残り火

ziggy

残り火


 残してやれるものとは、何だろう。


 柔らかい灰色の毛皮の向こうに、滲み出す体温を感じていた。随分と痩せてしまった体を揺らす呼吸は短く、やや荒い。

 見開かれた翡翠いろの目には、もう何も見えてはいないらしい。丸く開かれたままの瞳孔は、どこにも視線を向けてはいなかった。

 その向かいに胡座をかいて座る僕はただ、震えるように上下する脇腹をゆっくりと撫でる。もう走る回ることもない脚も、ぴんと立てることもない尻尾も、全部目に焼き付けながら。

「  」

 名前を呼んだ。反応は返ってこなかった。耳ももう聞こえないのかもしれない。僕はただその体を撫で続けて、そこにいる自分の体温を伝えようとした。あるいはそこにいる彼の体温を手のひらに覚えさせようとしていた。

 一瞬その体が大きく震えた。呼吸が止まった。目が大きく開いて、体は小刻みに震えるだけになった。

 僕も一瞬震えて、撫でる手を脇腹のあたりで止めた。まだ鼓動を感じた。体温を感じた。

 見えていないのもわかっていながら、その目に視線を合わせた。

「  」

 名前を呼ぶ。

 淡い温度の向こうで、鼓動が止まった。

 食いしばった歯の向こうで、漏れそうになる声を噛み殺した。

 目の前の毛布の上で、猫は猫ではなくなった。



 ○



「私ね、猫が飼いたい」

 彼女はそんなことを言った。コーヒーカップを持つ手の指輪は、まだぎこちなく光っている。僕のも同じだ。

「でも色々金もかかるんだろう。猫自体だって何十万もするやつはするらしいぜ」

 僕はとぼけるようなことを言う。彼女がこれを言い出すのは、何も初めてのことではない。

「そんなんじゃなくっても、里親とかほら、あるんだよ。譲渡会とかさ」

 そんなことは分かってる。つまりこんなのは先延ばし、意味のない時間稼ぎだ。未だにこの手の話題に触れられる前には、こうして少し身構えてしまう。

「キレイに真っ白とかじゃなくて、こう、ふつうな感じの子がいいなあ。その辺の空き地で寝てそうなの」

「真っ白のだってよく寝てるよ」

 彼女はもうどんな猫がいいかの話をあれこれとしている。僕はひとことも飼おうとは言っていないのだが。

「子供のジョーソー教育にもいいっていうしさあ、ほら」

 どこぞの本の一節をそのまま読み上げるようなぎこちない説得を半ば聞き流しながら、僕はため息をつく。

「子供が動物嫌いだったらどうするのさ」

「私がそうはさせないもん」

「猫は教材か?」

「うぐ」

 少しばかり意地悪なことを言ってみた。もちろんそんな気はないのは分かっている。彼女はばつが悪そうな顔をして、カップに残ったコーヒーに逃げる。ちょうどふてくされた子猫そっくりだ。

「まだ居もしない子供なんかにしないで、欲しいなら欲しいと言えばいいのに」

「む、だって……」

 ノートPCを開きながら、彼女の言葉を遮って言う。

「近い場所での譲渡会でも探そうか。それにペット可の物件も」

 眉根を寄せてすねていた彼女の顔がぱっと明るくなる。僕は苦笑しながら心の中でもう一つため息をついた。

 あーあー。無駄な時間稼ぎだと分かってるのになあ。どうせこの子には勝てないんだし。

「ジョーソー教育に良さそうなヤツがいたらいいな」

 少しからかってやると彼女は面白いように表情を変えて怒り出す。頬を膨らませて僕の肩を揺らす彼女をあしらいながら、少しばかりあいつのことを思いだした。

 ――――その点あいつは、まるで情操教育に良くなかったなぁ。なんて。



 ○



 あいつは猫だが、兄貴だった。

 父の入院を期に祖父母と同居を始めた七歳の僕を、祖父母の家で出迎えたのがあいつだ。いや、出迎えたというのは大いに語弊がある。あいつはまるで出迎えなかった。

 具体的に言うと、僕が来てから二週間の間、あいつは姿をくらましていた。もともとあいつは半野良で、家と外を行き来していた。二週間後にすっかり薄汚れたあいつが窓から家に入ってくるまで、僕はその存在を知らなかったのだ。そしてあいつはそれを目撃した僕の顔に、あろうことか出会い頭にパンチを食らわせて、また窓から出ていった。突然縄張りに現れた僕が気に食わなかったのだろう。

 祖父母が僕を可愛がるたびに露骨に機嫌を悪くし、僕がおやつをもらったりするたびに抗議の声を上げた。そんなことだから僕もあの猫が好きではなかった。

 ある日いつものように足の甲にパンチをもらった僕に、母が言った。

「この子はお兄ちゃんぶりたいんだね、ずっとここにいたから」

 それから僕は、あの猫を兄貴分として扱うことを覚えた。後ろをついて歩き、おやつはあいつが先。昼寝していたらブラシで毛繕いをしてやり、祖父母にも先にあいつと遊んでもらった。

 そうするとあいつは見る間に機嫌を良くし、まるで「自分がこの子どもの面倒を見ているんだ」というような振る舞いを見せるようになった。

 僕が寝ていれば上に乗って眠り、捕ってきたネズミやらスズメをたまに寄越し、近所の悪ガキにいじめられたときなど間に割って入って悪ガキどもに爪を振るった。

 兄貴分のあいつと弟分の僕とは、そうしていつも一緒にいるようになった。

 それはもう、あいつが死ぬまで。



 ○



 娘と一緒に眠るサバトラ柄の毛玉を見ながら、そんな昔のことをふと思い出していた。そろそろあいつが死んでから十五年ほど経つが、今でもたまにこんなことがある。幼少時を作った記憶とはそれだけ根深いということか。

 子猫で貰ってきたこいつも立派に大人になった。どころかもうそろそろじいさん寄りだ。

 娘が生まれて、初めて妻と大喧嘩をした。生まれた我が子の顔を見た妻が、また随分と輝いた名前を付けようとするので、少し古風な名前を考えていた僕としばらく冷戦状態になったのだ。

 結果として娘は常識の範囲で輝いたまあまあ古風とも言えなくもない名前になり、猫の方はその反動か思い切り輝いた名前にされた。

「なかよく寝てるね」

「生まれてから大体いつも一緒だからな」

 この猫はあいつにはまるで似ていなかった。無愛想だったあいつとは違い甘え上手で聞き分けも良く、家の外のことは窓から眺めるだけで満足した。

「でも意外だったなあ。あの時、もっと反対されるかと思ってた」

 僕の向かいに座った妻がテーブルに頬杖をつきながら言う。

「あの時?」

「猫が飼いたいって言ったときだよ。私が」

「ああ、それか」

 ペット可の物件を探すのに思ったより手間取り、結局猫を家に迎え入れたのはあれから一年以上先のことになった。

 その間に籍を入れ、新居に移り、子供が出来、猫が来たのは娘が生まれた後。

「昔死んじゃった猫の話、よくしてたから。もう飼うのイヤなのかと思ってた」

「お? あいつの話、そんなにしてたかな」

「してたよ。ことあるごとに」

 むぐ、と言葉に詰まってしまう。そんな頻繁に話していた自覚はなかったのだが。少し恥ずかしい。

 頭の上であいつがケラケラ笑っているような気がする。

「まあ確かに、もう猫を飼うのはイヤだったかもしれないな」

「じゃ、なんでオーケーしてくれたわけ?」

 僕は遊んでいた姿のままカーペットの上で寝息を立てる一人と一匹を見る。揃ってヘソを天井に向けた寝姿がそっくりだ。

「……出会う権利を誰かが勝手に奪っちゃいけないだろう」

「ふぅん、なるほどね」

 妻も横目で娘と猫を見やりながら目を細めて微笑んだ。

 その向かいで僕はこっそり、自分の右手に目をやる。


 ――――そして、失う権利を、誰かが奪っちゃいけないだろう。

 

 消えた鼓動の感触が、まだ手のひらに残っていた。



 ○



 病床の彼女の目がふと細められた。視線は私の膝の上に注がれている。

「結局、縁が切れなかったねぇ。猫と」

 丸くなった白い毛玉が、膝の上で喉を鳴らしている。

「この歳で子猫をというのは、どうも元気すぎて困る」

 苦笑いしてみせると、妻はころころと笑った。

 こいつは捨て猫だった。娘が雨にびしょ濡れの顔を青くして持ち帰ったダンボールの中で、兄弟と身を寄せ合って震えていた。捨てられるにしては白い毛に青い目の品の良さげな子猫だったが、兄弟ともども少々やんちゃが過ぎて骨が折れた。

 ペット可の賃貸で恋人と同棲中の娘が一匹、私達夫婦で一匹を引き取り、あとは知り合いのつてで里親に出した。たまに写真が送られてくる。

 猫の性格というのは人間に負けず劣らず多様だ。人生で関わった何度目の猫かは数えていないが、どれ一つ取っても似ている猫はいなかったように思う。

 何匹かの猫がいて、何匹かの猫はもう死んでしまった。看取れたものも、気まぐれにどこかへ消えたものもいた。その度に娘も、妻まで一緒になって大泣きするものだから、私のほうはろくに悲しむヒマがなかった。

「その子も、これから大きくなれば少しは落ち着くんじゃない?」

「どうだかね」

 頭を撫でてやると真っ白のきかんぼは私の指を捕まえて、がじがじと甘噛みしてじゃれた。

「この通りだからな」

「ふふ」

 妻はまた楽しげに目を細める。そうして私の指を相手に暴れる子猫を見、暴れ疲れたちびが膝の上で眠る頃には、一緒に寝息を立てていた。

 それを見届けてから私は電話をかける。眠る一人と一匹を起こさぬよう、声を潜めながら。

「明日、帰れるね? ……うん。最期は家で、だそうだ」



 ○



 長生きというには、少し半端な歳であろうか。

 辛うじて生きているらしい嗅覚が古い畳の香りを嗅ぎ取った。布団が酷く重く感じる。

 この家も、よくもまあ今まで立っていたものだ。

 妻が亡くなった後、娘夫婦に家を譲り、親族が管理していた亡き祖父母の家に移った。自分が幼い時を過ごした場所は、あの日と変わらない顔をして私を迎えた。

 それから十五年ほど経ったであろうか。私は今、幼い頃と同じ天井を見上げている。もちろんあの頃のように天井の板目までは見えないが、視界を覆う木の色は、懐かしい。

 もうボンヤリとした耳には、周りで話す声も酷く遠く聞こえる。呼びかけられているのだとは思うが、分からないのだから返事に声を上げようがない。

 そわそわと動き回る人影の中、ただ私の脇でじっと座り込む小さな影が見える。老眼を凝らせば猫のようなアーモンド型の瞳が私を見据えていた。

 妻に、娘にそっくりの目だ。

 腕を僅かに持ち上げるにも随分と力が要った。愈々いよいよということなのだろう。

 孫は何も言わずにその手を取ってくれる。

 その様子を見た周りの人影たちがにわかに慌しくなる。どうも察しがついたらしいな。

 何かしら喋ったほうがいいのだろうか。最期と言うことだし。

 取り敢えず口を薄く開いてみたが、息が少し漏れる以外に音は出なかった。

 困ったな。どうしたものか。

 視界が端から順に暗くなっていく。半ば諦めて見やった孫の後ろを、ふと、灰色の尻尾が掠めた気がした。

 …………成る程。分かったよ、兄貴。

 孫に握られた手に僅かに、だが渾身の力を込める。引っ張られていること気付いたのか孫の腕は、素直に力の方向に引かれてくれた。半ば重力に任せて、それを自分の胸の上に載せる。自分でも分かる程薄く骨ばかりになった胸の向こうに、ささやかな自分の鼓動を感じた。小さな手を胸に当てさせて、私は目を閉じる。

 あとは言葉も視線もいるまい。



 暗くなった頭の中に、一本の短いろうそくが浮かんだ。

 ちりちりと幽かに燃えるその熱は、小さな手のひらに吸い込まれるようにして弱くなっていく。


 そして、その手のひらは覚えるだろう。

 残り火の消えた瞬間を。




 にゃおん。




 何処かで猫が鳴いた。




〈了〉

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