あなたに好きだと伝えていたら

近々

あなたに好きだと伝えていたら

「卓司、留学するんだって?」


汗をかいたアイスティーをストローでかきまぜながら、祥子がいう。


相変わらず、彼女は情報が早い。それもそうだ。

あたしと卓司は、祥子と祥子の彼氏の紹介で、付き合い始めたのだ。

あたしはアイスラテの表面に浮かぶクリームを突っつきながら、つまらなさそうに返答する。


「んー。イギリスだって。1年間」


スプーンで掬った一匙のホイップを、そのまま口へと運ぶ。

脳の奥へと広がる甘さに身を委ねながら、あたしは数日前の卓司との会話を反芻する。



――――――――――――――――――――――――



美大生の卓司とは、付き合ってそろそろ1年半になるだろうか。

いつも大らかで、何を言ってもニコニコと許してくれる、優しい人。

はじめは、祥子たちの紹介で知り合い、4人で幾度か会っているうちに、その柔らかい物腰に惹かれ、そして彼もあたしを気に入ってくれて、そのままの流れで付き合い始めた。


大きなケンカもなく、平和な日々。

彼と一緒にいると、あたしはとても安らげた。

そして、物静かだけれど、実は自分の好きなことに真っ直ぐで、迷いがなくて、その姿があたしにはとても眩しかった。


その卓司が、イギリスへ留学するという。

グラフィックデザイナー志望の卓司がずっと憧れていた、とあるデザイナーの受け持つコースに通えることになったらしい。

そのデザイナーに師事できるチャンスは、この機を逃すと二度と来ないだろうことから、悩んだ末、留学を決意したとのことだった。


「…いつから行くの?」

「9月から。交換留学で、1年間のコースなんだ」

「そう、1年間…」


卓司の決意表明をひととおり聞いて、あたしはしばらく考えた。


寂しくないといえばもちろん、ウソになる。

だけど、自分の夢に向かって努力してきた卓司を見てきた自分に、そんなことが言えるだろうか。

彼自身が考えて、求めて、導き出した答えの重さを、他人であるあたしが否定する権利なんて、ないのだ。


「そっか…うん。わかった。

 …がんばってきてね」


それしか、答えようがなかった。

卓司の目を見ることができないまま、あたしは曖昧に微笑んでみせた。


「応援、してるよ」


そんなあたしの様子をみて、卓司が静かに口を開く。


「美紀は、平気?」

「え?」

「俺、1年間も、美紀のそばにいられなくなるんだ。

 美紀はほんとに、大丈夫?」


…そんなこと、聞かないでよ。


だけど。


だけど―――。



――――――――――――――――――――――――



「それで、美紀はなんて言ったの」

「何が」

「どうせ、大丈夫、大丈夫!なんてヘラヘラと笑って返事したんでしょ」


さすが、中学からの付き合いだ。あたしのことをよくわかっている。


「ほんと変わらないね、美紀は。卓司、かわいそうよ」

「卓司が?かわいそうなのは、あたしじゃないの?」

「そうよ。自覚してるなら、ちゃんと伝えなさいよ。寂しいよ!行かないで!ってさ」


祥子はいつも同じことをいう。

だけど、なぜそんなことを伝えなきゃならないのか、あたしにはわからない。

寂しいのは当たり前だ。

だけど、「行かないで」なんて言ったら、優しい卓司のことだ。きっと困ってしまうと思う。


「だって、仕方ないじゃん、卓司の決めたことだもの。

あたしは、卓司の夢の邪魔をしたくないよ」

「それはわかるけど…。それじゃ、美紀の気持ちはどうなるの?」

「あたしの気持ち?」

「そうよ。ねえ、美紀。前田のこと、覚えてるでしょ」


あたしは、突然の懐かしい名前に、一瞬きょとんとする。


「前田?そりゃ、まあ、覚えてるけど…。何いきなり」

「来週の同窓会、行くでしょ。前田も来るらしいんだけどさ。彼、来月結婚するんだって」


前田は、中学3年の時のクラスメイトだ。

やんちゃで、チビで、すぐに何かとちょっかいをかけてくる、うるさい奴。

日直でペアだったあたしは、ことあるごとに前田をとっ捕まえては叱っていたものだ。


「本当は好きだったのに、告白もしないで終わったよね」

「それは…。だって前田、サッカーの推薦で地方の高校の寮に入るって言ってたし…」

「前田の夢を優先して、気持ちを伝えなかったと」

「…悪いの?」


祥子はため息をついて言う。


「自分の気持ちは後回し。今も昔も。

その気持ちは結局、どうなったのかなと思って」


嫌みを言う祥子を意地悪だと思いながらも、あたしはぼんやりと考えた。


あたしの気持ちは、どうなるんだろう。



――――――――――――――――――――――――



卒業式。

あたしと祥子を取り囲む、部活の後輩たち。

泣いている子も、カメラを片手に笑顔の子もいる。

可愛い後輩たちとの別れを惜しみながら談笑していると、ふいに何かが後頭部をポコン、と打つ。


「っ…!いたぁ!」


頭を庇って振り向くと、卒業証書の筒を片手にニヤニヤと笑っている、見なれた顔。


「前田…。あんた…。常々あたしをからかって、さぞ楽しい1年だったでしょうね…。今日という今日は、許さん。ぶん殴る!」


そういって目を吊り上げたあたしを見て、「おっかねー!」と笑って走り去る前田。

しかし、陸上部の部長だったあたし。本気で奴を追いかけて、校舎を飛び出し、その首根っこを捕まえる。

この1年、何度も何度も繰り返してきた、あたしと前田の日常だ。


誰もいない渡り廊下。

肩で息をする二人。


何してんだろ…あたし…。

最後の日、だってのに…。


後ろを向いたままの前田が、ぽつりと言う。


「あっという間だったよな、この1年」

「…そう、かもね」


風が吹きぬける。

あたしは前田の襟から手を離す。


「なあ、藤川」

「あのね、前田」


同時に出たお互いの名前。

あたしも、前田も、次の言葉がつなげずに押し黙ってしまう。


どれくらいの沈黙だったのだろう。

ほんの数十秒だったのかもしれないし、何分も経っていたかもしれない。

鼓動が早く聞こえるのは、全力で前田を追いかけたせいか。

それとも、言いだせない一言が、頭の中でぐるぐると回っているからなのか。


それを破ったのは、後輩たちの声だった。


「…美紀せんぱーい!

みんなで写真撮りましょうよー!」


遠くから呼ぶ彼女らの声に、あたしは弾かれたように振り向き、そして再び前田の方へ向き直る。

前田は、困ったように小さく笑う。


「さすが主将。行ってやりなよ」


タイムリミット。

あたしは、ここを離れない理由を見つけることができなくて、目を伏せて言う。


「…うん。そうだね」


校舎の後輩たちの方へ、もう一度目を向けるあたし。

中庭の方へ、足を踏み出す前田。


「それじゃ、元気で」

「前田も、元気でね」


あたしたちは、別々の方向へ歩き出した。



――――――――――――――――――――――――



あのあと、一度だけ、前田の進学した高校の試合を、こっそり調べて観に行ってみたことがある。

けれどもその日、会場に彼の姿はなかった。

あの時、好きだと言えなかったあたしは、きっと前田に会うことを許されなかったのだろう。

誰に、と問われれば、神様とか、そういうものになるのだろうか。

あたしは前田の夢を、心から応援していたし、だから邪魔をするつもりもないと思っていた。

つまり、彼のこれからの人生に関わることを諦めたのだ。


そうしてあたしは。

泣くことも、悔やむこともせずに、ただ自分自身の気持ちを封印することに決めた。

それがおそらく、正解なんだ。

彼に関わらないと決めたあたしの、正しい道なんだ、と信じて。


それからしばらく経って、風の噂で、彼が怪我をしてサッカーを辞めてしまったという話を聞いた。

もう、あたしの胸は、騒がなかった。


きっと今回だって、あたしは同じように黙っているのだろう。

そうして、卓司の夢を応援して、見守って、離れるべき時が来てしまったら、笑顔で手を振るのだ。


「元気でね」


そう言って。



――――――――――――――――――――――――



「美紀、祥子!久しぶりじゃーん!」


待ち合わせに少しだけ遅れてきた祥子と会場に入ると、7年ぶりに会う懐かしい顔ぶれが、早速あたしたちを迎え入れた。

先に来ていたクラスメイトたちは、すでに再会に盛り上がり、あちこちで思い出話に花を咲かせている。

あたしは、声を掛けてくれる一人一人の名前を記憶から手繰り寄せながら、何となくぎこちない笑顔を作ってまわった。


同窓会って、独特だ。

当時は毎日同じ時間を過ごしていた仲間が、ひどく遠く感じ、他人だったのだということを実感する。

もしかすると、それはあたし自身が、あの頃をちゃんと思い出そうとしていないからなのかもしれない。


「おー!藤川じゃねえの。久しぶりだなあ!」


聞き覚えのある声がした。


あたしに気づいて、近づいてくる、背が伸びて別人のように大人びた、彼。

ひどく懐かしいと感じるのに、誰だろうと思う自分もいて。

知り合いなのか、知らない人なのか、好きだったのか、そうでもなかったのか。

よくわからない、不思議な感覚だった。


「前田、久しぶり。背、伸びたねえ」


笑顔で前田に声をかける。


「卒業以来だな。そりゃ、7年も経てば背も伸びるだろ」

「ふふ、そうだね。…あれから7年も経つんだもんね」


前田も笑っている。

見た目は大人になったけど、あの頃のやんちゃな面影は変わらない。

他愛ない話をしていると、だんだんと思い出してくる、当時の空気感。


「藤川。久々にいろいろ話したいこともあるし、外、涼みに出ようぜ」


祥子に一言ことわってから、二人で会場の外に出る。

真夏にしては、心地よい風の吹く夜だった。


「前田、結婚するんだって?

祥子から聞いたよ。おめでとう」


思いのほか簡単に、そう口にすることができた。

すると、前田は少し照れたように微笑んだ。


「ああ、そうなんだ。ありがとう。…藤川は?元気してる?」

「あたしも、まあ、ぼちぼちやってるよ」


7年経って、前田もあたしも大人になったのだと思う。

結婚するという話を聞いても、素直におめでとうと言えた。


こっそり試合を観に行ったけれど、姿がなかったこと。

怪我でサッカーを辞めてしまったという噂のこと。

あの頃、閉じ込めて忘れてしまった気持ちだって、今ではもう昔のことだ。

時間が全て解決してくれるのだなぁ…とぼんやり思った。


その時。


「藤川、あのさ」


突然、前田が真面目な顔になる。


「今日、藤川に会えたら、言いたかったことがあるんだよね」


まっすぐな目に、思わず息を止める。

言いたかったこと?


「俺、中学の時、藤川のこと好きだったんだ」


頭が真っ白になった。


「卒業式の日、言おう言おうって思ってたのに、言えなかったんだ。あとから、伝えなかったことをすごく後悔してさ。だから、もしもいつか藤川に会えることがあったら、いまさらだけど、ちゃんと伝えておこうと思ったんだ。

…藤川は、俺のこと、チビでうるさくて、どうしようもないやつだと思っていたかもしれないけど」


「なに、それ…」


あたしを、好きだった?


あたしは、思考停止した頭の中、必死で冷静な言葉を探した。


「…それ、結婚前に他の女に言う話?」

「ふふっ。だよなあ」


前田は笑っている。


「成仏させたいじゃん。すげえ後悔したんだもん」

「ほんと、いまさら…」

「俺は、藤川も実は俺のこと好きだったんじゃないかなーって思うんだけど、自惚れかな」

「あんた、ほんとうるさい。やっぱ変わってないわ」


思わず吹き出す前田。


「藤川も、ほんと、変わってないなー。相変わらず、全然素直じゃないし」

「…悪かったね」


くっくっと可笑しそうに笑っていた彼が、やがて、はー、と息を吐いて落ち着きを取り戻し、あたしに向き直る。


「会えてよかったよ。ちゃんと言いたかったこと、言えたし」

「…そう」

「なに、それだけかよー」

「まぁ、あたしも、会えてよかった、かな」


ふと会場の入り口から、祥子が心配そうにのぞいているのが見えた。


「…戻らなきゃ」

「俺、煙草1本吸ってから戻るよ」

「わかった」


祥子の方へ、足を向けるあたし。

あたしに背を向けて煙草を取り出し、そして振り返る前田。


「それじゃ、元気で」

「前田も、元気でね」


あたしたちは、また、別々の方向へ歩き出した。



――――――――――――――――――――――――



帰り道、祥子と二人でバスを待ちながら、あたしは泣いていた。


あたしは、何が正解だと思っていたのだろう。

何に対して、正しいと思いこもうとしていたのだろう。


あの卒業式の日、ちゃんと「好きだ」と伝えていたら。


祥子が優しく言う。


「伝えていたら、今とは違った未来があったのかもね」


泣いているのは、7年前に閉じ込めてしまった、あの頃のあたしだ。

そう思った。


「ねえ、美紀」

「うん」

「自分の気持ち、もっと大事にしなよ」


あたしは手の甲で涙をぬぐった。


伝えなきゃいけない言葉がある。

今、一緒にいたいと思う人に、今、伝えるべき言葉。


「卓司に、会いに行く」

「それがいいね」


伝えたって、きっと。

状況はそんなに変わらない。

卓司はやっぱりイギリスへ行くだろうし、そして二人はしばらく会えなくなるだろう。


だけど、あたしが、これから先も、彼の人生と関わっていきたいと思うのなら。

「元気でね」と、笑って手を振り、それきり別れたくないのなら。


今度こそ、あなたに、「好きだ」と伝えたら。

それで変わる未来も、あるのかもしれない。


風が吹き抜ける。

もう一度、あの日のことを思い出す。


予定時刻を少し過ぎてからやってきたバスに、あたしたちは乗り込んだ。

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