第3話 きっかけはサンドイッチ
夏らしい淡い色合いのワンピースに着替えて、わたしはスーパーへと向かう。
紺色のお気に入りの帽子が日差しをさえぎってくれるお陰か、直射日光には免れているのだが、午前中とはいえ暑いことには変わりない。
小さな子供と、その隣に寄り添うように立っている大人は、おそらく親子だろう。その風景は、わたしとは縁遠い世界の出来事に思えた。わたしにも、あんな時期があったという事実と、それを本来ならば後世に伝えていかなければならないというこの命のサイクル。わたしも、その中に入っているのかしらなんて、考えてみたりもする。
別に、自分の未来に対して悲観的になっているわけではなく、ふと考え込んでしまうときがある。知人に話せばきっといつもの調子で「それは考えすぎ」と言われるのだと思う。
いつも通っているはずなのに、休暇というだけでどこかが違って見えてしまう。この通りを抜ければ、あとは道なりに歩いていけば五分で着いてしまう。
自動ドアから涼しい風が感じられた。スーパーは今日もにぎわっている。サンドイッチにはレタスとハムとパンが欠かせない。たまごと調味料類は家にあるのだけれど、足りるのか心配だからたまごも買うことにする。まずは生鮮食品。今日は三つ葉が特売らしい。わたしの隠れた好物は主に薬味として使われる三つ葉だ。お吸い物にしても、おひたしにしても美味しい。だけど、今日の目的とは違うのでそっと棚から離れる。カットレタスをかごに入れて、鮮魚のコーナーでは、もずくを買う。それからハムと、八枚切りの食パンがかごに入って気づいた。あれ、どうやらたまごを忘れたようだ。たまごを買いに通路を戻っていけば、なんとたまごも特売で、百円だった。そのせいか残りがゼロパック。つまり完売だったのだ。他のたまごもないことはない。ただし、殻が赤い。わたしは白い殻のたまごしか見た目の問題で、食べることができない。だから、諦めようとした。そのとき、肩に何か触れた気がして後ろを振り返ってみる。そこにいたのは、あの男性だった。信じられなくて、お互いに反応が遅くなった。
「あの、昨日お会いした方ですよね?」
わたしは当たり前のことしか言うことができなかった。
「良かったです。人違いだったかなって、途中で不安になりました」
そう言いながら苦笑いをする男性が、かごの中からたまごを取り出した。そして、わたしに向かって差し出す。
「えっ、たまごですか?」
「はい」
「そんな、頂いてしまってはなんだか悪いです」
「そんなことはありません。だって、ぼくの冷蔵庫には今日の分のたまごはあるのですから、遠慮なさらず受け取ってください」
「そうだったんですね。それなら、わたしの冷蔵庫にも今日の分のたまごはありますよ」
男性はたまごに視線を落として、それからわたしを見る。
「それでは、二人で分けましょう。十個入りなので、五個ずつが良い」
自分でも不思議なことに、彼の後を着いてレジに並んでいた。いつもなら、勧誘のときのように、相手を振り払っていたからだ。
きっと、これは昨日と同じように好意を断るのが申し訳ないからだと思う。
男性のレジの会計が済んで、わたしの番になった。店員は丁寧に品物の個数と、価格を読み上げてくれるのだ。そこまでしなくても、モニターに表示されているのになんて考えていたらすぐに会計が終了した。食材を適当にレジ袋に詰めて、かごを指定された場所に返す。そうしているうちに、男性がわたしの近くに来て、フードスペースを人差し指で示していた。どうやら、向こうでたまごを分けるらしい。
フードスペースは思っていたよりも空いており、カウンター席に空きがあった。わたしは食品をカウンターの上に置いて、無料の冷たい水を二杯紙コップに汲んで戻る。右手に持っていたほうを男性側に置いて、左手の紙コップは自分のほうに置く。
「あ、どうもありがとうございます」
「いえ、わたしはただ持ってきただけです」
「気を使わせてしまったようですね」
そう言いながら、たまごのパックを手に取り開ける。慎重に、ゆっくりと上下に分けて、片側一列をそのまま上側のパックに乗せていく。流れるような美しい動作だった。手先が器用なほうなのだろうか。そのパックをスーパーの透明なビニール袋に入れてから、持ち手つきの袋へと詰めてくれた。なんという気づかいだろうかと、ぼーっと眺めてしまった。不躾だっただろうかと、一瞬だけ不安になる。
「さぁ、どうぞ。お好きな方を選んでください」
「そうですね、それでは右側のたまごを頂きます」
「では、ぼくは左側にします」
ここにきて、ようやくわたしは気づいた。一体、いくらお支払いすればよいのだろう。
「あの、たまごはおいくらでしたか?」
「あ、いや、気にしないでと言っても、気にされてしまいそうですね」
そう言うと、さっきの苦笑いを返してくれた。
「はい、できればわたしが気にしないために、教えてください」
「しっかりされていますね、ぼくだったらそのまま頂いてしまいそうです」
何かを心に決めたように、真面目な表情になる。それから紙コップの水を一気に飲む。
「これは本当にできればでいいのです。だから、強制ではありません。植物園に行きませんか?」
「植物園? わたしは行ったことがないので、どんな場所か分かりません。でも、そうですね、行ってみたいなって思います」
「本当に?」
「はい」
男性は驚いて目を見開いている。
「お互いの名前も知らないのに、返事をしてもらえるとは思いませんでした。あの、では連絡先を教えてください」
そうして、わたしと男性は連絡先を交換することになった。
「ぼくは、
「わたしは、りんといいます。漢字ではなくひらがなです」
「ありがとう。二日後は空いていますか?」
「一日空いています」
「じゃあ、十一時半頃にしましょうか。新宿駅と、新宿御苑前駅だったらどちらが行きやすいですか?」
「その時間にしましょう。どちらも普段はあまり利用しないので、どちらでもいいです。だけど、せっかくなら新宿御苑前の駅のほうに行ってみたいですね。そちらでも、いいですか?」
「はい、分かりました。一応、改札の中にいてくださいね」
「そうですね、そうします」
わたしは自然と自分が笑顔になっているのが分かった。翔さんもそのようだった。
「では、二日後の十一時半頃に、新宿御苑前駅でお会いしましょう」
翔さんは会釈をして、立ち去った。
残されたわたしは水を飲み干すと、翔さんが忘れていった紙コップを一緒に片付けた。サンドイッチの材料が入った袋に、氷を入れてからスーパーを出た。
帰り道はなんとなくだが二日後が楽しみで、遠足前の小学生のように落ち着かない。
こんな気持ちになるのは、久しぶりのことだった。
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