時雨の鏡

来冬 邦子

 ――ねえ。ねえ、きみ。

   僕の名前、おぼえてる?



 琥珀こはくだまの瞳をキラキラさせた 真っ白な子猫がのぞきこんでくる。


 あたし、なんで胸の上に、猫のっけて倒れてるんだっけ?


 あたしは、桐原時雨きりはらしぐれ。普通に幸せな女子高生。

 悩みだって、真剣に探せばあるけど。


 逆光の白猫はシルエットが銀色だ。生意気なヒゲが、打ち上げ花火のフィナーレのような放物線を描いて風にそよいでいる。


 尖った猫耳の間からあかね色の空が見える。

 北斎の波のような雲が高々と盛りあがり、砕けおちる寸前の形をとどめたまま、風に押し流されてゆく。あの輝きも見る間に暮色ぼしょくに沈むのだ。


 黄金色の雲間を渡って、黒い小さな飛翔体がやってくる。カリグラフィーの軌跡を描くシルエット。

 コウモリを一つ二つと数えてはいけない。際限もなく増えてしまうから。


 視界のすみから銀色のおぎの穂先が流れおちて、子猫の笑顔は、枯れ草にふちられている。どうやら、あたしたちは秋の野原に深々と埋もれているようだ。さっきから首筋がチクチクかゆい。耳元で、ちゃぷちゃぷとひそやかなリズムを刻む水音が聞こえる。


 さて。いったいここって、どこ。(注 胸の上には猫)



 ――僕の名前、思い出した?


 瞳孔の開いた瞳がさらに近くなり、ひやりと鼻がくっついた。

 固めに泡立てた生クリームみたいな毛先がくすぐったい。うふふん。わかってる。これは夢だ。あたしは時々すっごく嬉しい夢をみる。


 この幸せの瞬間に「いや、知らないけど」なんて、真実は言えまい。

 猫の視線が熱い。盛り上げなければ。……そうだ。名付けてしまえ。


(エヘン。勇者よ。貴様の名は、シラタマッチャズキ じゃ!)


 ――莫迦ばかなの?


 非道ひどい! 夢なのに。


(そしたら、チクワブ。白いから)


 肉球があたしの鼻をなぐった。いってっえ。爪出てる。こいつ、なにすんだ。


(知らないよ! あんたの名前なんか、わかんないよッ!)


 ――ワカラナイ だって?


 猫の口角が裂けた。牙がズラリとき出しになる。

 化け物がわらった。


 ――きみは知っているくせに。


 琥珀の瞳から血の色がみだした。


 ――忘れたのか。


 子猫は揺らめいてふくれあがり、視野からはみだした。

 形の定かでなくなった化け物は、天高く伸びあがり、鎌首かまくびをめぐらせる大蛇おろちのすがたになった。

 白かった蜷局とぐろは、見る間に赤黒く染まり、あちこちのうろこがはじけて火を噴いた。

 全身が紅蓮ぐれんの炎になって燃え上がる。


 渦巻く炎の奧から、暗い双眸そうぼうがあたしをえて離さない。



 ――きみが殺したんだ。

   思い出せ。僕の名前を思い出せ。



 なに言ってるの? 怖いよ! 助けて!

 どうして、ここには誰もいないの? 熱いよ! やめてよ! 


 知らないってば! 猫、人の話聞けよ!


 さっきまで猫だった化け物は、燃えさかる火柱となってちてきた。

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