15、飯屋の母娘
町や村を囲う
しかし、帝国崩壊からまだ二十年。〈妖魔〉の記憶が人々の間に残っていたこの時代、夜の街に出て酒や女を楽しもうという者はまだ少数派に属していた。
日が暮れて通りに闇が下りれば一気に人の往来は減る。
したがって夜の客を見込んだ飲み屋、飯屋の看板は、比較的人口の多い都市ならともかく、カールンのような小さな州の小さな都市には、それほど多くはない。
その薄暗い町の通りを、一人の長身の男が歩いていた。
身長百九十センティ・メドール。薄い霧の中に溶け込んでしまいそうな灰色のマントを身にまとい、フードを深々と
「さて……どうしたものか」
灰色の男……ゾル・ギフィウスが、肩に乗った金色のトカゲに言った。
「〈妖魔〉に取り
トカゲが「キキッ」と鳴く。
「そうだな……そもそも、その
そのとき、当てずっぽうに通りを歩いていたゾルの前に、飯屋の看板が現れた。
「ほう……『黄金のヤモリ亭』……か。偶然だろうが、お前を連想させる名前じゃないか? ドラ公」
トカゲが「自分はヤモリじゃない」という意味の鳴き声を上げる。
「冗談だよ……いずれにせよ、ここらで腹ごしらえをしておくのも悪くない」
言って、ゾルは飯屋の扉を開けた。
入ってみると、店内はそれほど大きくはなかったが、質素ながら清潔で暖かかった。店内に客は七人。ゾルを入れれば八人。
「いらっしゃい」
「いらっしゃい」
カウンターの向こうで、四十歳くらいの年増美人と、十七、八に見える少女が同時にゾルに声をかけた。顔立ちが良く似ている。
(
灰色の旅人は、カウンターに座っている禿げ頭の右側、席を一つ空けて、二つ目の椅子に座った。
「何にします?」
年増美人……この店の
「ああ……そうだな……何でもいい、腹がふくれて、体が
「ありますよ。豚肉のシチューなんかはお勧めですがね」
「ああ、それが良い。それを一つくれ」
「お酒は? どうします?」
「いや、実はこれから、
横で聞いていた娘が、スッと調理場へ入った。
女将がゾルに
「仕事? 夜中に仕事ですか?」
「まあ、いろいろと、な」
「お客さん、この辺じゃ、見慣れない顔だけど、カールンの
「旅人だ。この町は今日が初めてだ」
「州都のくせに、やけに小さな町だ、ってビックリしたんじゃない?」
「いいや。そんな事はないさ」
「まあ、カールン州自体が、小さな州だからね。州都もそれなり、ってわけさ。……私も二十歳前までは
「数年前、近くまでは行った。実際に市街地の中に入った訳じゃないが……もう人間の住めるような場所じゃない、って話だった」
「……そうかい……」
四十がらみの女将が、少し寂しそうに
「我が故郷……
そのとき、十七、八に見える娘がシチューを入れた深皿とハーブ茶の入ったカップを持ってきた。
「さあ、召し上がれ」
女将が娘から皿を受け取り、ゾルの前に置いた。
* * *
豚肉と大きめに切った野菜を塩とハーブで味付けして煮たシチューを平らげ、ゾルがハーブ茶を
カップに口を付けたままゾルが振り返ると、
ひょろ男は、ゆっくりとカウンターに近づき、カウンターの向こう側に立つ娘の真正面に立った。
「いようっ、ラーラ……今日こそ『例の件』の返事を
やけに鼻にかかった声でしゃべる男に、女将の娘らしき少女……ラーラが露骨に嫌悪感を表して叫んだ。
「嫌よ! 何度言ったら分かるの! バクズ! あんたの女になんか、絶対にならないわ! あんたみたいな男に体を
「そう冷たくすんなよぉ、ラーラぁ……こう見えても俺様は警備兵士団の一員なんだぜぇ……ちょっとは、尊敬してくれよなぁ……今日は朝から非番だから私服だけどよぉ……これで『帝国の紋章』付きの警備兵団制服をビシッと着りゃあよぉ……俺、結構、男前なんだぜぇー」
ねちっこく迫るバクズに、ラーラの嫌悪感がさらに高まる。
「誰が尊敬なんか! 一年前、アーレン様が率いていたころなら、いざ知らず、今の警備兵士団はごろつきの寄せ集めじゃないの! だいたい現団長が、あの『
少女のあまりの語気の強さに、バクズは一瞬「うっ」と、後ろに
「おいおい、ラーラぁぁ……口は
「構うもんか! やれるもんなら、やってみな」
「ちぇっ、しょうがねぇなぁ……じゃあ、取って置きの品を見せてやるよ……これを見りゃあ、いかにラーラでも、俺に向かって
言いながら、バクズは腰のベルトに下げた革製の
母親の女将が息を飲む。
娘のラーラの顔から血の色がスッと引いた。
……ナイフの刃には、一面、真っ赤な塗料が毒々しく塗られていた。
「……そうよ」
バクズが勝ち誇ったような顔でラーラに言った。
「俺ぁ、な、ラーラ……昨日付で『特別班』に配属になったってわけよ……
「う、嘘よ!」
ラーラが叫ぶ……しかし、その声は弱々しく震えていた。
「あんたみたいな下っ端に、そんな権限が有るわけないじゃない!」
「へええ? そうかい? じゃあ、試してみるかい? 今からこの店の扉に、このナイフを突き立てて」
そう言うと、バクズは長い舌を出して、真っ赤なナイフをべろべろと
おそらく、このナイフは実用品では無く、あくまで象徴なのだろう。扉に突き立てるため先端部こそ鋭く
バクズは、
そして、いい加減、
ナイフにたっぷり塗り付けられたバクズの唾液がラーラの頬にべっとりと
その屈辱に、ラーラの顔が
「ん~ん、従順、従順。良い子だ、良い子だ……やっと自分の立場が分かってきたようだな……どうだ? 悔しいか? 恥ずかしいか? 今まで、さんざん俺を振ってきた罰だ……もうちょっと屈辱を味わえよっ」
言いながら、バクズが唾液の
真っ赤に塗った儀式用の
「ひゃーはっはっはっ! どうだ? 俺様の
少女の涙を見て、やっと満足したのか、警備兵士団特別班と自称する若い男は、赤いナイフをベルトの
「今日は、この辺にしといてやるぜ! これからたっぷり可愛がってやるからな! ラーラ! 楽しみに待ってろよ!」
そう言い残し、ひょろひょろした若い男は、肩をいからせながら乱暴に扉を開け、店の外へ出て行った。
バクズが扉の向こうに消えると同時に、灰色の旅人がカウンターの椅子から立ち上がった。
懐から金貨を一枚出して、カウンターに置く。その輝きを見て、一つ置いて隣に座っていた禿げ頭の客が驚く。
「
そして、灰色のマントを
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