未練
千里温男
第1話
中学生になったお祝いに新しい自転車を買ってもらった。
7段変速のスポーツ車だ。
うれしくて、学校から帰ると、宿題も家の手伝いもしないで乗り回していた。
その日も、学校から帰るとすぐ自転車に飛びつくようにして乗った。
「宿題は?」という母さんの声を無視して走り出した。
首輪から抜け出た子犬のように、わけもなくあちこちを走り回って、薄暗くなった頃、やっと帰って来た。
母さんがプリプリしながら、爺ちゃんが呼んでいると言う。
爺ちゃんの部屋に行ってみると、爺ちゃんは明かりもつけないで難しい顔をして座椅子に座っている。
「まあ、座れ」と座布団を指差した。
たぶん、母さんにぼくに自転車を買ってやったことを責められたのだろう。
それで、少しお説教をしようと思ったのだろう。
いやだなと思ったけれど、自転車を買ってもらったので、さからわずに座った。
「わしが小学校に上がったらな、忍くんという小柄な男の子がいてな、すぐ仲良しになったんじゃ」
爺ちゃんも忍という名前なので、ぼくは同じ名前の者同士なかよしになったのだと思った。
「忍くんの家は金持ちでな、そのころ普通の家ではなかなか買えなかった子供用の自転車を持っていたんじゃ。忍くんは得意になって、隣の家に行くにも、その子供用の自転車を乗り回していたんじゃよ」
ぼくは、そろそろ来るな、と思ったけれど、黙って聞いていた。
「あれは大晦日のことじゃった。もう日が暮れかかっていてな、みんな家の中で正月の支度でもしていたんじゃろう、路を歩いている人はひとりもいなかったよ。忍くんが交差点の10メートルくらい手前まで来るとな、白と黒のパトカーが交差点を右から左にゆっくりと横切って行くのが見えたんじゃ。まだパトカーが珍しい頃でな、忍くんはよく見たくてパトカーを追いかけようとしたんじゃ。自転車のスピードを上げて、そのままのスピードで交差点を左に曲がろうとしたんじゃ」
爺ちゃんの話ぶりはまるで見ていたようだった。
薄暗がりの中で、もともと痩せて浅黒い顔が、左右から押しつぶされたようにいっそう細くみえた。
目が濁っているのに光っていて、左頬に泥がついているみたいに汚くみえた。
いつもの爺ちゃんではないような、なんだか薄気味悪い顔をしていた。
「アスファルト道路は一面に砂をまぶしたようになっていてな、自転車のタイヤがスリップして、ひとたまりもなく転んでしまったんじゃよ。スピードがついていたもんじゃから、そのまま向こうの車線に滑って行ったんじゃ。そこへ運悪く大型トラックが走って来たんじゃよ。忍くんは自転車もろとも吸い込まれるようにそのトラックの下に滑り込んでしまったんじゃ」
爺ちゃんはなぜそんなに詳しいのだろうと不思議だった。
その顔が自動車に轢かれたみたいにますます押しつぶされたように見える。
左頬の汚れがなんだかタイヤの跡のように見えてしかたない。
どうしたのだろう、どうしてこんな顔をしているのだろう、ほんとうに爺ちゃんだろうかと不審でならなかった。
「デフレンシャルギアボックスがいやに大きくみえてな、泥でも付いているのか汚らしくみえたよ。そこから、叩きのめしてやるというように、斜めにプロペラシャフトが突き出ていたよ。ポケットに入れておいた100円玉が逃げるように向こうへ転がって行ったよ。慌てて手を伸ばそうとしたんじゃが、それっきりになってしまったんじゃ」
一息ついてから、また爺ちゃんは続けた。
「目撃者がいなかったんでな、いろいろな噂があったよ。トラックの運転手は腕がよかったので、ほんとうは前輪ではねたのに、うまくハンドルを切り替えて、後輪で轢いたように見せかけてしまったのだという人もいたんじゃ」
ぼくは不審に思った。
「目撃者がいなかったのに、どうしてパトカーのことを知っているの、どうしてデフレンシャルギアボックスが汚れていたことを知っているの、どうして100円玉のことまで知っているの?」
爺ちゃんは、えっ、というようにぼくを見た。
「それに爺ちゃんも忍という名前で小柄だよね」
爺ちゃんは他人の言うことなどまるで聞かない頑固でひとりよがりな人だけれど、それでも、孫のぼくの言うことは少しは聞く耳をもっているようだった。
ほくは余計なことを言ってしまったのかも知れない。
爺ちゃんはうすうす感づいていたのだと思う。
それが今はっきりとわかってしまったのだ。
「おお、そうじゃったか、そうじゃったのか」と、溜息のような声が漏れた。
そして、
「わしはいい、わしは仕方ない。じゃが、お前は、お前は…」
悲しそうな声を残して、爺ちゃんはゆらゆら揺れながら骨に変わっていった。
爺ちゃんはきっとあの時に死んでしまったのに違いない。
でも気がつかずに、きょうまで生きてきてしまったのだ。
結婚して、子供が生まれて、孫のぼくも生まれて…
座椅子に座っていた骸骨が次第に崩れていく。
いや、爺ちゃんだけではない、ぼくも、ぼく自身も実態がどんどん希薄になって行く。
消えてしまう前に、もう一度あの自転車に乗りたくて、ぼくは自転車のある所へ向かって走る。
(おわり)
未練 千里温男 @itsme
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