暑い人たち。

西寺

第1話

「生徒ではなく教員が手当てに来るとはなあ、というのが私の素直な感想だよ」

 そう高井先生は言って、消毒薬を用意している。

「絆創膏をもらうくらいでもよかったんですが」

「まあまあ、せっかく来たんだからゆっくりしていきなさい。生徒がたむろするのは追っ払うけども、教師が保健室に来るのは歓迎するよ」

「とは言っても、だれもこの暑さでたむろしようとも思わないでしょう。高井先生もこんなエアコンの壊れた部屋によくいますね」

 保健室には扇風機が首を回して生ぬるい風を送っている。もっとも、僕が保健室を訪れるまではその首は高井先生にだけ向けられていた。そうした親切心を受けて思うのは、扇風機はあくまで気休めにすぎないということだ。特にこの部屋は直射日光が差さないとはいえ、日照の激しいグラウンドに面しているものだから、外気も温風である。

「私は暑いのには慣れているからね。むしろエアコンがあったらあったで、私は寒がりなんだよ」

 そうはいってもエアコン無しの暑さには敵わないのだろう、高井先生はノースリーブのシャツを着ていて、机の上にはうちわが無造作に置かれている。

 黄色い消毒液を染み込ませた脱脂綿をピンセットにつまみ、高井先生は僕の怪我した指を差し出すよう求めた。出血した小指をつついて消毒してくれる。暑さの中でのささやかな清涼を期待したのだが、ただ染みて痛むだけである。

「どうしたってこんな擦り傷なんかつくったんだい、美術部の顧問でもスライディングの練習でもするのかい」と養護教諭は窓の外のまばゆい日光の中駆けまわる野球部連中の練習風景を一瞥した。

「いやいや、べつにそんなたいそうなものじゃありませんよ。ちょっと美術室の部屋の片付けをして、重い荷物を持ってるときにバランスを崩して壁に擦っちゃったんです」

「夏休みでも美術部ってのはやってるのか?」

「描きにくる子はいますよ、まあ、半分集うだけが目的の自主的なサークルみたいなノリですがね。数も少なくて、仲よさそうですよ。授業とちがって手がかからなくていい」

「そう邪険にあつかっちゃ可哀想だ――と言っても、私は担任も授業も主な仕事じゃないから、大変そうだなあと呑気に構えている身分だけれどね」

「僕も看護教諭の苦労はあまり分からないから、お互い様です」

「楽しいよ。私はね、自分が学生のころは保健室登校ってのに憧れていたんだ。昔、仲のいい友達にひとりそんな子がいてね、ちょっと羨ましかったんだ。病弱な子がゆっくりと保健室に登校して、なんにも邪魔されずに世の中を儚む。そういうのに夢見ていてね。この職業についたのはまったく別の理由だし、今の立場からすれば呑気な考えだけれど。幸か不幸か私は健全そのもので、保健室にそう縁はなかったものだから、その友達と話に行くくらいだった」

 高井先生は僕の指に絆創膏を貼り終えると、机の陰になっている小型の冷蔵庫から麦茶を取り出し、紙コップに注いで僕に差し出した。

「ありがとうございます。でもなんだか保健室で紙コップ持つと、飲み物飲むって感じじゃなくなりますね。検査されるみたいだ」

「ほう、じゃあ実はそれは麦茶じゃないんだ、とある検査のためのお薬だって明かしておいて、藤原先生にひとつ問診してみよう」

 僕は一気に飲むつもりだった冷たい麦茶を、途中で飲むのをやめ,半分くらい残っているそれを両手で股の間に置いた。

 高井先生は椅子に座り、机の端に置いてあったメモ用紙をやおら手に取り、鋏で切り始めた。紙をくるくる回転させながら、単純ながらも何かを形づくる。その動作は、リンゴの皮を向いているかのようにも思えた。

「さて」と高井先生は切った紙の端をつまむようにして目の前に掲げた。「これについてなにか思うことは?」

 何かの心理テストだろうか? と僕は思う。その紙は横長の長方形で、真ん中にふたつ、丸い穴が横に並んでいる。なにか思うことは? と聞かれても、僕はその真意を計りかねてまずうろたえるしかなかった。

 それでも質問されているのだからなにか言わなければ、という思いから反射的に出た答えは、「ラジカセのテープみたいですね」という、実にまぬけなものだった。

 高井先生は口角をあげた。「藤原先生は想像力があるね」

「からかわないでくださいよ」と僕は本心を言った。「一体なんの検査なんです」

「いやいや、これは本当に、この紙切れからなにを連想するかなあというだけのものだ。だからその麦茶も安心して飲んでいいよ」高山先生は椅子を半分くらいくるりと回転させた。「まあ世の中にはね、その紙切れをみてなんにも答えられない人っているんだよ。ただ何秒かそれをじっと見つめて、疑問符だけを顔に浮かべるような人がね。そこにいくと藤原先生はちゃんとなんらかの返答をした。さすが、だてに教師やってないね」それから自分にも麦茶を注ぎ、軽く飲んだ。

「でもたいていの場合、答えられないってのはそれだけの理由があると思うんだ。思うにシチュエーションだね。話す時と場合だよ。一昔前、ある有名な大学の先生のベストセラー本では、学生にこれはなんだと思うと口頭試験で骨の標本を見せたら、大きい骨ですという幼稚園の子供みたいなことを言った――なんてぼやきを書いていたがね、そりゃあ試験なんて場面で、偉い先生からそんなえらく単純な質問をされたら答えあぐねるだろうなと私は思うよ。現に私が今やったことを授業でやってみたら、きっと教室は静まりかえるだろう。ところがこうして藤原先生と私みたいにフランクな場だったら答えも出やすいさ」高山先生はふふ、と笑って僕に向き直る。「それだけ藤原先生は私に対して遠慮してなくて、ちょっとは親しみを感じてくれている、という証になるのかな」

「ええ、まあ」などと僕はいきなり飛び出したと思われた最後の発言にたいして、要領の得ない返事をした。「……でも大きな骨ですというのと、ラジカセのテープみたいですという答えは似たようなものだとも思いますけれど。苦し紛れですよ」

「苦し紛れでもいいんだと私は思うよ。相手の真意がわからないなんて当たり前のことさね。誰にだって分かるわけがない」高山先生は紙切れを僕に差し出した。「それでも誰かの指の傷を治してあげようと思うし、暑いから冷たいものをふるまい、暑さを紛らすためにこうして雑談を講じたいと思うわけさ」

 僕は紙切れを受け取り、無意味に裏側を見たりしてひらひらとさせた。いや、無意味であるのだろうか。まだ僕はこの紙切れからなにかを読み取る努力をしようと、意識せずとも頑張ってみたのかもしれない。しばらく紙切れを弄んで、結局その成果は得られなかったものの、僕はそれをポケットに入れた。残っていた麦茶を飲み干し、「麦茶、ありがとうございます」と礼を述べ、紙コップは潰して高山先生の足もと近くにあるゴミ入れに放った。「早くエアコン、直るといいですね」

「まったくだよ」

 僕は保健室を退出して、自ら顧問を務める部室に向かって階段を登る。彼ら彼女らはきっとエアコンの聞いた部屋で雑談に講じているのだろう。よろしいよろしい。僕もそれに混ざりたい気分だった。そうしてポケットに入れた紙切れを、生徒たちに見せてみるつもりである。

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暑い人たち。 西寺 @saidera

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