第17話
「ただいま。紅羽連れてきたぞ!」
結局私は彼らのマンションへと来てしまった。
圭は履いていたスニーカーを乱暴に脱ぎ捨て、部屋の中へと入って行った。私も続いて靴を脱ぐ。屈んで自分の靴を揃えると、脱ぎ捨てた圭のスニーカーが目に入った。靴が玄関に散らばっているのを知っていて、このまま部屋の中へ入っては、私の品格が問われるような気がした。仕方なく奴の靴に手を伸ばす。触ると生温かかった。
気持ち悪い。どうして私が、こんなことをしなくてはならないのか。
「え? 紅羽ちゃん? なんでお前一緒に来てるの?」
部屋の中から不思議がる清水の声が聞こえた。
「ちょうど帰り道で会ったんだよ。俺の大学と紅羽の大学、すぐ近くでさ!」
「そうだったの?」
玄関にいる私には、清水と圭が会話している声しか聞こえなかった。雅臣は不在なのだろうか。
「そりゃそうだろ。紅羽のアパートの場所から考えれば、お前と同じ大学か、隣の大学しかないだろ」
上から目線で、説教じみた物言い。間違いなく雅臣だった。玄関にいながら、私は彼ら三人が全員いることを把握した。
「紅羽! おい、早く来いよ!」
圭がぶっきらぼうに私を呼んだ。それはまるで親しい友人を呼ぶようないい加減さで、他大学の女子学生と知り合いになった嬉しさは、とうに忘れているかのようだった。
一体誰の靴を揃えていたと思っているんだ、と腹が立ったが、気持ちを切り替え、私は部屋の中へと入った。
「こんにちは」
静かに挨拶をする。部屋の中を見回すと、入ってすぐの場所に圭がいた。彼は得意げな顔で私に手招きをしてきた。「こっちへ来い」という意味にとった私は、そそくさと彼の隣へ移動した。
清水はテレビの前に寝そべり、情報番組を見ていた。一際目立つ明るい髪色の雅臣はソファーに座り、ホチキス止めのしてある書類を手に、ノートパソコンへと向かっていた。
「こんにちは。紅羽ちゃん」
清水が優しく微笑んできたため、軽く頭を下げる。あまりじろじろ見るのは失礼な気がして、流すように彼を見た。
私が確認したかったのは、清水の首と腕だった。剣道や薙刀のように面を付ける競技をやり込んでいれば、自然と首が太くなる。そして竹刀を振っていれば、腕の筋肉がつく。清水は二つとも当てはまっていた。一般男性にしては首が太かったし、腕も皮膚の下にはゴツゴツとした筋肉があるのが見て取れた。
しかし、だらしなく床に寝転がっているからだろうか。隙の無さというものは皆無だった。
強者特有の、人の動きを捉えて離さないという眼力は、清水にはなかった。
「え? 紅羽ちゃん、なんで俺のこと見てるの?」
寝転がったまま、私を見上げて清水が嬉しそうに笑みを浮かべた。じっと見ているつもりはなかったのに清水に指摘され、私は「何でもないです」と小声でつぶやいた。
だらしなく隙だらけだったが、やはり彼は相手をよく見る人間だった。他人が自分に向ける視線に、彼は敏感なのだ。
「二人とも、今日は仕事だったのか?」
圭は雅臣にではなく、清水へと顔を向けて尋ねた。
「そうだよ。今日はちょっと疲れたよ」
清水が苦笑いをしながら答えると、隣でぼうっとたたずんでいた私に、圭が説明しはじめた。
「普段は雅臣と清水がペアを組んで仕事してんだ。俺は学生で、それなりに忙しいからな。仕事を貰えるのは休日だけなんだ」
「そうなんですか」
私が雅臣に目を向けると、自分の話をされているというのに、雅臣はまるで聞こえていないようで、書類のページをめくっていた。
「ここに来る途中でさ、紅羽と薙刀の話をしたんだよな!」
彼に同意を求められ、私は歯切れの悪い返事をした。ここでもその話題なのかと呆れた。
しかし、今まで関心を示さず、こちらを気にも留めていなかった雅臣が、突然顔を上げて私へと目を向けた。急に彼と視線がぶつかり、私はすぐに目を逸らした。
「紅羽は中学の部活から薙刀始めたんだって!」
圭が楽しそうに話をする。彼は本当に武術や武道に対して憧れを持っているのだろう。そんなに好きなら、自分も何かやればいいのに。だが彼が私の話を聞く時の嬉しそうな様子は、なんだか懐かしさを感じる。
そうだ。私も薙刀を始めた頃は、圭のように憧れを持っていた。彼はあの頃の私によく似ている。
「へぇ、中学からなんだ」
圭の話を聞いて、清水は笑顔で答えた。
彼は大人だ。圭は自分の興味で薙刀について尋ねてきたが、清水は違う。薙刀という武道が、具合の悪い私の唯一の明るい話題として彼は認識している。
彼の口調は明るい話をする時のもので、これから薙刀という話題を膨らませて、私のことをより深く知ろうとしているのが分かった。
だが、武道をやっている彼は、思考をそれだけに留めて置けるはずもなく、私をじっと見つめてきた。口調は親しくなるために動き、目は敵を知るために動いていた。私の姿を観察しているのがよく分かる。果たして私が本当に武道をやっている人間なのか。どれほどの腕前なのか。
それは先ほど、私が清水に向けた相手を詮索する視線と同じだった。
「あの……」
失望されるのは分かっていた。私の今の身体は痩せ細っていて、どこからどう見ても武道をやっていた人間には見えない。話も盛り上がらないし、実力もない。だから失望される前に言おうと思った。
「私はもう、薙刀はやめたんです。やっていたのは過去の話です。だから、武道をやっていた人間として、私を見るのはやめてもらえませんか?」
多少口調は鋭くなってしまうが、彼らには「嫌だ」という気持ちを伝えたかった。はっきりと自分の意思を伝えておきたかったのだ。彼らとは少しだけ仲良くなれる気がするから。
だがもし、彼らが私と仲良くしてくれる理由が「薙刀をやっていたから」なのなら、きっと今の私に失望するだろう。はじめにはっきりと言っておきたかった。
拒否されるのなら、早い方がいい。
「お前、薙刀嫌いなのか?」
その日、初めて雅臣が私に対して発した言葉は、私の核心を突く一言だった。一番聞かれたくなくて、自分の中でも曖昧にしておきたい部分だった。だが、彼は躊躇することなく、そこを突いてきた。
私は雅臣の目が嫌いだ。今だってそうだ。まるで私を敵だと思っているかのような鋭い目をする。そして遠慮のない態度。私はいつも周りに遠慮をしながら生きている。そうやって静かに生きている私には、遠慮のない彼の性格は許せない。
「大好きだったから、嫌いになったんだと思います。認めたくありませんが、薙刀をやっていた私は、今までの人生で一番輝いていました。でも今はそれが壁になるんです。どう頑張っても、あの時ほど輝けなくて、生きてるって心地がしないんです。薙刀をやっていた頃の自分を、越えられないんです。」
雅臣の鋭い眼差しと、清水の茫然とした顔が視界に入った。隣にいる圭は口元に笑みを浮かべたまま、固まっている。
彼ら三人は私の言葉に何も答えなかった。私の隣にたたずんでいた圭は口を僅かに開け、何かを言いかけたが、それは言葉にならずに飲み込まれていった。
それぞれが私に向けて発する言葉を考えていた。だが、どの言葉も適切ではなかったのか、それとも思いつかなかったのか。誰も声を発することはなかった。
我ながら、重たいことを言ってしまったと思った。こんなことを言われても困るだけだ。「生きている心地がしない」なんて言われて、私だったら返す言葉も見つからない。
これが大学だったら、「そういう暗いこと言うのやめてよ。そういうの求めてないから」とバッサリ斬られ、何もなかったことにされるのだろう。
そんな経験を何度もしてきた。そんな経験ばかりだった。だから私は自分のことを語るのをやめたのだ。
沈黙を破ったのは、やはり雅臣だった。
「紅羽、俺にいい考えがある」
アスタラビスタ リンス @rinse_duty
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