第68話 - 2

 情けなくて涙が出そうだった。いや、この泣きそうに弱った気持ちは恐怖か。セイバー・ヴィントの足音が聞こえなくなって、はた、と崩れ落ちるように腰を下ろす。むろん、ヴィントの言伝など聞こえていようはずもなかった。

 生きている、生き延びた、という実感は希薄だった。周囲が爆砕される際の轟音が、うおん、うおんと頭の中に反響している。それに負けじとうるさいぐらいに頭に響く心音は、しかし、何やら他人事のようだった。よう? 本当に? この鼓動は誰かのもので、自分はもう死んでいるのではないのか? 服を着ていない胸に手を当てる。汗をかいてはいるものの、身体は外気に曝されて冷え切っていた。手の平に音と振動とが返って来る。ああ、心臓が動いている。焦燥しながらも力強く打つ生命の叫号。まるで、隣の家の呼び鈴だった。生きていると実感せずに体感する鼓動とは、こんなにも虚しく、悲しいものなのか。

 眠らぬ大通り、商店街は、もはや見る影もなかった。色とりどりの花が咲き、賑やかに木々が実を付ける、深緑に染まった楽園の山のてっぺんから土砂崩れが起きて、地表よりことごとくを押し流していった後の荒野のようだ。そこには何が息衝いていたのかを知る由さえなくなっていた。ほとんど天災に近い。人知の及ばぬ領域からの侵攻。その“目”にあって、無力な自分がいかにして生き残ったのか。側に倒れた女性、この大柄のセイバー、アールエンがいなければ、今頃は全員が消し飛んでいたに違いない。だが、同じセイバーが放った大規模な破壊魔法を一身に受けて無事で済むわけもなく、命の恩人は今、おびただしい量の血を流して倒れていた。

 ティアフには、ヴィントが最後に使った魔法がどんな攻撃だったのか、それがいまいち理解できていなかった。触れたものを破裂させる魔法なのか、触れたという事実を何倍にも膨れ上がらせる魔法なのか、はたまたそのどちらもなのか。術の詠唱は“ラ・リカウス・ラデ・ィカン・メ・アル・ジ・レヒア”、ごく簡単に訳すのなら“拡伸する破裂”といったところで、効果としては前者に当たる。触れた地点を起点にして行われる爆破、それが“レヒア”と呼ばれる魔法であった。レイピアを触媒にして、触れたものに魔法をかける。だから、触ってすぐ後に爆発が起こっていたのだ。

 このセイバーが最後に使った魔法は、レヒアを最大限に拡大したものだと推測された。点を繋げて線とし、自身に触れているものと、そこから続く全てのものにレヒアの魔法をかけた。導線、いや、起爆剤そのものを次々に仕込んでいくようなものである。しかし、これをもろに喰らったリノンが木っ端微塵になるのは当然としても、壁で遮ってレヒアの浸食を堰き止めていたアールエンにまで被害が及ぶのは解せなかった。レヒアという魔法の弱点は、それを直接対象に刻み込まなければ効果を発揮しないところにある。その代わりに、魔法を喰らって起爆されてしまうと、それは体内に仕掛けられた爆弾を爆発させられるようなものなので防ぎようがない。レヒアは“魔法をかけられる前に阻止しなくては防げなくなる”少し特殊な性質の魔法なのだ。アールエンの怪我の仕方は、そのレヒアの有り様から考えると不可解なものだった。

 つまり、もしレヒアの魔法にかかっていたのなら、アールエンは肉体ごと消し飛んでいたはずだが、そうはなっていない。ではレヒアの魔法にはかからなった、阻止に成功したということになるが、そうであるならここまでの深手を負う理由がない。どっちに転んでも矛盾が発生するが、事実、アールエンは死にかけていた。脇腹をごっそり抉り取られてなお平気で動き回っていたらしい超人的な彼女でも、さすがにこの出血では長くは保つまい。

 そこまで思考が及べば、ティアフは己が優先して成すべきことを自然と理解するのだった。震える足を叱咤して立ち上がり、ヴィントの去った暗闇を見据える。残酷なようだが、今すぐに使い物にならないアールエンは捨て置くしかなかった。とはいえ、相手はセイバー、自分一人がいって事を解決できるような甘い敵ではない。どれだけ重傷を負っていたとしても、セイバーを相手にしてただの人間が勝てる見込みはゼロ。もし、ヴィントの虫の居所が悪ければ、その射程に入った瞬間に終わり、無駄死にも有り得た。それでも行くのだ。頼りにするべきは無力な自分でも死にかけのアールエンでもない。できることをしなくては。

 走れ、走れ。耳を立て、尻尾を張り、挫けて泣きそうになる気持ちを抑えて、ティアフはヴィントの後を追った。

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