放浪剣士ゾル・ギフィウスと仮面の妖魔

青葉台旭

1、灰色の男

 大陸全土を支配し繁栄の絶頂にあった帝国が、海の果てから流れ込んだ〈霧〉により一夜のうちに滅ぼされて二十年。

 大陸北西部に広がる大森林地帯の真ん中、樹齢数千年を超える巨木の間を走る街道の路上から、この物語は始まる。


 大気が一気に冷え込み初雪も間近と思わせる、ある晩秋の午後。

 帝国時代に敷設ふせつされた石畳を踏んで、二十メドール先も見えない濃霧の中を一頭の粕毛かすげ馬がゆっくりと歩いていた。


 馬上に男が一人。

 身長は百九十センティ・メドール位だろうか。

 灰色のマントの上からでも、引き締まった筋肉質の体の持ち主であることが分かる。

 目深に被ったフードからのぞく唇は薄く、頬は削げ、無精髭に覆われていた。

 男が座るくらの後ろには、左右に振り分けられた荷袋。その上に縛り付けられたクロスボウは、狩猟用か、それともか。


 突然、男の左肩に乗った小動物が「キキーッ」と甲高い声を上げた。

 それは黄金きんと銀、二色の美しいうろこを持った一匹のトカゲだった。


「なに?」

 フードの男が、まるで肩の上のトカゲに話しかけるように言い、粕毛の手綱を引き、馬の足を止めた。


 左手でフードを払う。

 短く刈った灰色の髪。鷹のような灰青色の瞳。ひと目で戦士と分かる精悍な顔がフードの下から現れた。

 年齢としは二十代後半……二十八か、九か、そんなところだろう。

 ……灰色の髪、灰色の目、そして灰色のマント……


 男は耳をすました。

 森は静かだった。

 鳥のさえずりも、小川のせせらぎも、何も聞こえない。


「本当に、来るんだな?」

 灰色の男は、もう一度、左肩のトカゲに話しかけた。

 それに答えるように、トカゲが再度「キキッ」と鳴く。


 やがて……


 前方、はるか遠くで、ひづめと車輪が石畳を打つガラガラという音が、わずかな風に乗って男の耳に届いた。

 しだいに大きくなる音の様子から、複数の馬と、少なくとも一台以上の馬車が高速でこちらへ接近してくると予測できる。

 灰色の目が不審げに細まる。


(おかしい)

 男は思った。

 高度な土木技術を持っていた帝国が敷設した街道とはいえ、石畳は完全な平坦ではないし、地形に合わせて右に左に曲がりくねっている。

 馬にしろ馬車にしろ、二十メドール先も見えないこの濃霧の中を高速で走るなど自殺行為に等しい。

(にも関わらず、何故なぜ?)


 とにかく、このまま街道の上で棒立ちになっていたのでは、前方から接近する暴走馬車の巻き添えを食らいかねない。

 男は無駄のない身のこなしでサッと馬を降り、周囲を見回した。

 街道の両側に広がる巨木の森……その片側に、獣道けものみちらしきものを発見し、迷わず馬を引いて街道を外れ、奥へと進んだ。


 五メドールほど奥へ行った木の幹の反対側に馬と自分の身を隠す。

 いかに巨木とはいえ馬の体を隠せるほど幹は太くないが、この濃霧だ。向こうから街道を走って来るがこちらに注意を払わなければ、やり過ごせるだろう……五メドール離れた木の反対側に居れば、万が一、至近距離で事故が起きても自分の馬と自分自身を守れる……そんな風に思いながら、男は木の陰から霧の向こうを……さっきまで自分がいた街道をジッと見つめた。


 ひづめと車輪の音が大きくなる。

 灰色の男が向かおうとしていた方向に……その霧の中に影が浮かんだ。

 影はあっという間に荷馬車の姿になった。

 街道の曲率に沿って馬車を走らせるには、あまりに速度が高すぎる。


(危ない……あんな速度で曲がったら……)


 突然、馬車の車体がグラリと傾き、車輪が道の外へ向かって滑り始めた。

 ついに片側の車輪が石畳から土の上に落ち、ギリギリ保たれていた左右の均衡が一気に崩れて、馬車は馬ごと道を外れ、横転した。

 御者台に乗っていた人物……父親と幼い娘らしき人影が勢いで馬車から投げ出され、宙に飛ぶ。


 灰色の男は、迷わず横転する馬車へ向かって全速で走り、投げ出された少女の体が巨木に激突する寸前に抱きとめた。

 すぐに少女の体を下草の上に寝かせ、飛び散る馬車の破片から少女を守るように覆いかぶさる。


 馬車の車体が転がり木々にぶつかって粉々に砕け散るすさまじい音が森に響き渡った。

 木片が男の灰色のマントにバラバラと落ちてくる。

 ……やがて残響が収まり、再び森に静寂が戻った。

 いや……完全な静寂ではない。……街道の向こうからは、別のひづめの音が複数、こちらへ近づいていた。


 灰色の男は、起き上がって少女の様子を確かめた。

 気を失ってはいるが、どこにも外傷は無さそうだ。

 とりあえず少女を下草の上に寝かせたまま、馬車に乗っていたもう一人の人物……父親らしき男の姿を探す。


「うう……」

 数メドール先で、人のうめき声がした。

 走り寄ってみると、男が木の下に転がって苦悶の表情を浮かべていた。


「大丈夫か?」

 言いながら、灰色の男が、少女の父親らしき男の肩にさわると、父親は「うがあっ」と、ひときわ高い声で叫び、土の上で体を丸めた。


(落下の衝撃で腕を痛めたか……骨折しているかも知れん……)

 灰色の男がそう思い、添え木に丁度良ちょうどいい木の枝を探して応急処置をしようと立ち上がった時、街道の向こうから五、六頭の馬が乳白色の霧をかき分けて現れた。

 それぞれの馬の上に男たちが一人ずつ乗っている。

 みなお揃いの革製の軽装よろいを着ていた。胸には、二十年前に滅んだはずの帝国の紋章。


(帝国正規軍?)


 二十年前、突然、海の彼方から流れてきた霧……と、その霧にひそんでいた……は、一夜にして都を壊滅させ帝国の中枢機能を潰し、皇帝と貴族の血筋を根絶やしにした。

 のみならず、霧は大陸全土を覆い、都を中心に蜘蛛の巣のように張り巡らされていた街道を分断し、帝国支配下に置かれていた各州を孤立させた。

 中央から派遣され州を治めていた各地の行政長官ガバナーは、帝国壊滅と同時に、独自に土地の統治権を主張、駐留していた正規軍さえも支配下に収め、地方領主のように振る舞い始めた……


 それから二十年。

 自らの正当性を強調するためか、行政長官ガバナー達の中には、あえて古臭い帝国の紋章を配下の軍隊と治安組織に付けさせる者も少なくない。


(つまり、あの者らは、この地方を治める州長官ガバナーの家来……公的機関の人間というわけか……)

 とりあえずそう解釈したが、馬上の男たちの正規軍らしからぬ下卑げびた雰囲気が、どうしても気になった。


「貴様ぁぁぁ!」

 やや高くなっている街道の上から、隊長らしき男が馬に乗ったまま、灰色の男に向かって叫んだ。


「貴様、何者だぁぁぁ!」


 同時に部下の男たちがクロスボウを構え、森の中に立つ灰色の男に狙いを定める。


「キキッ」

 灰色の男の肩に乗る美しいトカゲが鳴いた。


「ああ、分かっている。この地方を治める正規軍にしては、やけに下品な奴らだ……何かがありそうだが……ここは一つ様子を見るか」

 男は肩のトカゲに答えるように言い、無抵抗の意志を示すため両手を上げて隊長らしき男に叫び返した。


「俺の名はゾル・ギフィウス! ただの旅人だ!」

 言いながら、ゆっくりと街道へ向かって歩いた。

 森を出て、馬上の男たちから七メドールほどの距離を置いて立ち、両手を挙げたまま、男たちの数を素早く数えた。

(一……二……三……六騎か)


「ふんっ」

 隊長風の男が馬の上からバカにしたように灰色の男を……ゾル・ギフィウスと名乗った男を見下ろした。


「旅人だと? 怪しいやつだ……ダンクル!」

 部下を振り返り、そのうちの一人にむかってあごをしゃくる。


「はっ!」

 ダンクルと呼ばれた部下が馬を降り、ギフィウスに近づいた。


「他のものは森を探せ!」

 隊長の命令とともに他の男たちも馬を降り、小走りに森の中へ入っていく。


「抵抗するなよ……」

 言いながら、ダンクルは灰色の男が武器を持っていないかを確かめ始めた。

 ギフィウスの左肩に乗ったトカゲと目が合う。


「お前ぇ、トカゲなんか飼っているのかよ……薄気味悪い野郎だぜ……」

 美しいトカゲから目をそらし、ダンクルは手際よくギフィウスのマントの下をあらためていった。

 右足のブーツ外側にさやごと縛り付けた大型ナイフ以外、武器らしい物は何も出てこなかった。


「なんだ、お前ぇ……短剣ひとつ持ってねぇじゃねえか。そんなんで、よく街道を旅してきたもんだな……道をよぉ」

 最後に、ダンクルは右足のブーツに縛り付けられた鞘からナイフを引き抜いた。

「ヒューッ」

 引き抜いたナイフの刃をまじまじと見ながら、驚いたように口笛を吹く。

 刃渡りは少なくとも二十センティ・メドール以上はあるだろう。ナイフとしては飛び抜けて大型だが、短剣と呼べるほどの長さでは無い。

 兵士を喜ばせたのは、その刃に浮き出た美しい文様と、つかおよびつばの精緻な細工だ。


「こりゃあ、相当の上物じゃねぇか」

 ダンクルの驚いた顔が、すぐに下卑げびた薄笑いに変わった。


「へっへっへ……こんなナイフでも、武器といやあ武器だわな……危ねぇ、危ねぇ……没収させてもらうぜ」

 怪しい光を放つナイフの刃に魅了され、何度もめつすがめつしながら、目を細める。

 その時、森の中を探していた隊員たちから声があがった。


「隊長! 父親を見つけました!」


「少女も居ます!」


「ようし! 連れて来い!」

 馬上から、隊長が叫び返した。

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