神様

 運送業者を装って呼び鈴を鳴らす。廣谷はドアを開いて瀬戸の姿を認めた途端、顔のパーツというパーツを中心に寄せた表情をした。それを見た瀬戸は、反対に頬をこれ以上ないくらい持ちあげる。それそれ。その顔が見たかった。

 反射的に閉められそうになったドアをがっと掴む。去年も同じように年越しは廣谷の部屋に押しかけたので、パターンは学習済みだ。廣谷は諦めたらしく、盛大に溜息をついたあと、苦々しい声で絞り出すようにどうぞ、と言った。

「手土産も持ってきてるよ。日本酒と焼酎」

 持参した紙袋を示す。ひどく不本意そうに廣谷は受け取り、もう一度嘆息した。しかしどこかでは期待していたことを瀬戸はよく知っていて、悟られていることをわかっている廣谷はさらに溜息をついた。

「どうも、いただきます」

「お邪魔します」

 部屋には本棚から溢れて所かまわず積みあげられている本とテーブル、テレビくらいしかない。瀬戸と同じく、廣谷は片づけるのが下手なのだ。特に整頓に意味を見出していないという言い方をしてもよい。別室にはベッドやら箪笥やらが置いてあるのだろうが、さすがにそこに踏みこむほど瀬戸は傍若無人ではなかった。

「夕飯なんかありませんよ」

「もちろん食べてきました。酒さえあればいい廣谷さんとは違うので」

 遠慮なくテーブルに座り、コートを脱ぎ捨てる。床暖房が暖かい。

 眉間の皺をほどこうとはしないまま、しかし廣谷はコップを食器棚から取り出してくれる。「世界中の人間に嫌われている」ので他人を信頼なんかできない、と口にして憚らない廣谷がそんなことをしてくれるのは、かなり寄ってきてくれている証拠だ。彼は常に態度が露骨で、気に入らなければ無視するくらいは当たり前であり、コップを出してくれるなど奇跡に近い。住所を知られたからと引越してもおかしくないほどの男である。

 すでに廣谷は飲んでいたようで、酒とつまみがテーブルに載っていたが、コップが二つ置かれた。どちらにも氷が入っている。瀬戸は持参した焼酎を開けて、二つともに注ぐ。定番ではあるが、それなりの値段の酒だ。

「ていうか廣谷さん、また痩せてない? この休みの間食べてんの?」

「……山宮さんみたいなことを言う」

 山宮智枝子とは説明するとややこしいことながら、廣谷と同じ国文学科の波間教授の姪で、廣谷が我儘を言うので月に何回か、わざわざ大学に来てくれている女性だ。卒業した大学は廣谷たちの勤める大学とは異なるうえ、本人が通っている大学と家の往復を考えれば余計な寄り道でしかないのだが、彼女は文句ひとつ言わず、ただ廣谷に会いにやってくる。瀬戸は知らないが、数年前は週に何回か、波間教授の手伝いをしていたらしい。いまはそのときとは違い大学院生なので多忙だろうに、感心してしまう。

 瀬戸の立場から見れば、恋人である飛紗の弟の彼女、ということになり、近い将来親戚になりそうだ。気づいた廣谷が絶望した様子は実に見ものだった。

「山宮さんじゃなくても言うでしょ。抱きしめてもぜんぜん気持ちよさそうじゃない」

「なんておそろしいこと言うんですか、あなた……」

 廣谷の顔が目に見えて青ざめる。智枝子以外(と断言しても差し支えないだろう)に触れることは彼にとって苦行と同じであり、まして瀬戸に対してはことさら嫌がる。最高である。

「廣谷さんのことがすきなので」

「婚約者に言ってください」

「飛紗ちゃんは特別です。廣谷さんはいちばんすきです」

「意味がわかりません……」

「でも飛紗ちゃんが一番がほしいと言えば、残念ながら廣谷さんは二番です」

「ほんとに意味がわかりません……」

 どんどん顔が青ざめていくのがおもしろい。いつの間に飲みほしたのか、すでにコップがカラになっていたので酌をする。これでも廣谷のほうが瀬戸より九つ年輩なのだ。

 そういえば以前、一度だけ智枝子と波間を含めた四人で飲みに行ったとき、廣谷に酌をする瀬戸を見て、智枝子がどこか落ちこんでいた。あれは何だったのだろうか。今度聞いてみよう。

「波間先生には言ったんですか、結婚のこと」

 思わぬ話題を振られて、つまんだするめを一旦置く。

「気になります?」

 すると廣谷はまた眉間の皺を深くさせて、はあ、と溜息をついた。聞くのではなかった、という顔だ。いつもならもういいですと発言を撤回され、無視して答える場面だが、廣谷は頬杖をついて一口焼酎を飲み、一拍置いてから答えた。

「少し」

 瀬戸は真顔になって、じっと廣谷を見つめる。よくも悪くも正直な相手だ。こうなると今度は瀬戸が小さく溜息をつく番だった。

 置いたするめをかじる。潮のにおいが鼻腔を通りすぎていった。

「言いましたよ。お世話になってるからね」

 言葉を崩してほしい、とよくわからないお願いをしてきた飛紗をふと思い出す。敬語は単なる口調のひとつだが、瀬戸にとってもっとも癖がついたものでもある。それが廣谷や波間という年長者相手だとむしろ崩れがちだということを彼女が知ったら、嫉妬したりするのだろうか。それとももうどうでもいいだろうか。

「お世話に」

「そう」

 廣谷が気を遣うなんて、もしかすると来年はこないかもしれない。焼酎を飲みながらそんな失礼なことを考える。

「瀬戸も人間になるんですね」

 これまでは人間ではなかったような口ぶりだ。もっとも、廣谷が瀬戸のことを神か何かだと思っていたことは、瀬戸自身、重々承知していた。人との距離がほとんど誤りない程度に図れる。なんとなく相手の考えていることがわかる。感情の機微を察してしまう。もちろんなんでも思い通りになるわけではないから、超能力でも神でもなく、瀬戸の「普通」であるのだが、外側から見ればちょっとした異常だ。そこらへんを悟られないようにすることにも長けていて、だから飛紗が最初胡散臭そうにしていたのはむしろ本能的な正当防衛だったのではないかとさえ思う。

 とはいえ、簡単に言えば人よりコミュニケーション能力があるというだけの話だ。瀬戸の知人に文字通り誰とでも仲良くなれる男がいるが、彼は彼で瀬戸とは違うコミュニケーション能力を持っている。他人と一定の距離を保つ瀬戸と、他人と距離を詰める彼では、当然相性は悪いのだけれど。

「残念そうな口ぶりですね」

 揶揄するつもりで言ったのだが、

「それはまあ、そうでしょう」

 と首肯されたので、笑ってしまう。廣谷にそんな風に思ってもらえるのであれば、いっそほんとうに神になってもよかったかもしれない。

「つまみは持ってきていないんですか」

 焼酎を瀬戸のコップに注ぎながら、廣谷が言った。語尾を持ちあげずに聞いてくるのは彼の癖だ。七〇〇mlはやはり一瞬で空いてしまう。

「あるよ。ミックスナッツ、と焼き海苔」

 放置されていた紙袋に手を伸ばし、テーブルに広げる。どちらも主張の激しい大きさをしているのによく気づかれなかったものだ。

 この調子だと新年を迎える前に持ってきた日本酒がカラになりそうだが、この家は酒だけなら腐るほどある。廣谷は激しい辛党で、食事がきらいという稀有な存在だ。酒と少しのつまみがあればいいのである。だから酒はあまり飲めないが食べるのがとにかくすきだという智枝子にいつも叱られているのだが。

「来年度はどうなんですか」

「たぶん准教授」

 そもそも准教授を前提に誘われたポストだ。事あるごとに学会をさぼろうとする廣谷とは違ってきちんと研究内容は発表しているし、人脈もあれば愛想もある。

「年明けたら飛紗ちゃん呼んでいい?」

 瀬戸が来る前に廣谷がひとりで飲んでいた酒をコップに注がれる。めずらしく悩むような様子を見せたが、

「絶対にいやです」

 とやはり固辞されてしまった。初対面の人間を家に入れるなど、廣谷にとっては言語道断だろう。それでも瀬戸の恋人だからと一瞬でも考えてくれたことに愛を感じる。口にしたら案の定引かれてしまった。

「山宮さんが一緒なら?」

「絶対にいやです」

 即答される。返答はわかっていたが、先ほどより力強い。実に不思議な関係である。廣谷のなかで対智枝子への線引きは明確だ。そして他人から見たらなぜ、と思うようなその線引きを、智枝子は深く気にしていない。お互い相手を受け入れていて、しかし決して恋愛関係にはならないし、そんなふたりの関係を智枝子の恋人である綺香が許容しているのも不思議だ。廣谷は関係に名前がつくのがいやとか、そんなところだろう。

「私は来年度も一緒ですよ、廣谷さん」

「ああ、そうですね、残念ながら」

 瀬戸が来てから何度目かわからない溜息をついて、廣谷は酒をあおった。



 *



 元日も昼になって家に帰ると、ロングブーツが置いてあった。まぎれもなく飛紗である。今日はきちんと廊下のドアを閉めているので、まだ帰宅の音には気づいていないようだ。

 玄関で立ったまま、少し考える。絶対にいま、酒くさい。なぜならまさに廣谷の家を出る四〇分前までひたすらに酒を飲んでいたからであり、実に七時間。三時間程度の睡眠と、いやがる廣谷に無理やり喰らわせた朝食の時間を除いて、である。若山牧水は亡くなった際、すでにアルコール漬けの状態で死体が腐らなかったらしいが、いまなら近いものがある。

 反対に言えばそう簡単に匂いが取れるわけはないかとあっさり諦めて、瀬戸は靴を脱いだ。放り投げると飛紗に叱られてしまう。新年早々それはお互いよくないので揃えておく。

 ただいま、と部屋に入れば、ベッドで毛布にくるまって飛紗がすやすやと寝ていた。前々から思っていたが、よく寝る。枕元に本が置いてあり、手が上に載っているので、おそらく読んでいる途中で睡魔が襲ってきたのだろう。徳富蘆花の『不如帰』。まあ、文語体に慣れていなければねむくもなるかもしれない。科白は口語体なのだが。魔窟の奥にあったはずだが、よく見つけてきたものだと思う。

 コートをかけてベッド脇に座り、手の甲で頬をなでる。一人だと寝つきが悪いと言っていたから、疲れているのだろうか。

 触れる手に気づいたのか、飛紗がゆっくりと瞼を持ちあげた。瀬戸を認めるとふにゃりと顔を緩めて、おかえり、と言った。たまらない。キスのひとつでもしたいところだが、今日は元日だ。

「明けましておめでとうございます」

 体を起こした飛紗が頭を下げて言ったので、瀬戸も同じように返す。飛紗はまだ少しぼんやりしているのか、小さくあくびをした。

「ごめん、なんかいっつも待ってる間寝てもうて、って眞一、酒くさい」

 やはり気づくか。それは気づくよな。床に散乱していた酒瓶の数を思い出しながら、すみません、と謝る。

「長いこと飲んでいたものですから。ねえ、今日の靴、あれ新しいやつですか? 見たことない」

 はぐらかすような話の変え方だっただろうか。気になっていたのはほんとうなのだが、と思っていると、飛紗はそうやねん、と途端にぱっと顔を明るくさせた。

「編み上げやからちょっと履くとき大変やねんけど、ずっとほしかったやつ、年末に安く売ってたん見つけて。基本的にセールとかしないブランドやからうれしくって、今日おろしたて」

 はしゃぐ飛紗に手櫛を入れてやる。ファッションのことになると、飛紗はほんとうにうれしそうにする。何気なく目線を落として、ふと気づいた。瀬戸は気持ち身を後ろに下げる。一度毛布をどけて、飛紗を膝の上に座らせた。

「……全身見たことないです。アイシャドウの色も新しいですよね?」

 ばれた、という顔で、飛紗が頬を染めた。ワイドカラーのついた丈の長いニットに、ロイヤルタータンチェックのショートパンツと、黒いタイツ。アイシャドウはいつも茶色か青の系統だったのに、今日はピンクだ。

「眞一、目ざとすぎ」

 言葉とは裏腹に、声はまったく咎めていない。口紅は前に瀬戸がプレゼントした色だ。

「かわいくしとったら、褒めてくれるかなって、思って……」

 言いながら恥ずかしいのか、飛紗はうつむいて、最後のほうはもごもごとしていた。

 それで、何時に帰ると伝えていないのに、待っていてくれたのか。来ていると伝えもせず。

「うん、かわいい」

 表情を隠すように垂れている長い前髪を、耳側へ寄せる。

「格好もかわいいし、そうやってかわいくしようとしてくれた飛紗ちゃんがかわいいです」

「……うん」

 この間から、飛紗はかわいいと褒めると素直に受け取るようになった。最初のころに比べたら随分と進歩である。飛紗自身がどれだけ否定しようと、瀬戸にとって飛紗がかわいいのは事実だとしても、やはり言うほうも受け入れてもらったほうがうれしい。

「一日って、何もしたらいけんのやったっけ?」

 瀬戸の首に腕を回した飛紗が、首を傾げて言う。まさか廣谷も、婚約者とこんなにべったりくっつく瀬戸は想像していまい。

「諸説あって、正直どれも俗説の域を出ないんですよね。地域によっても異なるし、ただ歴史が積み重なれば何事も文化になりえるというか」

 一月二日にするという姫始めも、意訳すれば「なんだかよくわからん」と一七〇〇年代には書かれているが、「なんだかよくわからん」まま現代まで残っている。

「まあ、私結婚するまで人間じゃないそうなんで、いいんじゃないですかね。関係ないよ」

「なんそれ」

 くすくすと笑われて、頬をなぜる。人間ではなかったとしたら、飛紗が人間にしてくれたのだ。大袈裟な物言いをしただけで、廣谷に他意はないだろうけれど。地に足がついた。

 そっと軽い力で引き寄せたら、飛紗が身をゆだねてくれたので、やがて唇が重なった。

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