物静かな女
木目細
第1話 物静かな女
はらりとページを捲る。古書特有の刺激臭が仄かに香る。木枠の古い窓から柔らかな陽ざしが零れ、微かに都会の喧騒が聞こえる。奥でマスターがオキシカルジュールに水をやっている。コーヒーを一口飲めば、ドミニカの優しい香りが口に広がる。そのすべてが心地よく、できることならこの安寧をいつまでも貪りたい。隣のテーブルの女が『カレシ』に猫なで声で電話さえしていなければ、ここは良子の望む空間そのものだった。
カランとドアベルが響く。男は店内を見回すとこちらに右手を上げ、そして目の前の席に着いた。
「さっき駅前でさ、今の大臣?首相?がいてさ。いやもう人だかりすごいし、スーツの男めっちゃいるしで、マジびっくりしちゃうよね」
1か月ほど前にいつものこの喫茶店で相席してからというもの、ほぼ毎日彼はここにやってきて話すようになった。軽い話し方が玉に瑕だが、よどみない彼の話し方には不思議と隔たりを感じず、かと言って自分の庭を荒らされるような気分になることもなかった。これほどに距離感の掴み方がうまい人は初めてで、人付き合いの苦手な私でも難なく話すことができた。
「今日はなに読んでるの?この前の蜜柑だかいうやつ?」
「『檸檬』ね。もう読み終わった。」
「あ、そうそれ!で、今度のはなに?」
「井伏鱒二の『山椒魚』」
「うわ~、また難しいの読んでるね~。」
本は好きだ。『山椒魚』だって10回は読んだ。本は知らない世界を旅させてくれるし、知っている世界に新しい視点だって与えてくれる。また、様々な本を読み漁っているうちに良著と出会うのも格別だ。最後のページを読み終え、ぱたりと本を閉じたときの寂寞も嫌いではない。書は歓びにも満ちているし、哀しみも内包している。
「良子ちゃんもさ、いやその静かなのが良子ちゃんの長所なんだけれどね、そのこういう世の中だし、コミュ力、貰っちゃえば?ケッコー便利だよ?」
コミュニケーション障害の増加に歯止めが効かなくなったアメリカでは、その対策が急務とされ、遂にカートリッジ式のコミュニケーション能力が開発された。通称「コミュ力」である。当初こそ非常に高価でセレブしか買えなかったが、その絶大な効果から普及が進み、今では駅前でカートリッジが無料で配られるまでになった。売り上げ目標に悩む営業職、老人会にくたびれたお婆さん、学校で浮きたくない多感な女子高生など、老若男女ひろい人気を誇っている。
「私はいいの」
良子はコミュ力にあまり良い印象を持っていなかった。コミュ力の使用、特に無料配布のコミュ力はその人らしさを奪ってしまうと感じていた。臨床心理学、とりわけフロイト派の言う「連続性の消失」という事ではない。コミュ力によって生じてしまう副作用ともいうべき事象に、他人よりも強く不自然を感じていた。
「残念だな~、良子ちゃん話すようになればもっと魅力的になれるのに。もったいない。」
ふと視線を上げて、壁掛けの振り子時計を見上げる。そろそろ始まる。今日は何が飛び出すだろうと身構える。彼はおもむろに口を開けたかと思うと、すーっと息を吸い、むずがゆいような顰めたような顔をして一気に声を発した。
「スーパーやまだ。本日ポイント還元デー!肉、野菜、何でも安い!!生鮮食品ならスーパーやまだへGo!」
隣の猫女は頬杖をついた。
「他社乗り換えサービス実施中。乗り換えで月額1,980円DOWN!」
マスターはワーネッキに水をやっている。
「歴史喫茶けののぷ♡あなたも癒やされませんか?」
意外だな、と思う。物静かなマスターはいつもコミュ力を使っていないと思っていたからだ。無論、現代人なら使っていても不思議はないが、マスターがメイドカフェの無料カートリッジとはとても意外だ。
窓の外を見る。道行く人々のほとんどがコミュ力を使い、何気ない日常をやり過ごしていくのだろう。
「もったいない」
ふと声が漏れた。
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