとか、絶対に仲良くできるとか、そういうことを飛紗は言ってこない。それだけで充分だ。

 肩口に顔をうずめていると、くしゃりと頭をなでられた。

「眞一はどうしてほしいん? ほんとうは」

 髪の間を飛紗の指が何度も通っていく。これではいつもの逆だ。落ちこんでいるわけではないのに、慰められているような気持ちになる。

「……できれば関わってほしくない」

 ただの我儘だ。選択は常に飛紗がすべきであって、たとえ眞一の母親相手でも付き合い方を強制するのはおかしい。

 それでも飛紗は、わかった、と頷いて、そのまま眞一をなでた。

「じゃあ、そうする。まあわたしからどうこうする機会はもうないと思うけど」

 ふふ、とくすぐるような笑い声が聞こえて、なんだか少し気が楽になる。親であるというだけで、めったに会わなくともほとんどつながりがなくとも、どこかで重荷になったまま、忘れることができない。完全に縁を切るのは不可能なのかもしれなかった。

「久雄さんは? 会うことあるかな。わたしと名前近いから、なんやちょっと気になる」

「機会があるまで会わなくていいです。久雄がまさに口説き文句として使いそう、それ」

 ぎゅう、と腕に力を入れる。飛紗のあたたかさが心地よくて、もう少しこうしていたかった。

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