2035

青浦 英

第1話:桃源郷2035

 西暦2009年9月19日。

 西太平洋で発生した未曾有の地殻変動が、極東の島国、日本を壊滅させた。

 世界のパワーバランスは崩れ、その隙を突く形で、ユーラシア大陸に強大な多国間軍事同盟が生まれた。

 それは世界を力で支配しようとし、それに反発した諸国との間で、世界大戦に発展した。

 核兵器も使用した戦争は、億単位の死者を出した後、2016年8月に終結した。

 それからおよそ20年が過ぎた。



 その日の朝、ぼんやりとした意識の中、僕の脳は覚醒の一歩手前のあたりまで来ていた。

 まどろみ、と言うのか、目は覚めていないんだけど、何となく覚めかかっているような状態に、割り込むように、軽い信号音が響いた。

 ある種の音は、眠りの中に敏感に浸透してくる。

 目覚まし時計である。

 外見はアナログだが、内蔵電脳には音波工学のたまものという眠りから優しく起こしてくれる様々な音がプログラムされていて、指定時間に鳴り出すという仕組みだ。

 いまの仕事をするようになってから、出来るだけ、午前中にはきちっと起きようと思い、この時計を買った。そうしないと午後起きになってしまう。午後に起きると、なんだか非常に損したような気になる。

 で、優しく起こしてくれるかというと、これが結構不愉快なのだ。

 一気に目は覚める。

 が、起きたくないという意識が、逆に眠りの世界へ戻そう戻そうとする。

 要するに、本能に逆らう刺激は、なんであれ、不愉快に感じるわけである。

 目覚まし時計は、僕が覚醒状態になっていることを探知したのか、少しだけ信号音を替えて、最後の一押しにかかった。脳の活性化を進め、体を動かしやすくするように持っていこうという類の信号音らしい。

 僕はささやかな抵抗を試みて、ベッドの掛け布団をかぶった。目覚まし時計は、僕の動きと、僕の回りに音波を防護するものが覆ったことを認識して、別の信号音に切り替わり、音量を上げる。

 そんな目覚まし時計との攻防の最中に、まったく別の音が響き渡った。ぶしつけ、と言うか、不興な音というか、これは目覚まし時計じゃない。

「起きてください。お電話です。起きてください」

 こういうことを言う時、うちのかわいい猫のタマは、たちの悪いネコ型ドロイドに変貌するのだ。ペットロボットに電話取次機能を付けることを思いついたやつは一体誰だ。いつか調べて告発してやろう。

 そんなことを思いつつ、

 うるさい、と掛け布団から手だけ出してネコドロイドの頭を叩こうとしたが、そこはそれ、猫はスススと器用に後ずさりして魔の手から逃れる。

「電話って、誰からだよ」

 僕は掛け布団から顔を出して聞いた。

「トウキョウ・サイバー・ポスト社ドミニオン、田村恭様からです」

(なにがドミニオンだよ。小さな新聞社の編集長のくせして)

 とはいえ、トウキョウ・サイバー・ポストの経営者でもあるのだから、しょうがない。

「居留守だって言っとけ」

「居留守は使うな、早く電話にでろ、とのメッセージが同時に来ておりますが」

 呼び出しの信号音は鳴り続けている。しつこいオッサンだ。今度から電話のベルは音楽にしよう。

「出るよ出る出る」

「テレトークモードにしますか? 壁紙モードにしますか?」

「テレトーク。でもカメラは切っとけ」

 ピッと言う音と共に音声が切り替わる。僕は体を起こして、まだ鳴り続けている目覚まし時計を止めた。

「やっと起きたか、おはよう雑事屋君」

 壁紙の方から声が聞こえてきた。

「誰が雑事屋ですか。もう……、朝っぱらからなんですか」

「10時過ぎだ。寝てたんだろ。仕事だぞ」

「お断りします。小新聞社の仕事は安いですから」

 僕はベッドに寝転がった。

「仕事しなくて生活できるのか? バイクのローンがあるんだろう」

「先週した仕事で、大金が入ったんです。だからしばらくはあそんで暮らせます」

 これはウソではない。実際、昨日40万円が振り込まれている。それで夕べは飲みに行っていたのだ。エリンターはメディアの取材ばかりしているわけじゃない。他の仕事もいろいろあるのだ。

「だから、おやすみなさい」

「起きろ。カメラを付けろ。ええい、お前さんのミケに覚醒波データを送信するぞ」

「……」

 ピピッと言う音がして、

「音楽ファイルexm107360.musicをダウンロード再生しますが、よろしいですか」

 タマが言った。

「やめいやめい」

 僕は起きあがった。

「なんすか、もう。うちのネコを遠隔操作しないでください。なんでそんな技術知ってんですか。大体うちのネコはタマです。ミケじゃないですよ」

 そう抗議してから、

「僕、眠いんですよ。海棠の眠り未だ足らずなんですよ」

「それは美女の寝ぼけ顔に向かって言う言葉だ。とにかく起きろ」

 ちょっとした知的表現にやり返され、

「なんの仕事ですか」

 あくびをした。

「取材だ」

「なんの?」

「まずはカメラ付けろ。話しづらい」

 へいへい、と僕はつぶやき、ベッドから降りた。

「タマー、壁紙L1。カメラオン」

 ぴぴっ、と音がして、壁に貼ったフィルムビジョンが壁紙からモニターに変わる。田村編集長の顔が浮かび上がる。背後は窓だ。新宿の超高層ビル群が見える。東中野からの光景だ。編集室のざわめきが聞こえてきた。

「寝起きで悪いが、仕事だから来てくれ」

「なんの仕事ですか?」

「おまえ、桃源寮には行ったことあるか?」

「高齢者収容施設の?」

 そうだ、と編集長はうなずく。

「あるわけないでしょ。まだ二十代ですよ」

「ならちょうどいい。今度、高齢化社会のコラムをすることになった。その関連の取材だ」

「はあ。そのコラムは誰が書くんですか?」

「島田にやらせる」

「はあ、彼女にねえ。それで情報を集めて来いって言うわけですか」

「そういうことだ。取材先は、国立飯田橋桃源塔。桃源寮の一種だ。予約は入れてある。今から行ってくれ」

「今から取材? 打ち合わせじゃないんですか?」

「取材だ」

「そんな仕事の話、事前に全く聞いていないんですけど」

「当然だ。おまえには言ったこと無い」

「……で、なんで今頃言うんです?」

「頼んでいた他のやつが、忙しいとかで仕事を断ってきたんだ」

「他のやつって、誰です?」

 編集長はちょっと沈黙した。

「村尾だよ」

 若手のエリンターだ。僕よりも若手だが、優秀だと評判の男である。

「あいつ、断ったんですか?」

「……他の所の仕事を受けたようだな」

「大手ですか?」

「北斗新聞らしい」

 そりゃ大手も大手だ。村尾のやつ、大手の仕事なんで、こっちを振ったわけだ。トウキョウ・サイバーポストもエライ迷惑だろうが、村尾も早まったな。優秀とはいえコネが浅い段階で信頼を失ったら、この仕事はやっていけない。最初は無理をしてでも受けた仕事はやらなければならないのだ。

 とか偉そうなことを思いつつ、さてどういう理由で断ろうか、などと考えていると、

 編集長は急に猫なで声になって、

「だからさー、英介君、頼むよ。この取材は誰しも関係ある重要な内容なんだ。他のやつには任せられんのだよ」

 そんなセリフ、代役に向かって言うかね。それも若手の代役に向かって。

「な、頼む。この通り」

 と珍しく頭を下げた。

「へえい」

 僕は嫌々返事をした。なんだかんだと言っても、トウキョウ・サイバー・ポストにはお世話になってるから断りにくい。

 画面の端を見る。2035年4月18日(水)午前10時12分。ま、ちょうどいい時間か。

「島田に代わる。島田、打ち合わせだ。おい、島田!」

 編集長の呼ぶ声に合わせて画面の一部が区切られてワイプ画面が現れる。そこに編集長の顔が映り、画面全体は島田弥生のデスクカメラに切り替わる。誰もいない。

 ハイハイ、と言う声と共に、入社3年目の雑記者島田弥生が現れた。デスク前に腰をおろし、丸いサイバーグラス(ダテメガネとも言う)をかけた子供っぽい顔がこっちを見る。

 とたんに、きゃあっという悲鳴が上がった。

「なんだよ」

「ななな、なんて格好をしてるんですか」

「なんてって、寝る時の格好だけど」

 すなわちTシャツにトランクス姿だ。

「服を着てください!」

「なんだよ、なんか余計なもんでもみえた?」

 僕は下を見たが、そんなことはない。

「俺の格好がそんなに変かよ。あ、弥生さん、もしかして、俺に気があるとか? それで照れてる?」

「わけのわかんないことを」

「島田はお嬢様なんだよ」

 と編集長が言った。

「お嬢様って、彼女の父親はお好み焼き屋のおやじさんじゃないですか」

「だが、国家からマエストロの資格をもらってる。その娘だからな」

 マエストロって言ったって、お好み焼きはお好み焼きだろう。「しまだや」には僕も時々食べに行くので、彼女のおやじの顔はよく知ってるが、ほんと、そこらへんにいるおっちゃんだ。

 そっぽを向きながらも、チラチラこっちを見ている弥生の後ろに別の人影が現れた。

「あら? 英介君、素敵な格好じゃないのー」

「げげっ」

 今度は僕が慌てた。弥生を押しのけるようにして画面を覗き込んだのは、編集員の岩坂柳一郎だ。ヒゲあとも濃いオカマさんである。

「ほれみろ、お前の素敵なすね毛を見たがるやつが現れたぞ」

 と編集長。

 僕は慌てて脱ぎ捨ててあったジーンズをはき、シャツを羽織る。

「アラ、もう終わり?」

「岩坂さんはあっち行っててください」

 僕がパッパッと手を振ると、

「まー、失礼しちゃうわね」

 とか言いつつ、機嫌良く岩坂は離れていった。

「で、どうすりゃいいんだい。お嬢ちゃん」

 弥生は僕をにらみつけた。

 簡単な打ち合わせを済ませると、僕はシャワーを浴びた。4月とはいえ、もう気温は25度を超えている。じんわりと汗ばんできたし、寝汗もかいたようなので、さっぱりしておきたい。清潔感を見せることも、取材する時の心得である。

 スーツに着替え、髪を整え、家を出ると、1階の駐車場に降りた。

 ローンがたっぷり残ってる愛車、ホンダのEMMBアニバーサリーが置いてある。

 メモリーキーをコントロールアームに差し込むと、ブン、とバイクは目を覚ました。小さなカメラで僕をじろじろ見る。

『おはようございます、市来英介様』

「おう。ロック解除してくれ」

『了解しました』

 バイクにまたがり、タンクボックスを開けて荷物を入れる。グリップをつかんでコントロールアームをタンクの上に降ろし、固定。アーム根本のモニターが点く。各種情報が表示される。バッテリーはまだ十分残っていた。フルフェイスのヘルメットをかぶると、自動でバイクとリンクする。

 アームのスターターボタンを押すと、ビュウウンという電磁モーター独特の起動音が響いた。後輪駆動45馬力。別にボタンを押さなくても、バイクに言えばエンジンはかかるんだが、そこはそれ、操作しているという実感は味わいたい。

 グリップを握り、左足をギアに乗せる。フォワードコントロールにしてあるけど、ギアはドライブ、ニュートラル、リバースの3つしかない。ハーフオートというやつだ。

 リバースに入れ、グリップをひねる。

 ぐーん、とバイクはバックした。そのままコントロールアームを傾け、向きを変える。乗り始めの頃、これがうまく出来ず、よく立ちゴケしたり、駐輪してある自転車に突っ込んだものだ。右足を軽く付けておくとやりやすい。

 ギアをドライブに入れて、アクセルをひねった。バイクは順調に走り出した。

「交通情報。事故渋滞関係を出してくれ」

『了解しました』

 アームの画面に地図が現れる。

「ルートは新青梅バイパス限定で。トウキョウ・サイバー・ポスト社まで」

『了解しました』

 画面が切り替わる。地図にいくつかのデータが重ねて表示される。事故はないようだ。

「他に問題ある?」

『新青梅バイパス、現在、工事その他、交通規制はありません』

 僕は交差点を曲がった。超高層ビルの並ぶ立川市内を抜け、五日市街道に出る。そのまま速度60kmで東進し、国分寺恋ヶ窪のところで第3環状都市建設現場を抜けて、北東方向へ向きを変える。環状都市の巨大な基礎部分がむき出しになっている。この辺りの再開発はまだ進んでないので、普通の住宅街も残っている。ところどころに空き地が拡がっているのは移転が完了した地区だ。植樹などの工事も見られた。

 前方に新青梅バイパスの高架道路が見えてきた。小平ランプでバイパスへと上がる。

 バイパス上は空いていた。

「オートモード」

『了解しました』

 バイクの搭載電脳が道路局の電脳とシンクロしながらコントロールする。時速80kmで巡航。周りの車両もオートモードだ。電脳のコントロールでもバランスは保たれるが、やはり二輪では緊張感が減るわけでもないので、アームのグリップは握ったままにしておいた。フォワードコントロールは、足を前に出すスタイルなので、無理な前傾姿勢にはならずに済む。一般的なヨーロピアンタイプのバイクに比べれば楽だ。

「厚生労働省サイトの桃源寮関連データを検索してくれ。結果はバイザーに」

『了解しました』

 ヘルメットのバイザーの透過度が落ち、電脳グローバルネットワークのブラウザ画面に変わる。すぐに検索結果が表示される。その一覧を見ながら、

「厚生労働省高齢者対策局を」

 厚生労働省公式データサイト内の同省高齢者対策局のデータが表示される。視線でアイコンを選びながらページを切り替える。

 飯田橋桃源塔のデータが表示された。

 高さ275m。地上85階、地下9階建て。最大収容人数1万500人。2033年竣工。第1級高度情報処理施設指定。エクサネット対応。全国14ヶ所の桃源塔(高層化桃源寮)でも最新の施設。現在2682人が入所。

 これが今日取材に行くところのようだ。

『当桃源塔は、国家最高・最新のシステムによって運営されており、高齢者の生活・意識対策は万全のものとなっております。ぜひ、定年指定の暁には、当桃源塔への入所をお奨めいたします 厚生労働省高齢者対策局』

 変な宣伝文だと思った。

 ふと視界に何かが見えて顔を上げると、前方に巨大な「壁」が近づいてきた。バイパスはその間を抜けるように延びている。

 はやくも第2環状都市である。

 すでにほとんど完成していて、斜面の分譲テラスにはたくさんの家が建っている。

 環状都市は、09革命の主要テーマとして、首都再建と環境復元事業のために、2012年から建設が始まった高層化住宅都市だ。建設地区と、その周辺に住む住民を優先に移住を進めて、周辺地区は大規模に緑化するという大がかりな計画である。

 東京の周りに三重の環状都市が計画されているが、建設が進んでいるのは第2環状都市のみで、進捗率は90%以上という。環状8号線上に作られている第1環状都市は、都市部でもあるため、途切れ途切れに建設されており進捗率は50%くらい。一方、JR武蔵野線上に建設されている第3環状都市は、まだ10%程度くらいだろうか。基盤の工事が進んでいる段階だ。

 環状都市の構造は、最下部の幅が平均1500m、高さは平均100mの、断面が台形をした大きな土手のような形をしていて、斜面に分譲テラスが段々に並んでいる。この分譲テラスの上に住宅や学校などを建てる。

 内部はつまっているわけではなく、支柱やフロア以外はスカスカになっている。その中を道路や鉄道、インフラ溝が通り、小型発電所や工場もある。他にも、ショッピングモール、商店街、大規模スーパー、植物工場、養肉工場、小規模のテーマパークなどが内部に作られている。各所から日光が取り入れられるようになっているので、閉塞感はあまり感じさせない。

 都市の麓には高層マンションも多数建設され、神奈川県、千葉県、埼玉県の分まで入れれば、第2環状都市だけで600万人が住む予定である。東京都以外では、隣県や山間部からの移住者も多い。

 新青梅バイパスは、その第2環状都市の間、切り通しのようになっている場所を通過していく。

 都市の周辺はすでに移住が終わり、住宅地は解体されて緑化事業が進んでいた。かつてそうであったろう、武蔵野の風景がよみがえりつつある。自然の水利をいかした田園風景も見える。生産のための田園と言うより、里山などと共に自然を回復させるための循環システムの一種である。そこで農業する人は、環境省の環境保護官だったり、伝統的農法を受け継ぐ国家資格の持ち主であったりする。

 階段状に並ぶ分譲テラスの上に建つ家は一戸一戸違う。テラスはあくまで分譲地であり、不動産会社が代理人となって販売するため、建てる家は建設会社やデザイナーによってまちまちなのだ。間には垣根や小さな公園などもあるため、離れてみるとモザイク模様のようで華やかだ。大きな公園も見える。遠くにはところどころクレーンが立っていて、まだ若干建設が行われているようだ。

 バイパスの第2環状都市ジャンクションをすぎる。連絡道がぐるっと回っている。バイパスの上を、左右の環状都市基盤を結ぶ連絡道路が横断していた。ここからは見えないが、下の方には鉄道や環状自動車道も通っているのだ。

 都市基盤の台形をした断面は、なにかの機械やインフラの導管やケーブルが無数に出入りしている。

 環状都市を抜けると、一気に視界が開けた。

 前方に広大な緑地帯、その向こうには首都東京の風景が拡がる。

 東京23区は、大震災のあとに自然発生的にできあがった雑居都市群と、復興都心部とに分かれている。復興都心部にはすでに超高層ビル群が次々と建設されているが、その周辺、山手線の外側一帯に出来た雑居都市群は、文字通り雑居ビルや木造住宅が密集していて、都心部や、外側の環状都市とは対照的である。この部分の再開発計画は進んでいない。震災避難民や低所得者らが集まって街を作り、そこに不法移民や戦災難民までが集まって300万人以上の都市ができあがった。低所得者層などの移住先として第1環状都市は建設中なのだが、都市の解体と再開発を合わせて行わなければならず、地形の制約、環境対策もあるため、なかなか進んでいないのが実情だ。

 高架バイパスはやや右にカーブしながら都心へと伸びていた。

 超高層ビル群が徐々に近づいてきた。その手前の雑居都市群の中低層の建物が密集した雑多な景色も拡がっていく。

 環八通り沿いの第1環状都市の建設現場を抜けたところで、僕は運転モードをオートからマニュアルに切り替えた。

 沼袋のランプで一般道に降りる。

 この辺りからJR山手線のあたりまでの間が雑居都市群である。

 主要道路は様々な車が行き交い、一歩脇に入ると、路地には人や自転車、スクーター、一人乗り用EUVなどがあふれている。市場や商店街が至るところにあってにぎわっているのだ。雑居都市群などという言い方では、いかにもスラムか何かのように思われてしまうが、確かに低所得者が多いとはいえ、必ずしも治安の悪いところではない。活性化したアジア的都市という方が合っているだろう。

 その雑居都市の中、中野区東中野の神田川の近くにトウキョウ・サイバー・ポスト社の社屋がある。

 ひびだらけでねずみ色をしたコンクリート外壁のボロなビルだ。地上6階建て、1階はコンビニで2階が編集室、3階が電脳フロア、4階と5階が資料室で、6階は倉庫だ。一応自社ビルであるが、同社が建てたのではなく、ビルを丸ごと買ったのだ。

 EMMBをコンビニ脇の路地から奥の駐車場に入れ、端の方に停める。エンジンを止め、コントロールアームを上にあげロックした。タンクから荷物を取り出す。メモリーキーを抜いて降りると、バイクはスリープモードに入った。

 警備ロボットがやってきたので、バイクの警備を頼み、ビルに入る。

 防災法に引っかかるんじゃないか、と思われるほどに、荷物置場と化している階段を上がり2階へ。所々に小さなヒビの入った壁、そこにはられた安いサイネージフィルムビジョンには社の宣伝が流れ、汚れた床の端には壊れてしまった机が片づけられずに放置されてる。いつきても雑然とした感じの会社だ。まあ、大手の新聞社も似たり寄ったりだが。

 トウキョウ・サイバー・ポストは、2014年に編集長兼ドミニオンの田村恭がはじめたウェブ情報配信サービス会社が前身である。2021年からは電子新聞社になり、現在、雑居都市部を中心に13万戸に定期契約でデータを配信しているほか、有料サイトをいくつか運営している。新聞配信料は月1000円と安いが、広告収入でまかなっているからである。ただし、スポンサーもこの雑居都市部にある小さな会社ばかりなので、いつまでたってもローカル新聞の域を出ないでいる。正社員が15人、アルバイトが何人か。正社員のうち10人までが電脳技術者・ウェブデザイナーで、残り5人のうち、田村編集長と経理の四方田さんをのぞけば、編集者兼雑記者は3人しかいない。ベテランの高木さん、オカマの岩坂さん、新人の島田弥生だ。以前はもう一人いたが、いまはいない。つまり3人で紙面を作っているのである。

 今の時代、新聞社や出版社に専用の記者はほとんどいない。いるのはエリンターと編集者だ。エリンターというのは情報を集めてくる人のことで、記事も書くことはあるが、普通は編集者や雑記者がエリンターのデータに基づいて、打ち合わせをしながら文章を書く。エリンターは大抵、会社と契約しているだけで、専属ではない。情報を集めてはいろんな所に売り込む。優秀なエリンターともなると、新聞社や出版社の方から話が来る。取材を依頼されることも多い。分業化が進んで、文章を書く人と、取材する人に分かれた、と言うことだが、これには元々出版界にフリーのライターという職業があったこと、早くから契約社員制度が発達していたこと、そして情報化社会が進んだことにある。

 要するに、正社員を減らして人件費を浮かし、また情報化社会の速度に対応するため、外部の情報屋から情報を買う、と言う仕組みにしたわけである。昔のように記者が歩き回ってネタを探し取材をするほど、いまの社会はのんびりとはしていないのである。

 もっとも、高齢化社会で若い人間が減っているから、その分社員の機動力も減ってきているという事情もあるだろう。取材も外部委託にならざるを得ない。

 それにエリンターは個人業で組合はないから、その点も会社にはありがたい。社会保障もエリンターの個人負担だ。

 エリンターは情報屋でもあり、ネタ屋でもあり、取材人でもある。だから、メディアの記事のためだけに動いているわけではなく、人によっては、興信所に情報を持ち込んだり、企業のアドバイザーをしたり、政治家の手先となっている連中もいた。だから、雑事屋などという嫌味な呼び名で呼ばれることも多い。

 編集室に顔を出す。

「おう、遅かったな、雑事屋」

 田村編集長が声をかけてきた。呼びつけておいてさっそくこれだから。口は悪いけど人は良い、なんてよくあるけど、この人は口も性格も悪い。そばまで行くと、編集長は島田弥生を呼んだ。彼女は僕を見て少し顔を赤くした。さっきのことを思い出したようだ。本当にうぶなんだ、この娘は。からかいたくなる気持ちがわき上がってきたが、

「あらー、英介君、さっきは色っぽかったわよ」

 と岩坂が近づいてきて言った。しなだれかかるように僕の肩に手を載せてきたので、

「見物料をあとで徴収しますからね」

 そう言うと、けらけらと笑いながら彼(彼女?)は離れていった。

「で、ここに呼んだのは一体なんでですか」

 そのまま取材先へ行けばいいのだが、寄ってから行け、と言うので来たのだ。どうせカメラマンも付けてくれないような取材なのだ。直接行った方が早い。

「データをな、お前に渡しておこうと思ったのだ」

 そう言って、デスクの上に置いてある小型端末を掴んだ。

「なんで僕の携帯に送信しなかったんです?」

「桃源塔の入館パスなんだよ」

「……?」

「詳しくは知らんが、飯田橋の桃源塔は、入館にうるさいんだそうだ。特に取材は事前の許可がいってな。厚生労働省から許可のパスワードが送られてきたんだが、無線での送信はするな、と厳命されたんだ。情報盗聴を気にしているのだろう」

「量子暗号なら大丈夫だと思いますけど。でも、そういうことなら、有線回線経由で僕の家に送ってくれれば」

「安全と信頼の問題だ。お前に直接渡した方がいいだろう。あとで送られてきませんでした、とか、見え透いたウソを付かれても困るからな」

「そんなウソ付くような人間に見えます?」

「冗談だよ。ただ、あとで何かあった時、お前らの問題じゃないか、と言われるのを避けるための用心だ。ここにお前の認証を入れてくれ」

 と端末を僕の手前に置いた。指を当てる場所がある。光学遺伝子スキャン装置だ。僕はデータの受け取りのため、認証した。

「これで記録は残った。お役所相手はうるさくてかなわんさ」

 そう言ってリムーバブルカードを取り出す。

 僕はそれには応えず、

「他に必要なものはないのですね。じゃあ、取材行ってきます。帰りにデータを持って寄りましょうか。それとも、明日でもいいとか?」

「帰りに寄ってくれ。来週からのコラムに載せる。できれば島田と打ち合わせも済ましておいてくれるとありがたい」

「了解しました」

 僕がきびすを返すと、

「給料はいつもの通り、お前の口座に入れとくからな」

「お願いしますよ」

 僕は編集室を出た。

 が、すぐに戻って、入り口から中を覗く。

「どうした?」

 編集長は僕を見た。

「廊下のフィルムビジョン。端の方が映らなくなってますよ」

「いいんだ。どうせ安物だからな」

「いくらで買ったんです?」

「アキバののみの市で300円」

 その安さに呆れた。いくら何でも安すぎやしないか。それはともかく、

「いつも思うんですが」

「なんだ? 安物買いが気になるか?」

「そうではなくて、なんで、自社の広告を流してるんです」

「なんで、って、当たり前じゃないか。うちの社のことなんだから」

「自社内で流したって、宣伝にはならないと思うんですが。バイト入れても30人足らずの会社ですよ。購読者数が増えるわけでもないでしょうに」

「……」

 田村編集長は、黙ってしまった。10秒ほど黙っていたが、首を傾げた。

「そういえば、そうだな……」

 僕は黙ってドアを閉めた。



 飯田橋駅の南口を出てすぐの所に、桃源塔はあった。その名前に似合わず近代的な外観の超高層ビルである。下層部分は広い建物で、その上に円筒型の高い塔が建っている。塔は窓が整然と並んでいて、ホテルのような外観である。塔のてっぺんに円盤のようなものが乗っている。

 この超高層ビルが高齢者収容施設である。

 急激な出生率の低下と、高齢者医療技術の発達で、60歳以上の全体に占める割合が40%に達するいま、高齢者をどう扱うかで、国家経済が左右されかねない状況に置かれている。

 09革命と呼ばれる大構造改革で法整備が行われて以来、法律で定められた条件を満たさない限り、70歳以上の高齢者は必ずどこかの施設に収容される。60歳代は、もはや高齢者という扱いではない。現役なのだ。しかし、70歳以上は、あえて高齢者という扱いで施設に収容することとした。

 なぜ高齢者収容義務規定が法整備されたのか。詳細な歴史的流れは良くわからないが、一般的には、世代交代を確実にして、社会を活性化させるためと言われている。

 革命が始まって以来、高齢者政策で大きく変わったのは、次の点だ。

 第一点に、年金制度の事実上の廃止。廃止する代わりに設けられたのが、それ以前に比べてはるかに優れた設備を誇る高齢者収容施設の建設だった。老後を穏やかに過ごすために、金ではなく「暮らし」を提供することにしたのだ。

 収容施設は厚生労働省の管轄だが、運営は各施設の運営法人が行う。運営法人は自治体や企業基金など様々である。そこで、施設収容者に必要な食料や物資の購入資金は、一人あたりの金額最低ラインを決めた上で、運営法人が出し、民間会社が資産運用を行う。年金代用システムと呼ばれているのがそれだ。運用失敗の時には国家が補償を行うことも法律で定められているため、この点は年金といえなくもないが、若い世代の年金納入義務はなくなった。また、民間保険会社の年金サービスを個人的に受けて、余剰金を以て施設にはいることは認められている。しかし、これには国家の補償はないし、次に示す第二点に関わることなので、必ずしも普及していない。

 その第二点が、財産生前分与の譲与税の緩和である。70歳の引退指定を受ける前に財産を家族に譲渡した場合は、税が安くなる。一方、引退指定を受けた後に死亡して遺産相続をした場合は高率の税がかかるという仕組みだ。引退指定以前の死亡に関してはこの適用からはずれるが、革命以前の基準に相当する税率がかけられる。こうすることで、財産面からも世代交代を加速させ、社会を活性化させる狙いがある。

 高齢者が引退することで、彼らに支払うための莫大な給与やボーナス、保険などのお金を浮かせるという経済効果もある。しかし高齢者が資産を溜め込んだままでは、経済は活性化されないから、譲与が推進されているのだ。

 だが、この高齢者収容義務も、条件付きで緩和される。家族と離ればなれになるのは必然だから、当然、それを望まない人も多いわけだ。

 条件は、扶養条件、能力条件、実用条件からなる。

 扶養条件は、家族がきちんと責任を持って扶養できるかどうかである。生活できるかどうか、医療環境は基準に達しているかという基本はもちろんのこと、老人の行動が社会にトラブルを引き起こさないか、と言う監察も義務付けられる。これは、認知障害によるトラブルもあり得るから、脳治療やリハビリも義務に含まれている。扶養高齢者の死亡に関しても、いろんな義務が付けられている。いずれにしても、莫大なお金がかかるのだ。

 この義務に違反し、高齢者が死亡していない場合、施設に収容されることとなり、また死亡した場合は、政府や自治体が焼却と埋葬を行う。そして、家族には莫大な罰金が科せられてしまうのである。特に扶養高齢者より譲られた資産は一定の基準を以て没収されるのだ。

 ただ、次に示すような他の条件に合致する場合は、一部の義務は省かれる。

 能力条件は、その高齢者が社会にとってなくてはならない能力を持っていて、その理由によって自由に活動できるよう認められたものだ。特に技術者、学者、医療関係者は、この条件で収容対象から外されることが多い。条件に合致するかどうかの審査があるが、技術者は実際の技術が重要視され、学者は理論物理学など個人の能力に依存する学問を除き、若手への指導能力が問われる。教育者、スポーツ指導者なども含まれている。学閥の長になったからといっても、この条件を認められるとは限らない。技術者には、工業技術者だけでなく、農業技術者や伝統工芸技能者、料理人なども含まれている。

 実用条件は、能力如何に関わらず、その高齢者が特定の制度、システム、人間関係にとって必要であると認められた場合、その収容免除が認められる、というものである。

 普通は、高齢者の免除審査は扶養条件か能力条件で判断されるが、家族や本人は実用条件で収容から免れようと申請する事が多い。実用条件だけ、具体的な基準ではないからだ。

 本来、実用条件は、かなり年の差の離れた夫婦や、他に身寄りがなく年下の家族の病気・障害介護をしなければならない、などといった、家族の特殊事情で片方だけ収容されるわけに行かない事例がもっとも適用されるが(夫婦で年の差が近い場合は、どちらか一方が収容年齢に達した時、もう一方も一緒に桃源寮へ入所できるし、介護の場合、家族共々入れる施設もある)、それ以外では医療機関の求めによる場合や、伝統ある店舗のオーナーである、といったもの、あるいは重要なボランティア活動を行っている、といったそれぞれの立場や活動事例を以て判断される。環境再生事業に参加している人はほとんどがこの基準で収容除外対象とされる。だから、なにをするか、どういう立場かで、詳しく審査されるわけだが、申請する側の人々は、条件が緩和されていると勘違いして、実用条件で免除申請をするのである。実は、一番厳しいのがこの実用条件であった。

 それら条件に当てはまらない高齢者は、どこかの施設へ入ることになる。

 そのため、施設については、時に「姥捨て山」という陰口がささやかれることもある。僕はそのような感想はあまりないが、実際の所はどうなのだろう。

 桃源寮というなんだか安易な名前で呼ばれて、全国に大小何百とある高齢者収容施設には、いろんなタイプがあり、なぜか「サナトリウム療養所のような」と呼ばれる郊外の自然あふれる場所に作られた広大な施設もあれば、雑居都市群の中にあるような建物はぼろっちいが地域と密接に交流していて収容施設らしからぬところもある。

 そして目の前の桃源塔。桃源寮の中でも、このような高層施設が桃源塔と呼ばれているのは、前から聞いていた。特に主要都市は高層化が進んでいるため、収容施設も高層建築にならざるを得ない。

 この立派な外見を見る限り、ここが姥捨て山と陰で呼ばれているようなひどい場所には思えなかった。



 車両の入り口は道路からスロープを下り地下1階にあった。EMMBで乗り付けると、警備ロボットが近づいてきた。上半身は人型だが、下半身は足が四本あり、車輪が付いている。用件を言うと、「こちらです」と駐車場の空きスペースまで案内された。動きがスムーズである。バイクを止め、エントランスへ上がるエレベーターで1階まで行くと、そこに担当者が待ち受けていた。こっちは人間だ。中年の男である。

 彼は深々と頭を下げ、両手で名刺を差し出してきた。長い肩書きが目に飛び込んでくる。

「厚生労働省高齢者福祉援護局施設管理部広報課の棚橋です。ようこそおいでくださいました」

「エリンターの市来英介です。トウキョウ・サイバー・ポスト社の取材できました。よろしくお願いします」

 と名刺を渡す。光学印刷されたパーソナルデータカードだが、考えてみれば、この名刺交換、この電脳情報化社会であまり意味無いような気もした。まあ、この形式がワンクッションを置くことになって人間関係を円滑に進めるきっかけになるわけだろうけど。

「さあ、こちらへどうぞ」

 と棚橋氏は僕を案内した。

 エントランスは高い天井に豪華なモザイク画が描かれた壁、大理石風の柱など、豪華なホテルのロビーみたいだ。歩いているのは入所者の家族なのか、施設関係者なのか、入所者には見えない人ばかりである。

「まずは、簡単に施設の概要をご説明いたしますので、応接室の方に」

「はい」

 というわけで、5階の応接室へ案内された。至極普通の、広い部屋にクローゼット、上に置かれた磁器の壺、額に入った絵画、皮のソファにガラステーブル、隅にはベンジャミンがスパイラルに伸びた植木鉢、そういった部屋だ。

 僕はソファに座ると、携帯を取りだした。録音しますよ、と言うアピールで、こっそり録音するなどわけはないのだが、こういうこと1つ1つが信用でもあり、次の仕事へ繋がる。これも必要形式というやつだ。

「さっそくですが、まず設備のデータとか、入所者数とかをお願いします」

 棚橋氏はうなずいた。

「入居者数からお話しますか。定員は1万500人ですが、現在はまだ2682人しか入居しておりません。出来て間もないですからね」

 厚生労働省のサイトから得たデータ通りである。

「それだけの人数を収容できるのでしょうか。見たところはかなり大きな建物ですが」

「ビルの最上部まで高さは275mあります。超高層ビルとしては普通ですが、外から見てもわかりますように幅が広いですから収容キャパシティは高いんです。途中の円筒形の塔の部分が220mほどありまして、そこが居住区になってます」

 棚橋氏はパネルディスプレイをテーブルに置いて、外観の画像を映し出した。

「最近出来たんですよね」

「ええ。竣工は、2033年です。元々は民有地と都の用地が混在していたところで、高層ビルが建っていたんですが、震災で倒壊しましてね。その跡地はしばらく放置されてたんですが、国が用地を買い上げて、地盤を再整備した上で建設したわけです。震災の時に、この辺りの地盤は大きく崩れたりズレたりしてグズグズになってたから整備が必要だったんですよね。まあ、国家がそれをやってくれたおかげで、これが建てられるようになったわけです」

「すると、ここは完全な国営というわけですね」

「ええ。桃源寮はどれも国家管理ですが、運営はバラバラです。しかしここは運営も厚生労働省内の機関が担当してますし、職員も事務方はみな厚生労働省職員です」

「一般の職員の方は?」

「他の施設同様、雇用しております。入居者の家族もおります」

「建物の質問に戻りますが、かなり高さがありますけど、塔の上と下では入居資格とかに差があるわけですか?」

「出来るだけ入居者の希望には添うようにしておりますが、まあ、上の方が見晴らしもよいし、希望も多いですからね。最近は都心の高層化も進んでいるんで、下の方じゃやはり景色はよくないです。でもこれは仕方ないでしょう」

「まあ、そうですね」

「でも、そのままですと先着順になってしまいますからね。そうなると、それはそれで不平等でしょう。それで、ある程度、先着順の優先制度を残しつつ、その範囲で抽選を行うわけです」

「現在は定員を大幅に下回っていますよね」

 ええ、と棚橋氏はうなずいた。

「まだ他の施設に空きがあるため、そちらを優先させているのですが、地域人口の関係もあります。このあたりはまだ定住人口が少ないですし、震災復興後に移住してきた人は、まだ定年に達していない人が多いんです。だから、これから、ということでしょう」

「それでも、抽選を?」

「完全な先着順じゃないですからね。一応、各フロアに平均して入居するように割り振りしてますよ」

 ただ、と付け加えて、

「障害の度合いや、その他の要因で、個室と複数人数部屋との違いはあります」

「それは、たとえば、障害のある人は個室にはしないとか?」

「個々の度合いによりますね。たとえば同じ認知障害でも、介護の出来る人が引き受けてくれる場合、その人との同居であればその方がいいですし、逆に迷惑をかけそうな場合には、個室ということもあります。その場合は、やはり健常な高齢者の方と同等の部屋というわけにはいきません」

「それについて、批判とか意見とかは?」

「それは大丈夫です。もちろん入居時に説明もしてますが、何より、桃源塔はただの収容施設ではなく、回復医療も行ってる医療機関でもあるわけですから」

「つまり、障害も回復する。回復すれば、入居部屋を変える、と言うこともあり得るわけですか」

 棚橋氏はにっこりと笑った。

「まさにおっしゃるとおりです」

「そうなると、たとえばですよ、入居者が定員いっぱいいっぱいだと、脳の機能が回復したからと言っても簡単には移ることは出来なかったりすることになりますよね。将来はそう言う例も出てくるのではないでしょうか」

「ははあ、鋭い指摘をされますね」

 棚橋氏はうなずいた。こちらの質問に対する回答例でも用意されているのか、いずれも我が意を得たりという感じがちょっと勘に障った。

「その分の空きを想定して設計してあるんです。ここの部屋のすべてが定員数になるように入居者を取っていくわけじゃなく、フロアごとに常に一定の空きが出来るように計算しているのです。それは、部屋の移動を想定したシミュレートも含めて。電脳を使い完璧に計算されています」

「ははあ、いろんな予測の元に設計してある、と言うわけですか」

「そういうことです」

 と棚橋氏は自信ありげにうなずいて見せた。

「えーと、これは基本的なことですが、入居にお金は必要ないわけですよね」

 予習してわかっていることだが、取材だから聞いてみる。

「建設と運営から考えると、お金を取りたいところですが、そうやってしまうと、高齢者収容義務はうまくいかなくなりますよ。金を払ってまでしなければならない義務なんて国民からすれば迷惑な話でしょう」

 なるほど、確かにそうだ。教育ならまだしも、金を払って姥捨て山に連れて行け、というのはあんまりと言えばあんまりである。

「でも、そうなると、運営は大変でしょう。これだけのビルですから」

「一応、運営費の基金を創設して資産運用するようにはしてありますが、それだけじゃないですよ」

「といいますと?」

「この施設でも直接利益を上げるようにしているのです。先にも言いましたけど、全国の桃源寮は、施設によって運営方法が違います。地元住民の出資で運営されているところもあれば、自治体が補助金を出しているところもあります。いずれも、基金や国家補償制度がバックにあるとはいえ、地域の状況に応じたやり方というものがあるわけです」

「それで、ここにはここのやりかたがあると?」

「そうです。この施設で利益が出せるような仕組みがあるわけです」

「たとえば、どのような?」

「それはですね……、今から御案内しますから、その中でご説明しましょうか」

「よろしいのですか?」

「実際にご覧になった方がわかりやすいでしょう」

 僕らは応接室を出た。

 棚橋氏に連れられてまず行ったのは、塔の下層にある大きな建物であった。応接室の上に当たる。

「ここは各種工場や電脳ルーム、バーチャル設備などが入った棟です」

「工場? 生産設備があるんですか?」

 ええ、と棚橋氏。

「自給自足ですか?」

 一瞬、きょとんとした棚橋氏は、ぷっと吹き出した。

「違いますよ。ここで使う設備や製品を作っているわけじゃありません。ここが、先ほど言いました、利益を上げる場所。そして、入居者のためのものでもある施設なんです」

「と、いいますと?」

「工場は、入居者の中で、生産関係に従事されていた方がお使いになる設備なんです。機械を動かすことで脳を活性化させることが出来るようになりますからね。もちろん、非生産関係の仕事についておられた方でも、入居後に生産技術を学んで第二の人生を見つける方もおられますし、教えるのも入居者ですから経験を生かせます」

「なるほど、そのための設備ですか」

「もちろんここでアイデアを出すことで新しい製品を開発することもできます。実際、メーカーなどからも相談や開発製品についての取引があるんですよ」

「なるほど、それが利益を上げる、と言うことですね。医療行為と社会的実用性を兼ねた場所と言うことですか」

「まさにおっしゃるとおりです」

 工場の入り口に来た。廊下に面した窓から中を覗かせてもらう。いくつかの小規模の工場が数フロアの中に配置されていて、一般的な機械工場から、極微細加工設備、非金属系の加工工場もある。

「工場の壁や作業台はフレキシブルなので条件に応じて変更できるようになってます」

 稼働してない部屋もあったが、入居者がいきいきとして機械を動かしているフロアもあった。

「動画で記録していいですか?」

「どうぞどうぞ」

 僕は携帯で動画を撮りはじめる。

「いまも言いましたように、製品の売買利益は、この施設の運営に割り当てられますが、それを成功させた入居者へのボーナスポイントや表彰などもあります。やはり報賞がある方がやる気も出ますからね」

「ポイントというのは?」

「この施設の中には、いろんな娯楽設備や機器もあります。そう言ったものは、一定範囲であれば自由に使えるのですが、ポイントを利用すれば余分に使うことも出来るのです」

「それがボーナスというわけですか。ポイントを得ようとしてさらにがんばるようになると」

「そういうことです」

「製品を作っておられると言うことは、たとえば、オリジナルのものもあるわけですか?」

「ありますよ。アイデアを生かした製品作りは、入居者にとってもいい励みになるでしょう」

 なんだか、全部生き甲斐に持っていくというのが、この施設の方針のように感じられた。それはそれでなんだか変な気もする。生き甲斐は見つけるものであって、与えられるものじゃない。動物園で飼われている動物みたいだ。

「特許とかも取ってるわけですか」

「もちろんですよ」

 棚橋氏はふふんと、少し自慢げな笑みを浮かべ、

「ここに入っておられる方、年齢はどれくらいかわかりますか?」

 と妙なことを言った。

「8、90歳くらいですか?」

「おっしゃるとおりです。震災復興後に下町からこのあたりに移住してきた人ばかりですが、一番お歳な人で、1922年生まれの方がいます」

「1922年?! えーと……、113歳ですか」

「そうです」

「はあ、1世紀以上も前ですか」

 想像が付かない。

 そういえば、世界最高齢の人って何歳だったかな。135歳くらいだったろうか。

「あなたは、いつのお生まれですか?」

 と棚橋氏は尋ねてきた。

「2006年ですけど」

「なるほど革命世代ですな」

 僕は顔をしかめた。あまりそういう言い方は好きではないのだ。革命っていう言葉、どこかうさんくさい感じがする。

「あなたにとって戦争と言ったら?」

 とさらに聞いてきた。

「戦争? それはユーラシア大戦ですよ。第3次世界大戦じゃないですか」

「ですよね」

「……?」

「彼らの場合、戦争と言えば、大東亜戦争なんですよ」

「大東亜戦争? ユーラシア大戦のこと……じゃないですね」

「太平洋戦争のことです。第2次世界大戦のことですよ。当時大東亜戦争と呼んだそうです」

「へええ」

 確かに東アジアが戦場だったんだからそう呼ぶのはわかる。

「彼らの話で、戦争と言えば太平洋戦争なんです。入居者と話をした時、戦前の生まれ、って言う話が出て、私もそうだって言ったら、不思議な顔をされましてね」

 棚橋氏は苦笑を浮かべた。

「私は1992年の生まれなんです。当然、大戦の前の生まれでしょう。第3次世界大戦の。戦争からちょっと離れてますけど、私、あの戦争の時19歳でした」

「僕は5歳でしたよ」

「つまり、わたしもあなたも大戦前の生まれというわけです。ところが、彼らの場合、戦前と言えば、太平洋戦争前。大正から昭和初期のことなんだそうです」

「ははあ。でも、そう言う方は少ないでしょう?」

「入居者の多くは1945年から1970年頃までに生まれた人です。つまり彼らにとっても戦前と言えば、1945年に終結した太平洋戦争の前、と言うことになるんです」

「そうか……」

 いくら高齢化が進んでいるとはいえ、まるで実感のわかない時代の話であった。

「つまりなにが言いたいかといいますとですね、ここの入居者の多くは、20世紀後半の日本発展に尽力した世代。出生率の異常に高かったいわゆる団塊の世代と、その子供達の世代なんです」

「なるほど」

「彼ら世代にとって、働くこと、技術を手にすること、頭を使うこと、これらのことは重要な意味を持っていたわけです。しかし、ご存じかと思いますが、09革命で彼らの居場所は失われた。革命が始まると、彼らの世代は社会から強制的に引退させられたわけです。いろんな権利と共に。しかし彼らにも人権はありますし、彼らの経験や能力は今の社会にも必要なことでしょう。だから、こういう工場を造り、その他の様々な職場を用意し、働いている実感を維持させ、必要なら製品を作り、世の中にも売り出すわけです。そうすることで彼らは脳を活性化させ、健康を維持出来ると言う一石二鳥ですよね。病気になれば医療費もその分かかりますから、運営上も健康である方が都合がいい。もちろん、健康のための運動も行います。体と脳は相互補完の関係にありますから。でも、彼らが長生きする最大の秘訣は、仕事です。そのためにこういう設備が重要なのです。特許を取るのも、それだけの成果を上げていることを実感するためのものなのです」

 棚橋氏は力説した。

「なるほど」

 工場で作業をしている人を見ると、確かに、作業台のところで熱心になにかをしている様子が見える。

「もちろん、先ほども申しましたとおり、ここで開発した部品などをメーカーで採用してもらったりしてます。何しろ、ここはエキスパートの集まりですからね。結構、いいものも作ってくれるんですよ」

「それで特許も取れるわけか。施設と社会の両方の役に立っているというわけですね」

「革命で地位を失ったあとになってね。そこが皮肉と言えば皮肉ですが。おっとこれは記事にしないでくださいよ」

 僕は苦笑してうなずいた。ふと疑問が浮かんでくる。

「それにしても、09革命で、なぜ高齢者の引退を義務化するようになったんでしょうね」

「ご存じありませんか?」

「一般に言われているようなレベルでは、知っていますよ。世代交代を速やかに行うことで社会を活性化させるとか」

「高齢者を引退させれば、その分給与が浮くとか、でしょう」

「ええ、そういう話です」

 僕はうなずいた。棚橋氏はしかつめらしい顔でうなずき、

「それももちろん、理由の一つですが、それだけじゃないようですね」

「といいますと?」

「わたしも、革命のことについては聞いた話でしかないですけど、なんでも、あの頃、中高年によって引き起こされる問題が多発していたそうなんです」

「あの頃、と言うと、つまり2009年前後ですか?」

「ええ。2000年代初頭ですね」

「問題と言うと、たとえばどのような」

「まあ、簡単に言えば、モラル、個人主義、そう言ったことから来る問題でしょうね」

「えーと、もう少し具体的に例を挙げてもらえますか?」

「そうですね。たとえば、高齢者による犯罪の増加、マナーやモラルの欠如によるトラブルの多発、それに人材育成や教育の欠如、などです」

「そんなにひどかったんですか?」

「全体数から見れば、それは一部のことだったと思いますよ。でも、年齢的にやはり問題だったんじゃないですか? 分別のあるはずの世代が、むしろ若者以上にモラルがない、マナーを守らない、事件を引き起こす、自分のことしか考えない、と言ったようでは、困りますよね」

「それはまあ、そうですね。大人には社会の規範になる存在でいて欲しいとは思います」

「そう言うものが欠けていたのだと言われてます。特にあの頃の中高年世代には」

「そうなんですか?」

「歴史的に見て、団塊の世代のあたりは、若い頃には共産革命で騒ぎ、中年には経済をバブル化させ、その後は大不況を引き起こしているわけですし。欠けるものはあったんじゃないですか」

 なかなか手厳しいことを言う。

「うーん。それは、世代だけの問題じゃないんじゃないですか? 僕も歴史はいくらか学びましたけど、第2次世界大戦後の世の中のいろんな事情や変化が重なった結果、そうなっているところもあるでしょう」

「わたしもそう思いますが、だからといって、いい歳した大人がモラルがないのも、どうかと思います」

「まあ、たしかに」

 僕は少し苦笑した。

「それに、教育の問題や、人材育成を怠ったと言うことはあるようです。僕なんか、そう言う大人に教育を受けた世代ですけど、やはり学校の先生にはロクなのいなかったように思いますねえ」

 と棚橋氏は昔を思い出すような顔でうなずいて見せた。

 僕は彼よりも一世代はあとなわけだが、さて、どうだっただろう。

 学校に上がるようになった頃には、すでに社会の大改革が始まっていた。教育現場ではいろいろ混乱があったようだけど、教師に変なのがいたような記憶はない。僕自身、結構のびのびと学校生活を送っていたように思える。

 まあ、もっとも、僕の場合は震災で両親を失って、姉と一緒に知り合いの人の援助で暮らしていたから、その人達の影響もあるし、親がいない事への反動からか、勝手気ままだったこともある。一般的な人の基準にはならないだろう。

「それらの世代が社会の上層に君臨していると、下の世代の頭がつかえてしまうでしょう」

 君臨か。高い地位についている人が同じ世代ばかりだと、下の世代はやりにくかろう。何となくわかる気もする。

「その上、その上層にいる人たちに、モラルだの、マナーだの、教育の問題だのがあれば、これは、引退させた方がいい、と言うことになるわけですよ」

「下の世代をより動きやすくするために、ですか」

「ええ。しかも、2009年、まさに団塊の世代の問題が現実になっている最中に日本を大震災が襲った。従来のやり方では再建は手遅れになる。社会を立て直すためには、それこそ、世代交代が絶対急務だったわけです」

「それが革命の真相だというわけですか」

「そう言うこととわたしは聞いていますよ」

 そして、こういった施設に収容されたわけか。

「でも、その世代で能力のある人もいたわけですよね」

「ええ。だから収容免除規定があるわけです。それに免除されない場合を考え、施設内にこう言う工場が作られているわけですね。特にここは他の桃源寮に比べても整備されてます」

「確かに大手メーカーの工場みたいですよ」

 そう言うと、棚橋氏はうれしそうに、ハハハと笑い、

「ここにあるのは、工場だけじゃないんですよ」

 そう言って棚橋氏は、さらに上の施設へと案内した。

 付いて行きながら、何となく考えてしまう。

 今、この施設に収容されている団塊の世代や、その周辺の世代の人たち。

 きっと戦後の貧乏な時代に生まれ、共産革命に情熱を燃やし、そのあとは経済に翻弄されたのが団塊の世代だろう。常に貧富というのが彼らの中にあったに違いない。

 目の前で、その世代に対してどこか批判的な目で見ている棚橋氏の世代。

 棚橋氏の世代は、彼の言うような教育の問題とか、モラルの問題とかの中で育ち、大震災、ユーラシア大戦を経験した世代だ。文明の停滞・後退というのが彼らに影を落としてきたのだろう。だから、妙に皮肉っぽいのかも知れない。

 そして09革命とよばれる大改革に育った僕らの世代。

 僕らは大構造改革時代の変化の中で育った。町の風景も刻一刻と新しくなっていき、日常のあらゆる所にロボットや電脳が共存するようになっていった。刷新という変化が常にあり、科学が再び昂揚している時代だ。たぶん、前の世代とはかなり違う意識が育っているのかも知れない。

 それぞれに、見てきた世界が違うのだ。

 上のフロアに入った。

「ここは、ソフトウェアやディーリングなどのデスクワーク系作業場です」

 端末が並んでいる。

「ソフトウェアはわかりますけど、ディーリングって。株取引とかもしてるんですか」

「そうです。さすがにリスクが大きいんで、これはバーチャルです。といっても『マネジメントブレイン』というネットゲームで架空の会社の株や、地域通貨やネットにある電脳国家の通貨を取引する本格的なものですよ」

「そのゲームなら知ってますよ。僕の友人にもユーザーがいます。金融だけでなく、貿易とか市場開拓とかいろいろ出来るんですよね」

「そうなんです。あれは、結構難しいんですよ。私もやりましたが、あっけなく破産してしまいました」

 棚橋氏は笑った。

「じゃあ、ここはネットワークと接続してるんですか」

「今の時代接続してない所ってあるんですか?」

 と逆に聞かれた。

「いやまあ、こう言ったら偏見になりますけど、やはり障害をお持ちの方なんかにはまずいのかな、と思ったりもして」

「それは逆ですよ。彼らの世代は電脳時代初頭の頃に人生を謳歌した人が多い。当然、ゲームとか仕事とかで電脳には免疫がある。電脳化に尽力した世代でもある。だからむしろよい効果があるんです」

「なるほどねえ。昔の人って言うと、どうもアナログな感じがして」

「そうおっしゃる方は多いですよ。でもここは、電脳化は進んでいるんです。第1級高度情報処理施設に指定されてますし、セキュリティも超高度体勢です。OSはエクサネットPROの最新バージョン5.95。インフラも500テラ回線100本でネットワークも万全です」

「やれやれ。うちのよりずっといい環境じゃないですか。うらやましい」

 そう言うと棚橋氏は笑った。

「10階にはバーチャルセンターがあります。御案内しましょう」

 そこはまたまるっきり違う部屋だった。

 広いフロアはいくつかの壁で仕切られてはいるが、中には半球系の装置とその周りに椅子が並んだものが、所狭しと置いてあった。

「これは?」

「これがバーチャライズドリハビリテーションシステムです。中央の半球が端末ですね」

「この椅子に腰掛けて使うわけですか」

 椅子は中央の半球に背を向けるようにぐるっと並んでいる。

「そうです。椅子に腰掛け、その上に置いてあるヘルメットをかぶります」

 ヘルメットにはコードが付いていた。

「ヘルメットが脳を走査し、あるいは脳に刺激を与えて、使用者を仮想空間に送ります。一般に使われてるバーチャル・インターフェースと同じようなもので、特殊なものではありません。ただ、使用者はレム睡眠に近い状態になりますから、実際夢を見ているのと同じになります」

「それでどうなるわけです?」

「仮想空間では様々なことが出来ます。もちろん脳内のレベルですがね。運動も出来るし、会話も出来る。勉強だって出来ます。脳にとってはリアルもバーチャルも関係ない。経験したことになるわけですから。つまり脳を使いますからシナプスは活性化される。ここに入る前は痴呆……、失礼。認知障害を起こしていた方も、これでほとんど回復します」

 僕は棚橋氏の「公務員としての」問題発言は聞かなかったことにして、

「これは脳のリハビリテーションにだけ使われるわけですか? 脳が回復すれば、下の工場で働けるようになるわけでしょう?」

「もちろん、手足の障害の回復でも使いますよ。単純な骨折などから、手足や臓器の交換に至るまで、回復にはやはりその部位のリハビリだけじゃなく、脳を鍛える必要があります。脳の指示があるからこそ、体の各器官も機能するのですから」

「ああ、そう言えばそうですね」

 僕も、昔バイクで事故った時、骨折した足の超振動治療と並行して足を動かすための記憶刺激治療をやった覚えがある。僕の場合は大腿骨裂断だったが、外科手術と治療、リハビリをした結果、2週間で完治し退院した。

「あと、このフロアにはリハビリ以外のバーチャルシステムもありましてね」

 と棚橋氏は歩き出した。別の部屋に案内される。

「向かって右側の部屋は図書室です。文科系研究を行う人は、そこで閲覧用のバーチャルシステムを使います。これはバーチャルとは言っても、書籍データを見たり、文章執筆や計算を行ったりするためのものですから、エクサネットに接続したリアルな要素も含まれたものですね」

「そうか、技術者ばかりとは限らないですからね」

「そうなんですよ。あとは、数は限られてますが、会社シミュレーターってのもありまして、さっきのディーリングと近いですが、仮想空間に会社を作り、そこで働いているような感覚を味わうというのもあります。ただし、これはディーリングソフトとは違い、この施設のローカルネット用ソフトです。かつてサラリーマンだった人が、そのシステムに入って昔の感覚を取り戻していくわけです」

「会社にいた時のような感覚を?」

「電脳が作った仮想の上司や同僚が登場しますし、施設内でアクセスしている他の人も出てきます。新製品の開発とか、企業買収とか、実際のデータを元に作り上げたもので、かなりリアルですよ。元は企業研修用シミュレーターだそうですが」

「じゃあ、それは脳リハビリにも効果があるでしょうね」

「認知障害ではこのソフトは無理ですが、そこまでの障害ではなくても、やはり忘れている感覚ってのはあるわけで、その回復には使えますね」

 僕はうなずいて、各部屋を覗いてみた。システムが起動している部屋では数人の入居者がフルフェイスのヘルメットをかぶって椅子に座っている。入居者数が少ないから、各部屋の設備を使っている人も少ない。バーチャルシステムがないと、どこか物寂しく感じるだろう。とはいえ、高齢になってまで、人間関係に苦労するか、あるいは孤独にバーチャル世界を楽しむか、どっちがまだ救われるだろう。

 棚橋氏に許可をもらってその様子を動画に撮った。

「バーチャルリハビリや工場での作業、運動などで認知症が回復しない場合はどうするんですか? そのまま続けるわけですか?」

「いえ、場合にもよりますが、障害の度合いがひどい場合は、家族の許可か、身寄りのない人は医者の許可を取って、生体細胞移植をします」

「神経細胞ですか?」

「脳神経細胞とグリア細胞です」

「それは本人の細胞から生産したものを?」

「もちろん。拒絶反応が起こったら、脳細胞はアポトーシスを起こして自滅します。すると連鎖反応が起こって周囲の正常な脳細胞まで死ぬんです。だから本人のものしか使えません」

「それで、どれくらい回復しますか」

「その後のリハビリの仕方にもよりますし、日数に個人差はありますが、移植すれば認知傷害はほぼなくなりますね。運動機能も日常生活を送る程度は問題なく回復しますよ」

「では、運動だの、バーチャルリハビリだのをしなくてもいいんじゃないですか?」

「まあ、そうなんですけど、やはり脳細胞移植となると、いろいろとね。難しいことがあるんですよ。世間に対するイメージとか、移植審査とか。なにせ脳ですからね。人間を人間たらしめてるのって、脳でしょう」

「なるほど」

「それに、これはあまり大声では言えませんが、資金面でも、運動やバーチャルの方がコストを抑えられますし」

 僕は苦笑した。それが本音なんだ。移植用生体細胞の製造にはそれなりに金がかかる。ちまたでは保険会社の商品として扱われるのが一般的で、それは将来の事故や病気、老化に対する「保険」として細胞バンクに自分の細胞を預けておくという将来の必要性にあわせた商品である。これが結構かかる。脳移植なら技術も相応に必要だから、割高になるだろう。

 まあ、バーチャルマシンなら安くで出来る。一度設置すれば、あとは電気代と時々のアップロード、メンテナンスだけで済む。

 脳移植よりはマシか。

 反対側の部屋にある装置も撮影しながら思った。

「あと、これは記事にしてもらわない方がいいんですが」

「なんですか」

 僕は敏感に反応した。オフレコネタの方が興味あるというものだ。

「実はですね……。これは、ほんとに記事にしてもらわない方がいいんですよ。プライバシーの問題にも関わりますから。でも、隠すとどこかで知られた時に変に解釈されたりしても困るんで」

「わかりました。参考までに、と言うことでお伺いしましょう」

 誠実さを顔に表してうなずく。だから他人の誠実な顔を信じない僕である。

「そう言うことでお願いします。実は、ここにはもう1つバーチャルシステムがありまして」

「ほう、どのような?」

「疑似セックスマシーンですよ」

「は……?」

「つまり、入居者が、その装置を付けると、性行為をした気分を味わえるという、……ほら、最近の風俗にあるじゃないですか」

「ああ、ありますけど、それがなんで、ここに?」

「ご存じないですか? 人間の性欲は加齢と共に減退するというわけじゃないんですよ」

「そうなんですか?」

 まだ20代後半の僕には、なんとも判断できない。

「そうなんです。高齢者でも性欲はある。ただ社会的な習慣、文化、知識などでそれを抑え込んでいるだけです。もちろん本人も気付かないうちにね」

「はあ」

「だから、こういう社会的責任から開放された場所では性欲が高まることはよくあることでしてね」

「へええ」

「すると、当然、いろんな問題も起こってくるわけです。高齢者とはいえ、男女が共同生活を送っているわけですから」

「ははあ……」

「一人のかわいらしいおばあちゃんを、いい歳したおじいさん同士が奪い合う、と言うようなことがね。もっと暴力的に訴えようとするようなことすらあるんですよ」

「そうなんですか」

 全然実感が湧かない話であるが、施設管理者の人間が言うのだからそうなのかもしれない。

「だから、そう言う装置もあるんです。性ストレス解消装置、という備品名になってますが。業者さんの方では『リビドーくん』っていう製品名で売っています」

「リビドーくんって……」

 僕は苦笑しながらも、やっぱり実感がわかなかった。

 ふと、疑問がうかぶ。

「それって、その……、どうやって使うんですか?」

「風俗のやつと同じですよ。使ったこと無いですか?」

 しれっと棚橋氏はそんなことを言った。あんた、電脳風俗に通ってるわけだね、とは口には出さず、

「風俗のは使ったこと無いですけど……、その、個室に入って、裸になって、装置を付けて、バーチャルの女性と、ていう……」

「そういうことです。ここも個室です。バーチャルですから相手も自由に選べます。若い子でも同世代でも。行為も選択肢は豊富ですからね。また、ここでも裸で装置を付けるわけですが、それは、もちろん脳だけの刺激でも十分性行為感覚は味わえるんですが、人によっては、まだ生殖機能が残っている人もいますからね」

「……?」

「わかりませんか? 射精してしまうんですよ」

「ああ、なるほど」

 それなら風俗用機械と同じように、裸ですればいい。洗浄なども行えて衛生的だ。

「人間は、生殖機能が無くても性欲はあるんですよ。しかし生殖機能があれば、やはり衛生上の問題が出てきますからね。精液だけではなく、他の体液も同様です。女性の方もお使いになりますし。それに、裸になるという行為そのものにも意味があるでしょう」

「シチュエーション、と言うわけですか」

 しばしば聞くのは、人間は脳でセックスすると言うことだ。性欲も、生殖機能や発情期と関係なく、頭でわき上がるものだ。

 そう考えると、高齢者施設にセックスマシーンがあってもおかしくはない。

 とはいえ、こういう質問は、何となく、面はゆい感覚がして、変な抵抗がある。まだ風俗の取材の方が気楽かも知れない。

「おわかりいただけたようですね。もちろん、しょっちゅう使わせるのではなく、ちゃんと専門家の管理の元に使用を制限しているわけですが、それでもこの装置は、ストレスを減らす効果があります。へたな争いを招かないためにも必要な装置なのです。ここも1つの社会ですからね」

 なるほど、と感心した。単純に高齢化社会とは言うけど、この中こそ、まさに高齢化社会なのだ。そして我々の日常にあるような問題も、みなこの中に存在していて、そのための設備が整えられているというわけである。社会を凝縮した世界、という言葉が頭に浮かんできた。これは記事に使えるかも知れない。

 しかし、疑似性行為がストレス解消とか社会の維持となると、なんだか前に見たアフリカのボノボというサルの行動を思い出す。あのサルも確か、集団の争いをなくすために、生殖的要素のない性行為が行われているという。

 まあ、僕らがしたくなるのだって、似たようなもんだけど。

「このこと、書かないでくださいよ」

「書いても問題ないと思いますけど」

「そうかもしれませんが……」

「なにか?」

「いや、私も個々の管理をしている立場上、表沙汰になるとちょっと……世の中には意見をおっしゃるのが好きな方もおられますし」

 ははあ、お役人的理由なわけだ。ちょっとでも問題を指摘されると、責任を問われるというのだろう。

「わかりました。この話は書かないことにします。ここが入居者のことを考えて運営されている、と言うことの判断材料に留めておきましょう」

 と言っても、記事は島田弥生が書くのだ。まあ、彼女だから、こんな内容書けるとも思えないし、僕もなんだか説明しにくい。

 棚橋氏はホッとした様子になった。口調を変えて、

「ところで市来さんはお食事は?」

「お昼ですか?」

 ええ、とうなずくので、

「まだですけど」

 まだ昼をすぎたばかりである。

「では、食事システムの取材もかねて、どうですか、最上階の食堂で」

「いいんですか?」

「なかなかこれがいいものなんですよ。行きましょう」

「食堂もですが、居住部分も見せてもらえますか」

「もちろん。では上に行く途中で寄っていきますか」

 そう言うことになり、最上階の食堂へ行く前に、入居者の部屋を見せてもらうことにした。

 建物のうち、中間の円筒状の塔の部分に居住区はある。

 窓際に個室が並んでいる。許可を得て中に入ってみると、部屋そのものはさほど広くなかった。一人部屋で7畳くらいだろうか。うちの安アパートより少し狭いが、昔住んでいた部屋よりは広く感じられた。これに小さな台所と、ユニットバスが付いている。夫婦や兄弟姉妹、他人同士で同居することもあるので、1人部屋だけでなく、2人部屋、4人部屋などがあって、その分広くなっている。1人部屋の個室でも、数室で1つのユニットを構成していて、廊下でつながっている。いわば隣近所があるようなものだ。何かあった時のため、脳の活性化のため、などの理由で人付き合いしやすく設計されているらしい。しかし、プライバシーも大事なので、個室はちゃんと鍵もかけられる。電子鍵はいざというとき強制的に開けることは可能だし、電脳によってモニターされていて、中で異変があった時はすぐに管理関係者に警報が伝わるようになっている。

 日当たりを考慮して北側の一部だけ入居部屋はないが、エレベーターと大きなフロアサロンがあり、サロンにはテーブルが並べてあって、大きな窓ガラスの向こうに東京の風景が拡がって見える。北向きとはいえ、ここでのんびり風景を眺めながらお茶でもしたら気分はさぞかし良かろう。

 フロアの中央には広い運動室があり、各部屋からは周回廊下を経て来られるようになっていた。

 窓際に面してない内側の部分には、認知症の人の部屋や、医療キットの置いてある簡易治療室、リハビリ担当者の控え室もある。そこには小さな台所と冷温庫、ベッドが置いてあった。他にロボットの保管室もあった。

 居住棟の部分では部屋と運動室などを除けば、余計な施設はなく、かなり広く感じる。居住棟は72階分あるが、1フロアに平均150人は入居できる設計だ。もちろん全体でまだ2600人ほどしか入っていない今は、閑散とした状態で、全く使われてないフロアもある。

「あとから入居する人と、先に入居している人との間で、トラブルとかはないのですか?」

「それはありますよ。でも、それを解決していくこともまた、大事なことでしょう」

「牢名主じゃないですけど、フロアのリーダーみたいなのが威張っていて、新人をいびるとかはないわけですか」

 露骨な表現だったか、棚橋氏はいやな顔をした。

「そうならないようにするのが、我々の役目です。また仮にそうなっても、フロアを変えるなどしますから」

「でも、フロアを移動するのは自由なんでしょう?」

「自由ですが、問題のある方は、監視下に置かれますし、止めることは可能ですからね」

「それじゃあ、結構たいへんなんじゃないですか? いちいち監視するのも」

「電脳の助けは借りますよ。電脳は特定の個人をマーキングして監視出来ます。なにか問題のある行動や、こちらが指定した行動を取ろうとしたら、我々に通報しますから」

 そうなると、あまりいい場所には思えなくなってくる。管理されている世界なのだ。

「入居者は、電脳で監視されていることをご存じなのですか?」

「一応は説明してあります。もちろん、発作などの生命に関わることが発生した時に備えて、と言う事も含めての話ですが。それに人間が監視しているわけじゃないし、電脳ならさほど抵抗もないでしょう」

「そうですか?」

「我々だって、街中の至る所にある監視カメラで監視されてますけど、あまり気にならないじゃないですか」

「まあ……、そうですね」

「もちろん、普段から出来るだけ入居者同士で解決できるように持っていくのが大事なんですけどね」

「しつこいようですが、たとえば、個人主義的、と言いますか、あまり他人とかかわりたくない性格の人もいらっしゃるでしょう。たとえ、性格は悪くなくても、ひとり思索にふけるようなのが好きな人とか」

「ええ、いますね」

「そう言う人は、いまお話にあったような入居者同士でコミュニケーションを取るような方法は、逆にストレスが溜まっちゃうんじゃないでしょうか」

「もちろん、そう言う場合もあります。心理学の専門家と相談した上で、たとえば、性格的に近い人たち同士で部屋を割り当てたり、そう言う人には特殊な才能をお持ちの人もいますから、仕事や趣味の時間には講師役になってもらってコミュニケーションを取ってもらい、それ以外の時間はあまり介入させないようなやり方に持っていくことは出来ます」

「出来ますか?」

「他の入居者が、そう言う人に敬意を感じるようにすればいいんです。それに人間関係がへたで、人付き合いが悪い人もいます。そう言う人は、他の人にきちんと認めてもらうと、結構社交的になったりするものなんですよ」

 そこまで見てもらえるわけか。あるいは、そこまで管理されていると言うべきなのか?

「住んでいる方に話を聞いてはいけませんか?」

 そう言うと、棚橋氏は少し躊躇した。あまり余計なことを言われると困るからだろう。

「やはり入所者の感想も聞いてみたいですし、いずれここに入る人の参考にもなるかと思いますが」

「そうですね」

 まだ躊躇しているようだったが、ま、いいでしょう、とつぶやいて、棚橋氏はうなずいた。

「このフロアにも居住者がいますから、どなたかに聞いてみましょう」

 と今度は自ら率先して歩き出した。こちらが探す前に、話をするのに都合の良さそうな人をみつくろうつもりらしい。

 フロアの中を一周する廊下にはロボットがうろうろしていた。お掃除用のおまんじゅうのような格好のものから、犬や猫のロボットまで。放し飼いである。向こうで、何人かのお年寄りがロボットをなでたり話しかけたりしている。

「ロボットによるリハビリ効果は昔から言われてますよね」

「そうです。一方的なだけの情報では人の脳は活性化しません。指導員がああしろこうしろ、こういう遊びをしましょう、って言うのではダメなんですよ。そんな事しても、ハイハイ、とただ従うだけになって、脳のシナプスネットワークはむしろ退化してしまう。それに対し、動物を飼うことは飼う側からのアクションが必要になるでしょう。どうすればいいだろう、とか、こうしたい、とか。情報は双方向に動き、脳へのフィードバック作用もある。入居者が自分で行動できるようになる。脳のリハビリにはいいんですよね」

「でもロボットですよね」

 棚橋氏は苦笑を浮かべた。

「生身の動物は動物保護法に引っかかるんですよ。しょうがありません。ロボットでも実際の動物とほとんど違いはないし、むしろ安全で世話入らず。保ちもいいですから」

 保ち、という言い方は少し気にくわなかった。動物はモノではない。

 近づいていくと、一機の猫ロボットが近づいてきて頬をすり寄せてきたので、あごの下をなでてやったら、いっちょまえにゴロゴロと喉を鳴らした。うちにいるネコドロイドのタマによく似たタイプである。

「プログラムとか、わざわざ高齢者向けに設定しているんですか」

「詳しいことはわからないですけど、高齢者の言動に合わせているのは、間違いないですよ」

「このネコ、しゃべりませんね。鳴くだけで」

「動物は普通、人間の言葉はしゃべらないでしょう」

「ロボットはしゃべりますよ、普通」

「動物の代用なんです。ロボットが目的じゃないですから。それに、しゃべるロボットより、より動物っぽくした方が脳を使うんですよ」

「なるほど。ロボットが勝手にいろいろやると考えなくなるわけですね。まあ、うちのネコドロイドも、たまにはしゃべらず、ネコらしくして欲しいと思いますけどね。そしたらもっとかわいがってあげるんだが」

 でしょう、と棚橋氏は笑った。もっとも、実際はコストが安いから、と言う理由だったりするから、世の中、表面だけで判断は出来ない。

「あのおじいさんに、まず聞いてみますか」

 棚橋氏が集団から少し離れてひとりネコをダッコしている老人を見て言った。

「はい、では」

「富樫さん。いいですか?」

 富樫という名のおじいさんは、棚橋氏をじろじろと見た。うなずく。

「こちらね、エリンターをやっておられる市来英介さん。あなたのお話を聞きたいそうですよ」

 富樫さんは、僕を見た。僕が挨拶すると、ぎこちなく頭を下げた。それから棚橋氏を見る。

「よろしいですね?」

 棚橋氏が聞くと、彼はうなずいた。

「えーと、富樫さんとおっしゃられるのですか。おいくつですか?」

 彼は棚橋氏をチラッと見て、

「89歳じゃが」

「そうですか。お若く見えますね」

「……そうかな」

「どちらのご出身ですか?」

 彼はまた、棚橋氏をチラッと見た。どうも彼のことが気になるらしい。

「甲府の生まれじゃが、それが……?」

「いえ、どうしてこちらにお入りになったのかと思いまして」

「ずっとこの辺りに住んでいたのじゃが……」

 とそこまで言って、彼はまた棚橋氏を見た。

「それで、ここに入ることになって……」

 と声が小さくなる。

 どうも、職員の棚橋氏の存在が、気になるらしい。怯えるほどではないが、余計なことを言って怒らせてはまずいと思っているようだ。

「ここの暮らしはいかがですか?」

 その質問をすると、ますます、棚橋氏のことを気にした。

「そ、それはもちろん、とてもいいところだと、その……」

「えーと、」

 と僕もちょっと困ってきた。

「下の施設でお仕事とかはしておられるのですか?」

「いや、あの、してないんじゃが……」

 彼は棚橋氏の顔色を窺いながら、

「しなければならないのかな……」

 とつぶやいた。

「いえいえ、お仕事は義務ではありませんから、無理にする必要はありませんよ。ここは自由ですから」

 と棚橋氏はわざとらしく明るい声で言った。にっこりと富樫氏にほほえむ。富樫氏は、微妙な笑みを浮かべて、ぎこちなくうなずいた。これじゃまるで脅しだ。

 いささかわざとらしくて、僕はこの人にそれ以上聞く気が起こらなくなった。気の毒に感じたのだ。

「どうも、ありがとうございます」

「ど、どうも……」

「棚橋さん、他の人にもいいですか?」

「わかりました。では……、彼女に聞いてみましょうか」

 と棚橋氏は一人の老女の所へ案内した。しゃがんで、熱心に犬ロボットをなでている。

「大川さん」

 棚橋氏が呼びかけた。大川という名の彼女は、聞こえなかったのか、犬をなでまくっている。本物の犬だったら、我慢強いことだ、と犬を誉めるところだが、あいにくロボットはされるままにしている。

「大川さん」

 まだ気付かない。耳が遠いのだろうか。今時、聴覚機能なんて、生体部品の交換で簡単に治せるんだから、聞こえないふりをしているのかも知れない。聴覚は治せても、意志は別の話だ。

 棚橋氏は怒らず、そばにしゃがんで、優しく呼びかけた。やっと、彼女は視線を棚橋氏に向けた。

「大川さん、あなたの話を聞きたい、と言う人がいるんですよ」

 そう言って、僕の方を見た。彼女も顔を上げる。僕は丁寧に挨拶した。大川さんは、軽くうなずいただけだ。

 また視線を戻して、犬をなでようとしたので、僕は少し慌てた。そばにしゃがんで、

「大川さんは、どちらのご出身ですか?」

「……」

「この街の育ちですか?」

「……」

「えーと……」

 僕が困ると、棚橋氏が助け船を出す。

「大川さん、どちらの生まれかって」

「……かつしか」

「え?」

「かつしか」

 そう言って黙った。かつしか。葛飾区のことか? 震災と環境政策でこの辺りに移住してきたあと、ここに入ったのだろうか。

「大川さんは、おいくつですか?」

 そう聞いて、女性に年齢をきくのって、この年くらいでもまずいかな、と思ったが、

「……」

 やっぱり、まずかったかな。

「大川さん、おいくつになったっけ」

 と棚橋氏も聞いた。聞いちゃまずいわけでもないのだろうか。

「96」

 とまた小さく答えた。どうやら、施設の棚橋氏の言葉は聞くが、見知らぬ僕のことには答えようとしないらしい。

 こうなると、なかなか次の質問がしにくくなる。

「96歳ですか、お若く見えますね」

 などという言葉自体、我ながら空々しく聞こえる。まあ、見た目も96歳程度だし。

 こんな様子じゃ、この施設の生活環境とかを聞くのは難しいな。

 棚橋氏も変な人を選んでくれる。

 それでももう1つだけ聞いてみた。惰性で聞いたようなものだったが、

「大川さんは、ご家族はいらっしゃるのですか?」

 その途端、彼女は、キッと僕をにらんだのだ。

 僕は彼女のその鋭い視線に思わずたじろいだ。

 棚橋氏も明らかに、しまった、と言う顔をした。

 どうやら、一番聞いては行けない質問をしてしまったらしい。

 大川さんは、僕をにらみつけたが、そのままなにも言わず、ぷいっと、そっぽを向いて、また犬ロボットをなで始めた。手付きは前より乱暴になっている。

「他の方にも、聞いてみますか」

 取り繕うような口調と表情で、棚橋氏は立ち上がった。今度はフォローしてくれる気はないようだ。僕も仕方なく、

「お話ありがとうございます」

 とお礼を言って立ち上がった。

 大川さんは、黙ったまま、乱暴な手付きで犬ロボットをなで続けている。

 家族のことを聞いた時の反応。彼女は、耳が遠いわけでも、認知症なわけでもない。ちゃんと言葉を理解している。

 心を閉ざしているだけなんだ。

 家族もおそらくいるのだろう。やっかい払いされて、ここに入れられた。いや、例外を認められない限り、入らなければならないのだが、家族は免除申請もせず、嬉々として入所させたのだろう。

 そんな気がしてならなかった。

 姥捨て山、と言う陰口がたたかれるのは、それを口にする人々に、思い当たるふしがあるからじゃないか。あるいは自分も親をやっかい払いして桃源寮に放り込み、その後ろめたさから、これを義務化した国家の政策を非難しているのではないか。好きこのんで親を施設に放り込んだんじゃない。義務化されているから仕方なかったんだ、と。

 僕は両親も祖父母もいない。いるのは姉が一人だけだ。祖父母は生まれた時すでにいなかったが、両親は震災で失った。

 だから、高齢者問題とか、介護のようなことはさっぱり実感が湧かない。いずれ姉も自分も年を取り、こういう施設へ入ることになるのだろうが、姉は結婚しているし、実際僕もまだ若いから、リアリティがないのだ。

 だが、家族を持っている人にとっては、切実な問題なのだろう。

 棚橋氏が次に選んだ老人は、おじいさんだった。

 ニコニコとしていて、椅子に腰掛けて、他の入所者の様子を見ている。人の良さそうな感じで、質問もしやすそうだ。

 棚橋氏が近づき、こちらの方がお話を聞きたいと言っておられるんですよ、と僕を紹介してくれた。

「こんにちわ」

「はい、こんにちわ」

「おじいさんのお名前はなんとおっしゃるのですか?」

「崎田博といいます」

「おいくつでいらっしゃるのですか?」

「今年、93歳です」

「お若く見えますね」

「イヤイヤ、そんなこともありませんよ」

 なかなか順調だ。

「こちらのご出身ですか?」

「生まれは岐阜県岐阜市です」

「では、こちらに移り住んできたと言うことですか」

「イヤイヤ、若い頃、上京して、サラリーマンをしておったわけですよ」

 やはり東京だから、上京者が多い。

「飯田橋に住んでおられたわけですか?」

「イヤイヤ、一番長く住んでいたのは、板橋の方ですな。サラリーマンの時、大きな団地に住んでましてね」

「では、こちらに入ったのは? 震災移住とか?」

「イヤイヤ、政府の環境政策で移住することになりましてね。団地が解体されることになったわけですわ。それで、復興の時にこの近くに出来た超高層マンションに入ったのです。どうせなら、東京のど真ん中がいいと思いましてな」

「なるほど。それでこの施設に入所を」

「まあ、そういうことだね」

 僕はここで、家族のことを聞きたくなったが、さっきのおばあちゃんのことを思い出して、言葉を呑み込んだ。

「この施設に入られて、いかがですか? 住み心地とか」

「イヤイヤ、とてもいいところですよ。見晴らしもいいし、食堂の食べ物もおいしいしね」

「施設管理の方とか、介護してくださる方とかいらっしゃるわけですが、いかがですか。親切にしていただいてますか」

 棚橋氏がちょっと緊張する気配が感じられた。

「皆さん親切にしていただいてねえ。こんなわしにも」

 うんうん、とうなずく。棚橋氏の顔色を窺っているような様子はない。棚橋氏もホッと息を付いた。

「まだ入所者は少ないわけですけど、皆さんとは楽しくやっておられますか」

「イヤイヤ、入所者同士も仲良く、いい友達ばかりなんですわ」

 なんでも頭にイヤイヤを付けてしゃべる人だ。必ずしもこっちの言うことを否定しているわけじゃなく、癖らしい。しゃべり出しの勢い付けのようなものだ。

「サラリーマン時代にはどのようなお仕事を?」

「営業をやってました」

「それはすごいですね。大変だったでしょう」

「イヤイヤ、大変だったけど、やりがいもあったからねえ」

 と、当時のことを振り返って、しゃべり始めた。どんな契約を取ったとか、部署内での成績では一番になったことも何度かあるとか。

 正直、そう言う話はどうでもいいのだけど、家族のことを聞いてみたい僕としては、聞き出しのタイミングを計るため、仕方なく彼の話にうなずいていた。

 おじいさんも、あまり自慢げにしゃべるつもりはなかったらしい。本当は聞いてもらいたいのだろう事は、様子でわかるが、あまりしゃべって嫌われたくないという感じもする。きっと、ここでも最初は自慢げに話して、嫌がられたりしたのだろう。

 そう思うと、このニコニコ顔もちょっとわざとらしく感じる。

 おじいさんが一息ついたところで、僕は思いきって聞いてみた。

「おじいさんは、ご家族の方はご健在ですか?」

 横の棚橋氏が、またそう言うことを聞く、と言う顔をした。

 おじいさんは、ニコニコ顔のまま、一瞬黙った。表情は崩れなかった。が、気のせいか、ニコニコ顔のまま凍り付いたような感じがした。

「おりますよ。息子夫婦に孫が3人。うち一人はひ孫がいまして」

 それから、おじいさんは、家族のことをしゃべり出した。それはもう、止まることなく。いつ会いに来たとか、孫はそれぞれどういう進路を進んでいるとか、ひ孫は実にかわいいことなどを。

 一生懸命、しゃべった。イヤイヤ、と言う口癖も消えてしまうほどに、しゃべりまくった。

 しゃべらなければ、自分が家族に冷たく扱われていると思われるのではないか。それを払拭するように、しゃべった。僕の勝手な解釈だったかも知れないが、そう思った。

 僕はそれ以上、彼の家族について質問できなくなった。

 ただ、そうですか、とか、それはよかったですね、とか、将来が楽しみですね、などという形式的な相づちしか打てなかった。

 そのうち、おじいさんの目に涙が浮かんできた。

 僕は驚いた。

 涙がしわだらけの頬を伝った。

 それでもおじいさんは、ニコニコ顔で、家族のことをしゃべった。

 なぜ泣くのだろう。寂しくなったのだろうか。それとも、家族に愛されていると言うことをアピールする自分が悲しくなったのだろうか。

 いつしか、周囲でしゃべったりロボットと遊んでいたお年寄り達もみな黙り込んでしまった。みんな、こっち見て、それからうつむき加減に立ちつくした。

 僕はいたたまれなくなってきた。

 棚橋氏を見ると、顔をしかめている。僕に対し、余計なことをしてくれる、と言いたげな表情を露骨に見せていた。

「お話をありがとうございます。いい家族をお持ちですね」

 僕は、おじいさんがちょっと言葉につまったのを捉えてそう言った。これ以上、話を続けさせても、ろくな事にならないような気がした。

 棚橋氏が、場を取り繕うように、

「じゃあ、そろそろ食堂の方へ行きましょうか」

 と言った。

「はい、そうですね」

 情けないことだが、僕にこれ以上、入所者への取材は無理だ。

 老人達に挨拶をして、僕は棚橋氏のあとについてエレベーターに戻り、最上階の食堂室へと上がった。通り過ぎる時、老人達は頭を下げた。僕を憎んだり恨んだりという雰囲気は感じられなかった。ただなにか、非常に物寂しげな感じがした。

 エレベーターに入ると、棚橋氏はエレベーターの電脳に食堂と告げた。動き出す。

 棚橋氏はなにも言わなかった。「気を付けてください、彼らは不安定な心情を抱えているのですから」くらいの注意は受けるかと思ったが、まったく無言だった。それが抗議の意志を示しているようにも感じられたし、あるいはこのあとどうやって彼らをなだめるか思案しているようにも見えた。

 僕も、取材先で修羅場をまったく経験してないわけじゃない。

 しかし、どうにもこう言う展開は苦手だった。なにか、彼らに悪いことをしたような気がしてならなかった。

 あのお年寄り達が、心の中に抑え込んだ感情の扉を一気に開いてしまったようで、せっかく我慢してきたこれまでの暮らしを台無しにしてしまったのではないかと思った。

 みんな、家族に捨てられたと思っているのではないか。その不安を、必死に押さえ込んでいたとしたら……。

 僕は仕事とはいえ、弱い立場の人たちの心を傷つけているような、嫌な感じである。

 老人たちにとって、僕は闖入者には違いない。だが、それゆえに忘れたくても忘れられない世間を思い出させる存在でもあったのだろう。その結果、悲しくもあり懐かしくもある、僕はそういう感情をもたらす存在となったわけか。よくわからないがそう思ってみた。

 変な沈黙の中、高速エレベーターはみるみるうちに上昇していく。

「さあ、着きましたよ」

 棚橋氏は思ったより明るい口調で言った。

 入り口を入ると、食堂の状態がよく見わたせた。

「へええ、これはすごいな」

 気まずい雰囲気を払拭するつもりもあって、いささかわざとらしく言ってしまった。

 が、実際、そこは展望レストランと言ってもいい、すばらしいものだった。360度見渡せて、食事をしながら風景が眺められる。外から見た時、塔の上に乗っていた円盤状の構造物は、この食堂だったのだ。屋上にはヘリポートと飛行船用アンカーが付いているという。その搬入出設備も兼ねているようだ。

 それにしても、高齢者入居施設の食堂が、こんなに豪華だとは。

「すごいでしょう。出される食事もいいんですよ、これが」

 棚橋氏の勧めで、僕は窓際の席に腰掛けた。

 眼下に首都東京がよく見渡せた。都心部では3~400m級の超高層ビルも林立し、視界の遮られている部分も少なくはないが、それでもなかなかの見晴らしだ。都心中央部の赤坂や青山の広大な森林公園が見える。ビル群を挟んで、その向こうに白金の自然公園も見えた。こうしてみると、東京は緑の中にビルが生えて入るみたいだ。

「これはほんとにすごいな」

 いくらか、気持ちが慰められるような気がした。

 若い女性風の、でも明らかにアンドロイドのウェイトレスがやってきた。メニューを見せてもらう。ペーパービジョンや立体映像ではなく本物の厚い装飾紙で出来たメニューだ。本当に高級レストランみたいである。

 メニューの内容も多様だった。ただし、すごく豪華なものはない。ここら辺は運営コストの問題や、健康管理のこともあるからだろう。贅沢なものを用意したらそればっかりを摂るようになってしまう。

 僕は和風料理にして、ご飯におみそ汁、魚の照り焼き、おつけものに納豆と言った質素な品揃えにした。いかにも高齢者施設風である。棚橋氏はチキンカツを頼んだ。

「結構脂ぎった料理もありますね」

「日替わりですけどね。ほどほどには良いものを用意してありますし、お肉料理が必ずしも体に悪いとは言えませんからね。体はタンパク質で出来てますから。それに食べるって言う行為自体が大事なんです。自律神経を刺激し脳にもよい。へたに病院食なんて用意したら、その方が病気になりますよ。おいしいものを食べる、これもまた健康への大事なステップなんです」

「栄養とか血糖値なんかは一応配慮しているんでしょう」

「もちろんです。専用の管理栄養士がいます。でも、血糖値なんかを気にして、貧相な料理にしたら、それこそ栄養失調ですよ。つまんない食事で自律神経失調症になっても困ります。繰り返しますが、食事って、重要な行為なんです」

「これは思った以上に大変だな。こういう施設も」

「まあ、いざとなれば、臓器を交換すればいいんですけどね、血糖値の場合だと膵臓ですか」

「……はあ」

 僕は出てきた料理の写真を撮り、あとはゆっくり味わった。味もなかなか濃いめに出来ていた。

 高齢者収容施設だから、こうであろう、と言う先入観はまるっきり違っていたことを実感させられる取材となってしまった。

 ただ、食事でも気分はあまり晴れなかった。

 まだ入居者が少ないため、食堂はさほど人がいなかった。

 ふと、前方、少し離れた窓際に、1人の老女が腰掛けて、窓の外を見ていた。身じろぎもしない。テーブルの上の料理にも手を付けてないようだった。

 80歳くらいだろうか。白髪頭でちょこんと椅子に腰掛けている感じが、かわいらしくも見える。若い頃はさぞ美人だったろうという整った横顔だ。

 目をやや細めて、ただひたすらに外を見ている。

 あの女性は、なにを思ってこの景色を眺めているんだろう。

 自分の思い出の地でも見ているのだろうか。若い頃の楽しかった思い出とか、働いた場所とか……。昔の恋人や、死んだ旦那さんのことでも思い出しているのだろうか、と勝手に想像してしまいたくなる。

 でも、震災を挟んで、その前後の景観は一変している。昔の面影を残す建物なんて、一部の文化財くらいしかない。しかもこの高さから見下ろすのでは、全然わからないだろう。

 それとも、あの女性は景色を見ているのではなく、自分の心の中の過去を見ているのだろうか。彼女の目には記憶の風景が映っているのだろうか。

 僕も、何となく窓の外の風景を見てしまった。

 すばらしい景色だけど……、

 でも、どこか違うような気がした。本当の意味のすばらしさではないような気がした。この分厚い窓ガラスに隔たれた向こうに見えるのは、バーチャル的に作られた映像と変わらないんじゃないか。だって、手に届くような景色じゃないのだから。

「……」

「どうかされましたか?」

「えっ?」

 棚橋氏が僕の顔を不思議そうに見ている。僕は、思わず聞いてみた。

「ここの入居者は、基本的にはここに残りの人生を置くんですよね」

「そうですね。条件が整わない限り、転居は認められないですし」

「外出は?」

「許可制です。しかし、ご存じのように、高齢者の外での活動はなかなか認められないんですよ」

「そうですよね」

 ここに残りの生涯を置く。

 設備は優れていて、様々なサービスもある。病気になれば治してくれるし、お金もかからない。仕事を楽しめて、人間関係を築けて、バーチャルセックスまで味わえる。

 でも、所詮は、姥捨て山なんだ。

 社会から切り離されて、生活するエリアを限定された世界。

 そんな世界でいろいろサービスされても、本当に充実した人生を味わえるだろうか。

 桃源郷は、苦難に満ちあふれる世界から見れば、理想郷だろう。でも、そこにいる人にとっては、なんのおもしろみもない場所かもしれない。理想とはそれがない世界から見るから理想なのだ。そう願って見る幻に過ぎないのだ。しかし、本当は、現実の世界にこそ理想がある。それは、そこに社会と自分とのつながりがあるからだ。苦難に満ちあふれているからこそ、楽しみもあるだろう。そこに目を向けず、幻のような理想郷を追いかけて、そこに至ったとしても、そこに入れば、なんの現実感も伴っていなかった、と言うことになるのだ。現実がない世界に楽しみもまたない。

 ここはまさに桃源郷なのだ。現代の桃源郷。桃源寮とか桃源塔とか、まったく、厚生労働省も皮肉な名前を付けたものだ。

 僕もいつか、こう言うところに収容されるのだな。

 身動きしないで外を眺めている老女の横顔は、なかなか忘れられそうになかった。

 彼女にしても、さっきのお年寄り達にしても、弥生さんにどう説明すればいいだろう。余計なことは言わない方がいいのかも知れない。

 言うと、彼女のことだ。なにを書くかわからなかった。厚生労働省は、批判されるために取材を許可したわけじゃないだろう。それに、高齢者収容制度は、国民が受け入れた制度なのだ。社会的に必要だと判断されたのだ。

 弥生さんには、ここのシステムだけを説明して、入所者の感想は、あのおじいさんたちが答えていた部分だけを聞かせることにしようか。

 都合のよい妥協をしているようで、自己嫌悪が強くなった。

 それに、疑問は強まるばかりだった。

 本当は、なんのために、このような施設を作ったのだろう。

 09革命を推進した人たちは、なにを考えていたのだろう。

 棚橋氏が言うような高齢者の活動抑制、あるいは僕らが聞いているような社会の活性化、などというような理由だけではない気がした。

 なにか、もっと深い理由があるような気がした。

 いつか、そのことについて取材をする日が来るかも知れない。

 食事を終えると、取材は終わった。

 僕は棚橋氏にお礼を言って、飯田橋桃源塔を出た。

 EMMBにまたがり、駐車場を出た。

 信号待ちの時に、一度だけ、塔を振り返った。

 超高層ビルは青空に映えて建っていた。

 データを携えて東中野のトウキョウ・サイバー・ポスト社まで持ち帰った。何となく重いものを引きずっているようで、気分が晴れなかった。

 弥生さんに話をし、データを見せた。一緒に話を聞いていた編集長から、「もう少し、入所者の話を聞けなかったのか?」と言われた。おっしゃるとおりである。このままじゃろくに取材も出来ない人間に思われそうだったので、編集長にだけは、こっそり事情を説明した。編集長曰く、

「取材される側の事情に同情するようじゃ、おまえもまだまだ半人前だな」

 反論できなかった。仕事をキャンセルした村尾の方がよかった、などと言われずに済んだだけマシだろう。

「まあいい。今回は桃源寮だけを対象にしているわけじゃないからな。あれでいいさ。島田にはまだ荷が重いのも確かにある。連載には法律や人口動態や、いろんなネタを入れる。おまえさんには、それらの調査もやってもらおうか」

「おそれいります」

 そう答えたものの、何となく納得できなかった。

 僕の集めたデータを見たり聞いたりしながら、弥生さんが一生懸命なにかをメモっている。自分の考えを抜き書きしているのだろう。

 彼女はどういう記事を書くだろう。いくらかは予想できるが、たぶん、僕はそのコラムを読むことはないと思う。

 僕はトウキョウ・サイバーポスト社をあとにした。

 その後、5回にわたって僕はいろんな所を取材した。法務省、内務省、大学の研究者や企業の高齢者対策室などを聞いて回った。

 いずれも、制度や法律の文言、理屈っぽい議論、企業宣伝目的としか言えない対策など、表面的なものばかりで、桃源塔の時のような生々しいものは一つもなかった。

 ただ変な疲労ばかりが残って、仕事をしたという爽快感のないものとなってしまった。

 彼女のコラムの第1回目が電子新聞に載った日、僕の口座にもお金が振り込まれた。通算6回の取材情報対価だから、大した金額でもないが、ちりも積もれば山となる。

 仕事とはそういうものだ。プロなのだから、意に添わない仕事でもやらなければならないときもある。

 それでも僕は、その日の夜、ひとりお酒を飲まずにはいられなかった。

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