『流行』(2007年01月07日)

矢口晃

第1話

 全国の小学校で「ミクシイ病」という新しい流行病が蔓延したのは、ちょうど平成十八年の四月頃からでした。ある地方の学校で六年生の女子児童が発病したのがきっかけと考えられていますが、この病気はその後猛烈な勢いで全国の小学生を中心に感染していきました。この病気にかかるのは、最初のうちは大抵が女子児童のようでした。しかしやがて病気が猛威を拡大するとともに、男女の間に次第に感染者数の差はなくなっていくようでした。

 文部科学省、および各地の教育委員会では、当初この病気をそれほど重視していなかったことが、さらにその蔓延に拍車をかけたようでした。政府では全国に感染者数が増加する一方の状況を鑑み、特別対策委員会を急遽設立し、この病気の撲滅に取り組み始めました。小学校における流行病の対策のために特別委員会まで設立されたのは、昭和五十五年頃に「恋の病」が流行した時以来、二度目ということです。

 さてその病状ですが、いったんこの病気に感染すると、始終頭が熱っぽくなり勉強に身が入らないということです。といっても熱っぽいというのはあくまで患者本人の感覚としてそう言うだけで、体温計で量ってみても決して体温に異常はないのです。ですからこの病気は非常に周りの、特に親や学校の教師から誤解を受けやすいと言えます。なぜなら、患者本人が「最近どうも勉強に意欲がわかない」と訴えましても、体はいつもの通りいたって健康なのですから、周りの大人たちの耳には、その訴えが単に勉強をしたくないための言い訳のように聞こえるのです。患者にとっては大変不自由な病気なのです。

 また第二の症状ですが、実はこちらの症状の方がこの病気の大きな問題点として重要視されているのです。と言いますのは、この病気にかかった患者達は、くしゃみをする際、

「はくしょん」

 と言うかわりに、

「ミクシイ」

 と言ってしまうというのです。これはこの病気の中で唯一と言ってよい外部に現れる症状ですから、ある人がミクシイ病にかかっているかを判断する時の、たった一つのよりどころとなるわけです。また大きな交差点でたくさんの人が信号待ちをしている場合など、もしその中でこの病気の患者が、

「ミクシイ」

 とくしゃみをしてしまいますと、たちまち周りの人に病を持っていることがわかってしまうため、周囲の人があからさまにその患者を避けるという社会的な問題も引き起こしました。しかも研究がまだ十分でない初期の段階では、この病気は空気を伝って感染すると人々に誤解されていましたから、なおのこと患者に対する風当たりは厳しかったわけです。ただこちらに関しては、研究が進むにつれ、ミクシイ病は空気や肌の接触などでは感染しないということがわかりましたので、次第に混乱は治まりました。

 ではミクシイ病は一体どのようにして感染するのかという点ですが、その真相については実はまだはっきりとわかっていないのです。ただ多くの児童が、気がづいた時にはすでにこの病気に感染しているのです。

 たとえこの病気に感染したとしても命に別状はないですし、日常生活も問題なく続けられるということから、児童の親や学校関係者はひとまず安心をしましたが、あるテレビ番組で有名な学者が、

「人前で『ミクシイ』とくしゃみをするのは非常に好ましくない。それが男性ならともかく、女性にとってはこれほどはしたないみっともないことはないから、早急に根絶するよう治療なり再教育なり対応をとるべきだ」

 という発言をしましたことから「男女差別」の議論にまで話が発展し、世論が一時騒然としたくらい社会的な現象となりました。

 そこで政府がこの病気の撃退に本腰を入れだしたのです。しかしいざ撃退をするにしても、いったいこの病気がどこから始まって、何をきっかけに広まるのかはっきりしませんから、具体的な対応をとるのに非常に困惑しました。そして実際に病気に感染した子供たちも特に体長を崩している訳ではないのですから、治療をするにしても治療をするべき箇所がわかりません。もちろん特効薬や新薬が開発されるには時期を待たねばなりませんから、関係各所の職員は非常に頭を悩ませました。そしてまずはすぐにできることとして、

「一、学校の中では、『ミクシイ』というくしゃみをしないようにしましょう。

二、もし『ミクシイ』というくしゃみが出そうになったら、なるべく早く保健室に行くようにしましょう。

三、もし『ミクシイ』というくしゃみをしたお友達を見かけても、大きな声で騒いだり、その人を避けるような行動をとるのは止めましょう。」

 という、何とも頼りないスローガンを全国の小学校の学校長宛てに送付して、これを子供たちに守らせるよう指導するように要請しました。

 この通達を受けて、多くの小学校では、スローガンを印刷した大きなポスターを各教室や廊下の目立つところに張り出したり、毎週月曜の朝礼で児童全員で声を合わせて読み上げるなどして、子供たちに理解させるように努めました。しかしいくら頭では「ミクシイとくしゃみをしてはいけない」とわかっていても、実際には「ミクシイ」とくしゃみが出てしまうのですから、どうしようもありません。

「ミクシイ」

 とくしゃみをした児童を指差して、

「あ、今『ミクシイ』ってくしゃみした」

 と笑っている児童が、その数秒後には自分で

「ミクシイ」

 とくしゃみをしている始末です。もうこうなってはいくら校長先生といえどもどうしようもありませんから、手をこまぬいて様子を見ている以外、どうしようもないのです。

 その後も「ミクシイ病対策委員会」の委員達は、具体的な対処法をいつまでもみつけだせずにいました。そうこうしている内に、あっという間に一年の歳月が流れてしまいました。

 対策委員達が、毎日必死で努力してきた甲斐あって、どうにかこの病気の感染ルートが判明しかかってきていました。それはどうやら、この病気は「見よう見まね」という方法で感染をするらしいというのです。つまり、「ミクシイ」とくしゃみをした児童を見た他の児童が、何も考えない内に今度は自分も「ミクシイ」とくしゃみをしてしまうというのが大流行の原因だったようなのです。ですからこれに対する最も有効な撃退法は、「見て見ぬ振り」をすることだという結論が、大筋でできあがってきました。

 あとは細部を詰めて、正式に関係各所や各報道機関への発表を待つばかり、と思っていた矢先のこと。一人のある若い対策委員が、議論大詰めを迎えた対策会議の席で、ぽつりとこう発言したのです。

「ところで何ですが、最近でもミクシイ病って流行しているんでしょうか」

 この発言を受けて、会議場は水を打ったように静まり返りました。それまで口から泡を飛ばして喧々諤々の議論を戦わしていた対策委員達も、皆一様にぽかんと口を開けたまま、発言をした若い対策委員の顔を見つめていました。張り詰めていた空気が、一度に緩んでしまいました。若い対策委員は、

「しまったな」

 と口の中で呟きました。

 しかし、この対策委員が発言したことは、全く現状を捉えているのでした。あれ程社会を席巻した「ミクシイ病」は、発生から一年が経過する頃には、すっかりその流行も下火になり、もはや誰もこの病気のことなど心配していなかったのです。さらに言えば、その頃にはそんな病気があったことさえ覚えている人は少なくなってしまっていたのです。「ミクシイ病」は、時間の流れとともに全く根絶されてしまっていたのです。ですから若い対策委員が疑問に思ったとおり、今さら「ミクシイ病」の治療法を発表したとしても、誰一人として得をしないのに違いありません。かえって

「まだそんなことにかかずらっていたのか」

 と世間の冷笑をさえ浴びせられかねません。

 議論はそのあと全く白熱しないまま幕を閉じました。「ミクシイ病対策委員会」も、事実上解散されました。世間には、またもとの平静が訪れていました。

 しかし、世間が「平静」に見えていたのは、実は誤りでした。

 実はこの時、すでに新しい病気が一部の小学生の間で流行し始めていたのです。

 それは「セクシイ病」という、主に女子児童たちが大人のような格好を無闇にしたがるという病気なのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『流行』(2007年01月07日) 矢口晃 @yaguti

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る