第3話 秋の空の立ち食いそば


 10月だというのに、今日の陽気は少し暖かすぎるようだ。予定では都内の得意先にあいさつ回りに出かけるはずだったが、ちょっとしたトラブルで静岡まで行くことになった。段取りさえきっちりやっておけば、仕事というのは基本、スムーズに行くものだ。私は決して仕事が早い人間ではないが、客を呆れさせるような失態を犯したことはほとんどなかった。他人がやらかした失敗を私が処理するというのは本意ではない。しかし、組織というものはそういうものだ。それで私の評価がたいして上がるわけでもないし、こういうトラブルがなくなるわけでもない。思えば思うほどばかばかしく思うのだが、これも給料分だと割り切る以外に他はない。


 現場は東静岡。東京から静岡まで新幹線で行き、東海道本線で一駅戻るような形になる。時間的にはそれが早いが、行った分、少し戻らなければならないのはなんとも気持ちが悪い。行きはまだしも、帰りはもっとばかばかしく感じるだろう。しかし、まぁ、東海道本線でゆっくり帰れるほど、時間を持て余しているわけでもない。できればこんなろくでもない仕事はとっとと片付けて、私は私の仕事を少しでもしたいと思っていた。


 東京駅には、予定より30分ほど早く着いた。自由席の列に並び、一番前の席を取れるようにした。やはり新幹線は一番前の二人がけ席の窓側がいい。コンセントがあるし窓側にスーツをかけられる。なにより足が伸ばせるのがいい。更に言えば、前の座席シートがリクライニングされることがない。前の座席の人間に気を使われることがないというのは、なにものにも替えがたいし、それと等質に、気を使われない不快感を味わうことがないのがいい。


 東京駅で弁当買って車内で食べるのもいい。しかし、駅のホームの立ち食いそばも悪くない。東海道新幹線なら名古屋駅のきしめんは絶品だ。名古屋に行くならまず、ホームできしめんを食べるスケジュールを立てる。行きで食べるか帰りで食べるか。一人身の時は、いいが他の人間と一緒に行く場合は思うようにいかない。それがいやで、そうならないようにしたいと思うのだが、やはり、組織というのは、ままならない。それでもなお、私が組織の中で活動することを是とするのは、私自身が不滅ではありえないということ。ただその一点にある。が、そのことを理解し、共有できる人間のなんと少ないことか――だから組織は嫌いなのだ。もたれあって、個々の能力を貶める。誰かが誰かに頼り、そのことを是としてしまう体質は、利便性に潜むどうしようもない弊害である。しかし、それ自体は当たり前のことであり、問題はそういう事実に対して無責任に無自覚であるのか、意識的に無自覚であろうとするのかなのだが、結果として、どちらも表面的には変わらない。


 その事が、私を苛立たせる。


 ともかく私は自分がコントロールできる範囲においては、全てを掌握したい。だから今日のようなドタバタの中で決められたスケジュールであっても、自分がどこで、何を食べるかぐらいのことは、誰にも邪魔されずにいたいものだ。静岡というはじめて訪れる地で、一つや二つの私事、私の自己の満足に向けられる時間が30分くらいはあってもいいものだ。それをどう使うかは、すべて私の自己の責任であり、ガッカリするような事があっても、他人のせいにはできない。私はそうやって40年近く人生を送ってきたのだ。


 その自負ある。


 新幹線は予定通りに静岡の駅に着いた。そのまま乗り継げば予定よりも、少し早く現場に着く。ここで一本東海道本線に乗るのを見送り、私は静岡駅東海道本線の下りのホームにある立ち食いそば屋を食べることに決めた。そば屋は、駅のホームの前、東京寄りの方にあり、50代くらいのパートの女性が忙しそうに店を切り盛りしている。店は食券を買う仕組みになっている。メニューの中にラーメン360円の文字を見つけて、思わずこころが揺らいだ。安いじゃないか。ラーメンも悪くない。悪くは、ないが、今日の陽気は10月にしては少し暑い。それにかきあげ天そばと同じ値段のラーメンというのは、きっと味も量も期待はできない。ここはオーソドックスにかきあげ天にするべきだろう。


 うん? 待てよ。


 私は食券の自動販売機に100円玉を3枚、50円玉を1枚いれた時点で、もう一つのメニューに目が留まった。それは二つ隣のメニューボタン――月見そば360円というものだった。卵を落としただけのそばと、かきあげ天が同じ値段なのか。一瞬躊躇はしたものの、残りのお金――10円玉を入れてかきあげ天のボタンを押した。ラーメンと月見そばとかきあげ天そばが同じ値段……漠然とそのことを頭の中で反芻する。食券を店員に渡そうとしたとき、一人の男の客がどんぶりを持ち上げてそばをかきこむ。1本見送る予定の東海道本線が静かにホームに入ってきた。


 ご馳走様。


 男はどんぶりをカウンターにおいて、そそくさと電車に乗り込んでゆく。立ち食いそばのカウンターには他に二人の客がいた。何れもそばをすすっているようだ。ラーメンを食べている客はいない。「お願いします」と言いながら、食券をカウンターに置く。店員は無愛想に食券を受け取り、仕事にとりかかる。そばを小分けのビニール袋から無造作に取り出し、釜の中に落とす。どんぶりを一つ取り出し、つゆをいれている。程なくしてそばは茹で上がり、湯ぎりもしっかりしないまま、そばをどんぶりへ放り込む。透明の容器に入ったかきあげ天を一つ載せ、小ネギを一掴み入れて、それは私の前に出された。


 はい、おまたせ。かきあげ天そば。


 あまりいい仕事とはいえない。まぁ、いい。私はかきあげ天のサクサクした感じが好きなのだ。それさえ味わえれば、何を他に望むことがあるのか。このかきあげの小ささはそれほど気になりはしない。しっかりタマネギやごぼう、ニンジンに桜海老が入っている。値段なり以上に、はじめは思えた。箸をかきあげの上に乗せ、上から少し押し付けるようにしてつゆを湿らせる。つゆにかきあげの油が少し流れ出す。この瞬間がたまらない。まず、そばをすする。ずるっとすすって、勢いをつける。


 やはり湯ぎりがしっかりしていない分、味がボケてしまっている。そばも腰がなく、だらりとしてしまっている。が、それほど悲観することはない。あの工程を見てしまっては、『さもありなん』といった感じだ。つゆは悪くない。かきあげの油が程よく染み出した感じは見た目に美しい。さて、これだ。かきあげに割り箸をあて、左右に引き裂く、ぐしゃっとした嫌な感触――


 こ、これはまさか。


 落胆の色を隠せない。口にしなくともわかる。この感触は天ぷらが水分を吸ってしまって湿気てしまっている。たぶんどこをかじっても、どこをつまんでもサクサクという食感は味わえないだろう。それでもわずかな期待をかけて、ひとくち、またひとくち、かきあげを口に運ぶも、それはとてもむなしい作業となってしまった。もっと早く気づくべきだった。いや、わかっていてもなお、期待してしまう憧憬のような感覚を誰が否定できよう。そこに罪はないのだ。そして、罪のないところに罰もいらない。それなのに、これは、これはいったいなんだというのだ。


 私は……私は……何のために電車を一本遅らせて!


「あなた、少しおしゃべりがすぎてよ。目障りならまだしも、耳障りだわ」


 それは少女のような透き通った響きの良い声、いつからそこにいたのか、いや、さっきまではいなかったのだと思う。食券の券売機の横に一人の少女が、いや、もしかしたら少女というにはその落ち着いた雰囲気はどこか圧倒的な存在感がある。いや、違和感か。あまりにも見た目と不釣合いな色香と時間的な制約をまるで受け付けないような普遍性がそこには融合している。


 少女は、いや、少女のように見える女性は、まるでフランス人形のような透き通った白い肌をしていた。

 髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としている。

 目はパッチリとしている。

 瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしている。


「もうここには用はないのではなくて? あなたの望むものは、ここにはないのよ」

「そう、私の望むものは何もない。望むべきものは、そもそもここにはなかった。あって欲しいと思ったのは、私の身勝手な願い。でも、本当に些細な願いだったんだ」

「そうね。でも、たとえどんなに些細な願いでも、障ることはあるものだわ。全く持ってどうでもいいことだけれども、それでも私の耳にあなたの願いは届いたわ。まったく……目障りならともかく、耳障りだわ」

「君には……いや、あなたには、私の声が聞こえるのか? 私の願いが聞こえるのか? 私がわかるのか?」

「聞こえるし、見えるし、わかるわ。でも触れることはできない」

「そう、触れることはできない。誰も私に触れることはできない」

「でも、障るのよ。触れる事ができなくても、障ることはあるのよ」


 時計は12時を回っている。

 駅には人の姿はない。

 灯りもおち、静寂と闇が支配する駅のホーム。

 一人の少女が駅のホームに立っている。

 そして、なにやら誰かと話をしているようだが、他にないも聞こえない。

 少女にだけ、見えるもの、少女にだけ聞こえるもの、しかし、少女にすら触れることのできないもの。


「君は……いや、失礼、あなたはいったい――」

「黒き望みをかなえる者、悲しき想いを見つめる者、深き闇をさ迷う魂の叫びに、耳を傾ける者よ」

「私はただ、私は……」

「あなたの願いは些細なもの、誰もそれをとがめないし、誰もそれに気づきはしないわ」

「とがめてももらえないのなら、せめて気づいて欲しかった」

「そう……でも、わからないわね。誰もがあなたのようには生きられないし、あなたのようには死ねないわ」

「気づいて欲しいから、私と同じ無念を……」


 駅のホームにすすり泣く音が聞こえてくる。ある日を境に、この駅では夜な夜な誰かがすすり泣く音が聞こえるという噂になっていた。とくに立ち食いそばの売店では、誰もいないのに券売機が作動したり、看板の電気が点滅したりと、不気味な現象が頻発していた。ついにその店で働く女性は気持ち悪がって店をやめてしまったのだった。


「鳴き声ならまだしも、そばをすする音なんて、酷いものね。それも美味しそうならまだしも……」

「それを言うなら、私にではないだろう!」

 それは怒号というよりは悲痛な叫びだった。しかし少女は微動だにせず、男の叫びに耳を傾けた。

「明日からこの店に来る女性は、なかなかに感じのいい人らしくてよ。その人なら、きっと美味しいそばを出してくれるわ。だから、あなたも、もうあなたのいるべき場所へ、あなたが向かうべき場所へ行きなさいな」

「私の向かうべき場所……」

「安心なさいな。私がきちんと確かめておいて上げるわ」


 駅は静けさを取り戻した。そして夜が開け、朝日が昇り、人の営みはいつものように繰り返される。


「いらっしゃい。かきあげ天そばですね。少々お待ちください」

 立ち食いそばの店内にはいつになく明るい活気で満ちている。注文を受けてからそばを出すまでの仕事振りは、みていて惚れ惚れするほどである。ゆげがゆらゆらと揺れる中、狐色に揚がったかきあげからは、香ばしい香りが沸き立ってくる。


「はい、お待ちどうさまです。揚げたてですからね。美味しいですよ」

「どうも」

 少女は無愛想というわけではないが、とても立ち食いそばを食べるには似つかわしくない風貌をしていた。黒く長い髪を左側に集めて、器用にそばをすする。


 ズルズル ズルズル


 勢い良く音を立てて、そばをすする。 割り箸をかきあげの上に置き、一気に箸を書き上げの中に滑り込ませる。サクサクとした心地のいい感触。一口大に切り分けて、口にほうばる。かきあげはしっかりした歯ごたえ、サクサクとした感触と、適度につゆを吸い込み、絶妙なハーモニーを奏でる。


「美味しいわね。これなら、きっと、お客さんも集まるわ」

「あら、ありがとう。でもね、自信なくて……この店前から変な噂が立っていて……」

「大丈夫よ。心配要らないわ。おばさんがこの味を守る限り、力強い味方がこの店を守ってくれるわ」

「えぇ? 力強い……味方って、ミサさんどういう……」

「ご馳走様」


 少女はまるで風のように人ごみの中へ消えて行った。


 この店に勤めても大丈夫なものかどうか。その女性は不安に思っていた。面接のあと、駅のホームで突然一人の少女に声をかけられた。それがミサである。どこか不思議な魅力を持った少女は、何も心配することはないと女性に助言をしたのであった。


 それからしばらくすると、立ち食いそばの評判は少しずつ上がっていった。電車を一本遅らせてでも食べたいと思うようなサクサクのかきあげ天そばはちょっとした人気商品になっていった。しかし、一人の男の拘りが、些細な幸せをもたらしたことを知るものは少ない。


 秋の空は澄み渡り、人知れず、死んでいった一人の男の願いは、こうしてかなえられた。


平成○○年10月14日 静岡県静岡市○○区の交差点で、名古屋市○○区で運送業を営む、今川聡史容疑者の運転する乗用車が信号を無視して突っ込み、交差点を横断中の東京都○○区在住の勝田茂さん44歳をはね、ガードレールに激突しました。勝田さんは意識不明の状態で病院に運ばれましたがまもなく死亡。事故にあわれた勝田さんは、同日、東京から仕事で静岡市内の取引先に向かうところでした。調べによると今川容疑者は……



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