第65話 信也と美結たちの正月

 2015年、1月3日の正月、午前8時ころ。東京の下北沢。


 早朝は、曇り空もあったが、青空が広がっている。


 信也がパソコンを眺めている部屋には、

信也の妹の美結が淹(い)れている、コーヒーの甘い香りが漂ってくる。


「しん(信)ちゃん、コーヒー入れたわよ。

きょうもいいお天気よね。ちょっと寒いけど。うふふ」


 信也の部屋をのぞいて、美結はそういって、微笑む。


「外の最高気温が、10度くらいだろうからね。こんな冬の寒さをよろこぶのは、

動物園の北極グマくらいかな?あっはっは」


 そういって、信也は美結を見て、声を出してわらった。


 信也の部屋の、南のベランダの窓ガラスからは、朝の光が静かに差し込んでいる。


 この頃、信也は、ドイツの哲学者、ニーチェの芸術論が気になっている。


 そのきっかけは、去年の10月に、信也たちのモリカワと竜太郎たちのエタナールの

共同で運営を開始している、バーチャルなインターネット上の下北音楽学校の、

第2回の公開授業で、清原美樹が講師となって、夏目漱石とニーチェについて、

信也にとっても興味深い話をしたからだった。


 信也は、その後、夏目漱石のことやニーチェのことが気になって、いろいろ調べたのだった。


「美樹ちゃんの漱石とニーチェの講演、すごくおもしろかったよ」


「ありがとう、しんちゃん」


 去年のモリカワ・ミュージックの忘年会で、信也と美樹は、そんな会話をした。


「おれさ、ニーチェにあまり関心なかったもんだから、ニーチェについて調べたんだよ、美樹ちゃん。

彼の芸術論って、特にいいよね。ヤフーの知恵袋なんかに、いいこと書いてあってさ。

ニーチェは、力強く生きるためというか、魅力ある人生というか、幸せな人生のためには、

理性よりも芸術のほうに価値があるとか、真理よりも美のほうに価値があるという考え方を、

提唱したらしいんだよね。おれもそれには、共感するし大賛成なんですよ。あっはっは」


「わたしも、音楽をやる意味を、ニーチェにあらためて教わったような気がしているのよ、しんちゃん。」


「ニーチェって人は、それまでのプラトンたちのヨーロッパ哲学や合理主義に、

異議を提唱して、それまでの価値観を転倒して、常識とかも否定して、考え方を根底から、

ひっくりかえしてしまったんだから、すごいよね。ニーチェ以前のヨーロッパ哲学では、

芸術よりも理性に価値があるとか、美よりも真理に価値があるとかだったらしいからね。

そういえば、おれちょっと気がついたんだけどさ、美樹ちゃん。

夏目漱石とニーチェは、ほとんど同じ時代に生きていたのは確かだけど、

夏目漱石は、ニーチェよりも20年くらいあとに生まれて、

ニーチェよりも16年くらい長生きしているんだよね」


「あら、いやだぁ。わたし、すっかり勘違いしていたみたい。

ニーチェって、漱石のあとに生まれた人とばかり思っていたわ。

だって、ニーチェの哲学って、現代人にもすごく役立って、現代的なんですもん!」


 ちょっと恥ずかしそうに、美樹は信也に、そういって微笑む。


「ははは。全然、気にすることなんてないよ。しかし、美樹ちゃんの言うとおりだよね。

確かに、ニーチェの哲学って、現代的だし、いまだに最先端な気がするもんね」


 信也と美樹は、モリカワ・ミュージックの忘年会で、そんな歓談をした。


 夏目漱石とニーチェはほぼ同じ時代に生きていたが、

漱石は1867年生まれの1916年の死去で、

ニーチェは1844年生まれの1900年の死去で、

漱石はニーチェより20歳以上若く、ニーチェよりも長生きしている。


 信也のマンションのリビングの、40型のテレビでは、録画の紅白歌合戦をやっている。

ちょうど、サザンオールスターズの桑田佳祐たちが登場している。


「利奈ちゃん、大学入試のお勉強、がんばっているらしいわ」


 美結は、テーブルで向き合う、信也にそういって、微笑む。


 暖(あたた)かくしてあるウールのカーペットで、ひのきのローリビングテーブル(座卓)では、

寝転がってくつろげる。


 妹のことを想う姉らしい優しさが、最近の美結の表情にはあって、そのオトナの女性らしさが、

美結の美しさを、兄の信也でも心を奪われるくらいにしている。


「1月は、センター試験だもなあ。利奈ちゃんもちょっと大変な時期だよね。

でも、利奈ちゃんなら、だいじょうぶだよ」


「そうよ、利奈ちゃんなら、だいじょうぶよ、しんちゃん」といって、美結も明るく微笑んだ。


 元旦の朝には、信也の彼女の詩織と、美結の彼氏の沢口涼太の4人で、

下北沢駅北口から歩いて6分ほどにある下北沢神社に、初詣(はつもうで)に行った。


 信也は、この正月に、まだ未完成らしいが、1つ、ロック調の歌を作った。


ニーチェさんに捧(ささ)げる歌  作詞作曲 川口信也


あなたは すごい人ですね 自分を信じて

その時代の 価値観を転倒したんでしょう!

あなたの 身になって 想像してみれば

おれなんかには できることじゃありません!


あなたは たぶん 無欲な 心優しい人だったんですね

世間の 無理解や中傷にも 負けないで

信念 感性 考えたこと 感じたこと 曲(ま)げないで

わが道を 歩くことを 全(まっと)うしたのだから


ニーチェさんの キーワード たくさんあるよね

超人 ツァラトゥストラ ルサンチマン ニヒリズム

でも オレの大好きなのは あなたの芸術論!


力強い人生の 幸せのための その高揚のためには

理性よりも 芸術ほうが 価値があるっていったこと

真理よりも 美のほうが 価値があるっていったこと

もっと 歓(よろこ)ぼう 楽しもう 幸せになろう っていってくれたこと


≪つづく≫ --- 65話 おわり ---

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