タイトル 『七ヵ月の幸福』 中編

 ◆◆◆

 

「ただいま」


「ああ、翔ちゃん、お帰り。早かったね」


 私が答えると、翔ちゃんは浮かない顔をした。


「……なんか違うんだよなぁ」


「何が?」


「いつもはもっと笑顔で迎えてくれてたのにな。子供ができると俺は相手にされないのかねぇ」


「僻んでるの?」


「ああ、僻んでますよ」


 翔ちゃんは口元を歪ませていう。


「1カ月ぶりに会ったっていうのに、淡泊だなぁと思って」


 子供ができて、二か月後。


 翔ちゃんはいつものように、自衛隊勤務から解放され我が家に帰ってきた。


「今回はどこに行ってたの?」


「また新潟だよ。たまには暖かい所に行きたいなぁ」


 翔ちゃんは自衛隊でバイク部隊に属しており、主に偵察隊として動いている。敵の情報を的確に無線で通じながら本部が敵の規模を推察する、という名の訓練を果たしているようだ。


「いいじゃない、スノーモービル好きだっていってたじゃない」


「まあそれはいいんだけどな。あー、やっぱり寒い冬は鍋に限りますなぁ」


 ほくほくと湯気まで食べそうな翔ちゃんを見ていると、欠伸が漏れた。穏やかな時間が流れると、無意識に自分が母親になったのだと気づいてしまう。


「そういえば、翔ちゃん。あの時の物語、見たい?」


「え? 『父を訪ねて三十里』、まだ持ってたの?」


「うん、誠君の所にあったみたい」


  誠君は私の花屋に務めている翔ちゃんの高校時代の友人だ。彼の作るアレンジや花束はCGで作るような美しさを秘めており、職人芸を常に披露してくれる。


「お、どれどれ。うわぁ、懐かしいな、そういえばこんなノートだったな」


 使わなくなった自由ノートが幾重にもガムテープで重ねられている。何度もつなぎ合わせて粘着力のなくなったものが時代を感じさせる。



~ 『父を訪ねて三十里』 フローリスト RYOUKO ~

 


 ――私には、一緒に住んでいない父親がいる。たった三十里、120km離れた所に覚えのない父が生きている。



 私が翔ちゃんにノートを渡すと、彼は目を細めながら読み進めた。


「いやー、懐かしいな。でも今読んでも、面白いな。これは思い出補正なのかな」



 ――私は、父親の新しい仕事を知り、彼の居場所を突き止めた。会うことはいつだって可能だ。だが、それを実行に移すには大きな葛藤があった。



 ――私の母親が悲しむからだ。



「どうだろうね。私も読み直したけど、すっごく楽しかったよ。思い出補正もあるけど、自分で書いておきながら続きが気になっちゃった」



 ――私の母は、父親への文句を一切いわなかった。彼が不倫をしていてもだ。父親が勝手に家を出ることになる時でさえ、彼女は一言もいわず、ただ黙って私の頭を撫でてくれていた。



「そうだよな。高校生当時、これを読んで物語の楽しみを知ったもんなぁ。それに俺にはいなかった母親の存在を知ることができた」



 ――私は父親を追う度に、母親の愛情を知っていく。なぜ彼女は文句をいわなかったのか、なぜ私を一人で育ててくれたのか。その答えは、彼が三十里しか離れていない町にあった。



「そういえば、誠君も手伝ってくれたんだよね。長編にしなかったら、ちゃんと応募できてたかもね」



 ――私は真実を知り愕然とした。私は母親の子ではなかったのだ。父親が不倫してできた子どもが私で、彼と一緒に住んでいる彼女を見て、そう確信してしまった。



「確かにいい線はいってたかもな。俺も母親に会いたいって思ったのは事実だしな」



 ――私は再び家に帰りたくなり、母親に出迎えて貰いたかった。たった一言、いつもの言葉を想像するだけでなんと心が温まることだろうか。



 ――、母親のその一言だけで全てが救われる気がした。



「ふう、御馳走様。来月から涼子も忙しくなるだろうし、外食が増えるだろうなぁ」


 翔ちゃんは鍋に残ったぶりの残り身を美味しそうに頬張った後、再びお腹を擦った。


「ごめんね、なるべく準備はするようにはするけど……」


来月から私の仕事の繁忙期が待っている。年末には、しめ飾りに正月アレンジが控えている。


「早くハルカにもこの鍋を食わしてやりたいな」


 満足そうな翔ちゃんを見て、私は再び欠伸を上げた。


「そうね、家族三人でお鍋を食べたいね」



 ◆◆◆



 時計を見ると、23時を回っていた。紅白歌合戦も終盤に近付き、無意識に除夜の鐘を想像する。


 ……もう年も越えちゃうな。


 厚手のカーテンを少しだけ広げると、粉雪が静寂の中、電灯の光を浴びながら、舞い降りていた。その先には毎年訪れていた神社が見える。


 ……今年は行けそうにないな。

 

 初詣にはもういけない、安産祈願を願うのが習慣になっていたからだ。私達夫婦は、子供ができるよう、希望を持って過ごしていた。それは一種の宗教じみた行動のように、何をするにしても子供の2文字が離れずにいた。


 ……まさか呪縛になるなんてね。


 いつも以上に広く感じるリビングを見て思う。翔ちゃんはあれから自衛隊を辞めて、ずっと家にいた。ハローワークには通っているみたいだが、寝室にあるパソコンと向かい合っている姿しか見ない。


 医師の宣告を受けてから、3カ月。翔ちゃんの仕事も中々決まらず、私は仕事に復帰できず、落ち込む一方だった。


「……翔ちゃん、入るよ」


 私が一枚の紙を取り出し寝室のドアを開けると、彼はモニターの画面を消して手招いた。


 ……このぬくもりが、ひどく冷たい。


 彼は何もいわずに私を抱きしめてくれる。それが最初のうちは救いであったのだけど、今では彼の気持ちが見えず不安になるばかりだ。


 ……私がいなくても、彼は生きていける。


「……翔ちゃん、もうやめよっか」


「何をだ?」


「翔ちゃんもさ……飽きたっていってたでしょ」


 決めていたのに、言い出せない。

 

 覚悟を決めていたのに、最愛の人を手放すことができないのは私が弱いせいだ。


「紅白には飽きたけど、それが何かまずかったか?」


 翔ちゃんはにこやかに微笑みながらとぼける。だが口元は歪まず、満面の笑みが彼の本心ではないことはわかりすぎている。


 ……彼の本当の笑顔をずっと見ていない。


 普通の家庭に憧れていた、ただ父と母と子がいるだけの生活。つつましく、少しの幸せだけでよかった。


 その現実の夢は二度と起きない。


「……ごめんね、翔ちゃん。私がしっかりしていれば、こんなことにならなかったのに……」


 繁忙期の配達で、私は貧血になり事故を起こした。その結果、下腹部を殴打し、私の希望を失ってしまったのだ。


「お前のせいだけじゃないといっているだろう。誰のせいでもない。誰も巻き込まなかっただけでも、よかったといっただろう」


「じゃあこのまま、誰のせいにもできず、こんな生活を続けるの?」


 解決できない闇の中で、私達はもがき苦しんでいる。


 ゴールのない生活を続けるくらいなら、いっそ誰かのせいにして諦めてしまった方が楽だ。


「俺は大丈夫、お前がいてくれるだけでいいんだ。俺も早く仕事を見つけられるよう、努力するよ」


「どうして……そんなこというの」


 ……どうして、やせ我慢するの?


 思っても口に出せず心の中で燻ぶっていく。いつも楽しそうに外に出ていた翔ちゃんが家の中にいて、楽しいわけがない。私のためにずっと我慢しているのだ。


 私がどこかに行かないように、彼はただ黙って見ていてくれる。


「私は……翔ちゃんのことが好きだよ」


 泣きながら彼に縋りつく。これ以上はもう無理だ。彼が弱る姿など見ていられない。


「文句があるなら、いっていいんだよ? 私のことが嫌いになったら、すぐにいって離れていいんだよ?」


 彼の期待に応えられない未来しか見えない。それなら諦めて彼から離れる方が心の傷は浅いような気がしてしまう。


「文句があったら、すでにいってるよ」


 翔ちゃんは笑顔のままいう。


「……馬鹿だな。俺が我慢できないことくらい知ってるだろう? なあ、涼子。幸せってさ、だけじゃない」


 意味がわからずに尋ねると、彼は口元を歪ませていった。


「確かに俺たちにはこの先も子供ができない確率が高いだろう。それは頑張り続けた、出た答えだ。だけど、が俺にとっては幸せなんだよ」


 翔ちゃんは私の頭を優しく撫でてくれながらいう。


「涼子とと思うから、俺は幸せだ。今までもそうだった。だから、これからもそうなると思ってるよ」


「翔ちゃん……」


 ……ああ、彼はやっぱり卑怯だ。


 胸に秘めていた思いが崩れていく。彼がいなくなった世界を想像して、私は一人同じ部屋にいながら孤独を味わっていた。


 ……せっかく言い出そうと思っていたのに。そんなこといわれたら、もういえないよ。


 手に握っていた細い紙をそっとしまう。この紙に自分の人生がかかっている気がして、私はいつも別れることばかり考えていた。


 翔ちゃんの体に抱き着くと、彼の腹のぜい肉が私にぴったりとくっついた。


「……翔ちゃん、少し太った?」


「ああ、そろそろ動かないとな。涼子に分けてやりたいくらいだけど、いるかい?」


 一回り大きくなった顔でも、印象は変わらない。翔ちゃんのパーツは元々大きいからだ。

 

 同じ家にいる者同士でも、体重の増減は火を見るより明らかだった。彼は私の養分を蓄えていくように太っていき、私の体はミイラに劣らず細くなっていった。


「俺もきちんと考えてるよ。でもやらなきゃいけないことがあるんだ。これだけは譲れない」


 翔ちゃんの瞳にエネルギーを感じる。強く、気高い視線が私の体を熱くさせていく。


「そっか……わかった。ちゃんと終わったら教えてね」


 私は彼のお腹を触りながらいう。


「私も、そろそろ覚悟を決めようと思ってる。また花屋に戻ろうと思ってるんだけど……いいかな?」


 私はずっと職場から逃げていた。一足先に入る季節の花が、生まれてこなかった子供を思い出すような気がしていたからだ。


 香りを含んだスイートピーが、すっと滑らかに伸びたフリージアが、生け込んでもぐいぐい成長するチューリップや菜の花が、私の心を惑わせ、蕾を秘めた桜が、私の心を折るのではないかと――。


「もちろんいいに決まってるさ。お前が決めたことに反対する理由がないからね」


 翔ちゃんは笑いながら私と自分のお腹を交互に擦った。


「涼子、先のことは心配するな。いざとなったら俺が子供を産んでやるからな」

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