中編小説 『七ヵ月の幸福』
くさなぎ そうし
タイトル 『七ヵ月の幸福』 前編
「すいません、もう一度……いって貰ってもいいでしょうか」
私は震える手で上着を掴みながらいった。先ほどいった医師の言葉が何かの間違いだろうと思い込もうとしても、確かめずにはいられない。
「申し訳ありません。これ以上は……」
彼はそっと目を伏せて告げる。私の質問に答えずに、ただこの時が過ぎるのを待っているかのようにみえる。
「もう一度だけでいいんです。もう一度だけ……きちんとした言葉でいって下さい。でないと……」
医師の言葉を飲み込めずに口を開くと、隣にいる翔(しょう)ちゃんが私の両肩を掴んだ。
「もう止めよう、涼子(りょうこ)。先生だって辛いんだ」
「先生がなぜ辛いの?」
私は翔ちゃんの手をはねのけ、睨むように目を合わせた。彼の瞳にも零れずに残る液体が見え隠れし、これが現実なのだと受け入れてしまいそうになる。
「先生はお医者様なのよ。先生なら何とかしてくれるわ、きっとまだ方法は……」
「申し訳ありません。本当に、お役に立てずにすいません」
「謝らないで下さい」
私は顔を背け続ける先生を見ていった。
「これから助け合っていきましょうといってくれましたよね? 出産は一人ではなく、二人三脚以上の足が必要だって。教えて下さい、これからどうやったらこの子は助かるんですか」
「涼子、これ以上は」
「翔ちゃんは黙ってて。先生、私の顔を見て下さい。一緒に考えて下さい。ねえ、先生」
「涼子、もう止めよう」
翔ちゃんは私を後ろから抱きしめて顔をこすり続けながら泣き始めた。
「もう……終わったんだ。どうすることもできない。これ以上、ここにいても迷惑だ。帰ろう」
「帰れないよ……帰れるわけないじゃない」
私は泣き縋る彼の頭を撫でながらいった。
「この子が私の希望だったのよ。後、7か月もあれば出会うことができたのに、この子がいないのにどこに帰るの?」
「涼子……」
――無事に着床しました、おめでとうございます。
医師の言葉が蘇る。彼の言葉は私に未来への幸福を宿してくれていた。
性別の決まっていないこの子に、出会うための時間。10か月の幸福をくれたと思っていた、それなのに――。
「もう無理だよ、翔ちゃん。私、この子がいないと生きていけない」
「涼子の気持ちはわかるよ、俺だって望んでいたんだ……お前だけじゃない」
翔ちゃんは涙を拭いながらいう。先ほどまで私のブラウスを濡らしていた彼が顔を上げ、前を向いて私の瞳を強く、暖かく包み込んでくれる。
「今、こんな言い方をするのは卑怯だが、子供なら……」
「……翔ちゃん、もう無理なの」
私は彼の体に倒れかけながらいった。彼の薄手のジャケットがゆっくりと染みを作っていく。
「私ね、もう……子供が、作れなくなっちゃったみたい」
◆◆◆
「妊娠1カ月だって、翔ちゃん」
私が彼の後ろから耳元にぼそっと呟くと、翔ちゃんは大きな瞳を何度も重ねながらこっちを見た。
「え? それって、そういうこと?」
「そう、そういうこと」
私が頷くと、彼はほっとしたように笑顔を見せた。その後、眉間に皺を寄せながら深呼吸をし、何度か小さくため息をつきながら呟いた。
「そうか、そりゃよかった」
翔ちゃんと結婚してから3年と3か月。
秋風を微塵にも感じない9月に、台風のようなビックニュースが私達に舞い込んだ。彼との共同生活に慣れた頃に、やっと彼の子を宿すことができたのだ。
「一応、聞くけど、俺の子だよな?」
「バカ、他に誰がいるのよ」
「だよなー」
翔ちゃんの嬉しそうな表情を見て、安心する。
彼は陸上自衛隊に務めており、一度外に出ると、中々帰ってこれない。いうなら今日のタイミングしかなかったのだ。
「だから、あまり無茶しないでよ。あの時みたいに、足の骨、折って帰ってくるのは怖いから」
「ああ、あれはもうやらないよ」
翔ちゃんは苦笑いを浮かべて焼き秋刀魚(さんま)を口いっぱいに頬張った。
陸上自衛隊にはレンジャー試験というものがあり、男の勲章として任意参加できる訓練があるらしい。
その訓練は究極のサバイバルで、リュックとナイフ1つで何週間も森の中に駆り出されるのだ。生きているものは全て食料として食べなければならず、翔ちゃんはナイフ一つで、兎や蛇、蛙などで生活をしていたようだ。
「給料も上がらないのに、やらないよ。もうあんな思いはしたくないしな」
翔ちゃんは笑いながら左足を擦る。
一番辛いのは支給される水も飲むことが許されず、自分の意思での帰還は認められないことらしい。だから彼はリタイアを決意し、自ら木の棒で足の骨を折って部隊に戻ったのだ。
「そうか、これで俺も……やっと父親か」
翔ちゃんの表情に鋭さが増す。私たちが期待していた待望の子供だ。
普通の家庭に憧れていた夢の一歩が、今、現実に起きている。
「そうだよ、だからさ、危ない真似はもう……」
「ああ、そのことなんだが。俺もそろそろ辞めようと思ってたんだ」
「え?」
私が驚くと、彼はしてやったりと唇を歪ませた。
「自衛隊をだよ。お前も今はまだ働いているし、少し金銭的にはきついだろうけど、新しい仕事、探そうと思ってたんだ。駄目か?」
「いいけど……何をするの?」
「一緒に花屋をするのはどうだ? 退職金だって貰えるしさ」
「駄目よ。花屋なんて儲からないの知ってるでしょ」
私の仕事にケチをつけたくはないが、儲からないのは事実だ。それでも季節を一つだけ先取りできたり、花束を受け取って喜んでくれるお客さんを見る度に心が暖まるのも事実だ。
だからこそ、私は飽きもせずに花屋を10年以上やっている。
「でも店を出したら、ずっと涼子と一緒にいれるじゃないか」
「そんなに一緒にいたいの? 飽きないの?」
「いや、もうとっくに飽きてるさ」
翔ちゃんは乾いた笑みを浮かべて唇を片方だけ歪ませた。それは彼が見せる本当の笑みだ。
「何せ高校時代も合わせれば14年にもなるもんな。頻繁に会えなくても、飽きない方がおかしい」
「私は飽きてないけどね。翔ちゃんがいるから、私は今も幸せよ」
私は彼に正面を向けていった。この気持ちは本当だ。
「そんなこというなよ、ずるいぞ。俺だけを悪者にするなよ」
犬っぽく笑いながら誤魔化す彼の仕草に心奪われる。その笑顔に魅了され、私は恋に落ちたのだと思い出す。
……そういえば、あれがきっかけだったんだな。
高校時代、彼と同じクラスで、ふと私が書いた小説を彼に読まれたのだ。
その小説の内容は本当にお粗末で、娘が行方不明の父親を捜しに行く話だった。私の家が母子家庭だったので、なんとなく暇な時間を縫って書いていたのだ。
「そういえば翔ちゃん、あの時の小説、覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ。『父を訪ねて三十里』だろ。名作だったな」
私は小説を奪い返し、真っ赤になった顔で彼にビンタを繰り出した。それが翔ちゃんにはなぜかいいように取られて、彼も自分が父子家庭であることを暴露したのだ。
「何が名作よ。結局、完結できなかったじゃない」
「まあそうだけどさ。俺はあの物語を読んで救われた部分があったんだ。あいつらと一緒にいても、足りないものを埋めてくれる感じがして、つい読んじゃったな」
彼と喧嘩をしてから三ヶ月後、私達はお互いの境遇を知り、惹かれ合うように近づいていった。
翔ちゃんは一度読んだだけの文章を覚えており、私の小説の続きを催促するようになったのだ。
物語を書けば彼と話ができる。短編で終わるはずだった物語が不純な動機でだらだらと長くなり、最終的に完結せずに終わってしまった。
「ねえ、翔ちゃん。子供の名前はどうする?」
「まだ気が早いと思うけどな……どっちが生まれても使えるのがいいな」
「そっか。それならさ、実はもう考えてあるの」
私は用意していたメモ帳に二つの漢字を書いた。
「ハルカっていう名前はどう? 今から9か月後なら、春に生まれてくるだろうしさ。男ならどこまでも伸びる空をイメージした遥(はるか)、女の子なら春の香りで、春香」
「いい名前だな。んじゃどっちが生まれるか、賭けるか」
彼はそういって再び口元を歪ませた。いつも即答で告げる彼に最初は苛立っていたが、今ではそれを受け入れてしまっている。
翔ちゃんの勘は非常にいいからだ。彼が認めてくれるなら、きっとこの名前で大丈夫だという確信を持てる。
「私は女の子がいいな」
「そうか、じゃあ俺は男にしよう。勝った方は何を掛ける?」
「そうねぇ。じゃあ最初の抱っこを譲ってもいいよ」
私が冗談で告げると、彼は苦笑いを浮かべ言葉を濁した。
「それは……重いな。でも賭ける価値はある。後で文句をいうなよ」
「もちろん、じゃあ決まりね」
「楽しみだな、涼子。早くハルカに会いたいな」
翔ちゃんは綺麗に秋刀魚の骨だけを残して自分の腹を気持ちよさそうに擦っていった。
「……そうね」
私も彼のようにお腹を擦りながら、目を閉じる。
――心得ていて下さい。これ以上の子は難しいと思います。
医師の言葉が脳裏を掠める。
――ですがこの子に関しては我々が保証します。出産は一人ではなく、二人三脚以上の足が必要ですから、我々も全力で頑張ります。
……この子だけは何があっても、絶対に守ろう。
翔ちゃんを見ると、いつもより穏やかな笑みを浮かべていた。すでに父親としての自覚を持ち合わせているようだ。
……彼となら、大丈夫。
「先に寝るね。おやすみ、パパ」
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