東の方向

式 和巳

4月

僕たちのひどく陰気臭い研究室に、彼女がやってきた。

「石田です。石田栞と言います。よろしくお願いします。」

何となく目が合ってしまったような気がして僕は目を逸らした。床のタイルの割れ目を見ながら僕は、皆より遅れて拍手した。

……好みすぎる。

ふわっとして軽そうなミディアムヘアに、凛としたまつげ、少し茶色がかった目、わざとらしくないきゅっとした唇……理想中の理想だった。

「竹高、何突っ立ってんだ」

「は、へ、」

慌てて顔を上げると同期の中村が肘で僕の横腹をついてくる。

「石田さんの後ろ、羨ましいなー」

「は?」

僕はキョロキョロと見回して、見つけた瞬間心臓が掴まれたように痛くなった。

僕の後ろの席…だ。

「代われよ俺と席替えしようぜ」

「や、無理だよ…今までしたことないだろそんなの」

「ちぇ、つまんねーの、あんまちょっかいかけんなよー、み・ん・な・の石田さんなんだからな」

中村はわざとらしく口を尖らせている。

「邪魔なんだけどあんた達」

本を抱えたこの研究室のリーダー・円山が嫌味な顔をして僕らを見ている。

「あ、あぁ…すみません」

僕と中村は顔を見合わせ、席に戻った。


僕たちはここで文学の研究をしている。これといった功績もないちっぽけなサークルだ。毎年部員は5人くらい入るが半分は辞めていく。理由は「思っていたのと違った」みんな口を揃えて言う。

だから正直僕は不安だった。彼女が、石田さんがその1人になってしまうのではないかと、夏には彼女の口から「今までお世話になりました」と発せられる気がして怖かった。一目惚れ何てものは顔が良くて、頭が良くて、性格が良い、この三つの"良い"を持つ男だけが許される恋の始まりであって、僕にその資格がないのは考える前にわかっていた。

でも何となく逆らいたかった。ストレートに言うなら、彼女と仲良くなりたかった。そう思う僕に行動力が力を貸してくれた。僕は回転椅子をくるりと回して作業を続ける彼女の方を向いた。

「あの…」

「はい?」

彼女もまた僕の方を向いた。少し首をかしげた彼女はやっぱり…かわいい。

「僕、竹高って言います」

「たけだかさん?」

脇腹をくすぐられたような、気持ちになった。

「下のお名前もお伺いしてもいいですか?」

「あっ、知基です」

「たけだか ともきさん?よろしくお願いします。」

丁重に深く頭を下げる彼女は想像以上に僕の中で好印象だった。


パンパンッ。


どっしりとした手を打つ音は円山だろう、研究室の黒板の前に立つのはやはり予想通りだった。

「てことで、今年も新歓やりまーす。今日都合悪い人いる?」

円山の声はよく通る。ずっしりとした体型のおかげだろう。

「…いないみたいだね、じゃあ、いつもの場所で、18時から予約しとくね、遅れないでよ。竹高戸締りよろしく」

「え、あぁ…はい」

僕は今年度、鍵長だ。長、がつくが実際鍵を締めるだけの係だ。何も偉くもない。

「竹高さん、鍵担当なんですか?」

彼女がおかしそうに話しかけてきたので、僕も笑うしかなかった。

「鍵っ子さんなんですね」

「僕が何となくいつも研究室を出るのが最後だったので、その流れで」

なるほど、と頷く彼女は僕の思っていなかったことを口にした。

「いつもの場所、ってわからないんで、今日の新歓一緒に行ってもいいですか?」

嬉しい予想外だった。

僕は勢い良く首を縦に振った。


* * *

僕たちは誰もいなくなった研究室の鍵を締め、2人でいつもの場所に………。

そんな美味しい話があるわけなかった。僕は今、この瞬間まで円山が「いつもの場所」と明瞭な店名を言わなかったことに死ぬほど感謝していたが、前言撤回。

なぜ僕は今、彼女の隣ではなく、中村の隣を歩いているのだ?

「へー!じゃあ、宗教とかそっち系なんだ」

「はい、あ、でも色んな本読みますよ、漫画だって」

中村の嬉しそうな顔、少し腹が立ってきた。

中村に「石田さんと店に行く」と告げてしまったのが僕の人生最大の過ちだった。言わなければよかった。僕の舞い上がった気持ちは気の抜けた炭酸のような気持ちに切り替わっていた。

結果、僕は店に向かう道中、一言も石田さんと話せず、更には彼女に扉を開けさせてしまった。僕はきっと彼女の中でランク外に位置づけられてしまっただろう。


いつもの場所・焼き鳥 とり助はこじんまりとした個人経営の焼き鳥屋さんで、僕たちは何かある度に会を開き、ここで酒を交わしたり、焼き鳥を頬張ったりしている。

ござの敷いてある小上がりが僕らの特等席だ。

「あ、やっと来た!連絡してよね!」

「悪い悪い!まぁまぁ、始めようぜ!ささっ、石田さんも早く隣座って」

中村…ちゃっかり石田さんを隣に置いてやがる。ますます僕はいじけてしまって隅っこの席についた。散々だ…。

「じゃあ全員揃ったので、始めますか!…かんぱーい!」

円山のよく通る声に乗せられ僕たちはグラスを掲げた。

「かんぱーい」

恥ずかしながら僕は酒を飲めない。ビールだろうがワインだろうがカクテルだろうが関係なしに僕は酒を飲めない。

しかし誰も僕に無理に酒を勧めない。僕はこのサークルに入ってよかったと、こういう場に於いてのみ、そう思う。

僕の右隣に座る女性も、新入生であり、同じ学科ということで、何となく話が弾んだ。お互いの好きな本や、作家について話したりしたが、僕は上の空だった。

石田さんと中村 ―― 。

今日出会ったとは思えないくらい2人は距離が近かった。2人はよく笑い、よく食べ、よく飲んだ。

そんな2人を僕は横目にちらちら見て嫉妬の念が積もっていくのを感じていた。


「はい、みんな店主にお礼いって帰ってね!」

円山はこういう所に厳しい。しかし、僕は円山そんな所を尊敬している。

店主にご馳走様でした、と告げ暖簾をくぐった。外の空気がひんやり心地よくて、そのまま夜の街を散歩したくなった。が、健全な僕達は店を出たあとそれぞれの帰路に向かう。はずだった。

「カラオケ行こうぜカラオケ」

「二次会とかは勝手にやって、くれぐれも問題起こさないでね、私は帰るから、じゃ」

円山は肉厚な手を縦に切り地下鉄の方面へと歩いていった。

……カラオケか。

文句が多くて申し訳ないが僕はカラオケも苦手だ。狭い空間に聞き慣れない爆音。氷のよく溶ける烏龍茶…、考えただけで家に帰りたくなる。

「栞ちゃんも行こうよカラオケ」

僕ははっとした、中村、今、お前…栞ちゃんって…。

僕は慌てて石田さんを見た彼女は「えー」とにこにこして答えた。「ご遠慮しときます、ごめんなさい」

周りがどよめいた。

「門限が、私の家厳しくて…あ、電車来ちゃいそうなんで失礼しますね、ごめんなさい」ペコッと頭を下げて早足で彼女はその場を去っていった。

彼女をゲットできなかった中村は「じゃあ、俺も今日は帰ろっかな」と手のひらを返してそそくさと姿を消してしまった。それを皮切りにみんな散り散りに帰っていった。僕もまた、自宅へ向かっていた。

僕は今日一日の出来事を思い返していた。総合点数はいまいちだが、僕の胸は少し脈を早くうっていた。

近づきたい。色んなことを話したい。知りたい。


僕は久しぶりに明日からのサークルが楽しみだと思った。

4月最後の今日、僕は初めて一目惚れをした。

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