橙色の決意

 この黒い髪を切った日は、私の頭のなかにいつまでも残っている。そう、それはあの暑い夏の日だった。きっと私は永遠に忘れない。彼女の決断を、私の決断を――。


◇◆◇◆◇◆


『橙色の覚悟』


◇◆◇◆◇◆


 8月も中旬に入り、学生達が焦り始めるこの時期。私も例に漏れず夏休みの宿題に追われていた。アイドルになりたてで仕事がないとはいえ、レッスンは受けなければいけないので、中々忙しいのだ。

 布団を外したこたつでまっさらなノートを見つめながら、私はシャープペンシルを回し続けていた。

 夏休みは8月31日まで。そして今日は8月17日。あと10日程度で、私はこの白い白いノートを埋めなくてはならないのだ。その白さは雪のようで、夏なのに涼しくなってくるような感覚に陥る。

 そして、前を見ると、文字で埋まっているノートと、さらに黒い鉛で埋めようとする白い手が見えた。中学生にもなって鉛筆を使い続けるなんて珍しい、と私はその手の持ち主を見た。

 今時そんなにいないような、絵に描いたような優等生。おろしたら腰まであるのではないだろうかという、てらてらと光る黒い髪を2つの三つ編みにしている。困り眉が印象的で、薄幸的なイメージを受ける。見つめられているというのに、視線の1つも動かさずにノートと戦っている彼女は、私の従姉妹だった。名前を小間川こまがわなぎという。

 未だに宿題の終わらない私と違い、もうとっくに課題を終了している彼女だが、『さらに勉強しないといけないから』という謎めいた理由で、今日も今日とてひたすらに勉強している。受験生でもないのにご苦労なことだ。私がその年だった時は、遊んで遊んで遊びまくっていたけれど。

 そのお勉強が一段落ついたようで、なぎは鉛筆をテーブルにそっと置いてこちらを向く。私の白紙を見て、少し呆れたように溜息をつき、言った。


「佳奈ちゃん、これで夏休みまでに終わるの? わたし、今年は手伝わないよ?」

「わかってるわよ……。私はこれから本気出すの!」


 私はばたん、と仰向けに倒れ込む。それは宿題をしないことの決意表明と一緒だった。居間の窓から見える青空が眩しい。見ていると、このまま青に吸い込まれてしまいそうなそんな空だ。

 私のそんな姿にまた呆れて、『もう』と言うなぎ。あんたは私の親か。

 ああ、やる気が出ない。こんな時は出かけてしまうのが吉だ。そう思ったらすぐに行動が私のモットー。その辺のタンスからヘアゴムを引っ張り出し、髪を2つにくくる。いい加減子供っぽいような気もするのだが、なぜだかやめられない。

 お気に入りのピンクの手提げバッグと、これまた桃色のベストを羽織って、鍵を指でくるくると弄る。


「じゃあ、私出かけるから」

「もう……。ちゃんと勉強してよ? 大変になるのは結局じぶ――」

「はいはい」

「もう」


 ガラガラ、と玄関の横開きの扉を開くときまで、なぎはおせっかいを焼いていた。ありがたいけれど、私は自由になりたい。そう、鳥のように。


◇◆◇◆◇◆


 もう12時半か。なんだかんだでもう2時間も外をうろうろとしていた。行きたい場所も行くべき場所もなくて、私はぼんやりと歩くしかなかった。

 真上の太陽が、なんだか私を責めているみたいで、息苦しさを感じる。何かやらなければいけないと思いつつも、何もやれていない自分に。息苦しさと、閉塞感。アイドルだって、別にやりたいわけではなかった。ただ、自分に価値を見出したら、それは容姿しかない気がしたのだ。自惚れではないと思う。中学生時代は結構告られたし、そもそもアイドルを始めたきっかけはスカウトだ。町中を歩いていたら声をかけられて、いつの間にかこんなことになっていた。

 自分がやりたいわけでもないものに、頑張る意味なんてあるのだろうか。好きこそものの上手なれと言う。好きではないものを上手になりたいとは思えない。でも、私にはこれしかない。たまたま可愛かっただけだとしても、それが私の個性。なぎと違って頭の弱い私は、そんなことしか考えられなかった。

 いい加減、黄色い光を浴びせる太陽と、雲一つない青空がうざくなって、私は近くのカフェに寄ることにした。『灰の夜』みたいな小洒落た名前の小さな喫茶店だ。別段変わったことはない。

 と、カウンターに座ろうと思った瞬間に、見慣れた顔がそこにいた。


「やっほお、佳奈」

「ん、真理まり


 矢野やの 真理。私と同時期にアイドルになった、いわゆるライバルである。茶髪を左に流したショートカットで、美人というよりは可愛い顔だ。


「今日はどうしたの? こんな店に来るような人だったっけ」

「宿題が終わんないのよ」

「そう、あたしも」


 ふふっ、と笑ってコーヒーを注文する真理。彼女もここに来たばかりのようで、カウンターには何も乗っていない。

 私もエスプレッソを注文し、彼女の隣に座る。ついでに、メニューにでかでかと載っていたチョコレートケーキも頼む。『黒いチョコレートと白い生クリームのハーモニーが絶妙的』なんて、どこにでもありそうなペラペラのレッテル。

 私だってそうだ。『ツインテールの小悪魔系アイドル』なんて。その辺にごろごろいそうなキャッチコピーである。こんな髪型だってやめてしまいたい。けれど、この髪がなければ、私はアイドルになれないような気がして。結局その薄い肩書にこだわっているのは私なのか、とメニューを見る。


「肩書ってさ」

「んー?」


 私の言葉に、店員から渡されたコーヒーに砂糖とミルクを加えながら、真理がこちらを向く。


「勝手に私達につけられて、私達が何かそれに反抗する行動をすると責められる。嫌なものよね」

「……そう?」


 てっきり、真理は私の気持ちをわかってくれるかとわかってくれると思っていたのだが、どうやら違ったようだ。


「あたし達は、このアイドル界という広い世界の中で、広告や、肩書や、キャッチコピーや、レッテルによって生かされている。それがないとあたしらはきっと、その辺に転がる石ころのように埋もれてしまうの。だから、あたし達はその肩書を演じなければいけない。そうしないと生きていけないから」

「……そう、しないと生きていけない……」


 わかってくれないことに苛立つなんて、子供っぽいとは思うけれど、気持ちが止められない。せめて思いを抑えようと、運ばれてきたエスプレッソを一気飲みする。その強烈な苦味が心地良い。

 ああ、こいつは私と違う生物なんだ。遺伝子の1つから、組織の1つからすべてが違う。子供っぽい私の理屈を押さえつけて、真理は悟ったことを言う。真理は私の太陽だ。明るく輝いて、私を照らす。でも、その光が時々うざったい。そう、私は太陽を回っているだけの衛星。

 きっと真理には勝てないんだろう。一生、未来永劫。それでいい。私は彼女の衛星なのだから――。


「私、帰るね」

「え、もう帰るの? あたしもうちょっとあなたと話したい――」

「しゅ、宿題しないといけないから!」

「ちょ――」


 喫茶店のドアが開く音が後方に聞こえた。それはなんだか虚しい響きで、私の心を表しているようだった。


◇◆◇◆◇◆


 朝も聞いた横開きの扉の音は、私の精神を平坦に戻した。おかえりー、といつも通りのなぎの声。

 別に不思議な体験をしたわけではない。友達と意見が別れてむかついたという、ただのお子様みたいな話だ。同い年なのに、なんていう嫉妬心すら湧かない。どうせ真理はまた会ったときに見透かしたような顔をしているんだろうな。私の太陽は、やっぱりうざい。

 ただいま、と少し遅くなったが返事をする。なぎは食事の準備をしていた。台所から漂ってくる匂いから察するに、肉じゃがだろう。なぎが一番得意な料理だ。ほくほくとしたじゃが芋と、少しだけしょっぱい豚肉が美味しいのだ。そういえば、チョコレートケーキ、頼んだままにしてしまっていたなあ。まあどうせ、真理が食べるだろう。きっと、あのケーキだって私なんかに食べられるより太陽に食べられたほうがいいんだろう。

 ピンクのベストを脱ぎ、その辺に放り投げる。あとで洗面所に持っていこう。私は面倒くさがりやなのだ。

 なぎに『ちゃんと洗面所に持っていってよ、もう』と言われそうだが、いつものことだから気にしない。

 なぎは、今年になってから私と一緒に住んでいる。親がどちらも事故で死んでしまったのだ。夜逃げ、らしい。なぎみたいな良い子を置いて逃げるなんて、本当にゴミみたいな大人だと思う。だから、私が引き取った。どうせ、高校入学と同時に下宿する予定だったし、丁度よかった。アイドル業と、バイトでなんとか毎日を食いつないでいっている状態だけれど、なんだかんだ言って楽しいのだ。家事はなぎがやってくれているし……本当に、優しい子だ。

 そんなこの子なら、私の問いにどう答えるのだろうか。


「ねえ、なぎ」

「んー?」


 間延びした声が、ぱたぱたというスリッパの足音とともに聞こえてくる。


「肩書ってさ、私達を縛り付ける縄みたいなもので、嫌だと思わない? それに従って生きていくなんて、私は嫌だ」

「んー……。私って、男の親と女の親が死んだじゃない?」

「ええ」


 なぎは、この家に来た当時から――いや、もっと前から。両親のことをお父さん、お母さんなんて呼ばない。この子も、夜逃げした人間を憎んでいるのだろう。


「それで、可哀想って言われるけどさ。結局それって『こいつは夜逃げするような人間のもとに生まれたんだな』って思われている気がするの。だからさ、色眼鏡で見られている気がして、薄いレンズを貼って、そこから見られているような気がして。そう、全体像は見えているけれど、でも、その本質を捉えているわけではない。そんな感じ」

「つまり?」

「気安く私のことをわかったように言わないでってこと」

「……そう」


 安堵する自分がいた。あれだけ聖人だと思っていたなぎが、私と同じことを思っている。レッテルは、キャッチコピーは、肩書は、嫌いだって言っている。それだけでなんだか嬉しくて、笑ってしまった。

 訝しむように覗かれたけれど、気にしない。鍋を持ってくるなぎに、笑顔を浮かべる。

 2人で声を揃えていただきます、と言った。箸を持ち、食べ始める。やはりメニューは肉じゃがで、じゃが芋から湯気が出ていた。

 ぐっ、と芋を2つで割る。もしかしたら、私はこの芋のような存在なのかもしれない。湯気を放つように熱いけれど、すぐに崩れてしまいそうなところなんか、特にそっくりだ。


◇◆◇◆◇◆


 その次の日。今日だってこのノートに文字は書かれない。相変わらずまっさらなページに顔をしかめる。どうして勉強というものをやらなくてはいけないのだろうか。人生にはそれよりも大切なものがあるはずだ。自分の生きる意味だとか、個性だとか、将来の夢だとか。私は、真理とは違う。きっとあいつは、このままアイドルを続けて、トップアイドルなんかになってしまうんだろう。今はまだ、太陽の『ような』子だけれど、今に彼女は太陽になる。私なんかでは届かない。光を与え、中心になる。その輝きが鬱陶しくて、惑星は、塵になってしまうんだ。

 ああ、嫌だ。こんな事で悩む自分が、自分すら嫌いになってしまう自分が。

 カレンダーをちらりと見ると、今日の日付に赤いペンで丸がついていた。つまり、今日は歌と踊りのレッスンがあるということだ。すっかり忘れていた。

 あと15分で行かなくては遅刻だ。私はいつもより乱雑にドアを開けて、昼の街を駆けていった。


「あ、やっほー。佳奈」

「……おつかれ。今日も早いわね」

「いやいや、いつも通りだよー」


 こういうところから、違う。私は大事なレッスンだって忘れてしまっているのに、彼女は多分、そんなこと一回もしたことがない。こういう積み重ねが、恒星と、衛生の違いになるんだろう。

 太陽なんか、大嫌いだ。

 じゃあみんな揃ったようなので、レッスンを始めるよ――という声で、練習が始まった。


 どちらかというと、私はダンスよりも、歌が好きだ。なんだか、自分も楽器になっている気分になれるから。

 人間なんかより、心のない楽器になりたかった。そうしたら、きっと私は幸せになれた。こんな感情抱かずに生きてこれた。

 しかしそんな歌も、今日は上手くいかない。それに苛立って、さらに下手になっていく自分に、嫌気がさした。もう、このまま逃げ出してしまいたい。でも、アイドルとして成功すれば、なぎが救える。あんなにいい子を、中卒でなんて終わらせたくない。私は、なぎを東大に連れて行く。

 そんな決意を再確認して、私は気を取り直し、再度レッスンを始めた。

 練習が終わる頃には、もう空は橙に輝いていた。オレンジ色は、太陽の色。だから、嫌い。空のオレンジが映ったかのように、芝生も、土も、道行く人もみんなオレンジ。きっと私も、今はオレンジに染まっている。こんな明るい色からは、逃げ出してしまいたい。私はオレンジやピンクが似合う人間ではないのに。私は、黒い。どこまでも真っ暗で、明るいものを、黒く染めてしまう。

 それも、嫌だな。透明が良い。誰にも干渉されず、こちらからも干渉しない。そんな色。

 そんな風に考えていると、後ろからオレンジ色の声がした。


「佳奈ー!」

「うわっ、なによ」

「うわっ、なんて失礼だなあ。あたしだよ、あたし!」

「知ってるわよ……。何か用?」

「用ってほどじゃあ、ないんだけどね」


 真理は、少し寂しそうな顔をして俯いた。真理らしくもない。彼女は、いつもにこにこと笑っているような人間だったはずなのに。

 真理は、こちらを見て言う。


「あたしさあ、アイドルやめようと思うんだよね」

「……は?」

「それだけ。ばいばいっ!」


 そう言って、駆けていく真理。突然のことに呆然としている私は、オレンジ色の街に溶けていく彼女を、見ていることしかできなかった。

 なんで、いきなり。なぜ、こんなことを私に伝えたのかも、なにもかもわからなかった。勝手なこと、言わないでよ。いきなりそんなこと言われても、どう反応すればいいか、わからない。なんだかやるせなさが腹の底から湧き出てきて、目から溢れた。透明な雫が、頬をつたって落ちていく。私の心を映し出しながら、その水はコンクリートに滴る。まるでそこだけ雨粒が落ちてきたかのように黒くなった。

 もしかしたら、私は真理がアイドルをやめることを、悲しがっているのかもしれない。太陽なんて、大嫌いなはずなのに。上から差し込む橙だって、憎たらしくて、見たくないと思っていたのに。

 それなのに、なぜか、涙が止まらなかった。

 泣いている事実を誤魔化したくて、私も走り出す。無我夢中になって、ここがどこかも忘れて、だんだんオレンジから群青に変わっていく町中を、全力で駆けていく。道行く人も、街路樹も、何もかもが私を見ている気がした。でも、涙も、動く足も止められないし、終いには私は声をあげながら泣いていた。

 そんなみっともないこと、したくないのに。鼻水だって拭かずに、夜の街を駆け抜ける。家に帰るために。

 非日常から、日常へ帰るために。


◇◆◇◆◇◆


 家に帰ると、もう夜の10時だった。規則正しい生活をしているなぎは、もう寝ているようで、リビングのテーブルには、『ご飯、作っておきました。食べておいてね』という書き置きだけがあった。

 見慣れているなぎの顔が見えないのが何故か悲しくて、また目から涙が溢れそうになる。どうして、こう調子を狂わせられなければいけないんだろうか。これだから、恒星は憎いんだ。

 書き置きと一緒に置かれていたご飯を食べれば、きっとこの気持ちも落ち着くだろう。そう思って、私はキッチンから箸を取ってくる。


「いただきます」


 1人でいようとも、食事の前と後の挨拶は、欠かさない。だって、私みたいな奴なんかに食べられる食材が、可哀想じゃないか。だから、せめて感謝の気持ちだけは表そうと、必ずいただきますとごちそうさまをする。それをしないのは、食材に対しての、冒涜だ。

 ご飯に合うように、と少ししょっぱい野菜炒めは、いつもと変わらず美味しくて、今まであった非現実的なできごとから帰ってこれたような気がした。

 こうして落ち着いてみても、やはり真理の行動は謎だ。なぜ、私にあんなことを言ったのだろうか。私みたいな衛生よりも、恒星の仲間に言えばいいのに。彼女はそれができる人だ。私とは違う。そもそも、アイドルを辞める必要だって、ないだろう。真理ほどアイドルに相応しい人間はいない。真理ほどアイドルが似合う人間はいない。

 私の嫌いな、レッテルに対しても、あれだけ割り切れる人が、なぜやめるのだろうか。

 さっきの真理の表情を、思い出してみた。茶色の美しい瞳が、憂いを帯びて、こちらを向いている。寂しさと悲しさ、そんな彼女には不似合いな2つの言葉がにじむ。目は悲しいのに、口は無理をして笑おうとしているようで、歪んでいた。私の思いと同じくらい歪んだ口で、やはりあからさまに無理をして明るく努めて言おうとしているのがわかった。まるで、今までの笑顔も、全部無理をしていたみたいに。

 いや、そんなことはない。だって、彼女は太陽だ。オレンジ色で、自ら光を発している。私はその光を受けて、反射して輝いているように見せているだけ。同じ土台にすら立てていない。私と真理では、同じ人間であって違うのだ。

 そんなことを考えていると、また透明な水が目から溢れそうになる。どうして。彼女と私は格が違いすぎる。そんなこと、わかりきっていたはずなのに。なぜ、寂しいなんて気持ちが浮かんでくるのだろうか。

 なぎと話したい。この真っ暗な気持ちも、劣等感も、罪悪感も、全部。彼女なら、きっと包み込んでくれる。そう信じて、私は食べ終えた食器の片付けもせず、なぎの部屋へ入った。

 そのままなだれ込むようにして彼女のベッドに倒れる。すぐに寝ていたなぎは起きて、こちらを見る。寝ぼけているのか、いつもよりとろんとした目つきでこちらを見つめていた。

 その瞳には、なんで? という気持ちが込められているのだと、すぐにわかる。そりゃあそうだろう。寝ている時にいきなり同居人に突撃されたら、誰だって驚く。

 でも、止められなかった。今日の私は、おかしい。いつもなら自制できることも、抑えられない。

 そんなに大きな声で言う必要もないのに、私は叫んでしまっていた。


「ねえ! なぎ! 聞いて!」

「ええ……? どうしたの……?」

「あのさ、私さ。大っ嫌いなやつがいるの! そいつがアイドルやめるって聞いてさ、涙が止まらないんだ! なんでだと思う!?」


 我ながら、頭がおかしいと思う。泣きはらした目も隠そうとせず、潤んだ声になりながら、叫んでいる。

 なぎは、驚いている表情をするも、すぐにいつもの慈愛に満ちた笑顔を浮かべる。何がそんなに嬉しいんだろうか。


「そっか。じゃあ、佳奈ちゃんはきっと、その人のことが大好きなんだね」

「はあ? 嫌いって言ってるじゃない!」

「だって、好きじゃなかったら、アイドルをやめるだけで、そんなに動揺しないでしょ? こんな状態になってる佳奈ちゃん、初めて見たもん。そんなに気に入ってる人なんだねえ」


 と、しみじみと言うなぎ。孫の初恋を聞いたおばあちゃんのような微笑みに、私はなんだかおかしくなってしまって、泣きながら笑いだした。さらに頭がおかしい状況だけれど、気にしない。心の奥底からあふれる様々な色の感情が止められない。感情を制御するところがもう壊れてしまったみたい。赤、青、黄、緑、黒、白、水色、そしてオレンジ。色が目から溢れて、感情が外に流れていく。大嫌いだと思っていた太陽は、やっぱり嫌いになれていない。

 憎くもないし、嫌いでもない。離れていってしまうのが、一般人とアイドルの関係になってしまうのが、悲しい。真理とは、私は一生のライバルでいたい。

 感情の奔流の中で、やけに冷静に私は自分の気持ちを整理できていた。なんだ、簡単なことじゃないか。

 私は最初から、真理と友達になりたかったんだ。


「ありがとう、なぎ」

「んー? どういたしまして」

「明日、私の話を聞いて。何があったのか、詳しく全部教えるからさ」

「いいよ、待ってる。だから今日はおやすみ」


 そう言って、なぎはまた布団に戻る。私も自分の部屋に戻って、ベッドで目を瞑る。今までのことが、鮮明にまぶたの裏に映った。思い出の一つ一つが色になって、飛び回る。プラネタリウムみたいな景色に、私の意識も空へ飛んでいった。


◇◆◇◆◇◆


 目が覚めた。青い空の色が私の部屋へ差し込んでくる。なぎは、こんな色だ。私を優しく朝の日差しのように包み込んでくれる。きらきらと輝く目は太陽のようだ。そういう意味では、なぎは真理と似ているかもしれない。

 部屋を出ると、なぎと顔を合わせた。昨日、あんなことがあったのに、私達はいつもどおりのおはようを交わして、ご飯を食べる。日常のような非日常の色に、ぞくぞくとする。ああ、今日決着が付くんだ。と、肌でわかるようなそんな日。

 いただきます、と昨日の野菜炒めの残りを食べる。昨日よりも、味が薄いような気がする。もしかしたら、昨日の野菜炒めは、調味料に私の涙が入っていたのかもしれない。

 味が薄くなった野菜炒めも変わらず美味しくて、私はすぐに完食してしまう。「もう食べたの?」と言いたげななぎの視線をかわしながら、台所で歯を磨く。いつもどおりの日常が、なぜか今日だけは色鮮やかだった。赤い歯ブラシも、銀色のシンクも、いつもより何倍も輝いている。

 そして、いつものように髪の毛をセットして、服を着替える。ケリをつけるからって、おしゃれはいらない。私はあくまで、非日常から日常に帰ってきたいだけなんだ。

 そう宣言するように、私は家となぎに向かって言う。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 ドアを開けると、眩しい光が目に入ってくる。昨日まで、大嫌いだった光。今日から、大好きになる光。おはよう、朝。私は、月。今は見えないけれど、夜になると主役になるの。

 目立つことが、今ではもう怖くない。レッテルを貼られることも、もういいや。私は、やりたいことをする。真理と仲良くなることも、やりたいこと。

 昨日のように、私は走り出す。真理の家は、もう知っている。

 赤い屋根の、レンガ造りの家。人形でも住んでいそうな場所だ。でも、住んでいるのは私のライバル。太陽。太陽は、この家から上るんだ。

 インターホンを押すと、少しして真理の声がした。


「……え? 佳奈?」

「やっほー、真理」


 今まで、真理に言われてきた台詞を、私が言い返す。彼女は、顔が見えなくても私が来たことに困惑しているのがわかった。

 少し待ってて、という声がした後、玄関のドアが開く。

 いつもより少しラフな格好をしている真理は新鮮だった。


「どうしたの?」

「私、真理にアイドル止めてほしくない」

「……はい?」

「だから、真理にアイドルやめてほしくないの」


 理解できない、というふうに、真理は俯く。私がやめたいって言ってるんだから、止めないでよ、と、弱々しく言ってきた。彼女らしくなく、悲しさを隠さずに呟いていた。

 ちょっと黙ったあと、真理は、こっちに来て、と私の手を掴んだ。そして、多少歩いた後、公園に着く。ブランコと、すべり台と、2つのベンチだけがある小さい公園だ。入り口に近いベンチに私と真理は座って、対面する。

 気弱そうな表情でこちらを向く真理は、やっぱりらしくなかった。


「あたし、昔はさ。この公園でたくさんお母さんと遊んでたんだ」

「……?」

「それで、アイドルのスカウトが来た時、お母さんすっごく喜んでた。なのに、お父さんとお母さんが別れてから、お母さんは変わってしまった。私がどれだけアイドルを頑張っても、喜びもしなくなった。ずうっと家で、俯いてる。それでさ、あたし、もう頑張ることに、疲れちゃった。お母さんの為にって思ってたけど、もう、無理。もう……無理、なんだよ……」

「真理……」


 ぽたぽたと、真理の瞳から涙が流れ出す。今まで1回も見たことのない泣き顔が、そこにはあった。

 オレンジ色だった彼女の裏には、そんな過去があったのか。きっと、辛かっただろう。思えば、あれだけ私が嫌っていたレッテルだって、自分は彼女に貼っていた。『矢野真理は太陽のような子だ』なんて、そんな勝手なことを言っていた。けれど、そんなものではなかったのだ。真理だって、私だって、色がついているだけの人間だったのだ。

 太陽のように振る舞っていた彼女の、外壁がどんどん壊れていく。その内面は緑色をしているように、私は思う。人に優しくしようと心がけすぎて、緑色の心も壊れそうに見えた。

 今までの私を見ているようで、苦しい。何をすればいいかわからなくなって、頭が真っ白になってしまう。あれだけケリをつけると思っていたのに、いざこういう状況になってみると、このざまだ。

 私はなぎのような人間にはなれない。だから、せめて私らしく、真理を奮い立たせたい。

 だから、私は真理の肩をがっしりと掴んで、言った。


「じゃあ、もうお母さんのために頑張らなくていい。私があんたの太陽になる」

「……え?」

「私、ずっとあんたのこと、誤解してた。真理は太陽みたいな子で、私なんかじゃ釣り合わないって。でも、違った。真理は恒星じゃない。お母さんっていう存在がいないと、頑張れない。だからさ。頑張る理由、変えてみない? 私、あんたのライバルになる。ライバルって言う名の、太陽に」

「たい……よう」


 真理は私の言ったことを反芻する。そして、私は畳み掛けるように言った。


「私、自分の髪型が大っ嫌い。だから、変わる。こんな邪魔くさいツインテール、切り離す。私も変わるからさ、真理も変わらない? あんたの世界は、お母さんだけじゃない。私も、真理の世界の登場人物になりたい」

「……わかった」


 真理は、一瞬俯くと、決意したように、こちらを向いた。その表情は、もう気弱ではなかった。だからといって、あのオレンジの仮面の顔でもない。緑色の、優しさと勇気を持った、そんな表情。

 そして、真理は言う。


「ありがとう。あたし、佳奈のライバルになる。今までの私は、もういない」

「そう、私とあんたは、ライバル。ショートカットの蜑宮佳奈と、お母さんから切り離された、矢野真理になろう」


 そう言うと、真理は立ち上がって、スマートフォンを取り出す。そして、だれかに電話をかけ始めた。内容から察するに、マネージャーだ。『やっぱり、アイドルやめません』という声と、マネージャーの嬉しそうな声が聞こえる。

 そして、真理は言う。蜑宮佳奈のライバルになったから、もう負けない。絶対に1番のアイドルになってやる、と。電話を切ると、こちらに向かって、指を指してきた。


「あたし、絶対佳奈には負けない。世界中を見返す、トップアイドルになる」


 そんな、挑発的な表情もできたのか、と私は驚いた。それも少しのことで、すぐに私は言い返してやった。


「私だって、あんたなんかには負けないわ。宇宙を揺るがす蜑宮佳奈になる」


 2人の橙色の覚悟は、空を震わせた。

 これが、私が髪を切った理由。

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