みゃおのいる島
夏みかん
第1話 遭難
こんなことは無いだろうか。
陸に上げられた魚のごとく、ある日呼吸困難に陥った。
私は会社で見事に虐められており、その晩も遅くまで居残りさせられ、身に覚えのない謝罪を50回はしただろうかという帰り道、急に息がは、かはっとむせ、その場にくずおれた。
手を着いた電信柱で、地面を見ながら「呼吸をするんだ、呼吸を」と何度も唱え、すー、はー、すー、と息を吸って白い三日月を見上げた。
すると、みゃーおう、と足に擦り寄ってきた存在があり、見ればなんとも薄汚い野良猫が、ガリガリに痩せ細った身体で必死に私に媚を売っていた。
私は悲鳴物なその姿を見やり、すーっと冷静になっていくのを感じながら、いつの間にか呼吸が整っているのに気づいた。
人間自分より弱いものを見つけると、落ち着くらしい。
それから私は、その猫を実家の銭湯に連れ帰り、かっぽーんと共に湯に浸かった。
人間生まれたら自力で生きなくては駄目。
そう両親の立っての強い希望で、私は実家の銭湯を継ぐこともなく社会人としてやっている。
猫の身体から死んだノミや汚れが出て行くのを見ながら、私は柚子を一生懸命猫にこすりつけていた。
猫はにゃーん、極楽極楽と目を閉じて鳴いた。
それから、私とみゃおの生活が始まった。
ここは本島とは離れた島で、私は船で本島の小都会の会社の事務員をしており、いつもお局様から説教を食らい、格好のターゲットとなっていた。
一緒に故郷を出たはずの女友達は別の部署でギャルと化し、男を転がすことで頭が一杯らしい。
はいこれ、とその子にコピーする用紙を床に投げられ、私は流石にキッと睨んだが、おおこわ、これだから島の人間は、と経歴詐称しているその友人はにべもない。
私は暴露するにも自発的な理由も見つからず、せめて高潔であれと念じて冷静にコピー用紙を拾った。
このタイミングでいつも佐渡君が手伝ってくれる。
佐渡くんは話すことが出来ない。言いたいことが言えないというのはさぞ辛いだろうと思っていたが、私も同じようなものだ。
佐渡君はサラリとした髪に涼し気な目をして、お局様の彼氏を務めている。
最早この世を泳ぐ術を身につけた佐渡流平君の敵は居ないらしく、私はありがとうを言わない。佐渡君も何も言わない。
ただ一箇所に集めて、その上に私がみゃおと散歩している写真をちらりと乗っけて来るのだ。私が一人ぼっちなのを知っている証拠だ。
私は佐渡君の手を、咄嗟につねった。
びっくりした佐渡君に、「言うなら言いなさいよ」と言って、私はその写真をぴっと捨てた。
佐渡君はさっと拾って、私の手を握り、え、と思っているとぐっと握らせ、真剣な目をして一瞬私を見つめた。
それからさっさと立ち上がってお局様のところへ行き、手を取って「今のは何でも無いんだよ」とキスをしていた。
お局様は「りゅうちゃーん」と喜んでいた。
私は「なんなんだ?」と思いながら、みゃおの写真集を眺めた。
みゃおを拾って間もない頃から、今の福々と肥えた様子まで仔細に観察されている。
ということは、ばっと後ろを振り向くと、さっと壁に隠れた佐渡君。手にはトイカメラ。
私はずんずんと歩いて行き、「ちょっと」と声を掛けた。
佐渡君は蹲って頭に手を乗せていた。そうすれば世界中の人が味方してくれるみたいなピュアな目が苛ついて、「なんなのよ!」と私はばちんと佐渡君の頭を叩いた。
佐渡君は痛い、という顔をしてから、にこおと笑ってこちらを見た。
あちゃー、バレたかー。
私は佐渡君を無視して、家に帰るため船に乗り込んだ。
かんかんと橋を渡っていると、佐渡君が着いてくる。
「何!」
走って逃げても追いかけてくる。
一番後ろの席に座ると、その隣をさっと陣取った。
そしてトイカメラを私に向けて、にこり、と首を傾げてみせた。
君の猫撮らせてよー。
「勝手にしなさいよ!」
私は逃げられない海の上、そう叫んだ。
おっちゃん達が「若いもんはええのう」と豪快に笑った。ストーブが焚かれ、暖かさと冷たさがよく伝わってきた。
佐渡君の隣は、やけに温かだと思ったら、手を回して肩を抱いていたので、「気持ち悪いのよあんた!」と言って席を立った。
佐渡君はあはは、と声も無く笑った。
さて、島に着いた。
みゃおがお出迎えしてくれる。
闇の中街灯が灯り、みゃおの虎柄の小さな頭がよく見えた。
「みゃお」
その途端、佐渡君がものすごい勢いで出てきて、みゃおを抱き上げ、頬ずりした。
「みゃーお」
猫の鳴き真似は出来るらしい。
私はなんで?と思いながら、「船もう無いよ、どうすんの?」と聞くと、みゃおの手を持ち、ふりふりと翳してくる。
泊めろってか。
「嫌よ、なんかメリットあんの?」
聞くと、みゃおを横抱きにし、正に守っていますという形で表現した。
私は切れた。
「ふざけんじゃないわよ、今まで、今まであんた、何してたのよ!?あのおばはんのケツ持ってたじゃないよ!!」
そう言うと、みゃおの耳を肉球で塞ぎ、うるさーいと口パクした。
私はぱくぱくと口を動かし、何か言葉が出ないかと思ったが、これ以上ここで騒ぐのは止めにしようと思い口を噤んだ。
みゃおと佐渡君が同時にへぷちとくしゃみをした。
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