第4話 冬の朝のデジャブ

「飲みすぎたか……」

 矢作次郎は、眠い目をこすりながらモニターに映るニュースサイトをぼんやりと眺めていた。それは彼にとっては日課であり、だからといって省略してもまったく構わない「どうでもいい習慣」であったが、ここ数年はほぼ間違いなくその行動を繰り返していた。『飲みすぎた』とはすなわち昨晩の飲酒のことであり、それもまた「どうでもいい習慣」の一つといえなくもない。どこをどうやって家に帰ったのか覚えていないことは、しばしばある。そしてひどいときには今朝のようにどうやって事務所まで来たのかわからないこともある。


 ただ、ひどく寒かったことだけは覚えている……冬の朝。身体の芯から冷える。


「あーあ、何にも覚えてないや」

 矢作の勤め先は自らが5年前に興した個人事務所であり、アパートから徒歩で12分ほどのところにある。矢作の仕事はコンサルタントであり、独立したのは30歳の時であった。


「今日は11時の約束だったか……。着替え、着替えっと」

 独立したばかりの時は自宅アパートを仕事場として使っていたが、ある程度仕事も軌道に乗り、アシスタントを二人雇った。ともに矢作とは旧知の中であり、近所のマンションの一室を借りたのは2年前のことである。当初はプライベートと仕事を分けていたが、最近は着替えから洗面道具、寝具まで生活に必要なものは事務所にほとんどそろっていた。アシスタントの二人はともに主婦であり、保育園に子供を送って10時から5時まで仕事をしてもらっている。彼女たちの腕や気立てのよさには十分満足していたが、矢作を一番喜ばせたのは、二人とも主婦であることであった。旦那がいて子供がいる。矢作はかつて若い女性で痛い目を見たことがあった。その経験から雇うのであれば主婦と決めていた。


「二人が来る前に支度を済ませないとなぁ」

 パソコンの画面の時計を確認する。9時40分だ。洗面所でもう一度顔を洗い、髭のそり残しがないかチェックする。左の顎に見事なそり残しがある。それを安物の電動カミソリで処理をする。どういうわけだかいつも同じところをそり残してしまう。髪を整え、クローゼットからワイシャツとスーツを取り出しすばやく着替える。9時50分。本間美奈子が先に出社、そのあと1分もしないうちに鈴木幸子が出社した。


「おはようございます。あら、昨日は遅くまで飲んでいたんですか?」

「わかりますか?」

「ほっぺたにキスマークがついていますよ」

「それは大変だ。クライアントに嫉妬されてこの案件がだめになったらせっかくのみんなの苦労も水の泡だからね」

「矢作さんがクライアントに怒られてもかまいませんが、それで仕事が流れちゃったら私たちが困りますからね」

本間美奈子は、気の利いた会話ができる賢く、明るい女性である。


「コーヒー入れましょうか?」

「あ、すまない。熱いコーヒーで寝ぼけた頭を覚まさないといけない」

「アリアリでいいですか?」

「あぁ……。いやっ、ナシナシで」

 鈴木幸子は、優等生タイプ。優良企業の秘書というのは、きっとこういうタイプに違いないと矢作は考えていた。『なしなし』とは『砂糖なし、ミルクなし』の略で、矢作はこれを使い分ける。

「お酒もほどほどにしないと、身体によくないですよ」

「そう思わないでもないんだが、どうにもやめられなくてね。でも、ほら、タバコは吸ってないよ。禁煙はどうにか続いているよ」

「副流煙っていうのがよくないらしいじゃないですか。お酒を飲むところって、だいたいタバコの煙が充満しているでしょう。わたし、パチンコ屋さんの前を通りかかったとき、たまたまそこから人が出てくるとタバコの匂いで気持ち悪くなります」

 鈴木幸子は大のタバコ嫌いで、矢作がタバコを止められたのは、ほとんど彼女の手柄といっていい。


 鈴木幸子がコーヒーを入れている間に、矢作はメールのチェックを始めた。ふと矢作は、前に同じようなことをしたような感覚に襲われ、マウスを動かす手を止めた。

「あれ? アポのキャンセルのメールが来ているなぁ……でも、なぜだろう。前にも同じことがあったような感じがするなぁ」

「それはきっと、デジャブってやつですよ」

 本間美奈子がPCの電源を入れながらそっけなく答える。

「デジャブ……あぁ、そんな言葉あったね。なんだかすっかり忘れて……」

 さらに矢作は前にも同じようなことがあった感覚に襲われた。

「まいったなぁ、この会話まで織り込まれている」

 ふと、矢作は次に鈴木幸子が何か失敗をするのではないかという感覚に襲われた。

「あら、やだ。なにわたし、ぼーっとしてるんだろう。コーヒー、『アリアリ』で入れちゃった」

 矢作はどうしようもない不安に襲われながらも、頭の中に浮かんだ言葉を抑えることができなかった。

「ああ、別にいいよ。朝一は『アリアリ』のほうが多いからね」

 些細な失敗にも関わらず、鈴木幸子の手は震えていた。ちなみに『アリアリ』とは『砂糖、ミルクあり』のことである。

「どうしたの、幸子さん、何か悩み事でもあるの? それともどこかでいい男にでも声をかけられたとか」

「やだぁ、美奈子さん、そんなことないですって」

「何か悩みがあるのなら、相談に乗るわよ。たまには二人で、ぱーっと、飲みに行こうか」


『いいな。僕も参加したいな』と私は言う。

『だめですよ。女同士の会話に入ってくる男の人は嫌われますよ』と本間美奈子が言う。

『別にかまわないじゃないですか。たまには3人というのも――』と鈴木幸子が言い終える前に本間美奈子が

『だめだめ。甘やかしたらつけあがるわよ。そんなことだからいまだに矢作さんは独身なんだから』と言う。


 そして、私は――


『コーヒーもらうよ』

 一瞬の沈黙、ひきつった笑顔、震える手……


『だめだ。このままじゃいけない。このままじゃ――』





「もう遅いわ。何もかも……、いえ、でもまだ間に合うかもね」

 矢作は、強烈な寒さに身を震わせて飛び起きた。冬だというのに暖房のかかっていない部屋は、吐く息も白い。しかし、ここはどこなのか――

「ここは……、事務所のソファ。寝てしまったのか私は……」

 矢作の視界に、一人の少女の姿が映った。


 彼女は、まるでフランス人形のような、透き通った白い肌をしていた

 髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としている

 目はパッチリとしている

 瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしている


「君はいったい……。いや、どうしてここに?」

 矢作は最初、目の前にいるのが少女だと思ったが、すぐにその考えを改めた。少女というにはあまりにも妖艶でどこか成熟した美しさがある。しかし、まるで年齢を重ねることを忘れた人形のように、彼女の時は止まって見えたのであった。

「質問に質問で答えるようで申し訳ないのだけれど、あなたはどなた? ここの住人? それとも別の世界の住人?」

「別の世界? ぼ、僕は矢作次郎という経営コンサルタントでここは僕の事務所です」

 矢作は、キツネにでもつままれたかのような表情を一瞬見せたものの、あまりの寒さで表情がこわばってしまい、まるで何かに怯えているかのように震えていた。


「そう。ここはあなたの事務所だったのね」

 矢作は一瞬戸惑い、そしてやや不快な気持ちになり、寝ぼけた頭を右手で叩きながら不満を訴えた。

「どうして君がここにいるのか説明を……。それに『事務所だった』って、どうしてそんな言い方をする。君はいったい何者なんだ?」


「黒き望みをかなえる者、悲しき想いを見つめる者、深き闇をさ迷う魂の叫びに、耳を傾ける者よ」


 矢作の苛立ちは強烈な寒さのせいもあり、見知らぬ女性に遠慮のない態度をとるに至るほど増していた。


「ふざけているのかね。君は! 人の事務所に勝手に上り込んで、いったい何様のつもりなんだ! 今すぐここから……」


『今すぐここから出て行きたまえ!』と言おうとして、あまりの寒さに舌が回らず、『出て行きたまれ!』と言ってしまう。


「出て行きたまれ!」

 矢作は、言い放って絶句し、次の言葉を探すのに、必死になったが、一つの言葉いがい思いつかない自分に更に苛立ちを強めた。


「ふらけるら! あかにするのもいいかれんにすろ!」


 寒さで口が回らないのか?

 いや、そうじゃない……。これはそうじゃないんだ

 これは……


「コーヒーに毒を盛られて、あなたはすでに、この世にあるべき存在ではなくなっているということを、そろそろ認める気になったかしら?」


 矢作は震えながら首を振る。それは寒さでもなく、毒による痙攣でもなく、死への恐怖による震えであった。


「そう。じゃぁ、仕方がないわね。あなたがそれを認める気になるまで、同じことを繰り返すことになるわよ。それがあなたの望んだことだから、私にはとやかく言う気はないのだけれど……『アリアリ』のコーヒーには気を付けることね。『殺意あり、毒あり』よ。じゃあ、また眠りなさいな。酔いつぶれて帰ったあの夜まで時間を戻してあげるわ。そしていつか、あなたが『アリアリ』の本当の意味に気づいた時に、この呪縛から解かれるわ。たぶんね」


 矢作次郎は口から泡を吹き、その場に倒れた。しかしその顔には、どこか安らぎの表情があった。

「そうね。次に目覚めたときにはそろそろ気づくころかしら。安心して眠りなさいな。そして本当にあなたが目覚めたとき、自分がどうしてこういう結末を迎えたのかが、わかるわ。でもその時は、もっと恐ろしいことになるのだけれど――」


 少女は、静かにその場所を立ち去った。


 数日後、矢作の遺体が発見され、二人の女が逮捕された。二人はともに矢作に脅迫され、この部屋で売春を行っていたのである。矢作はかつて女子高生をたくみにだまし、売春行為を強制していた町のゴロツキである。仲間がヘマをやり、警察沙汰になったが、矢作はうまくそこを切り抜けたのであった。そして数年後。かつて売春をさせていた本間美奈子と鈴木幸子、旧姓 木田美奈子と高野幸子を偶然見つけ、二人を脅して主婦売春をさせていたのである。二人は共謀し、矢作を亡き者にしてこの地獄から脱出しようと毒殺を企てたのだが、その試みは失敗に終わった。


 しかし……


 現場検証に立ち会った二人は警察に当時の状況を説明していた。

「矢作は私がコーヒーに毒を入れたことを寸前で気づいたんです。そして私につかみかかって……必死で抵抗しました。そしたら急に矢作が苦しみだして」

 鈴木幸子は恐怖で震え泣き崩れた。その肩を本間美奈子が優しくさすりながら警察に訴えた。

「本当なんです。私たち、毒殺しようとしたことは事実ですけど、あの男は急に『寒い、寒い』とそれから誰もいない壁に向かって意味のわからないことを叫んで……」

「意味がわからないこと? たとえばどんな言葉だったかわかりますか?」


 泣き崩れていた鈴木幸子は、そのときの光景を思い出していた。

『出て行きたまれ!』

『ふらけるら! あかにするのもいいかれんにすろ!』


「なるほど、おそらく『出て行きたまえ』とか『ふざけるな ばかにするのもいい加減にしろ』でしょうかね。おそらく舌がしびれて口が回らなかったのでしょう」


「でも、本当に矢作は一口もコーヒーを飲んでいないんです。信じてください」

「ええ、それは確認が取れています。矢作の死因はあなた方の用意した毒ではないのですが……」

「じゃあ、いったい。あの男はどうして?」

 本間美奈子は警察の話を聞いて唖然とした。


「これはまだ、発表はしてないのですが、矢作の腹の中から、その……おかしな物が、いや、すいません。この話は聞かなかったことにして下さい。あなた方の言うことはたぶん事実でしょう。普通であれば殺人未遂ということにはなるかもしれませんが、事情が事情ですし、場合によっては事故や自殺ということで処理をするかもしれません。まぁ、この男がこれまでしてきたことを考えれば、当然の報いか、あるいはそれだけでは、足りないのかもしれませんがね。どれだけ余罪があるのやら……」


 矢作の体内から発見されたのは毒蛇、サソリ、ムカデ、毒クモ……いずれも呪術を思わせるような生き物ばかりであったという。


 二人の人妻は、その話をどこかで聞いたような、不思議な既視感に襲われ身震いをした。


 確か、誰かに、そんな話を聞いたような……。

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