第一章 ジルゴニアの黒(ネーベ・ド・ジルゴニア)

第一話 夜中に迷い猫を拾っても、感謝されるとは限らない。 一

 十一月のひどく冷たい雨が降る夜、北条ほうじょうまことは町の片隅で猫を拾った。


 路地裏のすっかりびたスチール製の非常階段の下、身体を暗がりに押し込むように小さくした猫は、一見して「おびえている」というよりは「いきどおっている」ように、真には思えた。

 全身を氷雨ひさめで濡らし、瞳にかかるほど長くて黒い毛からはしずくが、次から次へとしたたり落ちている。

 身体をぶるぶると震わせながら、それでも暗闇の中で猫の大きな緑色の瞳が、全世界を不審な眼差しで見上げていた。

 それはまるで、

 ――自分がどうしてこんな不当な仕打ちを受けているのか、理由が全然分からない!

 と主張しているかのようにも見える。

 後で知った猫の素性からすると、それは至極しごく当然のことだったのだが、その時の真には拒絶の対象に自分が含まれている事実がひどく悲しかった。

 恐らく、その日の仕事が何一つ上手く進まなかったことが直接の理由であったのだろう。あるいは、一生会えなくなった妻と娘のことが心残りであったから、それが側面から支援したのかもしれない。

 そうでもなければ、三十九歳のくたびれ果てた男が街角で猫を拾うはずがないのだ。

「そうにらまないでおくれ」

 そう言って、真はゆっくりとその場に腰を下ろした。手を伸ばして傘を猫の上に差し掛ける。真は背中に冷たい雨が染み通るのを感じながら、「猫はもっと冷たいに違いない」と考えた。

 そのまま黙って見つめあう。

 猫のほうは、

 ――なんだこの男は? どうして雨に濡れながら黙って見ているんだ? 頭がおかしいのか?

 といぶかしんでいるように見えた。しかし真は猫の専門家ではないので、実際のところはよく分からない。ただ、そう見えただけのことだ。

 背中に染み込んだ雨が腹部にまで回りこんだところで、流石にこれではらちが開かないと考えた真は、落ち着いた声で言った。

「私を信じるかどうかの結論は後回しにするとして、とりあえず私の家でゆっくり休むというのはどうかな?」

 無論、猫に言葉が通じるはずはない。通じるはずはないのだが、それでも気持ちが伝わることはありえる。

 猫は暗がりからゆっくりとした動きで姿を現した。

 緑色に光る瞳は、ずっと真を見つめている。怪しげな動きを見つけたら即座に逃げ出すつもりだろう。真は苦笑して、静かに立ちあがった。

「まあ、人畜無害に見えるというのも、男としてはどうかと思うんだけどね」

 それが貴方の一番良いところだ、と妻はいつも言ってくれた。もうその声を聴くことはない。胸にちくりと痛みが走るが、それは寒さのせいに違いないと真は思い込む。

 微妙な距離を保ったまま後ろからついてくる猫に、後ろに反り返ったおかしな姿勢になりながらも傘を差し出しながら、真はゆっくりと家に向かって歩いた。

 雨は冷たかったが、心はさほどでもなくなった。


 真が親から譲り受けた一軒家は、非常階段からさほど離れていないところに、非常階段よりも古めかしい姿で建っていた。

 別に濡れても惜しくないので、真は猫をそのまま風呂場まで案内する。玄関の引き違い戸を開けて電気を点けた時、猫は瞬間的に身体を震わせたものの、覚悟を決めたのか優雅な足取りで後ろからついてくる。

 脱衣所に重ねてあったバスタオルを三枚取り出して渡すと、猫はまたいぶかしそうな顔をしながら、それを受け取った。

 真は明かりの下で猫をまじまじと見る。

 どこか裕福な家で育った猫なのだろう。身体を布で覆っているのが珍しい。そのまま真がぼおっとしていると、

「……ニラニュラニュヨリナ!」

 という風に聴こえる鳴き声で注意された。

「いや、こいつは失敬」

 真は顔を赤らめて背中を向ける。

 ――ということは、着替えの準備もしたほうがよさそうだな。

 彼は娘が残した服を取りに、久しぶりに二階へと上る。

 板張りの階段が、彼の無沙汰を小声で非難するかのように小さくきしんだ。

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