揺揺

 夜、なかなか寝つけない。スマートフォンでもいじろうか、何か本でも読もうか、いっそ起きてしまって水でも飲んでこようか。考えながら、結局どれ一つせず、毛布にくるまるようにして目をぎゅっと瞑る。眉間が寄っていることは自覚していても、そうしていないと瞼を閉じ続けられない気がしてやめられない。そしてふとした瞬間から記憶がなくなり、気づけば朝、ないし昼。

 寝起きはそんなに悪くないのに、ねむりにつくことだけは昔から下手で、布団に入ってからねむれるまで、長いときは二時間くらいかかる。抱き枕でも買えば、との弟のアドバイスを受けて抱き枕を数年前に購入し、使用し始めてからはましになった気はするが、それでも時間がかかることに変わりはない。

(眞一がいれば)

 ふと思ってしまう。ともに生活をしていくうえでの不満を事前に言い合うためのお試し同居は、先日終了した。瀬戸の家で暮らし、だんだんと慣れてきたところで。それでもそもそもの約束だった一ヶ月は少し過ぎていた。飛紗はこのまま暮らし続けてもいいなとどこかで思っていたのだが、瀬戸は年末年始は家族でいたほうがいい、と言った。

 自分は実家に帰らないくせに。

 飛紗は時計を見て、ふうと一つ溜息をつく。反感を持ちつつ、瀬戸の言うとおりではある。これまで恋愛とはほとんど無縁に生きてきたのだから、きっと知らない間に飛紗自身、どこかで疲れているのは間違いなかった。そしてそれはきっと、瀬戸のほうがよくわかっている。聡すぎて気味が悪いくらいの男であるから。

 瀬戸と一緒にいると楽だが、浮かれもする。何もなくても前にしていると笑ってしまったり、他の誰かにはできない甘え方をしてみたり、これまで自分でも知らなかった自分が現れる。慣れない仕事にうまいやり方がわからずいらいらすることが多いように、たとえ前向きな感情であっても、やはりこれまでなかった自分には、順応しきれていない。まだ飛紗にとって「当り前」のことではないからだ。

 いまも、瀬戸がいればだとか、あのままいてもよかったのにだとか思いながら、反面、一人で自室にいることにほっとしてもいる。枕元のぬいぐるみ、理路整然とした本棚、自社製品と他社製品で分けたクローゼット、青いカーテン。二〇数年暮らしてきたこの部屋が、まだまだ、飛紗にとっての日常で、「当り前」なのだ。

 スマートフォンを覗くが、何も連絡は入っていない。無事に年内の仕事が終わり、新年まで気兼ねなく休むことができる。身支度を整えてリビングに向かえば、同じく年内の仕事が終わった母が一人でテレビを見ていた。

「お父さんは?」

「将棋。それより飛紗、もう一一時やで。眞一さんのところでもこんな風に遅く起きて迷惑かけたりしとらんやろうね」

 ああ、うん、そうね、大丈夫。流すように返事をして、味噌汁の鍋に火をつける。シングルベッドだったので瀬戸が再三言っていたように二人で寝るには窮屈だったが、その分体が密着するため、安心してすぐねむりにつけた。だから自然と朝もきちんと起きられたし、朝食を準備するのも苦痛ではなかった。家では母の小春に任せっぱなしであるのに、どういう変化なのか、自分でもわからなかったくらいだ。

 朝食といえば、瀬戸は味噌汁に卵を落とすのがすきらしく、何度かやっていた。これまで見たことがなかったので飛紗は驚き、発想すらなかったと言う飛紗に瀬戸が驚いていた。鍋にはもう飛紗の分しか入っていなかったので、卵を落とすことにする。以前、真似をしてみたらおいしかったのだ。

 弟の綺香は今日が仕事納めのはずだ。妹の桂凪は、東京で友人と年越しライブをしてから帰ってくるらしい。だから結局瀬戸が気遣ってくれていても、家族五人は今年揃わない。

 実家に帰らないということは、一人で年越しをするのだろうか。それとも何か約束でもあるのだろうか。どちらにせよ一人がさびしいというタイプではないし、もしかすると生活が元に戻って安堵しているのは飛紗より瀬戸なのかもしれなかった。一緒に暮らしていた約一ヶ月が、実はしんどかったのだとしたらどうしよう。ほんとうは寝具は別のほうがよかったに違いないし、と考えが迷宮入りしそうになったところで、脳内の瀬戸が「それならそうともう言っています」と叱咤してきたので、脳内で謝る。そうですよね。すみません。

 食べ終えた朝食の皿を洗うと、これといってやることがなくなった。大掃除をしなくても部屋はきれいであるし、お節は買うらしいので手伝うこともない。とりあえず小春の隣に腰かけてテレビを眺める。

「眞一さんとの暮らし、どうやった?」

 母もテレビを観ているというよりは眺めているらしく、目線はそのままに問いかけられた。

「悪くなかった」

 少し悩んでそう言うと、

「ええことやね」

 と、言われた。会話が一度途切れる。三人はゆうに座れるソファ、部屋の端に置かれた将棋盤、瀬戸の家よりは大きいテレビ、そしてクッションを抱えて隣に座る母親。あれ、と思った。住み慣れた家で、間違いなく景色は日常であるのに、なんだかそわそわしてしまう。自室にいるときに比べるとすでに感覚が薄れていた。実家は実家であり、決して余所の家のようだというわけではないが、どこか空気が勝手知ったるものではない。

「なんや、空を掴むようなひとやね、眞一さんは」

「空を掴む?」

 ぱっと小春に顔を向ける。しかし彼女は微動だにせず、瞼だけをゆったりと動かした。

「うまく言えへんけど、お母さんはあんまし会ったことないタイプやわ。あんたよく見つけてきたな」

 見つけたというか、見つけられたというか。言わんとしていることはなんとなくわかる。当初飛紗がそうだったように、瀬戸は恋愛だの家庭だのに無関係そうに感じる。にこにこしていてもどこかで他人を突き放していて、しかし突き放していることは微塵も悟らせない。人間離れしている、というと言いすぎだろうか。もちろんいまはそんな風に思っていないのだが、特に学生時代や、再会してすぐのころはどれだけよくしてもらっても胡散臭さがぬぐえなかった。

 思い返せば返すほど、よく結婚まで至ったなと冷静になる。瀬戸からの好意は疑うべくもない。やはり彼は人間だったのだ。そして飛紗を選んでくれたのは、飛紗にとってとにかく幸運だった。こんな物言いをしたらきっと怒られるだろうけれど。

「ああいうタイプのひとが大切にしてくれるんやったら、きっと大丈夫やろうね」

 うん、と頷く。瀬戸となら大丈夫。瀬戸なら大丈夫。正直なところ、一〇年後、二〇年後、ましてさらにあとのことは想像がついていない。それでも大丈夫という確固たる自信を持てるのは、相手が瀬戸だからだ。

「でも、あかんなって思ったら、すぐに戻ってくるんよ」

 やっと向けられた目に射抜かれる。母は強し。飛紗はうん、とまた頷いて、小春の腕に腕を絡めた。

「まあまだ先やけど」

「言えるときに言っとかんと、ずっと言えんかもしれんからね。あんたたちがどういう話しとるんか知らんけど、別にお正月明けたら行ってしまってもええんよ。今日も暇なんやったら行ってきたら?」

 あっさりと言われて、見透かされたような心地になる。さっさと部屋に戻って本でも読み返しておけばよかった。



 *



「それで来たんですか」

 珈琲を出しながら、瀬戸が言った。向かいに座った瀬戸は当然いつもどおり水だ。一ヶ月の間に飛紗が買った分がまだ残っていて、寒いだろうからと淹れてくれたのだ。飛紗が訪ねたとき、暖房はつけられていなかった。暑がりの瀬戸にはまだ必要ないらしい。いまは飛紗のために暖房をつけた代わりに、腕をまくっている。

 目が泳ぐ。責められているわけではなくとも、なんとなく理由として幼稚な気がして据わりが悪い。それでも瀬戸の姿を見た瞬間ほっとしてしまって、居場所はすっかり移ってしまったのだなあ、と思った。部屋自体は瀬戸のものであるという感覚なのに、不思議だ。

「邪魔やったら帰る」

 長く伸ばして分けてある前髪を、さらに外側に避けるようにする。正月は家族でゆっくりという気遣いを無為にしている申し訳なさがあったし、実家に戻ってすぐ来てしまった照れくささもあった。

「邪魔ではないですけど。友人と遊んだりしなくていいんですか」

「昨日ご飯食べた。し、お正月明けたら遊ぶ約束もしてる」

(あれ)

 瀬戸の茶色がかった瞳がこちらを見ている。拒否されてはいない。確かに邪魔だとは思われていない。だけど歓迎もされていない、ような。

 やはり瀬戸は年末年始くらい、一人でいたかっただろうか。学生の卒業論文を見るのに大変なら休みのうちに自分の研究を少しでも進めたいだろうし、積読している本を消化していきたいだろう。

 だけど、数日前まで一緒にいて、あんなにたのしかったのに。

「違いますよ」

 つくりかけた握り拳がびくりと震える。瀬戸はめずらしくしくじった、という表情で、首をかいた。

「飛紗ちゃんが来てくれたことはうれしいんです。ただ私と付き合い始めてから、他の付き合いが疎かになったりしていないかと思って、ちょっと心配になっただけです」

 きょとんとする。この一ヶ月、瀬戸にべったりしすぎたせいだろうか。もともとは瀬戸と会わない休日には友人と会ったり、読書をしたり、ウインドーショッピングをしたり、勉強をしたり、それなりに遊んでいたし、もちろん休んでもいた。これまでに比べてずっと生活や思考の中心が瀬戸になっているのは事実だが、他をないがしろにしているつもりはない。

「……言われたから来たんですか?」

 目線をちらりと持ち上げて、瀬戸は言った。先ほどまで二人の間に流れていた空気や、飛紗の気持ちが、これで一蹴されてしまった。悔しいけれど、やはり瀬戸は場を操ったり、距離を図るのがうまい。喧嘩をほとんどしていないのは、瀬戸のおかげであるところが大きい。

「会いたかったから、来た」

 うっすらと口角を持ちあげて、うん、と瀬戸は頷いた。

 一人でいることにほっとしたり、瀬戸の隣が居場所だと感じたり、なかなか気持ちが落ち着かない。まったく冷静さがなくなっているわけではないと思いたいが、そう思いたがる時点で冷静ではないのかもしれない。

「眞一って歴代の彼女たちと、どうして別れたん?」

「またそういう話ですか」

 ペットボトルの蓋を開けながら、瀬戸が呆れたように言った。事あるごとに瀬戸の恋愛遍歴を気にするので、この反応は仕方がない。何度聞いても瀬戸は何も教えてはくれず、いつもはぐらかされる。当たり前といえば当たり前だ。

「なんか、不安で」

「不安?」

「みんな、最初はすきやって思っとるから付き合ったりするわけやろ。少なからず……」

 以前にも同じようなことを思って、あのときは瀬戸の言葉にすくわれて、無敵になったのに。大切に大切に持っていても、無敵状態は永遠には続かないらしい。

 熱は冷めるもの。結婚は生活。共同体であり恋人ではない。男女というよりは家族。

 外から入ってくる象徴としての「夫婦」が、飛紗を不安にさせる。精神的によわいほうではないと思っていたけれど、恋愛となるととんとだめだ。瀬戸の態度や言動で不安になるならともかく、自分の感情に溺れかけるなど愚の骨頂だ。

 左手の薬指につけている指輪を触る。爪が当たってかちりと音がした。

 瀬戸は少し首を傾げたあと、小さく溜息をついた。怒っているわけではないようだが、感情が読みとれない。黙ってじっと見つめる。

「形なんてそれぞれですよ。私にも恋人とか結婚とか、よくわからないし」

「眞一でもわからんの」

「そりゃあねえ、特に結婚なんてしたことないし、こんなにすきな相手と付き合うのだって初めてですし……」

 さらりと言われて、あ、はい、とかすれた声が出た。ごまかすように珈琲を飲む。瀬戸の淹れてくれる珈琲は、飛紗が自分で淹れるよりも随分おいしい。本人は普段水しか飲まないのに。

「お金で愛を量る人がいれば、コミュニケーションの量で考える人もいますし。だいたい飛紗ちゃんだから平気なことがたくさんあるんです。対象が人間なんだから反応なんて十人十色で、私だって手探りです」

「じゃあ、眞一は不安になったりせんの?」

 確かに不安とは無縁そうな男ではあるが。瀬戸はいつでも堂々としていて余裕があり、人を喰ったような態度で、だからこそ、照れたりうろたえた姿が見られると、自分にしか見せてくれない表情だとわかってうれしい。いや待て、うろたえた姿はまだ見たことがないか。捏造するところだった。

「そんなことはないですけど。でも常に想定内のことが起きるばかりではないから、私は歴史学をやっているのかもしれないですね」

 歴史学の対象は基本的に人間なのだと、前に教えてもらった。化学と同じで必ず原因があり、それに基づいた結果がある。化学と違うのは常に同様の環境が整うことはなく、また同様の原因があったとしても結果が同じとは限らない。対処する人間によって、そのときの感情や環境によって、客観的に見たら驚くような選択をしていたりする。同じ人間であっても、もしかすると昼であれば別の選択をしたかもしれないし、周りに人がいればさらに別の選択をしたかもしれない。けれど「もしも」は起こりえないので、積み重なって歴史がある。

「主観に他人の目線を持ってこようとするから不安になったり、失敗したりするんじゃない?」

 珈琲の入ったマグカップを除く。黒い揺らめきのなかに自分の顔が映った。これは自分の目線。誰かと交換することはできない。流行りの映画のように中身が入れ替わっても、結局外見が違うだけで、目線は自分自身のままだ。だから元に戻ったとき、入れ替わった相手と同じようにふるまうことはできないし、何を考えていたかを知ることはできない。

「納得した。眞一すごい」

 無敵のかけらを、また手に入れた。

 顔を上げると目が合って、瀬戸はそれはよかった、と水を飲んだ。

「さっきのお金で愛を量るで思い出したんですけど、大層なお歳暮が届いたんで持って帰ってください。迷惑なら突き返してくれてもいいし」

 そう言って瀬戸は魔窟から大きな箱を持ってきた。受け取るとずしりと重い。品名には、「三元豚・金華豚」と書かれている。

「え、いいの? ええやつやん、これ」

 確かに瀬戸が一人で食べるには量が多いが、一箱もらうのはもったいないくらい高くておいしい、有名なブランド豚だ。もらったところで、おそらく小春に瀬戸を呼べと言われることはなんとなく予想がつくものの、一応言う。

「お金で愛を量る玉の輿に乗った大学の同期が、毎年お中元とお歳暮にケーキだの豚だの送ってくるんですよ。いらないのでやめてほしいんですけど、住所を隠すと教授に聞いてでも送りつけてくるんだよね。家まで送るのでぜひもらってください、むしろ助かります」

 そう言われては、断る道理はない。まだ梱包を解いてもいないので本音だろう。中身がどうなっているのかわからないが、年末年始のたのしみが増えた。

「眞一は一人で年越しするん? うち来る?」

 豚は一旦テーブルに置いて、瀬戸の膝に腕と顎を乗せる。床は暖房で温かくなっていた。当たり前のようになでられて心地よい。

「ありがたい申し出ですけど、出かけます。年末年始に廣谷さんのところに押しかけて、いやそうな顔を見るのが心底たのしみなので」

 今日いちばんのいい笑顔をされて、廣谷さんを憐れに思う。飛紗は会ったことがないが、瀬戸と同じ大学の文学部の教授である。弟の綺香が卒業論文の際に担当してくれた教授らしく、弟いわく、「じゃっかん引く」くらい、瀬戸は非常に好意を抱いているようだ。

「あと年末年始早々、倒れたりしていないか確認したいのもあって」

 聞けば聞くほどどういうひとかわからず、混乱する。教授ということはそれなりの年齢のはずだが、体調管理が下手なのだろうか。

 年越しまであと数日。もしかすると、会うのは今日が今年最後になるかもしれない。そう思って、一度少し離れる。

「来年もよろしくお願いします」

 頭を下げると、瀬戸がふっと笑い椅子を下りて、こちらこそ、と頭を下げた。

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