北欧神話は語られない

エイカ

第1話 はじまりのおわり

 この世は九つの世界で構成されている。その中の一つ、アースガルドという国に神々は住んでいた。


 自然は豊かで朝は鳥のさえずりで目覚め、眠い時には芝生に寝転がりうたた寝を楽しんでも危険はない。食べ物や酒は飽きるまで口にでき、貧困に悩むことなどない。迫りくる老いにでさえ恐怖を抱く必要がなかった。神々は年を取らないのだ。


 ここは楽園だ。


 幸せなものは「ここが楽園である」という事をひとつも疑わずにそこで暮らしていた。しかし、不幸な事にホズという神はそちら側の神ではなかったのだ。


 ホズは最高神オーディンと正妻フリッグの間に生まれた二番目の息子である。年齢は人間であるところの12、3歳と云ったところだろうか。少年と呼んだ方が適しているようだった。手足は細く、弱々しい印象を受ける。父と母の金色の髪は受け継がなかったようで、髪は黒く肩につかない程度の長さが、外ハネになっている。瞳は綺麗な紅色だったが、視力を失ったことによりその瞼が持ち上げられることは久しくなかった。

 

 動物に例えるならば黒猫というのがしっくりくるような、そんな神がホズだ。



 もし、彼の生まれた順番が『二番目』でなかったら、幸せに楽園での生活を満喫していたかもしれない。その楽園がたとえ虚構であったとしても、彼はそちら側を望んでいた。


 しかし、全ては必然だ。ホズは二番目でなければ存在出来なかったのだ。たとえ彼が望もうが望むまいが、彼がそうである事は抗えぬ事実であった。



 ――生まれた時から『二番目』で生きてきた彼は、いつしかその運命を受け入れた――



 すべてを仕方がないこととして諦めた。悔しさ、悲しみ、嫉妬や羨望。何も感じることはない。それは彼が己を守る手段であったが、いつしか当たり前の事となっていた。息をして鼓動が鳴る状態を生きているとするなら、確かにホズは生きていた。しかし、何も感じないのならばそれは人形と何処が異なるのだろか。




 そう、今までホズは死んでいた。


 今の今まで。この瞬間まで。




 悲しみ等という感情はずいぶん前に失ったはずであった。


 それならば今自分が抱えているこの感情はいったいなんだろう。溢れ出てくる涙に今自分が泣いていることをホズは知った。その涙を拭おうと手を動かした事で自分に手足があり、それが動くという事を知った。ホズはどうやら自分が生きていて、自由に動けるという事を知ったのだ。


「…………悪夢かよ」


 思わず彼か発した言葉は少し掠れていたが、しっかりと声になっていた。ゆっくりと両手に力をこめて、上体を起こしていく。ずっと這いつくばっていた体は生まれたての小鹿がはじめて立ち上がる時のように震えている。


 その震えは感情の高ぶりでもあった。


 何がおかしいのか、ホズは喉を鳴らし笑い出した。そのうち耐えかねたように噴き出した。すると止まらなくなったようで、今度は大きく声をあげた。さらにおかしくなってきて、息が続かなくなるまで笑い続けた。


 せっかく起こしかけた上体は、笑い転げて再び地へと吸い込まれる。


 息を切らしながら、何とか顔だけをあげた。


 ホズの目の前に広がるのは闇。左右に首を振り見渡してみたが、変わらぬ黒が視界を覆うだけだった。


「ふふ、あはっ……。ははは! 誕生日、おめでとう、ぼく」。



 静かに身体を起こして、その闇へと足を進める。

 何もない世界へ吸い込まれるように歩き続けるしかなかったのだ。

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