勇者がゴブリン
ムク文鳥
第1章
気がつけば、ゴブリンだった
「……何の冗談だ、こりゃあ……?」
湧き出る泉の水面に映る自分の顔を見て、俺は呆然として呟いた。
ゆらゆらと揺れる水面で、異形の怪物が俺を睨みつけている。
小さな身体に不釣り合いな大きな頭。頭髪のない頭はごわごわとした皮膚が剥き出しで、その色は濁った緑色。大きな頭部の真ん中に鎮座した巨大な鷲鼻と、同じく大きくぎょろりとした赤い目。耳はつんと尖っていて、大きく裂けた口元には鋭い乱杭歯がぞろりと生えている。
そして水面で俺のことを睨み付ける、この怪物のことを俺はとてもよく知っていた。
「……ゴブリン……? こ、今度は俺、ゴブリンなのか……?」
呆然と水面を凝視したまま、俺は再び呟いた。
どれぐらい、俺は無言で水面を睨み付けていただろうか。
突然後頭部を殴りつけられ、俺は目の前の泉に頭から突っ込んだ。
痛てえな! どこのどいつだ、俺をいきなり殴りやがったのはっ!?
慌てて泉から這い上がった俺の目の前に、仁王立ちで俺を見下ろすゴブリンがいた。だが、そのゴブリンの身体は俺よりも遥かに大きい。
とはいえ、ゴブリンの身長は大体3フィート半から4フィート(約1メートルから1.2メートル)ぐらいで、このゴブリンもそんなものだろう。
つまり、俺の方が小さいのだ。なんせ俺は、生まれてまだ十日も経っていない
俺が俺として覚醒する前の記憶もしっかりと残っているので、自分が生後十日未満であることは間違いない。
俺がそんなことを考えていると、俺を殴りつけたゴブリンが乱暴に俺の首を掴み、そのまま俺の身体を持ち上げた。
「遊ブナ。エサ、探セ」
じろりと間近で俺を睨み付けたそのゴブリンは、無造作に俺を放り投げる。
尻から地面に落ちた俺は、尻を襲う激痛に耐えながらも必死に立ち上がった。ぐずぐずしていると、また目の前のゴブリンに殴られかねない。
突然殴られた怒りなど、いろいろな驚きの前にすっかりかすれてしまった。俺は小さな身体をぎこちなく動かし、必死に餌を探す……フリをしつつ、これからのことを考える。
主に考えるのは、「あいつ」のこと。
これまでと同じく、おそらく「あいつ」もまた、俺と同じように新たに生まれ変わっているだろう。もしかすると、まだ生まれていないかもしれないが、その場合はそう遠くないうちに生まれてくるに違いない。
それが、俺と「あいつ」を結ぶ宿命だからだ。
今生こそ俺は「あいつ」に打ち勝たなければならない。そして、いつまでも続くこの呪われた輪廻の宿縁を、今度こそ断ち切るのだ。
おそらく、今生の「あいつ」も強いだろう。
「あいつ」に勝つためには、再び辛く厳しい鍛錬が必要になる。いや、以前以上に修練を積み重ねなければ、「あいつ」に勝つことはできない。なんせ、今生の俺はゴブリンに生まれるという、とんでもなく不利な地点から始めなければならないのだから。
ゴブリン。
それは妖魔族を代表する種族であり、小柄で卑屈な性格をした魔物である。
自分より強い者には媚へつらい、自分より弱い者には残忍に振る舞う。
食性は雑食で、本当に何でも食べる。反対に生産性はほとんどなく、必要な物は他者から奪うことで手に入れる。
力は弱いが、繁殖性に優れる。生まれた幼生は半年ほどで成体となって、生殖可能となる。しかし寿命は長くはなく、せいぜい30年といったところらしい。だが、ほとんどのゴブリンは寿命を迎えることはない。その前に寿命以外の理由で命を落とすからだ。
とまあ、ゴブリンと言えば雑魚中の雑魚と言っても過言ではないだろう。
なぜか、そんなゴブリンとして今回の俺は生まれてしまった。
こんなことは初めてだ。一体全体、どうしてこうなっちまったんだ?
俺は首を傾げるも、当然ながらそれで答えが得られるわけもない。
しかも、ゴブリンに生まれたという驚きから僅かなりとも立ち直ったからか、無性に腹が減ってきた。俺は考えるのを一時中断して、食べられそうなものを必死に探し始める。
食料を求めてあちこちを見回して、俺は初めてここが深い森の中であることに気づいた。
周囲は俺の今の身長よりも遥かに高い木々が立ち並び、そんな高い木々の密度の低い所には、背の低い灌木なども生い茂っている。
さて、この森はどこの森だ? そして、あれからどれだけの時間が経ったんだ?
数々の疑問と空きっ腹を抱えつつ、俺は目を大きく見開いて食べられそうなものを必死に探した。
結局、俺が見つけた食料は、茸がいくつかと小さな蜥蜴を三匹ほど。
以前の俺なら食べようとも思わない食料ばかりだが、今は空腹のせいか、それとも悪食のゴブリンになったからか、それらの食料がとても美味そうに思えて仕方がない。
空腹に耐えかねた俺が茸の一つを口に放り込もうとした時、再び背後から頭を殴りつけられた。
痛む頭を押さえながら背後を振り返れば、そこには先程のゴブリンの成体がいた。
「勝手、食ウナ! 殺スゾ!」
成体のゴブリンは俺が集めた食料を奪うと、腰にぶら下げた薄汚れた布袋の中に放り込んでいく。
よく見れば、その成体のゴブリンの後ろには、俺と同じぐらいの大きさの幼生のゴブリンが数体いた。
彼らは俺の「兄弟」たちである。ゴブリンは群れを作り、その群れで生まれた幼生は、纏めて育てられるのだ。
あの成体のゴブリンは、いわば「子守り役」なのだろう。だが、ゴブリンに幼生を守るという概念があるわけがなく、あのゴブリンは子守り役という立場をいいことに、幼生たちをこき使って食料を集め、それを横取りしているわけだ。
何とも、実にゴブリンらしいと言えるじゃないか。
見れば、他の幼生たちも必死に集めた食料を奪われたらしく、皆一様に腹を空かせているようだった。
成体のゴブリンは、さっさと歩き去ってしまった。おそらく、俺たちより先に群れの
俺は兄弟たちをぐるりと見回す。
ん? 兄弟たち、俺のことを不思議そうに見ているが……もしかして、俺って何かおかしいのか? 確かに、俺が普通のゴブリンの幼生じゃないのは確かだが。
兄弟たちの態度を訝しみつつも、俺は以前に覚えた妖魔語──ゴブリンたち妖魔族が使う言葉──を思い出しながら、彼らへと告げる。
「日ガ暮レルマデ、マダアル。マタ、食べ物探セバイイ」
本来、ゴブリンたちは夜行性である。そのため、暗くなってからこそが本来の活動時間なのだが、夜はゴブリンよりも遥かに強い生き物たちの活動時間でもある。
そんな恐るべき生き物たちとの遭遇を避けるため、弱いゴブリンの中でも更に弱い俺たち幼生は、こうして昼間に塒の外に出て食料を探すのだ。
俺はそのことを、俺として覚醒する前に得た知識で知っていた。
同じ理由で知っている塒の方角へと、兄弟たちを引き連れて食べられそうなものを探しながら、俺はゆっくりと歩き始めた。
塒である洞窟に辿り着くまでに、俺たち幼生は僅かながらも木の実や小さな虫や蜥蜴などを捕まえて飢えを凌いだ。
虫や蜥蜴など、最初はおそるおそる食べたのだが、不思議とまずくはなかった。いや、ぶっちゃけ結構美味かった。どんなものでも美味しく食べられるということは、やっぱり幸せなことだと俺は再認識した。
うん、こればっかりはゴブリンの悪食に乾杯。
とはいえ、とてもじゃないが満腹にはほど遠く、俺たちは洞窟内の幼生に与えられた小さな空間で、空きっ腹を抱えて敷き詰めた枯草の上で丸くなる。
兄弟たちが早々に寝息を立てる中、俺はこれからのことを考えていた。
俺は強くならなければならない。宿敵である「あいつ」と戦い、「あいつ」に勝つために。
そのために、俺はこれから何をしなければならないのか。
まずは、自分自身の能力を確かめる必要があるだろう。確かにゴブリンは弱い存在だが、それでも悲観するばかりではない。
俺には以前の知識と経験がある。これまでに何度も何度も繰り返し積み上げてきた知識と経験は、この身体になっても全く無駄ではないだろう。
以前に身に着けた技術を再び使えるようにする。それはこれまで何度もしてきたことであり、たとえゴブリンとして生まれてもそこは変わらないはずだ。
後は……そうだな、やはり仲間が必要だろう。
俺はこれまで、数多くの仲間に恵まれてきた。「あいつ」との戦いは、決して俺一人の闘いじゃなかった。
「数」がとても大きな力となることを、俺はこれまでに何度も実感してきた。
幸い、ゴブリンは数に優れる。その中から素質のある者を選び出し、鍛えていけば頼もしい「仲間」になってくれるかもしれない。
もっとも、本当にゴブリンが信頼できるのかと言われると、正直不安ではあるが。
だが、ゴブリンとして生まれてしまった今回の俺に、以前のような人間や亜人族の仲間はおそらく得られないだろう。ならば、妖魔族や他の魔物の中から、信頼できる「仲間」を見つけ出すしかない。
まずは周りで寝息を立てている兄弟たちの中から、素質のある者がいないか見定めるとしよう。
そして……やはり最大の希望は、妖魔というその特質そのものだろうか。
妖魔族に属する魔物は、一定の条件を満たすとその姿形を変えることがある。この特性を、以前の俺の仲間であった魔術師は「進化」と呼んでいたっけ。
その魔術師いわく、妖魔は自分の体内に一定量の魔力を取り込むことで条件を満たし、その姿を変えるという。
この世界には魔力という「力」が満ちている、と魔術師たちや神官たちは言う。そして、生物はその身体に魔力を宿す、とも。
その魔力を利用した技術が、「魔術」と呼ばれるものである。魔術以外にも、騎士や傭兵などがよく使う「気術」というものもある。
気術も魔術の一種と言えるだろう。どちらも魔力を源として、様々な効果を現すものだからだ。
気術と魔術の最大の違いは、魔術が他者にも影響を与えることができることに対し、気術は術者自身にしか効果を現さないことか。
そのため、気術は身体能力を一時的に上昇させる、武器の威力を一時的に上げるなどに用いられるのが一般的だ。
ちなみに、俺は魔術は苦手だったが反対に気術は得意だった。確かめてみないと分からないが、おそらく今生でも気術は使えるだろう。
と、今はそれはいい。明日にでも確かめればはっきりすることだ。
今は、妖魔の進化について考えなければ。
実際、ゴブリンには上位種と呼ばれる存在がいる。ハイ・ゴブリンやホブ・ゴブリン、ゴブリン・シャーマンなど、実に様々な上位種が存在するのだ。その多様性こそが、ゴブリン最大の脅威でもあると仲間の魔術師は言っていたな。
生物が死を迎える瞬間、その生物は体内に蓄えた魔力を一気に周囲に解放してしまう。つまり、死を迎えた者の周囲は一時的にとはいえ、魔力が濃密な空間ができあがる。
魔術師いわく、その濃密な魔力を浴びることで、妖魔は解放された魔力の一部を吸収するのでは、ということらしい。
では、妖魔が魔力を取り込んで妖進化するというのなら、どうして人間や妖魔以外の生物は進化しないのか。そう疑問に感じた俺は以前、魔術師にそのことを尋ねてみた。
「それはですね、妖魔は魔力的に不安定な存在であり、人間やその他の生物は逆に安定した存在だからではないか、と僕は考えています。不安定であるがゆえに、一定の魔力を得ることでその魔力の影響を受け、自らの姿を変えると僕は推測しているんです」
妖魔に限らず全ての生物は、魔力を持つ相手を殺めることで劇的に強くなる、と魔術師はいう。
もちろん、鍛錬を積み重ねることも大事であり、積み上げた鍛錬の結果、実力を増すことは間違いない。
だが、これは俺自身も過去に何度も体験したことだが、確かにより強い相手を倒すことで飛躍的に実力が上がったことがあった。
いわゆる、戦士や兵士、そして騎士たちが言うところの「実戦を経験することでより強くなる」ということだろうが、その魔術師に言わせるとまた別の解釈らしい。
「魔力を持つ相手を殺めることで、その身体から解放された魔力の一部を吸収する……そうですねぇ、この吸収する魔力を便宜上『経験値』とでも呼びましょうか。この経験値を自分の魔力として得ることで、人間を含めた生物はより強くなる、というのが僕の自論なのです。全ての生物が経験値を得て強くなる中、妖魔だけは魔力的に不安定であるがため、得た経験値の影響で姿形までも変化するのではないでしょうか」
「ふーん。じゃあさ? 弓とか魔術とかで遠距離から止めを刺した場合、おまえの言う『経験値』とやらは得られないんじゃね?」
魔術師の説明を一通り聞いた後でそんな質問を返したら、あいつは急に動かなくなり、しばらくぴくりともしなかったっけ。
自分の考えに大きな穴があることに、全く気づいていなかったんだな、あいつ。そういや確かに優秀な魔術師だったけど、意外と抜けているところもある奴だった。
だけど……魔術による攻撃を考慮しないってのは、魔術師としてどうよ?
とまあ理由は不明だが、ゴブリンを始めとした妖魔族が、突然その姿を変えることは間違いのない事実である。
そのため、ゴブリンなどの妖魔を見かけたら、早めに退治することが人間の社会では常識となっている。そうでなければ、より力の強い上位種を生み出す機会を与えてしまうことになってしまうからだ。
妖魔以外の魔物でも進化は見られるそうだが、それは極めて稀なことらしい。そのことからみるに、やはり進化は妖魔の特性と言えるだろう。
となると、当面の目標は以前の技術を再び使えるようにすると同時に、次の階梯への進化を目指すべきか。同時に、信頼できる仲間を探し出せれば言うことはない。
とりあえずの当面の目標を定めながら、俺はゆっくりと睡魔に意識を委ねていった。
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