喧嘩

 ショッピングモールでばったりと智枝子に会った。廣谷に会うためわざわざ出身でもない大学に足繁く通う彼女とは月に何回か顔を合わせているけれど、二人きりというのはなかなかない。物珍しさにお茶に誘えば、案外あっさりとついてきた。こんな言い方をするとまるで智枝子が廣谷に会いたがっているようだが、廣谷の我儘を彼女が聞いてあげているのであり、智枝子は廣谷に対して特別な感情を抱いてはいない。無条件に金にも身にもならぬことを、忙しい合間を縫って叶えてやる智枝子は、瀬戸からすればやさしすぎる人間だ。それなのにその「すぎる」ところが毒にならないので興味深く、智枝子が思っているより、瀬戸はそれなりに智枝子に対して好意的な感情を持っていた。

 ケーキを頬張る智枝子を見ていると、それだけでお腹いっぱいになってくる。この店は値段が高めだが、その分ワンカットが大きい。基本的に能面で、いつもどこかねむたげな目をしている智枝子が、食べ物が絡めば途端に表情豊かになる。もっとも、目はやはりどこかねむたげなのだけれど。睫毛の量が多く、黒目が大きいせいだろうか。

「こっちも食べますか? 半分くらい持っていっていいですよ」

「いいんですか? いただきます」

 ぱっと目を輝かせて智枝子は頷いた。瀬戸の言葉に遠慮しても仕方がないことは、もうとっくに学習している。

 この様子を動画に撮って、廣谷に送りつけてやりたい。去年やっとスマートフォンに買い替えていたから、やろうと思えばできる。そのスマートフォンも、智枝子に言って選んでもらったものらしい。

「今日、鷹村さんは一緒じゃないんですね」

「あやくんは短歌の仕事の打ち合わせがあるみたいです。やから終わるまでここでぶらぶらしようかなと思って」

 口にケーキを運ぶ手はとめないまま、智枝子は答えた。廣谷の研究室で綺香の短歌が載っている雑誌を瀬戸も読んだことがある。

 見ているかぎり、智枝子と綺香はべたべたしすぎない。仲がよいのは伝わってくるし、ふたりでいるのが自然ではあるけれど、ひとりでいるのも当然という距離を保っている。たとえば廣谷が智枝子にべたべたしていても綺香は何も言わない。智枝子も綺香に見られていようと平然として、廣谷のすきにさせている。もっともここでいちばんおかしいのはふたりが付き合っていると知っていながら、綺香の前でも気にせず智枝子に密着している廣谷なのだけれど、あの男は「普通」の尺で測るには難しいので除外だ。

「瀬戸さんは何してたんですか。瀬戸さんこそ、今日は飛紗ちゃんと一緒やないんですね」

「私ですか? 映画を観てきました。映画は基本的に一人で観たいので。飛紗ちゃんは式の二次会の打ち合わせがてら、どこかで友人と遊んでいるはずです」

 映画館の入っている階から一つ下りたところで智枝子を見つけたのだ。レストランのひしめく階だったので、遅い昼食でも食べるところだったのかと聞けば、昼食は食べたが空腹を覚えたので気分だけでも味わいにこの階に来た、と言われて驚いた。瀬戸も食にはそれなりに金をかけているほうだが、骨の髄まで食べることを愛しているわけではない。智枝子は下手につまむと満足できずにさらに空腹を覚えてしまうので、いっそ入ることのない、つまりお金がないので我慢せざるをえないレストランの周りをぐるぐるするのであれば気分だけでも高揚するのでは、と考えたらしいが、そんな発想はしたことがなかった。

 それで、甘味処のなかでもより満腹になれるこの店に連れて来たわけだが、智枝子はすでに自分の分を完食していた。いまは瀬戸からもらったケーキをりすのようにもぐもぐと頬張っている。

「あ、披露宴の受付、がんばります。桂凪ちゃんも一緒やって聞いたから大丈夫やと思うんですけれど」

「ああ、こちらこそよろしくお願いします」

 飛紗との共通の知人ということで頼めば、二つ返事で了承してくれた。愛想の点では不安な部分もあるが、そんなに人数を呼ぶわけでもないし、そこらへんは桂凪が担ってくれるだろう。智枝子は数字によわい桂凪の代わりにきちんと金銭を管理してくれるに違いない。

「当日の席、わたし、飛紗ちゃん側なんですよね。心配ってわけではないんですが、その」

 初めてフォークを持つ手をとめて、智枝子が瀬戸を見る。廣谷のことだろう。当然廣谷は瀬戸側であり、智枝子とは距離がある席だ。

「廣谷さんもお世話になった教授が近くに座るので、大丈夫です。みんな扱いは心得ていますよ」

 そうですか、と表情は変えないまま、どこかほっとしたように智枝子は言った。また先ほどのペースでケーキを食べ始める。二三の女の子に周りの人との付き合いを心配される四三歳。図式だけ見たらなんとも間抜けだ。

 眺めているばかりだったが、やっと瀬戸もふわふわのスポンジにフォークを落とす。かなり大きいが、大きくても食べていて飽きないくらいには、ここのケーキはおいしい。

「あの、瀬戸さんは、飛紗ちゃんの大学の先生だったんですよね」

 すっかり食べ終わった智枝子が、ストローをくるくると回しながら言う。彼女が頼んだオレンジジュースは氷までオレンジで、いつまでも味が薄くなることがない。

「そうです。半年だけね」

「二人が知り合いだとは思わなかったので驚きました。結婚するって聞いたときは、もっとびっくりやったけれど」

「もっといいひとがいるだろうにと思ったでしょう」

 意地悪く微笑むと、え、と智枝子が顔を上げた。知り合って一年、智枝子のちょっとした表情の差異にはもう気づいている。困っているのは明白だった。やさしい人間にはやさしさが還元されてほしいと思う反面、心理を暴きたくもなる。あの廣谷があれだけ執着している相手なので、なおさら。

「付き合ってるって聞いたときは、正直、瀬戸さんなんや、って」

 態度はおずおずとしながらもはっきり言われて、声をあげて笑う。おとなしそうに見えるが、わりと言いたいことは言うタイプだ。

「瀬戸さんて廣谷さんがすきなんはよくわかるんですけど、それ以外のことが全部煙に巻かれる感じいうか、大学の外の背景がまったく想像できへん感じっていうか……」

 悩みつつ、気まずそうにしつつ、智枝子は言葉を続ける。言い訳ではなく、ほんとうに素直にどう感じたかを説明しようとしていた。

「でもわたしがそう思っとるだけで、飛紗ちゃんには違ったんやろうなって。やから意外やったんは最初だけです」

 よくも悪くもまっすぐな態度に、瀬戸は口角を持ちあげたまま、炭酸水を飲む。見たまま感じたままですっと受け入れてしまうところが智枝子の長所であり、危ういところでもある。賢い子なので、危うさがこれ以上傾くことはないだろうけれど。

「瀬戸さんて、嫉妬とかするんですか」

「ええ? しますします。中学校からこちら大学まで一貫して女子校、仕事も圧倒的に女性の多い職場で、男性と接する機会が少なくてよかったと思っていますよ。過去にさかのぼって嫉妬するのは大変なので」

 突然の質問と、語尾を持ちあげない聞き方に廣谷を感じながら答える。その狭い世界でここ最近、二人に言い寄られていたのには本人がいちばん「なんでやねん」と憤っていた。「これまでほとんどなかったのに、眞一のせいや」と他人からしたらのろけでしかない言葉とともに。

「嫉妬って、してもおかしくない、ですよね」

 ああ、そういうことか。

 もちろん、と今度はやさしく微笑む。付き合って三年も経っていれば、そこらへんはうまく処理しているのかと思っていたが、確かに智枝子は感情の整理が下手そうだ。相手は感情をうまく隠す綺香なわけであるし、たまには不安になるのかもしれない。

「それで喧嘩を売るのはどうかと思いますけど、こうされるといやだ、とはっきり言うことは悪ではありませんよ」

 ゆっくり食べていると、だんだん胸やけがしてきた。炭酸水で流しこむ形になる。

「うまく言えないなら、うまく言えないって伝えればいいんです。負の感情はきちんと認めないと、むしろ膨張します」

 智枝子も綺香も、二人して溜めこむたちだ。そして飛紗も。その点、廣谷なんかは負の感情を表に出すことだけはとにかく得意だから、智枝子は言葉よりもそちらの影響を受けたほうがよい。

 無事に完食すると、早々に席を立つ。智枝子にはちょうど綺香から連絡がきたので迎えに行くそうだ。おそらく自分のなかで答えは出ていたのだろうけれど、肯定されたことで少しすっきりした顔をしていた。

 なかなかおもしろい時間だった。あの二人も喧嘩をするらしい。



 智枝子と別れたあと書店に足を運んだが真新しいものがなかったので、おとなしく帰ることにする。そろそろ本を整理するべきか。引越すとなると、段ボールに詰める作業が面倒くさい。部屋ごと運べれば楽なのにと思わずにはいられなかった。

 いわゆる新居はなんとか見つかりそうで、ひとまずは安心だ。運のよさは自負があるのであまり心配していないが、飛紗は胸をなでおろしていた。いわく、「結婚式が終わって帰る家は一緒のほうがええやん」だそうだ。なるほどそれもそうだと納得した。

 飛紗とはあまり喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。付き合う前は意地の悪いことを言って不興を買うのはしょっちゅうだったが、それはわざとであるし、付き合いだしてからは小さなことしか覚えがなかった。先日はだし巻き玉子を玉子焼きと言ったところ、烈火のごとく怒られた。瀬戸も飛紗が事あるごとに過去の恋愛を気にしてくるのには辟易している。お互い、遠慮しているということはないはずだ。少なくとも瀬戸にはない。

 会う予定ではなかったものの、もうすぐ駅、と連絡が入り、落ち合うことにする。これから電車に乗るので先に家に行っていてと送ると、改札を出たところで待つと固辞された。もっぱら文字ばかりだったのがここ数日スタンプが添えられるようになって、無意識に口角が持ちあがる。とりあえず一種類しか使ってこないのが飛紗らしい。慣れようとしているところなのだろう。

 改札を抜けると、こちらを認めた飛紗がぱっと表情を明るくさせた。再会したころはこちらを認めるやいなや眉根を寄せて睨むようにしてきたというのに。式と引越しが近いせいか、智枝子にどこか感化されたのか、飛紗との変化ばかり考えてしまう。

「お待たせしました。寒かったでしょう」

「眞一があっためてくれるんやろ」

「言うようになりましたね」

 頭をぽんとなでると、飛紗ははにかむようにして笑った。

「ちえちゃんとケーキ食べたんやろ? ええなあ」

 女性はこういうところが隙がない。感嘆してしまうほどだ。隠すようなことではないのでいずれ話題にはしたと思うが、連絡がはやすぎる。

 肩を並べて歩きながら、二次会主催の子は挨拶をしたがっていたが用事ができて帰ってしまったことや、参加費と場所、当日のおおまかなメニューなどを聞く。

「飛紗ちゃんは、私に遠慮とかありますか?」

「は?」

 突然なにを言っているんだという顔をされて、ふきだしそうになる。ないな。答えはわかっていたけれど、ここまで露骨な反応をされると笑いに変わってしまう。やはり飛紗はおもしろい。すきだなあ、などと柄にもなくしみじみ思う。いや、もはや「柄にもない」自分はどこにもいなくなってしまったのかもしれなかった。

「なに? なにを遠慮するん。ほんまは玉子焼きは砂糖がええけど、眞一に合わせて塩と醤油で我慢するとか?」

 そういえばそんな言い合いもあった。玉子サンドの玉子は厚焼き玉子かゆで玉子かだとか。玉子ばかりというか、基本的には食べ物の論争が多い気がする。

 堪えきれず声をあげて笑うと、飛紗もつられたように笑った。

「おでんには牛すじいるやろ。練りもんやなくて串やで」

「それは私もすきです。ちくわぶも入れてください」

「桜餅は道明寺」

「長命寺です。ところてんは酢醤油」

「黒蜜!」

 ふたりして呵々大笑する。別に心底ではどちらでもよいことを、まるであたかも譲れないことのように言い争うのがなんとも言えず愉快で、体をくっつけながらたのしむ。すれ違った散歩中の犬さえも微笑んでくれている気がした。

「蕎麦は関東って言うけど、わたし出石そばがいちばんすき。うどんは京都のがすきやし、だしは関西がいちばんやと思ってるし、お肉といえば牛やし」

「東京は一個も褒められない」

「そこで関東やなくて東京って言っちゃうところが、東京人の驕りやと思うわ」

 牽制されて、降参するように両手を挙げる。

 飛紗が言うこともわかるし、こちらの文化としてそういう物言いになりがちなのもわかる。象徴的なものとして、関西では主に東京に向けた、関東を敵視するようなテレビ番組が多い。出演者も割合すぐに「東京ってすぐこう言うやろ」というようなコメントを出すし、「これなら東京に負けませんね」などと何の勝負かはよくわからないが勝利宣言をしたりする。しかし驚いたのは、対関東ではなく、関西圏のなかでも「うちは他に負けへん」とこだわり、さらに同じ県内の地域同士で争っていることだ。都道府県になる前、藩政だったころの名残なのか、商人が多かったゆえの気質なのか、興味深い。

 確かに飛紗が指摘するように、瀬戸は東京生まれ東京育ちで生粋の東京人であるが、歴史学をやっていると、東京などたかだか四〇〇年程度の歴史だからある程度見下されても致し方なし、と思っている部分が少なからずあった。特に奈良県など南北朝時代のものが仕切りもなく、名札だけで説明文もなく、ぽんと無造作に置かれていたりする。関東ではありえないことだ。

 故郷に愛着はあるが、他所から来た人間が勝手にどんどん開発して、極端な言い方をすれば責任を取らずに帰っていくのが東京でもある。瀬戸が幼かったころの景色など、高層ビルなどが建設されてほとんど残っていない。

「鼻にかけられると腹の立つ地方一位が東京、二位が京都、三位が東京一都を指して関東って言うとんのに関東って響きで自分たちのことやと思ってこっちは関西なんか気にしたことないよー? って言う関東一円」

「なんか根が深いなあ」

 力強く言われて、少し考える。鼻にかけられると腹の立つ地方などなかった。おそらく気にしていないからで、これが飛紗の言う驕りなのかもしれない。東京が特別すごいと思っているわけではないので、別段正すつもりはないけれど。

「じゃあ、そんな東京人と結婚するお気持ちをどうぞ」

「不本意やけど、眞一やから仕方ない。屈する」

 屈する。言い回しにまた笑う。

 ひゅうと音を立てて冷たい風が通りすぎた。すると飛紗が小さくくしゃみをしたので、手をとってコートのポケットにつっこむ。手袋をしているのに、その上からでもわかるくらい冷たい。ポケットのなかで手袋をとって、さするようにする。

「話戻すけど、眞一相手に遠慮なんかしとったらもったいないもん。喧嘩になっても大丈夫やってわかってるし」

 寒さに体を縮めながら言われて、体をさらにくっつけた。反対側のポケットには飛紗からもらったキーケースが入っている。家までの道のりがいつもより長い気がしてもどかしい。はやく抱きしめたくてたまらなかった。

「やから玉子焼きは砂糖!」

「塩と醤油です」

 やいやい言い合いながら、歩みを進める。ふたりの間のちょうどよい速度は、とっくにお互い把握していた。

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