第640話御前にて人々とも(1)
清少納言先生:今日は、中宮定子様の御前での話題についてとなります。
舞夢 :了解しました。訳をしてみます。
中宮様の御前で、女房たちと会話をしていた時、あるいは中宮様が何かをお話になられている時でしょうか、私(清少納言)が、
「世間一般について、気に入らないことが多く不愉快、これ以上はこの世にとどまりたくなくて、もうどこかにでも行ってしまいたいと思っている時に、普通の紙であっても格別に白くて美しいのに加えて、上質な筆や白い色紙、陸奥紙などを手に入れると、他の物を手に入れた時よりはよほど慰められて、まあ仕方がない、このままでも今少し生きていてもいいかなあと、思われるのです」
「また高麗縁の筵で、その目が青くて細やかで厚めに拵えてあると、縁の模様が実にくっきりと黒く白く見えて、それを引き広げて見た時の気持ちは、まあ、この世は決して絶対に思い捨てることはできないと思うので、命まで惜しくなってしまいます」
と申し上げたことがありました。
すると中宮様は、
「それはそれは、細かなことに心が慰められるものですね。歌に詠まれた『姥捨山の月』は、さてどのような人が見たのでしょうか」
と、お笑いになられるのです。
また、傍らに控えている女房も、
「実に簡単な延命息災のお祈りなのでしょう」
と、言うのです。
清少納言先生:はい、そこまで。
舞夢 :姥捨山の歌とは?
清少納言先生:「わが心 慰めかねつ 更級や 姥捨山に 照る月を見て」古今集です。もともとは、大和物語からです。ある男が、妻にそそのかされて、親のように養ってきた伯母を山に捨ててきたものの、家に帰って、山の上にある月を眺めながら、悲しい思いに沈み、伯母を連れて戻ったという話。
舞夢 :中宮様も女房も、わかりやすい反応ですね。
清少納言先生:まさか姥捨山の歌で返されるとは、予想できませんでした。
※いつの世でも、弱者に冷酷な人はいるもの。そしてそれに心を痛める人もいる。
清少納言は、確かに簡単に気分転換をしてしまう。
前向きな人だったのだと思う。
※御前にて人々とも(2)に続く。
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