第1話 駅
夜をとおして激しく降る雨が、形のあるものをことごとく打ち続けた。
明けがた、強い風が吹きあれて、黒い闇はひびわれて、
光の世界がたちまちひらけた。
山々の新緑が、明るくゆれて、
風は野や谷や山の中を吹きわたった。
山梨県は山に囲まれた地形の盆地のせいか、
上空はよく不意の変化をした。
雨上がりの朝だった。季節は梅雨に入っていた。
道沿いの家の庭に咲く紫陽花(あじさい)は、
どこかショパンの幻想即興曲を想わせ、色とりどりに咲いている。
「韮崎(にらさき)は空気が新鮮だよね。空気がうまいよ。
つい、深呼吸したくなる。山とかに、緑が多いせいかね」
駅へ向かう線路沿いの道をゆっくりと歩きながら、
純(じゅん)は信也(しんや)に、そういった。
「きのうから純ちゃんは同じことをいっているね。
でもやっぱり、東京とは空気が違うよね。
それだけ、ここは田舎ってことじゃないの。
人もクルマも全然少ないんだし」
ふたりは声を出してわらった。
ふたりは今年の3月に東京の早瀬田(わせだ)大学を卒業した。
信也は平成2年1990年2月23日生まれの22歳、
純は平成元年1989年4月3日生まれの23歳で、
正確には1年近い歳の差があった。
小学校の入学の歳は、4月1日以前と2日以後に
区切られるため、信也はいわゆる早生まれで、
小学校の入学から大学までふたりの学年は同じである。
信也は卒業後、この土地、韮崎市(にらさきし)にある実家に帰って
クルマで10分ほどの距離にある会社に就職した。
ふたりは大学で4人組のロックバンドをやっていた。
ビートルズとかをコピーしていた。オリジナルの歌も作っていた。
まあまあ順調に楽しんいたのだけど、卒業と同時に仲間は
バラバラになって活動はできなくなってしまった。
新宿行き、特急スーパーあずさ6号の到着時刻の
9時1分までは、まだ30分以上あった。
「おれは、ぼちぼちと、バンドのメンバーを探すよ。
信(しん)ちゃんも、またバンドやるんだろ」
「まあね、ほかに楽しみも見あたらないし。だけど、気の合う
仲間を見つけるのも大変そうだよね」
純は、同じ背丈(175センチ)くらいの信也の横顔を
ちらっと見ながら、信也と仲のいい美樹(みき)を思い浮かべる。
美樹には、どことなく、あの椎名林檎(しいなりんご)に似た
ところがあって、椎名林檎が大好きな信也のほうが
美樹に恋している感じがあった。
信也と美樹は、電車で約2時間の距離の、東京と山梨という、
やっぱり、せつない遠距離の交際になってしまった。
美樹も辛い気持ちを、信也の親友でありバンド仲間の
純に打ち明けてたりしていた。
信也は、そのつらい気持ちをあまり表に出さなかった。
信也は、東京で就職することも考えたのであったが、
長男なので両親の住む韮崎にもどることに決めたのだった。
大学でやっていたバンドも、メンバーがばらばらとなって
解散となってしまった。
信也はヴォーカルやギターをやり、作詞も作曲も
ぼちぼちとやっていた。純はドラムやベースをやっていった。
純の父親は東京の下北沢で、洋菓子やパンの製造販売や
喫茶店などを経営していた。
いくつもの銀行との信用も厚く、事業家として成功している。
父親は、森川誠(もりかわまこと)という。今年で58歳だった。
去年の今頃の6月に、純の5つ年上の兄の良が、
ジャズやロックのライブハウスを始めていた。
純はその経営を手伝っている。
音楽や芸術の好きな父親の資金的な援助があって、
実現しているライブハウスであった。
韮崎駅(にらさきえき)の近くの山々や丘には、雨に洗われた
ばかりの、濃い緑の樹木が、生い茂っている。
さらに、遠い山々には、白い霧のような雲が満ちている。
「おれって、やっぱり、田舎者なのかも。
東京よりも、この土地に、愛着があるようなんだからね」
照れわらいをしながら、信也は純にいった。
「おれだって、こんなに空気のいい土地なら、住みたくなるから、
信が田舎者ってことはないよ」
純はわらった。
「ところで、信ちゃん。もう一度、よく考え直してくれるかな。
おれも、しつこいようだけど・・・」
歩きながら、純は信也の肩に腕をまわして、
軽く揺すった。
「ああ、わかったよ。でも、さんざん考えて決心して、
帰って来たばかりなんだぜ。それをまた、すぐにひっくり返す
なんてのは、朝令暮改(ちょうれい ぼかい)っていうのかな、
なさけないないというか、男らしくないというか……」
「そんなことはないよ、信ちゃん。いまの時代は変化が
激しいんだし、多様化の時代だし、1度決めたことだって、
変更してもそれが正しいことのほうが多いと思うよ。
いまの政治家とかのしている話だって、朝令暮改で
呆れるばかりじゃん。まあ、おれたち若者の場合は、
決心したことを変更する勇気のほうが、おれは男らしいと
思うけどね」
「またまた、純ちゃんは、人をのせるのがうまいんだから」
二人は、わらった。
「な、おれに力を貸すと思って、親父の
会社に入ることを考えてほしいんだ。一緒に、
ライブハウスやバンドをやって、夢を追っていこうよ。
おれは真剣なんだ。冗談抜きで。
美樹ちゃんだって、それを願っていると思うよ。
信ちゃんは長男だから、家を継ぐと決めたことはわかるけど、
『信也さんの実力を試す、いい機会ですよ』って、
お父さんとお母さんに、おれが説明したら、
昨夜も、ニコニコと笑顔で、わかってくれているみたいだった
じゃない。話のわかるご両親で、おれも、ほっとしたよ」
「純ちゃんは、説得の名人だからなあ。参ったよ」
韮崎駅に着いた二人は、改札口の頭上にある
時刻表と時計を眺めた。
新宿行き、特急スーパーあずさ6号の到着時刻の
9時1分までは、あと5分ほどであった。
「まあ、信ちゃん、よく考えください。おれらには、
時間は十分あるんだし・・・」
「わかったよ。まあ、何事も簡単にはいかないよね。
おれもまたよく考えてみるよ」
そういって、純と信也は手を握りあった。
純は切符を購入すると、改札口を
抜けて振り返る。笑顔で、信也に
軽く手を振った。信也も笑顔で手を振る。
そして、純はホームへ続く階段へと姿を消した。
≪つづく≫
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