犬の子
@ringonoki
第1話 犬の居ぬ間に
風が闇に溶け込んだ木々の葉を揺らしている。何かが迫っていた。荒々しい息遣いが聞こえる。直感的にそれは獣ではないかと感じた。地面を蹴る。傾斜の急な坂道は水を含んでいて、足元を掴まれているようだ。首の辺りにじっとりと汗を掻いているが、拭う余裕すらなかった。水が欲しい。息遣いは近づいてくる。それはもう耳元にまで迫っていた。その息遣いに混じってどこか機械的な歪な音が断続的に鳴っていた。まるで、壊れたオルゴールのようにリズムの崩れた音。
その音はボリュームをゆっくりとひねったように次第に大きくなっていく。
黄ばんだ天井が見えた。長年のヤニがこびりついた天井だった。窓が空いているのか、中途半端に開いたカーテンが靡いている。生暖かい風が首元に吹き付けている。
枕元のすぐそばにビールとチューハイの空き缶が無造作に転がっていた。
「またやっちゃったか……」
「獣の正体はこいつか」
神影のチームのリーダー、大崎だ。大崎は身長185センチ程の長身で、アメフト選手のようにがっしりとした体格をしている。チームメイトからは大猿と呼ばれている。神影は息をつき、電話に出た。
「なんだ、今お目覚めか」
「はい」
返事と同時に壁に掛かった時計に目をやる。八時ちょうど。普段より三十分遅い起床ではあるが、まだ遅刻ではない。となると、大崎が連絡をよこしたのは遅刻を叱責するものではないようだ。内心首を捻る。
大崎は小さく息をついた。
「石尾の奴が急遽休むことになってな」
「またですか」
石尾というのは神影より三つ年下の二十五才の男で、家庭の事情を理由にちょくちょく欠勤する奴だった。
「それで今日、お前に石尾のルートをやってもらいたいんだ」
「ちょっと待ってください。それなら大崎さんが石尾の所を回ればいいんじゃないですか?」
大崎は溜め息をついた。
「そうしたいんだが、他のチームでも欠員が出てな。そっちを回らなきゃいけなくなった。石尾のルートならなんとなく分かるだろ?」
神影は少し思案した。
「まぁ、全てではないですけど……」
実際のところ、石尾のルートで神影が知っているのは二、三十件程だろう。
「でも、俺のルートはどうするんですか?」
「一日、止めようと思う。その代わり、明後日、石尾にお前の分を含めて多めに回ってもらう」
「出来ますかね……」
石尾の仕事の評価はあまり高くない。
「やってもらわにゃ困る。お前には迷惑かけるが何とか頼む」
無理だと言ってもそうする他ないだろう。自分が他のチームのルートを回るのは無理だと思った。
神影は電話を切り、洗面所へ行くと水道の蛇口を捻って水を飲み、顔を洗った。真夏の水は生ぬるかった。
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