七章 忠誠を誓う者

第1話 獣の足跡


 ただ、兄の力になりたいだけだった。

 選定の儀以降、関わりがほとんどなくなった兄だが、それでも自分にとっては誇れる兄に違いない。

 「役に選ばれても、任をやり抜ける自信がない」

 そうぼやいた自分に、兄は「俺に任せておけ」と優しく頭を撫でてくれた。

 その結果、自身が大怪我を負い、兄を追い出すような羽目になるとは思いも寄らなかったが。

 だからこそ、弱虫な自分にもできることがあるなら、と安易に手を伸ばしたのが間違いだったのか。




(また、同じ場所……)


 濃い霧に覆われた白樺の森。

 一本の白樺の幹に付けられた小さな傷をそっと指でなぞって、少し先の、辛うじて見える白樺にも同様の傷があることを確認した少年は深い溜め息を吐いた。

 ここに来てからゆっくりと歩いていたものの、どれだけ歩いても森の終わりは見えない。白樺はどれも同じように生えており、木を見上げても先は霧に紛れて分からなかった。

 霧が明るいことから、恐らく夜ではない。昼夜の概念がこの空間にあるかはもともかく。

 進んでいるのかさえ曖昧になってきたとき、少年は試しに持っていた小型ナイフで幹に傷をつけてみた。結果、まっすぐ進んでいるはずが、また同じ場所に戻っていたことが分かった。

 足元は落ち葉が地面を覆い隠している。濃霧のせいもあって湿った落ち葉は、少し蹴っただけで舞うことはない。


「あの犬、何処行ったんだろ……」


 軽く吐いた息と共に漏れた声は、静かな森の空間に消える。

 どれくらい経ったかは分からないが、ここに来る前、少年はある黒い犬と出会った。

 兄を手伝うため、偶然、見つけた本に書かれていた方法である『犬』を喚び出した。小型ナイフはその時に使い、ポケットに仕舞っていた物だ。

 この森に来た切っ掛けはその犬とはまた別にあるが、森に少年と犬を飛ばすなり『それ』は跡形もなく消えしまった。少年が喚び出した犬も、鼻を持ち上げて空気中の何かを嗅ぎとると、少年を放置して何処かに行ってしまったのだ。


(これが、兄さんなら――)


 もっと上手く従えられたのだろうか。

 少年は自身の無力さに苛立ちさえ覚えながら、周りの気配を探る。これでも一般人とは異なる特殊な家系の生まれだ。幼い頃から相応に訓練は受けており、自身に敵意を向けている者がいるかどうかくらいは分かる。

 しかし、今は敵意どころか自分以外の生き物の気配すらない。喚んだ犬さえも。

 森を歩き続け、空腹や喉の乾きは感じないものの、疲労感はある。

 木の根もとの落ち葉を足で避け、水溜まりがないことを確認してから座った。湿り気があるせいでひんやりとしたが、他に誰もいないので気にするほどでもない。


(少しだけ休んだら、まずはあの犬を探そう)


 従えられるかは分からないが、喚んだからには責任は自分にある。どうにかここから一緒に出なければならない。

 抱え込んだ両膝に額を当てると、少し休もうと目を閉じた。



   * * *



 東の方角で、大きな霊力が蠢いた。


「おー、なんや。あちらさんは忙しないなぁ」


 額に庇代わりの片手を当てながら夕暮れの空を眺め、斎はのんびりとした口調で簡易な感想を述べる。

 そんな彼を見て、周りにいた同じ特務の精鋭部隊である疾風は面倒臭そうにぼやいた。


「オレらももっと派手なことしたかったのになー」

「……?」

「いや、具体的に言われると何か分かんないんだけど……こう、こんな山奥で物探しするようなのじゃなくて、ぱーっと派手に暴れられそうなやつ」

「…………」

「うーん、確かに」

「字幕でも頼んでええか?」


 疾風の隣で同じく探し物をしていたのは伊吹だ。相変わらず声は発していないものの、疾風には彼が何と言っているか伝わっているらしい。

 いっそ洋画などの字幕紛いのものが欲しい、と思った斎は、軽く冗談めかして要望を入れつつ辺りを見渡す。

 今、斎達がいるのは町の中心から見て北西にある山の中だ。霊力が動いたのは特殊管理局のある辺りになる。大方、都季絡みで何かあったのだろう。


(わざわざ入れてた奴は物の見事に突き返されたし、共有されん限りは分からんしなぁ)


 今、局で何が起こっているのか斎には知る術がない。局から情報共有がされないということは、特務にも関わるような大きな事ではないのか、それとも共有できないような機密に関わる事か。

 どちらにせよ、今の霊力の動きは後で説明くらいは欲しいものだ。おかげで、霊力に反応した幻妖が何事かと顔を覗かせては斎達と目が合って逃げて行く。

 取って食いはしないのに、と小さく息を吐けば、斎以上に殺気を滲ませた七海が声をかけてきた。


「山を下りる前に狩りますか?」


 七海は指示を出せばすぐにでも動かんばかりの勢いだ。彼の足元で、地面から湧いた水がぱしゃりと跳ねた。

 逃げられるのはお前のせいか、と内心で納得しつつ、斎は幻妖達の霊力を探る。さほど強くもなく、もし、町中に出ても害を与えられる程のものではない。何か悪さができたとして、軽い体調不良のもとになる程度か。


「んー、いつぞやの山の精霊よりは小物やし、藪をつついて蛇が出てもあかんしな。今はほっとき」

「はっ」


 少し前、ちょうど斎達が都季に接触した頃に、今いる山に大きな精霊がいるという情報はあった。それについては調律師が対処している。

 だと言うのに、斎達が山に入っているのは、一般市民から警察を介して「ある相談」が舞い込んできたからだ。


「桜庭副長! こちらに来てもらえませんか?」

「どしたん?」


 やや離れた場所で調べていた慶太が声を上げた。彼は何かを見つけたようで、やや表情が強張っている。

 斎達がそちらに向かうと、慶太は「あれを」とさらに数メートル先の地面を指さした。

 山の斜面は、背の高い樹木以外にも青々とした雑草や名前の分からない低木があちらこちらに生えている。

 慶太の指を辿っていく途中、地面には大小様々な赤黒い点が幾つか落ちており、好き放題に伸びた雑草の一部にも付着していた。


「うわ、グロ」

「…………」


 赤黒い点の先にあるモノは、「こういったもの」を見たことがあるはずの疾風や伊吹ですら顔を歪めた。

 慶太が見つけたのは、目を背けたくなるほど無惨な姿になった猪の死骸だった。体の一部が欠損していたり、腹は何かに食い破られたかのように大きく抉れていた。臓器は全て持っていかれたわけではなく、残った肉には蝿が集り、蛆が湧いている。

 直後、森の奥から犬の声がした。

 それに向けて応えるように慶太が指笛を吹けば、奥から声の主――双頭の犬、オルトロスが駆けてくる。慶太の依獣だ。

 依人の力から形成される依獣だが、慶太のオルトロスはほぼ幻妖に近い実体を持つ。誠司曰く、「継承の際に受け取った力の違いでしょう」とのことだが、業務に支障は出ないので詳しい調査は先延ばしの状態だ。


「……あちらにも別の死骸があるようです。見てきます」


 慶太は擦り寄ってきたオルトロスから報告を受けると、一足先に駆け出した。すぐに疾風と伊吹も後を追ったので、何かあってもフォローは出来る。

 一先ず、この猪が何によって死んだのかを確認するため、斎はゆっくりと死骸に歩み寄り、死骸だけでなく地面にも視線を滑らせた。

 猪の他に、獣の足跡があった。大人の熊程もある大きさだが、歪ながら残る形は熊とは異なる。また、猪の体には黒い毛が付着していたが、毛の質感から猪の抜け落ちた毛ではなく猪を襲ったものの毛だろう。

 七海も斎と同じように、しかし、より広く観察するために距離は取ったまま首を傾げる。


「これほどまでの大きさの猪を仕留めるとなると、野犬では難しいでしょうか?」

「せやなぁ。複数頭で追い込んだならまだしも、足跡は一つ。形的に森のくまさんでもなさそうやし」

「熊の目撃情報があるか、念のため確認しておきますか? 足跡があるのが野犬で、仕留めたのは熊の可能性も――」

「あー、いや、大丈夫。そうやとしたら、熊の足跡が一つもないんはおかしいやろ」


 場の凄惨さを和らげようと少し可愛らしく言ったつもりだが、七海には真面目に捉えられてしまった。敢えてではなく、彼の中では特に気にするものではなかったようだ。

 これが梓なら顔を歪めるところだろうが、生憎、彼女は別の場所に赴いている。そちらでは農作物の被害が報告されていた。

 七海は、辺りを観察して熊の足跡が何処にもないと見ると「確かに」と頷き、舞い込んできた相談を思い返す。


「警察から、野生動物や農作物の被害が相次いでいると聞いたときは、大方熊ではないかと思いましたが……」

「人に被害が出とらんだけマシなんやろな。あっちも見てくるけん、なっちゃんはもうちょいこの辺探ってみて」

「了解」


 慶太達の去った方にも、恐らく死骸があるのだろう。騒いではいないものの、何やら話し声は聞こえてくる。

 死骸があるなら、ここと同じ足跡や体毛が残っているか確認しなければならない。

 七海にこの場を任せ、斎は足もとに気をつけながら斜面を上がる。途中から斜面が急になっており、木の幹に手を掛けつつ上がれば、先に気づいたのは伊吹だった。


「…………」

「あっ、桜庭さん。これ見て、これ」


 伊吹が前にいる疾風の肩を軽く叩けば、疾風はすぐに斎に気づいて今まで見ていたモノを指す。

 そこにあったのは、大きな黒い塊だった。


「……森のくまさん」

「え?」

「いや、何でもあらへんよ」


 まさか、容疑をかけていた熊が死んでいるとは思いもしなかった。

 思わず先ほどの単語を口に出せば、熊の傍らにしゃがんでいた慶太が目を瞬かせて首を傾げる。突っ込みなどではない返し方は、斎の呟いた単語の意味が伝わっていないせいだ。

 斎は「先輩後輩揃ってボケ殺しやわ」と内心でぼやきつつ、慶太の隣に片膝をつく。

 体長が百八十近くある大人の熊だ。餌が豊富なのか野生にしてはあまり痩せてはおらず、太い手足は直撃すれば一溜まりもないだろう。黒い毛は猪に付着していた毛とよく似ているが、本当に同一かは斎には判別が難しい。ただ、大きく引き裂かれた腹は猪と同じく臓器の一部がなくなっている。また、よく見れば右腿から下もなかった。食われたのかと思ったが、少し離れた場所に熊の物であろう黒い足が転がっていた。

 オルトロスが熊の足を探るように嗅いだものの、不快な臭いだったのか顔を顰めている。鼻に残る臭いを払うように何度も鼻を鳴らしている辺り、相当酷い香りだったのだろう。


(死体やから良い匂いではないやろうけど、それにしてもあんなに嫌そうにするか?)


 熊の死骸は、人間にも分かるほどの獣の臭いと血の臭いが混じっており、決して気分の良いものではない。だが、肉を好む生き物にしてみれば気にならないのではないか。オルトロスを一般的な動物と同じにしていいかはともかく、生肉も食べていたような気がする。

 依獣なので食は必要ではない。むしろ、霊力を欲する。その事もあって慶太は好んで与えてはないものの、「調理前の牛肉を盗み食いされた」とぼやいていたことがあったはずだ。


「熊同士の争いにしては、なんつーか、激しすぎな気もするけど……」

「せやな。それに……これ、向こうにあった足跡と同じやわ」


 熊の傍らには、猪の側で見た足跡と同じ足跡があった。

 また、熊の抉れた肉には蝿は集っているがまだ蛆はいない。時間はそう経っていないはずだ。

 斎は山に入ってからここに来るまでの時間を確認する。一時間も経過しておらず、さらに町中と違って静かな山中は獣の争う声は響きやすいはず。


「争っていた声は聞こえていない。猪の状態からしても、先に向こうが襲われて、その後のことだろうが……ん?」


 斎は神妙な面持ちで考えを口にする。思考をまとめるためと、慶太達にも気づきがあれば指摘してもらうためだ。

 その矢先、突然、鼻を擦っていたオルトロスが森の奥を見て唸り始めた。

 パキリ、と小枝が踏まれて折れる音と落ち葉や雑草が擦れる音がする。

 木々の間、細い枝が地面から伸びたような低木の中に、血のように赤い二対の光が見えた。


「グルルルルルル……」

「……探す手間が省けたわ」


 斎はゆっくりと立ち上がる。視線は赤い光から外さず。

 オルトロスが頭を低くし、牙を剥いて唸った。慶太がオルトロスを制するように手を出しているが、今にも飛びかからんばかりの勢いだ。

 伊吹も背負っていたライフルに手を掛けるがすぐには構えない。

 慎重な姿勢の一同を見て、唯一、飛び掛かろうとしていた疾風もぐっと堪える。


「さあて、お仕事や」


 斎が言い終えるが早いか、茂みから黒い塊が飛び出す。

 ほぼ同時に伊吹がライフルを構えて撃つ。

 静かな森林に獣の咆哮と銃声が響き渡った。




 

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