第10話 信じてる信じてない
配置換えから二週間。
「……明日、到着するようだ」
授乳室にやってきた王子は言った。
少し憂鬱そうな表情だ。
「ご予定より時間がかかりましたね。あちらからの天候が悪かったのでしょうか? この季節は竜が出ることも少ないはずですが」
わたしは胸を出して言う。
「小競り合いがあったようだ。それほど緊迫した地域を通る行程はなかったはずだから、なにか情勢に変化があったのかもしれない」
「……」
息を飲む。
過小報告だ、とすぐにわかった。
わたし程度に言う時点で、陛下の一団がなにかに巻き込まれたことを隠せない状況なのだ。小競り合いのレベルを超えている。
ほとんど宣戦布告と変わらない。
あるいは同行しているガルテ様の方を狙っているのかも知れないけど、それはそれで政略結婚に対する攻撃である訳で王子も無関係という訳ではない。晴れやかな表情にならない訳だ。
到着の遅れだけでもピリピリしてるのに。
「そんな顔をするな、シズキ」
王子はそう言ってわたしの額を撫でた。
「もう半月もすれば夏が終わる。戦にはならない。隣国に大きな動きもない。エレ・エネンドラは今年も平穏無事だ。私が保証する」
「そうですね。殿下」
わたしは元気な声を作って答える。
ベッドに倒され、おっぱいを吸う流れの中のセリフじゃなければカッコいいぐらいだ。本当に逞しくなられたと思う。率先して落ち着いて日常生活を送ろうとしているのだ。
それが母乳を飲むことであれ。
わたしを安心させようとしてくれている。
「だから、明日はいつものように頼む」
たっぷりと両乳房を吸った後、王子は言った。
「畏まりました」
授乳室には来られない日ということだ。
陛下が帰国、結婚相手との顔合わせ、さすがにおっぱいを飲んでいる時間はない。王子としての役目もわきまえてる、と言いたいところだけど、わたしの仕事が減る訳でもなかった。
「……」
屋敷に戻って、わたしは明日の準備をする。
王子の時間に合わせて母乳を自分で絞り、瓶詰めにして渡さなければならない。これが結構ややこしい。乳房からの直吸いが一番美味しい、という変態スレスレの好みに対応するために、仕事中に抜け出して、先生のところで搾るための調整をしなければいけない。
これはわたしのプロ意識だ。
美味しくなくても残されたことはないし、文句を言われたこともないのだけど、兄に冗談めかして話をしたところによると、時間が経つと生臭さが出ると言っていたらしい。
その言葉を聞いたときはショックだった。
自分で試してみて、確認もした。
生臭くなる。
うら若き乙女として生臭い母乳を飲ませる訳には行かない。うら若くなくても一国の王子が生臭いものを飲むのはどうかと思う。美味しくないときは律儀に飲まないでいっそ捨ててくれた方がプレッシャーがないぐらいだ。
「今夜は……」
不透明の黒い瓶を煮沸消毒しながら、わたしは王子の予定表と睨めっこし、睡眠時間を決める。吸われて出なくなった状態から母乳が出るまでは大体五時間、けれど、十分な乳量を得るには十時間は欲しい。かなり早寝をすることになる。
さらに明日の当日は身体を清める時間、搾る時間、そして搾った瓶に封をして先生に渡す時間。この季節なら搾ってから王子の口にはいるまで二時間以内というシビアさだ。綿密にスケジュールを組み立てる、
夏だから。
「夏も終わり、か」
カレンダーを見て、わたしはつぶやく。
うだるような日本の夏が懐かしい。
そんな風に思う時がくるなんて。
この国の夏は、わたしの前世的体感では肌寒い春に近い。エレ・エネンドラは標高の高い山国であり、さらに山を越えると凍った大地しかないような地域にあるから仕方がないのだけど、ここから秋、冬と厳しい季節が待っている。
だから、この国は存続できてるのだけど。
「嫁入りに来て、トラブルなんて」
ガルテ様も大変だ。
大陸会議で演説するぐらいだから、この世界の自然や情勢もよくわかっているのだとは思うけど、実際に体感したら過酷すぎて帰りたく鳴っちゃうんじゃないかとカニちゃんと心配してる。それくらい寒さが厳しい。
すべては竜の仕業だ、ということになってる。
タッセ大陸。
タッセ、というのはこの世界の古い言葉で「すべて」という意味らしく、世界地図にもこの大陸とその周囲にあるいくつかの島しか載っていない。元地球人が見れば、地図が天動説の絵で、海に竜がいて探検がまったく進んでいないんだろうというのはわかるけど指摘したことはない。
生涯、大陸から出ることもないだろうから。
前世であのまま大人になったって日本から出たかわからないわたしだ。南には炎の竜がいて暑く、北には氷の竜がいて寒く、それぞれの勢力がせめぎ合って季節が出来てる、という説明でみんな納得しているならそれでいいと思う。
星の運行とか地軸の傾きとか?
説明できないし。
「……忙しないねぇ。十年もまともな戦をしてないと気が緩むんだろう。陛下が無事なら、いい刺激だったということだろうさ」
「先生、それは言い過ぎでは」
翌日、医務室に母乳を持ち込むとそんな話。
朝から確かにバタバタしていた。
軍が召集されて、陛下の帰国に合わせた歓迎の行事がキャンセル、ガルテ様を国民にお披露目するという話もあったけど吹き飛んで、厳戒態勢でのお出迎えとなった。
歓迎ではない感じ。
「言い過ぎなもんかね。ヴェントにもよく言っておいておくれよ? 殿下の時代までに国が小さくなるようなことになったら、国を滅ぼした無能将軍だと言われるってね」
幼い外見とは裏腹にキツい言葉。
「滅びるんですか?」
そこまでの危機なのだろうか。
陛下と小競り合いになったという相手が追ってくることを警戒している状態だけど、秋になったら雪に閉ざされて、軍隊で攻めてくることは不可能になる。王子が保証すると言ったのもそれが根拠だ。
「滅びるね。シズキ、エレ・エネンドラが大陸の他国に優越してる点は教えたろ?」
「国土が広い、こと?」
わたしは答える。
先生は医者であると同時に、わたしにこの世界の歴史とか諸々を教えてくれた先生でもある。前世では特に勉強熱心でもなかったけれど、別の世界にくれば馴染もうと必死にもなったので、それなりにまじめな生徒と見込まれたと思う。
「そうさ。今は使えない土地でも、これから使えるようになる可能性があり、眠っている資源もきっとある。それこそ将来性があるってことさ」
「人口は減ってますけど」
税収が伸びなくて国は貧乏まっしぐら。
「それを増やすのがシズキたちの世代だろ?」
「そう言いますけど」
「甘えたことを言うんじゃないよ!」
シルト先生は椅子の上に立ち、わたしを見下ろす。本当に見た目はあどけない子供なので、ふざけているようにも見えるけど、その目は若いものには負けないというギラギラとした力で漲っている。
「殿下から言われたんだろう? 結婚は?」
「相手が」
わたしは苦笑いする。
「なら、殿下に頼んで子供を貰えばいいじゃないか。あの子はシズキが頼めばくれるよ。その身体なら十人、いや十五人は産めるね」
「ええ……」
わたしは先生の剣幕に引く。
どういう計算?
十五人産むとか、ほとんど十五年が妊娠期間になるわけで、いますぐ妊娠しても三十歳越え、設定上では三十三とか三十四、思いっきりオバサンになってしまう。
前世で失った青春を取り戻すことも。
なにより。
「殿下はそんなことしませんよ」
「試したのかい?」
「試すって、わたしは乳母ですから」
目を背ける。
軽くおっぱいを愛撫されたことは忘れたい。
「それだ。それがいけないよ」
けれど、先生は許してくれそうになかった。
「いけないって言われても」
乳母なのは事実だし。
「襲っちまいな」
「はい?」
わたしは耳を疑った。
「きっかけが必要なんだよ。殿下にはね。肉体は正常さ、欲求もないという訳じゃない。だがね。殿下の精神が男になりきっていないんだよ。行為を義務だと思ってるね。それじゃあ国は栄えない。その原因はシズキ、あんたにある」
「わたしのせいですか?」
そんな責任を押しつけられても。
「母親が女であることを教えてやりな」
先生は顔を近づけて言う。
「乳母ではあっても母親ではないですが」
わたしは答える。
まだ性的な意味では女でもありません。
「わからない子だねぇ?」
鼻で笑った。
「いや、先生がおかしいんですよ」
長生きしすぎて変なのは知ってたけど。
「エネンドラなんだよ? 殿下は。生まれながらの王、人間を統べる血統さ。それがいつまでも乳離れできない。シズキの乳が美味しいのは承知してるよ? でも、それならばそれで、もっと強引に飲むべきなんだよ」
「強引に飲む?」
わたしの頭の中では殿下がいきなり女の胸をはだけさせおっぱいを吸う光景が繰り広げられていたけど、それは人間を統べるどころか、人間以下にしか見えないものだった。
「たとえば、シズキが妊娠したらどうなるか」
「!」
「味が濃くなるのか、薄くなるのか、量が増えるのか、減るのか。人獣としての特性が子にも遺伝するのかしないのか。興味を持つのが本当だろう? 遺伝するのならば、それこそ……」
「待ってください。話が完全に変わってます」
背筋に寒気を覚えて、わたしは言った。
先生の想像の先にあるのは、家畜。
自分でも考えた。
バターを作って、その他の乳製品の製造を試みなかった理由でもある。この世界に牛と呼ばれる動物はいないのだけど、わたしの耳とか尻尾とか牛なんじゃないかという疑念があった。前世の記憶を振り返ってもちゃんと思い出せない牛の姿、わたしは牛女なんじゃないか。
牛女が並ぶ牧場。
そんな地獄絵図を。
「そうだね。確かに、つまり。殿下は優しく育ちすぎたということさ。あの事件もあったからね、仕方ない面もあるけど、王となる人間としては問題だよ。優しいだけでは、国民を守ることなどできないんだからね」
とりあえず先生は納得してくれた。
「襲ってどうなるものでもないでしょう?」
優しさだけでは国民を守れない。
それはたぶんこの世界では事実だと思うけれど、だからと言って、王子が優しさを捨てて母乳を得るためにわたしに娘を生ませシズキ牧場の経営を命令するような母乳狂いになられても困ると思う。なんか話がズレてるような気がするけど、たぶんそういうことだ。
きっかけならなんでもいいって話じゃない。
「やってみなきゃわからないさ」
先生は不敵に笑った。
「やってみて失敗したら困るって話ですよ」
これ以上、こんな話はしたくない。
ともかく封をした瓶を置いて医務室を後にする。瓶に蓋をして、糊付けした細い紙をクロスさせて貼り、サインがしてある。わたし以外が触ったとわかる場合は飲まないことになっている。異物混入、毒による暗殺などを警戒した対策だ。
殿下はわたしが毒を入れないと信じてる。
あるいは信じたいと思ってくれてる。
物心もつく前に、実の母親に殺されそうになった殿下が、わたしの母乳を信じて飲むのがどんな気持ちかは上手く想像ができないけど、それを裏切ることなんてできない。
優しいなら優しいままでいいと思う。
それで国が滅ぶとしても、殿下の責任というのは言い過ぎだ。母親に裏切られて、人を信じられなくなったとしてもおかしくない。そういう育ち方をしてきた人だ。ずっと見てきた。
わたしなら信じられない。
胸ばかり大きい、他に取り柄のない女のことなど信じず、ただ母乳を搾るように命じさせることだってできる立場なのに、わざわざ毎夜、秘密の部屋に通って、おっぱいを吸う。変態スレスレかも知れないし、呆れることもあるけど、だけど、わたしたちにとってはそれが信頼の証だ。
男と女でもなく。
子と母でもないかもしれないけど。
王子と乳母として。
「……それで十分なんだよ」
つぶやく。
自分に言い聞かせようとしてる。
わかってる。
本当はわたしが殿下を信じられてないんだ。
失恋して死んだ前世。
襲うなんてとんでもない。
優しい王子に拒絶されたらと思うと怖い。
パスされるのはもうイヤだ。
王子が変わってしまうのも怖い。
でも、変わるのはわかってる。
結婚するのだ。
バタバタと人々が働く城内を歩きながら、実感しはじめている。わたしが母乳をあげて育てた王子は、今日やってくる女の子をお姫様に迎えて、またひとつ男になる。立派な男に、国を背負っていく人になるのだ。
今までと同じという訳にはいかない。
今までと同じように、という話をわたしにしたのは心配させないためだ。それがやっとわかった。優しいから、乳母のわたしが寂しい気持ちにならないように気を遣ってくれていた。変わらないで欲しいというわたしの気持ちを察して。
子離れできてない。
「働こ」
わたしは仕事に戻る。
ピリピリした状態だけど、少しでも和やかになるようにガルテ様に尽くして、王子の変化が少しでも穏やかになるように願うこと。それがわたしすべきことだ。
使用人にはそれくらいしかできないのだから。
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