エスケープ

Jack-indoorwolf

第1話逃避行

 飛行機の方がよかったな。船旅ふなたびは思いのほか考える時間があって困る。

 おだやかではあるが海を見ていると命を飲み込まれそうになる。圧倒的だ。俺は潮の香りを感じながらこのまま大海原おおうなばらに飛び込んでしまおうかとも思った。


 上海しゃんはい行きのフェリーは着実に仕事をこなしている。嵐や氷山に遭遇そうぐうしなければ、俺が明日、上海に上陸することは決定的だ。俺は甲板かんぱんの上で、この逃避行とうひこうは正しいのか間違っているのかを考えていた。……まぁいい、しばらく上海で観光を楽しもう。

 

 どこからともなく真帆まほがやって来た。片手に小皿こざらを持っている。

「食え、もう日本食とはサヨナラだ」

 小皿にはわさびしょう油のかかったマグロの刺身が無造作むぞうさにのっている。俺は真帆からばしを渡され、立ったまま、赤身の魚肉を一切れ、注意深く口の中に放り込んだ。

 わさびの辛味からみが鼻を抜け、じんわり涙が出る。


 日本で、俺と真帆は大炎上した。大炎上といってもSNSや隣近所のレベルではない。マスコミやネットで世論を巻き込み、俺たちは日本を、さながら激しい噂話が飛び交う戦場のようにしてしまった。俺は妻がいる身で真帆という女を愛し、真帆は夫がいる身で俺という男を愛した。W不倫だ。

 なぜこんな大ごとになったのかと言えば、俺たちが有名芸能人だったからだ。


 しょう油の香りをぐと血が騒ぐすべての日本人は、連日連夜、俺と真帆の関係が正しいか間違っているかで熱く議論した。しかも主役の俺と真帆抜きで。学校、職場、テレビ、ネットはもちろん、それはクラブの化粧室や病院のナースステーションでも。

 おおむね俺たちは日本国民の反感を買った。不倫はモラル違反だというわけである。恋愛こそモラルなどとは無縁むえんではないかという俺の言い分は無視された。一般人には俺の恋愛観は理解しかねるらしい。

 朝起きてスマホを開くとSNSの俺のアカウントにはクソリプの山。テレビのワイドショー出演者らはそろって俺の人間性を疑問視する発言の連発。俺は夜の西麻布を歩いていて見ず知らずの誰かにいきなり殴られたりした。世論の俺たちを拒絶する雰囲気。しだいに俺たちは日本での居場所を失っていった。

 そうして俺と真帆は神戸から上海行きのフェリーに乗った。


「美味いな」

 俺はぶっきらぼうに言った。明日からのことを考えるとマグロどころではない。

「レストランのシャフが特別に切ってくれたんだ」

 一方、真帆は悪ガキのようだ。

 俺と真帆は甲板の鉄柵てつさくに腰をあずけ、小皿の刺身を完食した。風が強くて真帆は乱れる黒髪を気にしている。俺はたそがれていた。周囲にいる人々はそれぞれの旅を楽しんでいて、俺たちのことなど気にしていない。

「ああっ、これからどうするのょ?」

「どうとでも」

 うろたえる俺に真帆がニヤリと笑った。

 こいつ何かたくらんでやがる。俺はとっさにそう思った。

 愛し合う二人を乗せたフェリーは海を滑走かっそうする。


 上海が待っている。

 

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