結婚

 ぱちりと目を覚まして、何度か瞬きをする。自分でもびっくりするくらい、頭がすっきりとしていた。昨夜は確かにいつもよりはやくベッドに入ったけれど、瀬戸のぬくもりを感じていても寝つくまでに時間がかかって、結局寝入った時間は普段と変わらなかったと思う。けれど変な夢を見たりはしなかったし、いまが夢のなかというわけでもなさそうだ。枕元に置いている腕時計を寝転がったまま見もせずあてずっぽうに手探りすると、ひんやりとした感触を得る。ぶらんと吊り下げるように目の前に持ってきて確認してみれば、予定よりもはやかった。めずらしく目覚まし時計より先に起きてしまったらしい。

 実は緊張しているのだろうか。頭がすっきりしていると感じるのも単なる麻痺で、脳みそが混乱をごまかそうと画策しているのだろうか。

(今日)

 胸のあたりがきゅうと締めつけられて、体を丸める。口がにやけるのを我慢しようとしてむにむにと動くが、あまり意味はない。ついに今日、である。思いが血とともに体中にめぐって変に力が入った。

「おはよう」

 頭上から声がして視線を向ければ、瀬戸がまだじゃっかんねむそうに目をこすっていた。

「はやいですね。ちゃんとねむれましたか?」

 乱れた髪をかき上げるようになでられて、ばっと顔を瀬戸の胸元にうずめる。前言撤回。やはり舞いあがっている。いつもと変わらない瀬戸のやさしい表情が、すでに輝いて見える。そういうフィルターがかかっているみたいに。少女漫画だってここまできらきらしたエフェクトを多用しないだろう。

 どきどきしている。今日が日常ではないときちんと理解できている。後頭部を上下する瀬戸の大きな手に安堵して、興奮の反動なのかまどろんできたが、一度ぎゅっと瞼を閉じて目を開きなおした。体を起こして目覚まし時計のセットを解除する。あのじりりり、という音を聞かなくてよいだけで、どこか爽やかな気持ちだ。目覚ましはないと困ってしまうが、現実に引き戻される感覚はいただけない。

 瀬戸は寝起きがよいので飛紗とは違いあっさりとした様子でベッドから出る。朝、前髪を鬱陶しそうにかきあげるのを見るのがすきだ。

「まだ寝ててもいいんですよ」

 軽く口づけながら言われて、ううん、と首を横に振る。ここで寝てしまうと逆に眠気を引きずりそうだ。瀬戸と同じようにベッドから出て、大きく伸びをした。

 普段なら朝食をつくるところだが、今日は必要ない。洗濯もしない。掃除はしなくてもよいように整えてあるし、浴槽は昨夜磨いている。まして買いものに行くこともない。瀬戸がお手洗いに向かったので、飛紗は洗面所に行って先に顔を洗った。

 コットンに化粧水を落とす。気持ちひたひたにして、そっと肌にのせた。朝はまだまだ寒いので、化粧水のひんやりとした感触に微かに震えた。空気が乾燥しているせいで少しぴりりとする。夜の間だけでも加湿器が必要だろうか。しかし黴が生える可能性もあるから悩む。染みこませるようにやわく押さえると、次は手の平を使って乳液を塗る。ついでに首にも。どこかべたべたした心地があるので手をすり合わせてごまかした。

 今度は瀬戸と交代でお手洗いを済ませると、瀬戸がパンをトースターで温めてくれていた。後ろから抱きついて肩に顎をのせる。香ばしい匂いが鼻腔に入ってくる。ここらへんはパンやケーキの名店が多い地域だ。同時に激戦区でもあり、大概はどの店に入ってもおいしい。しかし今日は失敗したくなかったので、よく知った店のものである。イートインもあるのだが、万が一服を汚して焦ったりしないよう家で食べることにして、昨日のうちに買っておいた。

「次は朝から焼きたて食べたいね」

 二人での生活にはやっとリズムができてきたばかりで、まだ慣れるには至っていない。近所でも行ったことのない店はたくさんあって、知らぬ土地に引っ越してきたのだなあ、と実感する。知らない土地と言っても市をまたいで実家まで三〇分程度なのだが、二〇数年間同じ家、同じ場所で育った身としては、たったそれだけの距離すらなんだかひどく遠いところに来てしまったような心細さが少なからずあった。

「いいですね。休みの日はたまにそうしましょうか」

 お腹に回した手に手を重ねられて、頬を肩に押しつける。最近、なんだか甘えたくて仕方がない。

「珈琲にする? 牛乳ですか?」

「うーん。珈琲牛乳にする」

 体を離して、やかんにミネラルウォーターを入れて火をつける。瀬戸は水道水がまずいと言って、絶対に飲み水として使わない。一度間違えて水道水を沸かしたときもすぐに気づかれた。怒られはしなかったのがまた申し訳なく、それから一層気をつけている。

「今度浄水器買わへん? そのほうが安上がりやと思うし、ごみも増えへんし」

「そうですねえ」

 賛成でも反対でもない返事が聞こえてきて、ペットボトルの蓋をしっかりと締めた。黙って買って取り付けてやろうか、と思う。食材も浄水で洗ったほうがよいと聞くし、損にはならないだろう。瀬戸は手で残り時間を指すハンドルをひねって、トースターを鳴らした。

 式の引き出物はカタログにしている。掲載されているなかからすきなものを選んではがきを送れば、頼んだものが届くというもので、いまは主流だそうだ。飛紗が参列したことのある結婚式でも、やはり引き出物はどれもカタログだったし、定番の食器から食材、金券、何も受け取らずに相応額を寄付など、受け取れるものはさまざまである。その場で決めてしまえばはがきを出すだけなので、身軽になるべくカタログを式場で捨ててしまう人もいるらしい。ほしいものしかいらない、荷物を増やしたくないという世相を反映した便利なシステムだ。いまならミキサーか座椅子を頼むな、と思う。ほしいけれど絶対に必要なわけでもなく、しかしあると便利である。買うのは躊躇しても、こういう機会ならと後悔なく手にできる。

 お湯ができて、瀬戸が一杯用のドリップ珈琲の袋を開けた。カップの縁に引っかけて粉をならす。

 淹れてくれている間にパンをトースターから取り出して、テーブルに持っていった。

「お昼あんま食べられへんから朝たくさん食べたほうがいいって聞いたけど、たくさん食べたらウエスト気になるなあ」

 おそらく余るだろう量のパンを前にして唸る。二人分のカップを瀬戸が持ってきてくれて、ありがとう、と受けとった。飛紗が自分でしなくても、ちょうどよい量の牛乳を入れてくれている。瀬戸の分はブラックだ。牛乳はあまりすきではないらしい。

「直前にも合わせたし、大丈夫じゃないですか?」

 両手を合わせてから、それぞれパンを小皿に載せる。クロワッサンだけは一人まるまる一個だ。このクロワッサンにはカロリーの権化であるバターがおそろしいほど入っているが、かといってバターの量を節約されるとあまりおいしくない。おいしさとダイエットなら、飛紗はおいしさを選ぶ。そもそも体型については一日でどうにかなる話でもない気がした。

「飛紗ちゃんもう少し太ってもいいですよ。細いというか、薄いし」

「うす……そらむ、胸はないけど……」

「いやそこは別に言ってないです」

 コンプレックスを自ら口にしてしまって気持ちが落ちこむ。もう少し胸があれば、ドレスも別のデザインにしただろうなあと反面、もっと胸があれば、あのデザインは着られなかっただろうなあ、と思う。

「ていうか眞一こそ薄いやろ。晟一さんはわりとがっしりした感じやのに。そういや学くんも年齢にしてはかなり細いほうよね」

「学くんは三〇を超えたときに太った自分が気持ち悪くて、それから体型維持に気をつけてるんですよ。私は体質なのか生活習慣がよかったのか知りませんけど、さんざん言われたわりに変わりなくて、次は四〇の壁だからなと脅されているところです。お父さんはもともと運動がすきで努力して筋肉をつけた結果です」

 結納のときも、学は一人でかなりの量のお菓子を食べていた。あれだけ食べていれば当然体に跳ね返ってくるだろう。つくるのがすきなら食べるのもすきで、甘いものばかり食べてもよいならそうしたいらしい。

 三日月の形を模した塩バターパンを差し出されて、ぱくりと口に入れる。噛むとじゅわっとバターが広がって、やはり油はカロリーの権化でありつつ旨味の権化でもあると再確認した。ともすればしょっぱくなりそうな絶妙な塩加減がたまらない。

「あの二人はジムで出会ったらしいですからね。詳しくは知らないけど」

 デザートのつもりでアップルパイを噛むと、さくりと音がした。一晩経っても温めなおしたおかげか、歯ざわりがよかった。レーズンもジャムも入っていないやつがすきだ。瀬戸に一口あげて、あとは飛紗が食べる。気をつけていてもぼろぼろとパイが端から落ちていった。

 満腹になったのでそろってごちそうさま、と手を合わせた。余った分を袋に戻して、瀬戸が皿を洗い、飛紗がテーブルを拭く。今日の家事はこれだけの予定だ。昨日話し合って家事はしないことに決めてよかった。すべきことをしなくてよいと決めるだけで、気持ちがすごく軽やかだ。

 歯を磨いたあと、クローゼットを開ける。開きの服だと着替えるとき便利ですよとプランナーに言われたので、白の開襟シャツとストライプのズボン、それとジャケットだ。ストッキングは念のため予備を持っていくことにする。二次会には私服で行くことになるから、仕事と同じくらいの服装はしていたほうが無難だろう。瀬戸もスーツだ。ネクタイは鞄に入れていたので、行きしなはする気がないらしい。

 昨夜何度も確認したが、もう一度持ち物を確認する。婚姻届、身分証明書、結婚指輪、ハンカチ、お心付け、急なときのための封筒と新札、エコバッグ、水とストロー、お腹がすいたときのために先ほど食べきれなかったパン、など。神前式で必要な肌襦袢や足袋、瀬戸の羽織袴は昨日のうちに会場に届けているから大丈夫だ。大丈夫のはずである。

「じゃあ、行きましょうか」

 荷物を詰めなおした飛紗に、瀬戸が手を出す。うん、と頷いて、その手を取った。



 まだ朝はやいので、出歩いている人を見ない。三連休を利用して、みんなどこかに行っているのかもしれなかった。誰もいないだけで非日常を感じてしまう。息を吐いてももう白くはならない。

「合鍵をさ、くれたやん? 眞一が前に暮らしてた部屋の」

「うん」

「初めて使うとき、どきどきした。ほんまに使ってええんかなー、と思って。急に行っていやがったりせえへんかなとか」

 あのあと一緒に買いに行ったキーホルダーは、いまの新しい家の鍵にもつけている。探してみるとなかなか難しくて、結局単なるウィンドウショッピングになったりして、「デートみたいや」と言って「デートでしょう?」と返されたのを憶えている。なぜかは説明できないけれど、そのたった三文字がひどく恥ずかしかった。

「ああ、あの日は浮かれました」

「浮かれたんや」

「そりゃ浮かれますよね。目を覚ましたら恋人がいるんですから」

 恋人、も今日で最後だ。手をつなぐくらいでは高揚したりどうしようとあせったりしなくなった。さびしさもあるが、当り前につなぐことができるようになった快さのほうが勝る。これが普通になったのだ。

「あのとき、こういうこともあるのか、みたいなこと言ったやん? あれ、どういう意味やったん?」

 ひとりごとのように呟かれて、やはり来てはいけなかっただろうかと動揺した。目を覚ましてすぐだったので寝言のうちかもしれないが、寝起きのよい瀬戸にそんなことあるだろうか。いま思い返せば、またそのあとすぐ寝入ってしまったあたり、あの日はかなり疲れていたに違いない。

 瀬戸も言ったことを憶えているらしく、ああ、と小さく頷いた。

「知っていると思いますけど、寝顔を見られるのがきらいなんですよね。恋人だろうが友人だろうが、家族でも正直いやなくらいなんですけど、目を覚ましたら飛紗ちゃんがいて、合鍵を持っているということはこちらのタイミングよく来るとはかぎらないよな、と思って」

「え、ごめん。なんか今さらやけど」

 いやいや、と瀬戸がつないでいるのとは逆の手を軽く横に振った。

「でも気にならなかったんですよね。運はすごくいいのでそもそも飛紗ちゃんに寝顔を見られたくなかったら、きっと私が寝ているときに飛紗ちゃんは来たりしなかったでしょうし。まあ、そんな自分に驚いたというだけのことです」

 どれだけの幸運で生きてきたのかと呆れてしまうが、瀬戸にも変化があって、もしそれを悪くないと思えたのなら、こんなにうれしいことはなかった。飛紗には瀬戸以外の恋愛経験がないので、自分ばかりが戸惑ったり舞いあがったりしているものだとばかり思いこんでいた。

 時間外受付と書かれた看板を頼りに進む。地下一階の警備室が預かり場所のようで、小さな窓を開けて警備員が立ちあがった。本人確認できるものをお持ちですかと問われ、免許証を差し出す。

「はい、お預かりします。不備があれば後日こちらから連絡いたしますので。おめでとうございます」

 にこにこと対応されて、ありがとうございます、と瀬戸と二人、頭を下げた。

 これで一応戸籍上は結婚したことになる。きちんと予定どおり出せて安堵の気持ちはあるが、友人に聞いていたように実感はあまりない。紙を渡しただけと言えばそのとおりで、生活自体はすでに始まっているからこんなものなのかもしれなかった。

「結婚した、ってことやんな」

 階段を上がりながら確認するように口にすると、そうですね、と改めて手をとられた。

「結婚、しましたね。これからもよろしくお願いします」

 柔和な双眸に見つめられて、飛紗の頬がほのかに赤く染まる。こちらこそ、と答える声が小さくなってしまった。瀬戸がおかしそうに笑ったので、つられて笑みがこぼれる。



 *



「よお」

 会場のホテルに着くと、喫煙所にでも行っていたのか、一至と廊下で鉢合わせた。学科は違ったが学部は同じだったという大学からの友人で、瀬戸の母親である梢に会うため東京に行った際、「会わせておきたい」と紹介してもらった。ものぐさなのできっと来ないだろうと瀬戸は東京で会わせてくれたのだが、彼が気まぐれを起こしたので、披露宴に出席してくれることになった。ねむいのか、青縁の眼鏡の奥をこすってあくびをかみ殺している。

「一至くんも準備から来てくれたんですね。一花ちゃん泣きませんでした?」

「あいつは賢いから泣かねえよ。朋希たちもいるしな」

 一花とは一至の義理の娘で、まだ二歳だ。東京で一至たちと一緒に会ったが、おとなしくてかわいかった。今日は一至の弟である朋希などと一緒に二次会から顔を出してくれる予定だ。朋希にはまだ会ったことがないが、顔だけは好みだと思うと瀬戸に言われたので気になっている。顔だけは、と強調されたのも気になっている。

 二人が立ち話している間に、なんだか緊張してきた。とりあえず挨拶の際、笑顔だけは忘れないようにしなければ。

「俺たちもさっき着いたところだけど、もう準備終わってんじゃねえかな」

 飛紗が心の準備を整えようとしている最中に、一至が容赦なくドアを開ける。会場のスタッフのほかに、奈津が腕をまくって鏡の前に立っていた。

「お、来たか。おはよう。このたびはおめでとうございます」

 次々とおはようございますとおめでとうございますを言われ、面映ゆい気持ちでありがとうございますとよろしくお願いしますを返す。さすがはホテルの教育というか、どのスタッフもにこやかで気持ちがよい。少々大仰な気もするが、あとから思い返されたときには大仰なくらいが不満も持たれにくいのかもしれない。

「奈津さん、今日はよろしくお願いします」

「おう、任せといて。誰よりもきれいにするのが俺の仕事だから。うん、完全にすっぴんで来てくれたな」

 にこりと微笑まれて、どこかほっとする。奈津は飛紗が尊敬するメイクアップアーティストで、まさか化粧をしてもらえる日がくるとは思っていなかった。それも結婚式という晴れの日に。

 本などは出していないし、テレビ出演しているわけでもないのだが、ドラマなどを見ていてこの女優の化粧かわいいな、と思ったときには必ずクレジットに奈津の名前があった。それからなんとか真似しようと録画を一時停止してみたり、ポスターをじっと見つめてみたり、憧れの相手である。

 本来なら一般人の結婚式で出張してくれるようなひとではない、というか、そんな暇はほとんどなく、頼もうと思えばかなりの費用がかかってしまう。今回は奈津の幼馴染である一至が「餞別」として支払ってくれるので叶った話だ。瀬戸は固辞したが、「ご祝儀で同額包んでやろうか」と半ば脅してきたので、結局お願いすることになった。昔はだいぶやんちゃだったらしい。それで瀬戸と同じ大学に浪人もせず入っているのだから恐れ入る。

「一至くんもありがとうございます。どこかでお返しします」

「いらねえよ気持ち悪い。金は持ってる奴が使えばいいんだよ」

 背後でされている会話も気になるが、飛紗はここから手際よくやっていかないと間に合わなくなる。コットンに含んだ化粧水を押し当てられ、気持ちよい。指先が人に触れ慣れている。

「婚姻届はもう出したの?」

 話しかけれて、さっき、と答える。だからもう鷹村飛紗ではなく、瀬戸飛紗だ。「鷹が飛ぶって」と幼いころは気に入らなかった名前が、こうなるとなんだか恋しく思えた。

 職場では結婚しても旧姓で名乗っている同僚や上司がいる。名字が変わると名刺や社員証を変えなければいけないし、取引先に挨拶に回ったり名乗りなおさなければいけないのが手間だからである。

 けれど、名前というのは自分を表す記号だ。子どもが生まれたら別かもしれないが、それまでは旧姓で変わりなく名乗っていると結局戸籍上だけのものになって、だんだん意識が希薄になってしまう気がする。だから飛紗は瀬戸を名乗るつもりでいるし、名刺等もすでにお願いしている。瀬戸の妻であると自覚を持って胸を張れるようになりたい。

「飛紗ちゃん」

 声をかけられて、はっとする。鏡越しに瀬戸と目が合った。

「そろそろ小春さんたちも来るそうだから、隣の控室で相手をしていますね。またあとで」

 友人たちも出席するのは披露宴だけで、式は親類のみの参列である。頷いて、お願いをする。両親、祖父母、兄弟。瀬戸の親類との人数バランスをとるために、伯父や伯母は披露宴からの出席をお願いしている。ここが関西だからなのもあるが、瀬戸は梢と折り合いが悪く、父親の晟一は学と内縁状態になってから両親に勘当を受け、その学はゲイなのがばれたときに両親をはじめ親戚から絶縁になったので、つまり、あまり招ける家族がいない。

 隣の椅子に一至が座って、じっとこちらを見つめてくる。端正な顔立ちの二人に囲まれる形になってなんとなく背筋が伸びた。一至は瀬戸と同じ吊り目に垂れ眉、奈津は垂れ目に吊り眉で対称的な二人だ。ほとんど生まれたころからの付き合いらしく、何も言わなくとも大概のことはわかると聞いている。

「ひとりごとと思って聞いてほしいんだけど」

 鏡台に肘をついて、一至が話しかけてくる。胸元の青いチーフが少しだけ歪んだ。

「瀬戸っていやなところいっぱいあるでしょ」

 ぶは、と思わず吹き出してしまう。何を言われるのかと思えば否定的な言葉で、予想外だった。奈津が咎めるような声を出したが、一至は意に返さず、飛紗も気にならない。むしろそのとおりだと思う。いまでこそ無条件に何でも受け入れてしまうけれど、最初は胡散くさいと感じていたし、何でも見透かされているようでいやだった。タイミングだけはやたらとよくて、思い通りにならないことはないと思っているのではないか、と考えたこともある。

「でも、たぶんそういうところがすきなんだよな」

 目を瞑って、と奈津に言われて、瞼を閉じる。飛紗が使っているのよりずっと高価そうな毛筆がふわりと肌をくすぐった。

「俺は別に家族でもなんでもないから、いやになったら別れりゃいいと思うけど」

 一至、とまた奈津の鋭い声が飛んだ。式当日に縁起でもないとは思うが、飛紗は黙って聞き耳を立てる。淡々とした物言いで決して不快な気持ちにならない。言葉がまっすぐでむしろ楽だ。彼はそうなればいいと言っているわけではないのだから。

「あの男にふたりでいたいと思わせたのはすごいことだし、あいつのいやなところをわかってて一緒にいてくれるのは、友人としてはうれしい」

 絶対本人には言わねえけど。ぶっきらぼうに付け加えて、一至は飛紗が何かを言う前にぱっと立ちあがった。

「あれ、最後まで見ていかねえの?」

「ばか、そういうのは旦那が先に見るって相場が決まってんだろ。煙草吸ってくる」

 おそらく照れ隠しだということは、まだ会って二回目の飛紗でもなんとなくわかった。出て行った一至の代わりに、「好き勝手言って悪いな」と奈津に謝られる。首を横に振って、気づけば鏡のなかの自分が目尻を下げていた。

 瀬戸に関してそういう風に言ってくれる友人がいるのは意外だったし、会わせようとしてくれた意味もわかった気がする。他人との距離を測るのがうまいということはそれだけ壁が厚いということでもあるので、もっと淡白な付き合いばかりしているものだと思っていた。

「まあ、瀬戸のことで困ったらすぐ一至に言ったらいいよ。俺でもいいけど。あいつの弱味ならいくらでも話すから」

「ええ、そんなこと言われたらもう気になるんですけど」

「いま言ったら俺の弱味もばらされちゃうからだめ」

 人懐こい笑顔で言われて、飛紗も笑う。瀬戸とは違うコミュニケーション能力の高さを感じる。店舗に出たらぐんぐん売上を伸ばしてくれるのではないだろうか。技術を盗むつもりでこっそり観察してしまう。

 引き続き化粧と髪をセットしてくれている間、奈津はメイクのコツや顔のマッサージの仕方を教えてくれた。合間に「肌すげえ手入れしてんね。メイクしてても気持ちいいわ」とか、「このコスメあとで分けるから、持って帰って。絶対合うから」とか、肯定的な言葉で程よく話しかけてくれるので緊張はほとんどなくなった。社交辞令とわかっていても頬が緩む。化粧や瀬戸の話はしても、飛紗自身のことにはあまり踏みこんでこないのも気持ちが楽なまま話せた。

 最後に紅を差して、奈津の仕事は一旦終わりだ。ホテルの女性スタッフに着付けてもらい、時間まで休む。家を出てから久しぶりに顔を合わせた父の和紀が白無垢姿を見るなり涙ぐむ様子を見せたのは意外で、飛紗のほうが慌ててしまった。母の小春とは写真を撮って、プロに化粧をしてもらうとやはり違うと盛りあがる。母のなかでは、娘を嫁にやる感慨深さは家を出て瀬戸と同居を始めたときにすでに終わったらしい。

「うわあ、白無垢ええやん。めっちゃきれい……お姉ちゃんのイメージは断然ドレスやったけど、白無垢も似合う。目にも紅引くんやね」

 普段の脚を出す服はさすがに封印して、膝丈のワンピースに身を包んだ桂凪がはしゃいだ。そんな桂凪に腕を組まれている綺香が動かしづらそうにしながらも、左手の手の平の上に右手の手の平をのせて、右にすべらせた。「きれい」である。

 三兄弟でも写真撮影をして、少しの間歓談する。瀬戸のほうはうまくいっているだろうか。おそらく隣室にいる晟一たちを想像してみると、悪い方向には考えられないことに気づいてつい表情を崩してしまい、桂凪に首を傾げられる。どちらかというとネガティブ思考な飛紗でも、瀬戸が何かを企めば、それは成功すると無意識に信じきっているのが愉快だった。

 梢に会うため突発的に東京に行った際、一泊してから翌日紹介されたのは一至と奈津だけではない。学の両親とも食事をして、今日のことを伝えてきた。

 瀬戸眞一とは抜かりのない男で、自身の祖父母である晟一の両親とはもちろん、学の両親とも個人的にずっと連絡を取っていたらしい。いまよりも個人情報の取り扱いにうるさくなく、携帯電話は特別な事情がある人しか持たなかった時代、学に実家のだいたいの場所を聞いて、タウンページに掲載されている「菊地」家に片端から電話をかけたというのだから、行動力に驚く。本人は「菊地の字が池ではなく、地だったので言うほど量もなかった」などと言っていたが、それでも一軒一軒電話をかけて学という息子はいるかと聞くのは大変な労力だ。だいいち相手は学と絶縁しているのだから、問うたところで激昂されてもおかしくない。

 詳細は瀬戸のなかで取るに足らないことになっているのかあまり話さなかったが、とにかく該当の菊地家を見つけて足を運び、挨拶をして、それから毎年一回は会いに行っていた。誰もが携帯電話を手にする時代になれば一緒に選びに行って説明してやり、社会人になってからはお中元とお歳暮を贈り、まるで普通の祖父母と孫のような親戚付き合いを学どころか晟一にも伝えず一人でしていたらしいのだから敬服する。何より本人が別段学を両親と仲直りさせようだとか、いつか晟一にも会わせようなどと画策したわけでは決してなく、単なる興味だけで動いたあたりが、瀬戸らしくて、そして呆れた。どうせこれも、いいように転がると知っていたに違いない。

 実際に会ってみて飛紗が感じたのは、もうよいのではないか、と二人が思い始めているということだった。特に母親のほうは学のことをただただ心配していた。いわゆる亭主関白を絵に描いたような夫婦で、夫が是と言えば是、非と言えば非になるのだろうことが感覚的に伝わってきて、妻はおそらく学と連絡を取るなという言いつけを律儀に守ってきたのだろうと想像がつく。最初のうちにあった同性愛を理解できないゆえのかなしみや悩みはすでにほとんど溶けているようで、父親のほうも、もう怒り続けるのには疲弊している、ように見えた。単に歳を重ねて丸くなっただけなのかもしれないし、学がほんとうに一切連絡をとらなかったゆえに心配が上回ったのかもしれないし、瀬戸の存在が二人にどう作用したのか一度顔を合わせただけの飛紗にはひたすら推測するしかないのだが、まあ、何かしらうまくやったのだと思う。瀬戸のことなので。「私はきっかけをつくるだけの役割で、あとのことはすべて時間薬でしかないですよ」と言っていたけれど、このたった一回のきっかけをつくるために何年も前から二人の感情を平らかにしていったのは、やはり瀬戸だろう。飛紗ならとてもできる気がしない。事を急いて失敗するのがオチだ。

 綺香に肩をたたかれて、示されたほうを見ると瀬戸が入ってきた。晟一や学も一緒である。その後ろに、学の両親である貢と芙美子の姿が見えた。ほら、やはり大丈夫だった。

 瀬戸家と鷹村家でそれぞれ頭を下げ合う。式の日程が予定より早まったため、顔合わせを兼ねているのだ。瀬戸の妹である椛は人見知りなのかマキの後ろにくっつくようにして戸惑っている様子が窺えた。幼い心寧のほうがすっと背筋を伸ばして、彼女の父である聰一に手を引かれながら落ち着いて挨拶している。これだけの大人に囲まれても物怖じしないのはすごいことだ。素直に感心する。

「飛紗ちゃん」

 名乗りあっている親戚をよそに、瀬戸が近づいてくる。座っている飛紗を覗きこむようにして、そっと手を重ねられた。めずらしく言葉に詰まった様子で何かを言おうとしては口を閉じてしまう。視線だけはじっと向けられていて、飛紗のほうが耐えきれずにうつむいてしまった。そんな目で見られると恥ずかしい。

 飛紗が着替えている間、奈津にセットしてもらったのだろう、いつもと違って前髪を後ろに流している。成人の祝いで買ってもらって以来という黒五つ紋付き羽織袴は細身の瀬戸には正直なところすごく似合っているとは言いがたいが、それでも様になっている。

「飛紗ちゃん、すごく、きれいです」

 他の誰よりも、瀬戸に言われるのがいちばんうれしい。うっかり涙ぐみそうになって、またうつむいた。せっかくしてもらった化粧が乱れは大変だ。ぱっと顔を上げたときには、口元は自然と持ちあがって、ありがとう、と伝えることができた。

 ぱしゃり。音がした方向には、学がカメラを持って立っていた。目元が赤い。

「撮ってる。ばっちり」

「手震えてない?」

「震えてるとしたらお前のせいだからねばかやろう。今日はたとえ俺のなかでも俺が主役になっちゃだめな日なんだよ」

 ふん、と鼻を鳴らして、学はぞんざいにカメラをズボンのポケットに突っこんだ。後ろ髪も長い前髪も合わせて一つにまとめて、とても五〇を前にしているようには見えない。

「私は祖父母を式に呼んだだけですよ」

「そういうところ。眞一のそういうところね」

 わかる。つい同調して頷くと、ほらみろ、飛紗ちゃんは俺の味方だよと学が悪態づいて、子どものように噛み合わせた歯をむき出しにする。瀬戸はいつもの困ったような笑みを浮かべて気にも留めず、「芙美子おばあさんが困ってますよ」と学を追いやってしまった。

「大丈夫やったん? 晟一さんも初めて会ったんやろ」

 息子に関しては長年考えてきたかもしれないが、その相手の男性について理解が及ぶかは別の話だろう。しかし結婚式では無視するわけにもいかないし、相当戸惑っているのではないか。晟一は晟一で学の両親が来るなど思っていないだろうから、双方に気まずい空気が流れてもおかしくない。

 それがねえ、と瀬戸は首を触ってちらりと晟一のほうに目線をやった。つられて飛紗も目を向ける。歓談とまではいかないが、想像よりはるかに穏やかな雰囲気の晟一と貢がいた。

「どうもお父さんも学くんに内緒で連絡をとっていたみたいなんですよね。会うのは今日が初めてらしいけど、会話術には長けたひとなので大丈夫なんじゃないですか? あとは勝手にやると思います」

 自分の範囲外と思っているのか瀬戸はあっさり言って、それより、と改めて飛紗に向き直った。

「今日が迎えられてよかったです。きれいです、ほんとうに。飛紗ちゃんが花嫁って、すごく贅沢」

 すぐには答えられずに、瞬きも忘れて瀬戸を見つめる。運命的な出会いだったわけではない。子どものころから読んでいた少女漫画のように、劇的な出来事があったわけでもない。気づくと瀬戸のことばかり考えるようになっていて、最寄り駅で姿を探すようになって、自分で自分の感情に戸惑うくらい、恋愛には不慣れだったというのに。

 人に話しても「ふうん。そういえばさ、」と流されてしまうような毎日だと知っているが、飛紗にとっては宝物だ。隣に瀬戸がいるだけで、なんでもない日々が、突然特別になる。糧になる。誇りになって、飛紗をつよくする。ふたりでいるために、ひとりできちんと立っていられる。

 ご準備をお願いします、とスタッフが入口で呼びかけた。皆がぞろぞろと控室を出ていくなか、瀬戸に手を差し出された。朝と同じように、行きましょうか、と微笑まれる。

「眞一もかっこええよ」

 その手をとって立ちあがった。ああ口紅がとれてしまうからキスはできないな、と思って、まるで瀬戸のようだと一人笑う。似てきているのか感化されているのか、きっとどちらもだろう。

「わたしを選んでくれて、ありがとう」

 照れるのを隠すように瀬戸は笑いながら頷き、少しだけ指に力をこめた。しあわせの形に触れた気がした。



 巫女に先導されて瀬戸と並んで歩き、その後ろに両親、親類と続く。最後に神主が入場して、説明を受けたとおりに着席した。神前式は教会式のように愛を誓うのではなく、苦楽をともにすることを誓う。会場によって微妙に異なるらしいが、修祓の儀、斉主一拝、祝詞奏上、参献の儀、誓詞奏上、玉串奉奠、そして指輪を交換し、親族杯の儀、もう一度斉主一拝をして退場だ。

 言葉だけを先に聞いたときはなんてややこしいのかとたじろいだが、いざこうして式が始まってみると大半は神主が説明しつつ進めているので、困るようなことはなかった。それぞれの儀式も要はお祓いを受けて、神に挨拶をし、神主が神に新郎新婦の結婚報告と加護をお願いし、三々九度で酒を飲み交わし、今度は新郎新婦自身が神に結婚の誓いを述べて、榊をお供えする、という流れだ。しあわせな生活が過ごせるように見守ってくださいととにかく神にお願いをする。指輪を交換したら、両親を含め親族が三口で酒を飲み干し、式が終ったことを神に挨拶して終了だ。入場と退場もそれぞれ参進と退下と言う。

 昔からこんなんやってたんかな、と瀬戸に聞けば、大正天皇の結婚式が見本になっていると言われているのでここ百年くらいの最近できた文化です、と返された。うっかり納得して、「最近」の概念が飛紗のなかでも崩れつつあるのを自覚した。

 とはいえ三々九度の杯は古代からあるらしく、お神酒を一つの杯で飲むことにより一生苦労をともにするという誓いを示している。幸福になる、ではなく苦労をともにする、というあたりが日本だなと思ってしまう。

 器は小さいものから大きさを変えて三種類だ。じんわりとお神酒が染みて器が色を変えているのを見つめると、連綿とした時を体に入れるような途方のなさを感じた。飛紗自身は何も変わらなくても、やはり別人になるのだ。飛紗は瀬戸の妻になり、瀬戸は飛紗の夫になる。それを神に認めてもらう。特別な宗教心はないつもりだが、決意を肯定されるのは悪くない心地だ。和紀と小春がそうしたように、晟一と学がそうしているように、飛紗も瀬戸と「連綿とした時」の一部になる。

 瀬戸の顔を見て揃いの指輪をはめあうと、初めて安堵の笑みがこぼれた。厳かな雰囲気に呑まれたのか、どこか感傷的になっていた気持ちがとけていく。綺香に話したら創作の種にでもしてくれるだろうか。

 無事に退場すると、神主と巫女にお礼を言って瀬戸が心付けを渡した。あまりにも自然な流れだったのでさすがだなと感心する。奈津や着付けのスタッフにきちんと渡せるか、にわかに不安になってきた。披露宴の列席者に対しては基本的に双方の親に頼んでいるが、スタッフやプランナーには自分たちのほうが渡しやすいだろうと用意しているのだ。

 早々に披露宴の準備のため引き揚げると、再び奈津がシャツの腕をまくって鏡台の前にいた。お色直しはないので、奈津も披露宴には参列してくれる。おかえり、と言って飛紗を座らせ、ふき取り式の化粧落としを顔に手際よくすべらせた。

「白無垢きれいだからもったいないけど、脱いできて。じゃ、一〇分後」

 言下に急げと言われて、慌てて着付け室に向かう。手伝ってもらいながら着物を脱いで、ウエディングドレスに着替える。着替え途中でもサテン生地が肌になじんで心地よい。ソフトマーメイドラインのドレスで、胸元から足元まで花が連なっているようなドレープがあり、胸が貧相でも気にならなかった。むしろ身長がある分、ドレープが映えてよく似合っている、と事前に瀬戸に言われたのを信じる。肩から肩甲骨まで見えているが、ブライダルエステのおかげか肉付きも気になるところはない。

 着替えを手伝ってくれたスタッフに心付けを渡そうとすると、「当ホテルではすべてお断りにすることになっておりまして、申し訳ございません。お気持ちだけありがたく頂戴いたします」と断られてしまった。そう仰らず、と二、三回はやりとりしたが固辞されたので、おとなしく諦める。その分深く頭を下げてお礼を言う。

 戻ると「ジャスト一〇分」と奈津が笑いかけてくれたが、何度時計で確認しても一五分を過ぎている。謝りつつまた着席して、化粧も髪も奈津に任せる。事前にどんなイメージがあるか聞かれたが、奈津にセットしてもらえるのならばなんでもありがたく、うまく答えられなかった。結局ドレスと瀬戸のフロックコートの写真を送り、あとは完全に投げてしまったので、どうなるのか飛紗にも想像がつかない。

「このドレス買ったの? それともレンタル?」

「買いました。レンタルのほうがプラス一〇万とか二〇万くらいするんはけっこう痛手やったんで」

 とはいえ、購入も上を見ればいくらでも値段は上がる。気に入ったデザインがたまたま安くて幸運だった。同僚の尾野や千葉はオーダーメイドにしろと騒いでいたが、式まで日が少なかったのでそれは無理だ。

「あー、その分生地はいいんだけど難しいところだよな。でもそれ、よく似合ってる。妥協したんじゃなくてすきなデザインで選べたならそれがいちばん。世界一きれいな花嫁だ」

 職業柄なのか、それともさすが瀬戸の友人と言うべきか、さらさらと出てくる褒め言葉に顔が自然と赤くなる。そんな反応にも慣れているようで、軽くうつむいてしまっても自然と直された。

「飛紗は全体的に美人顔だけど、目がころんとしてて甘いから目尻に黒のリキッド入れてもかっこよくなると思う。で、ピンクより青とか紫。あとは濃いブラウンな。いまはやりのハンサムメイクがちょうど似合う」

 さらっと下の名前で呼び捨てにされても嫌味がなくて、途中まで気がつかなかった。もちろんかまわないのだが、自然と心の内側に入られていることに驚く。瀬戸の「誰とでも距離を詰めて仲良くなれるのが奈津くんの長所です」という言葉が思い出された。「だから私とは相性が悪いんですけど」と笑っていたのもついでに思い出す。

 話しながらも手がとまることはない。指先の流れがうつくしく、目を瞑ってと言われたとき以外はやはりまじまじと見てしまう。毎日やっている化粧なのに、奈津にしてもらっているだけでいつもより立体的な表情になる。魔法がかけられているみたいだ。

「瀬戸と身長変わんないし、髪下ろしたセットにしようと思ってんだけど、どう? 上げたほうがいい?」

「下ろしてもらって大丈夫です。お願いします」

「了解」

 ハーフアップにして、奈津は緩く髪を巻いていく。そのうえから白い小花を散らし、最後に何かを差される感覚があったので振り返ると、中心に真珠と花の形をしたクリスタルストーンでつくられたコームがあった。淡い金色がきらきらと輝いてきれいだ。

「瀬戸からのプレゼント」

 鏡越しに言われて、えっ、と声をあげる。今週はずっと一緒にいたはずだ。式の準備や心構えで忙しいだろうからと会社から(というより、茂木から)残業禁止令が出て、約一週間、新入社員時以来のほぼ定時あがりで、たまに瀬戸よりもはやく帰ったくらいだった、のだが。もしかしなくてもその日か。それとも飛紗が考えているよりずっと前なのか。そもそも奈津にいつ渡したのかすらわからない。

「記憶や体験も大切だけど、ものが残るのもいいだろうから、って。うん、かわいい」

 鏡を使ってなんとか全貌を見ようと首をあちらこちらに振る。まさかこんな用意をしているなんて露ほども思っていなかったから、飛紗は何もできていないのが悔やまれる。触ると崩れてしまうし、もどかしさに指がそわそわと動いた。

「はは、すげえいい顔。じゃあ、俺も参加させてもらうから、またあとでな」

 奈津は道具を片づけると、部屋を出ていった。しまった、心付けを渡しそこねた、と思ったときには後悔する間もなく時間がぎりぎりだったで、飛紗もすぐにスタッフに誘導されて会場に向かう。白のフロックコートに身を包んだ瀬戸が立っていた。

 走りたいがこけたら大変だし、抱きつきたいが胸元のドレープが崩れたら困る。

「こんな、プレゼント、ありがとう。ずるい」

 小声で叫びながら両手をとってぶんぶんと振ると、興奮した様子の飛紗に瀬戸が笑った。

「ドレス姿もきれいです、飛紗ちゃん。みんなに見せるのがもったいないくらい」

「眞一は、やっぱり洋装のほうが似合う。ああ、悔しい、めっちゃかっこええと思ってしまう」

 そろそろ入場のご準備を、と脇に控えるスタッフに言われて、瀬戸がすっと腕を差し出した。新郎が右手に持つ手袋は新婦を守るための剣を表しているらしい。つまりこれから、瀬戸に守ってもらえるということだ。もちろん比喩であるけれど、浮かれてしまう。こんなに心強いことがあるだろうか。

「飛紗ちゃんにずっとそう思ってもらえるように、がんばります」

 こちらこそ、と腕に手を添えて、前を見つめる。ゆっくりと目の前の扉が開いた。



 *



 最初のスピーチと終盤の映像投影以外は、基本的に細かい流れのない披露宴にしたので、皆それぞれ食事をたのしんだり、友人と写真を撮ったり、自由に動いた。両親に薦められたとおり料理がおいしく、飛紗も瀬戸も聞いていたより案外食べられたのが幸いだ。残った分は持ち帰ってよいと言われたので、甘えることにした。

 二次会の幹事もしてくれている友人のしづるが真先に飛んできて、

「飛紗、ドレスの選択大正解やで。胸の大きさなんてわからんねこれは。ていうかメイクも髪もすごいな、もともと美人やけど際立って最高に美人。さっき真ん中通ってったとき見たけど、背中もめちゃめちゃきれいやで。それで、紹介してくれる?」

 と言いたいことをとりあえずまくしたてた。この前結婚したところだというのにもう妊娠したとかで、今日も当然アルコールは飲めないのだが、二次会は予定どおり任せておくようにと宣言されたので全面的にお願いしている。お腹のふくらみはまだ見た目にはわからない。瀬戸を紹介すれば、はしゃいだ一部始終を見られていたとわかっているのににこやかに人付き合い用の笑顔を振りまいて、我が友人ながら大したものだと感心した。

 職場からは上司の茂木と、さらにその上司、そして同僚の尾野と千葉だけを招いた。仲がよいことは知られているので茂木や尾野や千葉はともかく、上司に関しては体裁を整えるためである。大半は母が相手をしてくれていた。

 他の招待客が親族を除けば中高の友人ばかりなので遠慮をしてくれ、落ち着いてから三人そろって挨拶に寄ってくれた。

「鷹村さん、おめでとう。でももう鷹村やないんよね」

「この機会に下の名前で呼ぶかあ? ていうかフルネーム、なんやめっちゃサ行になったな」

「旦那さん聞きしに勝るイケメンやね。あれは自分がもてるん知っとる顔やわ」

「それで頭ええとか世の中不公平やな。靴のセンスめっちゃええしな、俺もあれほしい」

「背はそんな高くないけどな」

「茂木さん、男の嫉妬引きずるんは恰好悪いですよ。それ前も聞いたし」

 いつも通り好き勝手に騒ぐ。基本的にノリだけでしゃべっているので話題はころころ変わり、二次会にも出るからと席に戻っていった。

 友人たちと一通り話したあと、瀬戸が長く世話になっているという教授に挨拶をして、これが妻としての最初の仕事だと思えば緊張したが、どのひとも気さくで話しやすかった。特に関西での恩師だという朽木は朗らかで陽気で、今日はこのあと妻と港町でデートだとうれしそうに耳打ちしてくれた。

 噂の廣谷にも会うことができた。廣谷は瀬戸側の招待客だが、飛紗側の招待客である智枝子の後ろに隠れるようにしていた。智枝子も、その隣に座っている綺香も慣れているのかまったく動じていない。桂凪だけが無視してもよいものか迷いつつ、食事を続行していた。

 ここ立って、と瀬戸に言われるがまま立つと、突然スマートフォンで写真を撮られる。

「はあ、飛紗ちゃんと廣谷さんのツーショット……」

 いま撮った写真を見返しながらうっとりと呟く瀬戸を見て智枝子と綺香に無言で助けを求めるが、二人そろって首を静かに横に振った。

 消してください、と廣谷に責められても、瀬戸はどこ吹く風でむしろ至近距離で写真を撮って満足げにしている。やがてやりとりに疲れたのか諦めた廣谷が盛大な溜息をつきながら智枝子に後ろから抱きついた。背が高い分、腰がつらそうな体勢だ。これはこれでどうなのか、と智枝子の恋人である綺香に目線をやる。綺香は両手の親指と人差し指を伸ばして向かい合わせると、手前に二回、回した。「いつものこと」なのか。これが。しかし抱きつかれた当の智枝子も気にせずもぐもぐとパンを頬張り続け、綺香に「これおいしい」と伝えている。

「どうして僕を朽木先生と仁科先生の間にしたんですか」

「仁科先生はやっぱり上座にするしか選択肢がなくて」

「それなら朽木先生が僕より上座にいるべきでしょう」

「二人で挟んだら廣谷さんいやがるだろうなと思って」

 仁科というのは瀬戸の東京での恩師で、歴史学でずっとお世話になっている教授だ。物静かで厳格そうな雰囲気のひとで、朽木とは折り合いが悪いのか、二人とも何も言わなかったが空気がぴりりとしていた。確かにあの間に座っていなければならないのは苦痛だろう。どちらもそれぞれ権威で、お互いをもっとも認めているからこそ気に喰わないらしい。両方に師事しているのは瀬戸だけと聞いた。それどころか、同じ会場に二人を呼べるのも瀬戸だけと聞いた。招待客の文学教授が言っていたので間違いない。こちらは研究的には廣谷の師匠筋だそうで、どのひとも名刺の肩書を見てぎょっとした。

「廣谷さん、二次会も来るでしょ?」

「行きませんよ」

「え、廣谷さん来ないんですか」

 食べるのをやめて、智枝子がぱっと顔を上げて振り向いた。智枝子に見つめられた廣谷が少しだけたじろぐ。

「たぶんあやくんは親戚付き合いとかあるやろうし、一緒やと安心やなって思っ」

「行きます」

 智枝子が言いきるよりはやく、廣谷が真顔で答えた。やりとりを聞いて、瀬戸が言質はとったとにっこりしている。もう一度綺香を見つめるが、やはり両手の親指と人差し指を伸ばして向かい合わせにし、手前に二回回した。

 ひな壇の上に戻ろうとすると、眞一くん、飛紗ちゃん、と声をかけられて振り向く。一瞬誰もいないかと思ったが、視線を落とすと心寧がもじもじと手を合わせながら立っていた。

「あのね、しゃしんとってほしい。いっしょに」

 おそらく今日のために用意されたワンピースと、二つにまとめられた髪が愛らしい。きっとこの一言をかけるのも彼女のなかではひどく勇気がいっただろうことが容易に想像できる。

 おいで、と瀬戸がしゃがみこんで心寧を呼ぶと、ぱあと顔を輝かせて駆け寄った。瀬戸の首に腕を回し、抱きあげられたときの表情が少女ではなかったので飛紗のほうが照れてしまう。こんなに小さくても、やはり女は女だ。

 かわいい女の子は正義、と学と椛がばしゃばしゃと写真を撮る。聰一も椛も、学とは仲がよいようだ。撮り終わるとすぐさま映り具合を確認しに行った心寧を見て、世代を感じる。そうだ、写真はその場で確認できるものになっているのだった。いまや当り前に自分も同じようにしているのに、改めて気づいて驚く。

 朝、煙草吸ってくる、と言ったきり結局一度も戻ってこなかった一至も、どこにいたのか披露宴にはきちんと着席していた。飛紗の独身の友人たちがちらちらと一至と奈津を盗み見ている。

「そろそろ指輪でも買ったらどうですか? 防御策として」

「いやに決まってんだろ。俺別に女の子にちやほやされんのきらいじゃねえもん」

「人見知りで相手は全部俺に任せて逃げるくせにな。瀬戸、もっと言ってやって」

 内情を知っていると別にもて自慢ではないのがわかるけれど、聞きようによっては嫌味にしかならないやりとりだ。今日に限って言えば瀬戸側の招待客の年齢層が高めなので、なおさら二人に視線が集まりやすい。

 先ほど渡しそこねた心付けを渡そうとひっそり奈津に話しかけると、にこやかに手を横に振られた。

「ああ、俺そういうの受けとらないことにしてんの。気持ちだけもらっとく」

 一度は断る謙虚さが日本人の美徳として数えられるが、そういった形式的なものではなく、穏やかながら確固たる意思を感じてそれ以上は何も言えなかった。瀬戸も頷いたので、おとなしく引き下がる。大人の階段を上りそこねた。

 一至は癖なのか袖をぐいぐいと引っ張って、手をなるべく隠そうとしていた。ワイシャツなので当然あまり伸びず、すぐに元に戻ってしまう。

「あのさ、座席表にあった鷹村綺香ってさ……」

「わたしの弟です」

 ちらりと一至が視線を上げて、またぐいぐいと袖を引っ張った。布が傷んでしまう。

「歌人の?」

 やがてためらいを含めて問われた。確かに綺香はたまに専門雑誌に短歌が掲載されている。それだけで食べていけるほどではないが、安定はしてきていて、最近では細々とした文章の仕事も入ってくるようになった。掲載され始めたころは耳が聞こえない綺香の補助で打ち合わせなどをマネージャのごとくやっていたのを思い出す。懐かしい。スカイプやラインといった、リアルタイムでやりとりできるツールがすっかり主流になったが、最初のころは慣れていないのもあり細かい部分で調整するにはやはり厳しいところがあったのだ。いまは編集とも懇意になったため、よほどのことがないかぎりは綺香が自分ひとりでやっている。

 本になっているわけではないし、残念ながら幅広く読んでもらっている分野でもないので、知っているのかとうれしくなる。そうです、と答える声が自然と大きくなった。

「まじか。俺、すきなんだよな。よろしく言っといて」

 頷きつつ、できれば直接言ってほしい、と思う。きっと綺香がよろこぶから。しかしすきな作品の作者には会いたくないという気持ちもわかる。読者としての気持ちと姉としての気持ちが混ざって何もできずにいると、瀬戸がさっさとスマートフォンで綺香を呼び出していた。

「おい瀬戸」

「そういうのは自分で言ってください」

 憎まれ口をたたきながらも、一至はまんざらでもなさそうだった。事情を説明されて、綺香が照れくさそうに頭を下げる。奈津にヘアメイクを頼んでくれたり、披露宴のため関西に足を運んでくれたり、瀬戸の友人とはいえ一至にはしてもらってばかりだと思っていたが、綺香のおかげで少しは返せたかもしれない。

 結局連絡先を交換したのには、瀬戸が驚いていた。一至が初対面の人間に連絡先を教えるなんてまずありえないことだそうだ。綺香も一至のエッセイは好んで読んでいたはずだから、仲良くなれたのならうれしい。

 最後に作成してもらった映像を流して、参加者を親と見送り、披露宴は無事終了した。学は俺が並んでいると云々と駄々をこねたが、瀬戸に「いてください」と言われて、しぶしぶ頷いていた。涙もろいのかそれとも両親のことで涙腺がよわくなっていたのか、ほんのり涙目だった。

 親への感謝の手紙などは読んだりしなかったのだが、そろそろ着替えなさい、と小春にぽんと背中をたたかれたとき、突然幼いころの映像がよみがえった。いまより長い髪を一つにくくって、外を歩くときは手をつないで歩いてくれた母。あまり話すほうではないが休日には遊びに連れていってくれて、家では将棋を指していた父。

「あの。お父さん、お母さん」

 どちらも思い出より小さくなってしまった。当然ながら飛紗の身長が伸びたからであるし、一人でできることが増えたせいだ。

 呼びかけたものの続きが出てこず、二人が不思議そうに飛紗を見つめる。いろいろな作品で読んだり観たりしてきたからか、いままで育ててくれてありがとう、という言葉がまっさきに浮かんだが、なんだか言いたいこととは違う。和紀と小春はこれから先も飛紗の親であり、飛紗は二人の娘である。だから感謝も伝えたい一つではあるものの、きっと一〇後だって、助けてもらうことのほうが多いはずだ。

 その、と何を言うべきか迷ったまま声に出すと、飛紗も意識しないままあっさりと続きが口から流れてきた。

「わたしの親が、ふたりでよかった」

 ああ、これだ。言いたかったことは。

 父母は顔を見合わせたあと、何を言っているのだか、と口をそろえて言い、相好を崩した。

「ずっと自慢の娘よ、あんたは。はよ着替えといで」

 再びぽんと背中を押されて、急かされる形で更衣室に向かう。やはり敵わない。一生敵わないのだろう。特に母には。

 購入したドレスなのでたたんで袋に詰め、着替えてから控室に入ると、なぜか奈津がまたジャケットを脱いで袖をまくって立っていた。

「二次会のヘアメイクまでセットで注文されたものですから」

 いたずらっぽく笑い、椅子を引いて座るように飛紗を誘導する。申し訳ないやらありがたいやらで頬が緩んだ。コームは忘れないようにと手渡され、髪に差した小花やヘアピンがどんどんと取られていく。セットのためのヘアピンは案外数も多いしどこに差しているかわからなくなってくるので、外してもらえるのはありがたい。成人式の日に全部取れたと思って風呂に入ったらまだ何本か差さったままで、洗うときに手に刺さった経験がある。

「緩く巻いたままになるけど、明日にはとれてるから」

 櫛を入れて整えながら奈津が言い、化粧水や乳液といった肌のケアをされたあと本日三回目の化粧を施してもらう。結婚式、披露宴、そして二次会とどれも雰囲気が異なっていて、プロの仕事に感心する。どれくらい考えてくれたのか。注文を丸投げしてしまったことが今さら悔やまれる。しかし奈津も瀬戸と同じく、「そういうときは感謝だけでいい」というタイプだ。ありがとうございます、の言葉に思いをのせた。

 最後に口紅を差そうと奈津が前面に回ったところで、待って、と制する。その瞬間、ノックとともに瀬戸が顔を出した。さすが、いつでもタイミングのいい男である。

 ばっと立ちあがって瀬戸に駆け寄り、唇を奪う。

「今日ずっと、したかったから」

 身長が変わらないと背伸びしたり屈んだりしてもらう必要がなくて便利だ。いつもの笑みも忘れたように真顔に戻っている瀬戸に言い放って、すみません、と椅子に戻る。ちょっと恥ずかしくはあるものの、ホテルのスタッフは慣れているのか見て見ぬふりをしてくれたし、奈津は何事もなかったように笑みを返した。

 ははは、と背後から笑い声が聞こえる。鏡越しに瀬戸が腹を抱えて笑っているのが見えた。

「どう、奈津くん。うちの奥さん最高でしょう」

「そうだな。最高にいい女だよ。お前についていけるだけある」

 瀬戸といれば無敵なのは当然だ。紅をさしてもらって、大きく伸びをした。



 *



「ただいま」

 心なしふらふらする足で部屋にあがり、荷物を置いて床に座りこむ。このまま休むと片づけられない。いや、休みなのだし明日でもいいか。考えていると瀬戸が水を持ってきてくれた。帰りの電車で仮眠したせいか頭がぼんやりしている。それか、家にたどりついて安心したのかもしれない。

 お礼を言って水を飲むと、自分でもおそろしい勢いで飲みほしてしまった。

「はあ、疲れた。学者さんってみんなあんな大酒飲みなん?」

「そういうわけではないんですが」

 瀬戸が困ったような笑みを浮かべる。朽木は披露宴だけで帰ったが、教授という肩書を持つほとんどはそのまま二次会も参加し、飲み放題のもとをばっちり取るくらい飲んでいた。むしろ店が泣いていないか心配になる。普段から学生と触れあっていると若者の扱い方も心得ているらしく、他の参加者に交じって盛りあがり、最終的に全員の参加費を千円ずつ負担していた。廣谷は「お前も四〇超えてるんだから俺たち側だ」「金ならあるやろ独身貴族」と責めたてられ、逆らえないのか黙って従っていた。あと智枝子の分は智枝子が自分で払うと主張しているのも聞かず、全額負担していた。

 店舗の子など、二次会だけに招いたひともいたので、親族がほぼ帰ったにも関わらず披露宴より多い人数での開催だった。しづるが音頭をとって乾杯したあとは、ひな壇がないので楽にしていられた。

 波間さん、にも、初めて会った。写真や、遠くから見かけたことはあったが、会うのは初めてで、実在していたのかとばかな感想を抱いた。見事なくらい真白な髪がうつくしく、そのために年齢より老けて見えたのだけれど、ぴんと伸びた姿勢が恰好よかった。女子校にいればもてたタイプだ。

 おめでとうございます、とご祝儀を差し出した波間に、ありがとうございます、と瀬戸はいつもと変わらぬ表情で受けとった。紹介されたとき、平静を装って挨拶ができたと思うのだが、ほんのひとさじ動揺していた。この二人の間には過去もいまも何事もなく、また、普段もこんな感じでいるのだろうことが察せられた反面、実際に会うと生々しく、変な想像をしてしまう。貧困な発想がかなしい。

「あのひとは」

 そんな飛紗のことなど当然わかっているとばかり、瀬戸はじっと飛紗だけをその瞳に映した。

「いまも亡くなった夫に恋をしているんです。私が何度も飛紗ちゃんに恋してるように」

 姪の智枝子に話しかけたり、教授たちに挨拶をしている波間の背中を目で追う。話が途中ですり替わっていることには気づいても言及はしない。関係ない、心配することはない、と言い訳にしかならない物言いをしなかったのは、ただ飛紗を安堵させるための言葉だとわかっている。だいいちたまたま飛紗が瀬戸をすきになったとき、瀬戸がすきだった相手が波間だったというだけで、本来何かを言う必要は瀬戸にはないはずなのだ。飛紗が気にするので言ってくれているだけだ。

 いろいろ考えていたが、なぜかポーカーを始めていた教授たちの誘いを断りきれず波間は一勝負だけと言って参加し、ロイヤルストレートフラッシュを決めると「明日も予定があるから」と颯爽と帰っていったのを見て、好意を抱かざるをえなかった。

「飛紗ちゃん」

 話しかけられて、顔を上げる。たくさんのひとにあっていろいろなことがあったから、頭のなかがぐちゃぐちゃと混乱していた。思えば怒涛の一日だった。

「たのしかった?」

 瀬戸の左手の薬指には、朝にはなかった指輪がはめられている。そして飛紗の薬指にも。

 刻印はお互い内緒でお願いしたのだが、蓋を開けてみればまったく同じで笑ってしまった。考えていることが一緒だと、舞いあがってしまうのはなぜなのだろう。しばらくは誰に聞かれても、答えずに大事にしていたい。瀬戸と二人だけのものにしていたかった。

「うん。たのしかった」

 勢いよく抱きつくと、不意打ちだったため瀬戸とともに倒れる。口紅が落とせてなくても、もう気にする必要はない。瀬戸もたのしかった? と問うと、うん、と返された。指輪、違和感ある? 少し。いややったら外してもええんやで。大丈夫。あ、ウエディングベアだけでも出してやらな。唇を重ねたまま会話をしていると、飛紗ちゃん、と瀬戸が体をぐるんとひっくり返した。

「ちょっとだけ黙って」

 苦しくなるくらい長く口づけられて、瀬戸のシャツをつよく握りしめる。そういえば結局持っていったネクタイは一度もしなかった。

 やがて満足したのか瀬戸の唇が離れて、代わりに額がぶつかる。ほんのり移っている紅をなぞるように触れたら、飛紗ちゃん、とまた呼びかけられた。

「やる? 言ってたやつ」

「やる」

 もう一度軽く口づけて起きあがる。ぼんやりしていた頭もだんだん冴えてきた。みんなに祝われるのはありがたいし悪くないけれど、ふたりきりは特別だ。わくわくする気持ちが疲れを忘れさせてくれる。

 湯を張っておいた浴槽に、安物の赤ワインを何本か。一本だけ贅沢なワインは区別がつくように白だ。買い取ったウエディングドレスを着なおして風呂場に入る。試着を合わせ何度か着たおかげか、思いのほか一人でも時間をかけずすんなり着替えられた。瀬戸はフロックコートを着て、恰好だけはさながら結婚式であるのに、場所が家の風呂場なので不釣り合いで笑ってしまう。浴槽だって二人入ってぎりぎりだ。

 助けてもらいながら浴槽に入ると、ざぶんと音がしてお湯がもったいなくもこぼれた。あたたかい。冷えていた足に血がめぐっていくのを感じる。

「服を着てるだけで水が重い」

「一回肩まで浸からへん? そんで、白いの開けて」

 浸かってみると銭湯がごとくお湯が流れてしまって、その勢いに手をたたいて笑う。ウエディングドレスもフロックコートもびっしょり、ずぶ濡れだ。瀬戸の顔にお湯をかけると、同じようにやり返されて、小学生のときのプールを思い出す。

 ひとしきりやり合うと、瀬戸が濡れた髪をかきあげた。白ワインを手に取って、コルクを開ける。シャンパンと悩んだが、披露宴の最初に飲んだので白ワインで正解だった。割れてもかまわないような安物のグラスにそそいで、乾杯をする。ワインを注ぐのは男の役目だから、相手が上司であっても女は触るものではありません、と小春に教えられたのはいつだったか。結局仕事の付き合いで連れていってもらった店ではグラスワインを頼むか、ソムリエが入れてくれるかで関係なかったし、瀬戸と家でワインを開けるのはこれが初めてだ。

「飲みやすい。飲みやすいけど、浸かりながらってほんまはあかんのよね」

「だから一杯だけね。あとは水飲んでください」

 温泉に日本酒もしたことがないのに、家の浴槽でワインとは。瓶にコルクを戻すと、瀬戸は飲みほしたグラスとともに風呂場の外に置いた。立ちあがるときに「重い」と叫んだので、飛紗も同じく立とうとすると、あまりの重さに一度浴槽のなかに戻されて笑ってしまった。

 助けてもらいながら立つと、ざばざばと服から水が溢れた。ドレープもしおれて、もはや花をかたどっているとはわからない。

 安物の赤ワインを開けると、せーのでお互いにかけあう。白いウエディングドレスにも、白のフロックコートにも赤が染まった。プロ野球で優勝時にビールをかけあうのは何がおもしろいのかとテレビを見ながら思っていたが、もったいないという気持ちと、本来怒られることだという背徳感が相まって、非常にたのしい。というか、もうなんでもおかしくて、けらけらと笑いながら浴槽にまき散らした。

 ドレスが水とワインを吸い取って、下に下に重力がかかる。負担がかかってきてつい座ると、瀬戸の足を引っかけてしまった。バランスを崩した瀬戸がこけないようにしゃがみこむ。

「はは、ごめん。匂いだけで酔っちゃいそう」

「換気が追いつきませんね」

 用意しておいた水を瀬戸が口に含んで、そのまま移される。唇の端で赤ワインの味がした。

「わたしもやる、それ」

 何度か繰り返したあと、ペットボトルを受け取って同じように口に含む。ドレスが重いので割合すんなりと瀬戸を押し倒すことができた。こくり、と咽喉が上下するのを見て、なんだか興奮した。輪郭を確認するようになぞってみる。こうやって急所を触ってもゆるされるというのは、すごいことだ。

「こういうことをどこで覚えてくるんですか?」

 腰を引き寄せられて、また湯船がざぶんと波を立てた。首にへばりついた髪を後ろにやる。

 これはからかっているときの顔だ。額をくっつけて、瀬戸の頬をなぜる。答えは決まっている。

「そりゃ、眞一から」

 ふたりで同時に吹き出して、飽きもせず唇を重ねた。

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