第3話 野分
「寅組第三班ジョウメイ。酉組第三班コウザエの息子。そなたへの罰を言い渡す」
平伏していたジョウメイは厳粛な声に身を固くした。罪状を読み上げる声は淡々としていたが、聞いているうちに道を踏み外したのだと責める声が内側からわき上がった。険しい顔をした知らない大人たちに囲まれていることもあってひどく疲れていた。
スズシと別れて村へ戻ったジョウメイはすぐさま大人たちの手によって捕まり、評定所へ連行された。ここへ入るようなことがあったら人生終わりだな、と普段冗談を言わないジケイが珍しく笑いながら言っていた小さな平屋である。
「寅組第三班ジョウメイ。酉組第三班コウザエの息子。そなたへの罰を言い渡す」
返事をしなかったことが気に入らなかったのか、同じ言葉に苛立ちが含まれていた。短い返事をすると、評定を取り仕切る男の声は和らいだ。
「右の者、狩りの命が下っているにもかかわらず、その役目を放棄し一晩行方をくらませた。そのため狩りが滞り、またユイヌシの権威をも傷つけた。その所行は許しがたきもの故、百敲きの上、一五日間の戸締めが相当と判ずるものである」
ジョウメイは息を呑んだ。かつて盗みの廉で三十敲きに処せられた男の体を見たことがある。鞭の形が紫色になって浮かび、それが背中全体を覆っていたのだ。彼はしばらく立てなかったため、最後はむち打ちを下した者の手で運び出されていたが、百回ともなればどうなってしまうのか。
恐怖に打ち震えていると、しかしながら、と男は言葉を継いだ。
「逃亡中の一晩で、右の者は魔法において非常に貴重なオソコ石を持ち帰った。この功績を考えないわけにはいかないというのが評定の結論であり、減刑を以てそれに応えるものである」
ジョウメイは思わず顔を上げ、動くな、と叱責された。
「改めて罰を言い渡す。オソコ石を持ち帰った功績、帰村後の反省した態度、十三歳という年齢を含め、敲きは免除、戸締め五日のみという罰が相当と判ずるものである。異存はないか」
ジョウメイはいっそう頭を深く下げ、ございません、と返事をした。
「ならば今すぐ戸締めを行う。今後は二度と、このようなことはせぬように。以上で評定を終了する」
男の言葉によってジョウメイは二人の男に両脇を固められて立たされ、牢へ連行された。
戸締めは出入り口に釘を打ち付けて閉じ込める罰だ。部屋の中には便器があって、閉じ込められる前にその使い方を教えられた。
食事は閉じられる戸に備え付けられた小窓から差し入れられる。本来なら誰にも会えないが、年齢を考慮してのことか一日につき三人まで、小窓を通しての面会が許された。
一方的な話の後、ジョウメイは部屋へ転がされた。暗い部屋には便器の他明かり取りの窓しかない。五日間でも長すぎると感じるほどであった。
初日の夜にはコウザエが訪ねてきた。父は役目を放棄したことを叱責したものの、できるだけ体を動かして気を紛らわした方が楽だと言い残して去った。
翌日の昼にはオドヤが面会に現れた。彼はやっちまったなあ、とやけに明るい声を出す。彼と話していると状況があまり深刻ではないように思えてくるのが不思議だった。
「まあしばらく我慢しておけよ。どうせ二日の辛抱だ」
「違うよ、五日間だから」
「いや、二日だ。二日経ったら、お前の心がけ次第でここを出られる」
言い間違いを認めたがらないわけではないようで、ジョウメイは追及した。
「お前、錬金術をやってみる気はねえか」
オドヤは声を潜めた。彼が危険な方向へ引き込もうとしているのがわかった。
「でもそれって、王族を敵に回すことになるんじゃ」
ジョウメイも小さな声で応じる。
「それが違うんだよ。それよりどうなんだ。この腐った国を変えてみたくないか」
ジンタの死は確かに今でも納得できない。魔法に殺されたという思いもある。だからといって一二〇〇年の歴史に反旗を翻すことには承服しかねた。
外で待っていた牢番が、時間がかかりすぎていると注意をしてきた。オドヤは適当な返事をして小窓から離れた。
「お前ならわかってくれるって信じてるぞ」
いつもの冗談っぽさとは違う真剣な声だった。本気で政治に挑むかのような言葉が耳に残った。
その真偽をジョウメイは二日後の夜に知る。眠ろうと思っていたら突然の爆発音と共に怒号が飛び込んできた。明かり取りの窓から炎の色が差し込んでくる。
「ジョウメイ、壁から離れてろ!」
オドヤの叫びに圧されて言われた通りにする。直後、壁が吹っ飛ばされて穴が空いた。
炎の色を背にしてオドヤが立っている。槍やナガサを持つ見慣れた佇まいではない。長い銃身を持つ銃で武装し、胴乱も下げている。カモス狩りにしてはあまりに重武装だ。
「ジョウメイ、行くぞ!」
何が起きているのかわからず、どういうことなんだと訊くのがやっとだった。
「ウンベニへ一緒に行くんだ。オソコ石を持っていけば、あそこなら俺たちを受け入れてくれる!」
ウンベニはヒムカシの西端にある領で、王族領ではないものの勢力は大きく、セキナンカと対立することが多いと聞く。
そこへ行って何をするのか。その答えは、オドヤが背負う炎や爆発が語っている。
「オドヤ、まさかウンベニが攻めてきたのか。お前はセキナンカ領を裏切るのか」
「少し違う。錬金術がミギョウ系魔法を駆逐するんだ。ユイヌシじゃなくちゃ使えないような魔法じゃない。俺たちは俺たちの望みを叶えるために魔法が使えるようにするんだ。お前はオソコ石を持ってきた。それだけで充分信用に足る。お前にも錬金術を使う資格があるんだ」
「だからって、こんなことを」
ジョウメイにも状況が理解できた。オドヤはセキナンカと対立するウンベニへ降ろうとし、その手土産にジョウメイが手に入れたオソコ石を奪い取るつもりなのだ。
「いくら何でも、こんなことしたら」
「今変えなくちゃ、ジンタみたいなのが何人も出るんだぞ!」
オドヤの剣幕にジョウメイは絶句した。
「王族やユイヌシの都合に振り回されて、死んだって誰も顧みない。そんなのおかしいって思ったから、あの時逃げたんだろうが。錬金術なら俺たち一人一人が人間として扱ってくれる。全体の一つじゃない、一人の人間になれるんだ!」
悠久の年月が作り出した魔法の枠組みが、人の思いを抑え込んできた。ジンタやスズシを思うと痛いほどわかることだ。そうではない世界もある。オドヤがそう教えてくれる。取りかけた彼の手だったが、魔法の枠組みに置き去りにせざるを得ないものが多すぎる。
「ジケイは、皆はどうするんだ」
「あいつらはわかってくれない。もうこれまでだ。早くしろ、追っ手が」
オドヤの言葉を遮るように怒号が迫ってきた。そして呪文を紡ぐ声と乾いた音が連続して響く。痛みに満ちた悲鳴、獣が弓矢で射殺されるのとは違う、もっとたくさんの思いがはじけ飛ぶ断末魔だ。
角から現れた一人現れる。その男の銃口とジョウメイは向き合う格好になる。
その瞬間、ジョウメイは牢へ突き飛ばされた。次の瞬間、空気が重く震える音を聞いた。
視線を上げた瞬間、オドヤが呪文を紡ぐ声と乾いた音をほとんど同時に聞いた。
遠くで悲鳴が聞こえたのと重なるように、オドヤの目が見開かれた。
ジンタの時と同じように、彼の腹から赤いものが吹き出した。
音は重なる。呪文が聞こえる。そのたびにオドヤはのけぞり、やがて倒れる。
そしてジンタの時と同じように、掠れた声が聞こえ出す。
「俺は……錬金……術……で、もっと……人……らしく……」
何かを求めるようにオドヤは虚空へ手を伸ばしたが、やがて力尽きた。
オドヤの名をおそるおそる呼ぶ。返事はない。
そのうちに銃弾が飛んできた方から男たちが走り込んできて、オドヤを踏みつけ、蹴飛ばしていく。ジョウメイはその様をへたり込んで見ていた。
事の次第を知ったのは、五日間の戸締めが終わった後だった。オドヤとの関係を疑われたのか、面会も一日一回に制限されたが、五日が過ぎると何事もなく解放された。
迎えに来たのはジケイだった。憔悴した様子の彼だったが、眼差しだけが異様に鋭い。
「久しぶりだな」
ひどく他人行儀に聞こえる挨拶で、ジョウメイは返す言葉もなく頷いた。
「オドヤのことだが」
ジケイの低い声に宿る気持ちが読み取れない。怒りが強く表れながら、その奥には悲しみをはじめいくつもの感情が渦巻いていた。オドヤへの思いがわからない。
「あいつはウンベニへ逃げようとしていた」
「何で」
死に際まで錬金術のことを口にしていた男が、現在の体制に大きな不満を持っていたことはわかる。だからと言ってウンベニへ、味方と殺し合ってまで逃げようとした理由にはつながらない。
「知るか」
しかしジケイは切り捨ててしまった。もう口の端にも載せたくないと言うような、強い嫌悪感がにじむ。
「でも、オドヤにだって考えがあったはずだよ」
オドヤは哀れな死に様を晒すまでは確かに仲間であった。道を誤ったのもジンタの死を怒り、悲しんだからこそではないか。それをただ一度の過ちで無に帰すことはできない。
ジケイは足を止めた。そしてジョウメイを睨みつけた。
「考えだと。オドヤやお前に、どんな考えがあったって言うんだ」
これ以上ないほど険しい目つきと、怒鳴り散らしたいのを辛うじて我慢しているのが見える押し殺した声に、ジョウメイは頭から足までの一切が凍りつくのを感じた。
「お前が身勝手な理由で役目から逃げたことで、俺がどんな目に遭ったかわかってるのか。それだけでも辛いのに、オドヤはよりにもよってウンベニと密通していたんだ。仲間に裏切られた俺の気持ちが、お前にわかるのか。答えてみろ、ジョウメイ!」
ジケイの声は徐々に熱が高まっていき、最後にはジョウメイの胸ぐらを掴んで激しく揺さぶりながら怒声を上げていた。為すがままのジョウメイは立ち尽くす。言い募るジケイの声音はやがて涙声になっていった。
「ジンタも、オドヤも守ってやれなかった……! たとえあいつが科人になったとしても、命だけは助けてやらなきゃならなかったのに……!」
やがて立ち尽くしたまましゃくり上げるようになった彼にかける言葉さえ、ジョウメイには見つけられなかった。
オドヤの死から数日後、ダクワンから命が下り、寅組第三班は解体された。一人の死者と二人の科人の存在は大きく、班は事実上の機能不全に陥ったと見なされたのだろう。ジョウメイとジケイもそれぞれ別の班へ組み込まれた。
そこで歓迎を受けることはない。もともとカモス狩りは四人一組で行うのが適当とされている。受け入れ先は四人で最適な状態を保っている。そこに余計な一人が組み込まれれば、四人がいい顔をしないのは当然だ。
ジョウメイは狩りへの参加も許されず、毎日四人の帰りを待つだけであった。回される仕事はただ一つ、フムクリをホラクへ運ぶことだ。
今日の獲物はキヨンだった。一人で持ち運べる量ではなかったが、四人は手伝うことなく帰ってしまった。仕方なく何度かに分けて往復するしかなかった。
「フムクリをここまで運ぶなんて、一人じゃ無理よ」
スズシは哀れむ顔で出迎えた。一度運んだだけで足が震えるほど疲れたが、誰かに助けてもらったらという勧めは拒んだ。
「ジケイに比べたら、これぐらいたいしたことじゃない」
科人を二人出し、班員一人を死なせた責任がついて回るジケイを思えば、体が疲れるぐらいたいしたことではない。ジケイの苦しみは、体を休めただけで消えるようなものではないのだ。
ジョウメイは村とホラクを五回往復した。フムクリを全て運び終える頃には日が沈みかけていた。涼しさが増す時期であったが、重労働を終えたばかりでは暑かった。
「ご苦労様」
最後のフムクリを届けると、スズシはぎこちなく微笑んで労ってくれた。
「でも、こんなこと長く続くわけないよ」
そしてすぐに気遣わしげな顔になった。スズシに言われるまでもないことだが、家族にも心配と迷惑をかけている以上、弱音を吐くわけにはいかなかった。
「大丈夫、大丈夫だよ」
何がどう大丈夫なのか言い表せないのがもどかしかった。
「ジョウメイか」
スズシの後ろから顔を出したのはトマラであった。初めて会った時は爽やかだった彼が、今日は沈痛な面持ちである。
「オドヤが死んだというのは本当なのか」
思いがけないことを訊かれて返事を忘れたジョウメイは、どうなんだ、という声を重ねられてやっと頷いた。
「ウンベニへ降ろうとしていたというのも本当なんだな」
「そうみたいです」
「いつかはこうなるような気もしたが」
こぼれ落ちた言葉を拾い、オドヤの気持ちがわかるんですか、と訊いた。
「オドヤが何を考えていたのか、気になってるんです。俺をウンベニへ連れていこうとしていましたけど、俺は行きませんでした」
「そうか。いや、それで良かったと思う。駆け落ちでさえうまくいかないんだ。王族領から氏族領へ、それもウンベニへ降ろうなど、うまくいくはずはない」
自分とオドヤを重ねて語っているのだとわかった。ジケイから聞いた話しか知らないが、駆け落ちに失敗してホラクで暮らしている男というのがトマラだろう。
「それなのにどうして、オドヤは」
「気になるのか」
「ジケイは怒ったけど、悲しんでました。俺もオドヤが何を考えていたのか知りたい」
トマラは思案顔を見せた後、口を開いた。
「いくつか手がかりを知っている。オドヤの気持ちを知る助けになるやもしれない。君が望むなら話してやっても良い」
「お願いします」
一にも二にもなく、ジョウメイは言った。
「今夜家を抜けてこられるか」
一瞬見つかった時のことが頭をよぎる。今回は幸運のおかげで軽い罰で済んだが、二度目はきっと容赦がない。
それでもオドヤの背景を知りたい気持ちの方が勝った。ジョウメイは家を抜け出して森へ向かう街道で落ち合うことを約束して村へ戻った。
夕餉の時、家族の会話はどこか重苦しかった。ジョウメイの罪でコウザエは立場を危うくされ、母や弟妹も肩身の狭い思いをしていると聞いているが、誰もジョウメイを責めない。その温かさが、再び家族を裏切ろうとしているジョウメイの胸を衝く。トマラとの約束を反故にしようとも考えたが、オドヤの真意を知りたい気持ちが勝った。
連日のフムクリ運びで疲れが溜まっているのを押して、月が高くなった夜中に家を抜け出し、示し合わせた通りの場所でトマラと落ち合う。彼は森の奥へ案内する。程なくして視界が開け、湧き水で発生した池のほとりにたどり着く。そこは夏、スズシと出会った場所であった。
「これから話すことは、聞かれるだけで王族への反抗となりかねないからね」
わざわざ森の奥までやってきた理由を、トマラはそのように説明した。
「オドヤは生まれでその後の生き方が決まってしまうことを不満に思っていた。それで錬金術を支持していたんだ」
「何ですか、それは」
いきなりわからない言葉が出てきたので尋ねる。ジケイやコウザエの口からもう一つの魔法として聞いた言葉だが、そもそも魔法に種類があるなど、今でも考えが及ばない。
「そうだな。それを話すなら、まずミギョウ系魔法とアルケミー系魔法のことを知らなければならない」
トマラが語る世界は、ミギョウ系魔法とアルケミー系魔法に分かれているというものだった。ヒムカシには多数の豪族が覇権を争って戦を繰り返した混沌とした時代があり、アメヒ王族もかつてはその一つに過ぎなかった。現在の都であるシオウが勢力の中心だったアメヒ王族は、その祖となる黒菊王の時代に、隣国のシーと朝貢関係を結ぶ見返りに魔法を学んだ。この魔法の力によって、アメヒ王族は他の豪族を圧倒し、ヒムカシの平定を成し遂げた。以来一二〇〇年間、月の満ち欠けを元にした暦の下で時を刻み続けている。
「ミギョウ系とアルケミー系にはそれぞれ別の特徴がある。ミギョウ系はユイヌシのように位の高い人間にのみ実際の使用が許されていて、君のようにカモス狩りをする者など役割分担が明確だ。そしてその分限から外れることは決して許されない」
ジョウメイにとってもわかりやすい話であった。家の中でも、魔法の使用が許されている父が帰ってこない限り雑炊を炊きあげることは叶わなかったし、どんなに無理に思えても下された役目には絶対従わなければならない。それをトマラは集団主義的というよくわからない言葉で表現した。
「ミギョウ系魔法は自然を動かす魔法だ。我々は魔法を使う前から農業のように野山の恵みで暮らす日々を送ってきたから、《春耕技》で土を耕したり《水落技》《水上技》で水を操ったりすることが必要だった。ミギョウ系魔法はそのように大規模な効果をもたらすのが特徴なのだ」
「アルケミー系というのは違うんですか」
「アルケミー系に土を耕したり水を上げたり下げたりという力はない。もっと小さな、たとえば囲炉裏に火を灯すとか、ナガサに使う鋼を作るとか、それぐらいの狭い中でしか効果が出せない」
トマラが言うには、アルケミー系は個人主義の魔法だと言う。多くの人間の協力が必要不可欠なミギョウ系に対し、アルケミー系は最低でも一人いれば魔法が発動できてしまう。《水上技》では地下を流れる水を全て吸い上げることさえできてしまうミギョウ系魔法に対し、アルケミー系魔法は個人の手が届く範囲に効果を及ぼすのがせいぜいだと言う。
「しかし工夫次第でその効果範囲は広げることができる。何より一番の特徴は、魔法の発動方法が簡単だから、君のような特に名門というわけでもない家の子供でも魔法の主体者、つまりユイヌシと同じ立場になることができる」
ジョウメイは一瞬言葉を失った。ユイヌシと同じになることができる。大規模な準備の後に呪文を唱えて発動させる魔法を、自分にも使えるということだ。
「まさか」
ジョウメイは思わず笑った。魅力的に思えたが、有り得ない。
「エボロスでは実際、君ぐらいの歳の子が魔法を使っているそうだ。そもそも何故ユイヌシの地位が高いと思う」
「それは、家柄じゃないですか」
「それもあるが、長い呪文を完璧に暗唱することができるからだ。ユイヌシも苦労知らずというわけじゃないよ」
「とても俺には、あんな長い呪文は覚えられません」
「覚える必要はない。アルケミー系で子供が魔法を使えるのは、簡単な動作で発動させられるからだ」
そう言って不意に、トマラは指を鳴らした。一瞬森が静まりかえり、再び騒ぎ出す。
「アルケミー系魔法を発動させるための道具に、フォスの石というものがある。それを中指に何らかの形で仕込んでおけば、今ので火を発することができる。呪文は必要ない」
「どんな準備が必要なんですか」
「準備と言えば、その石を身に着けることぐらいだが、ミギョウ系ほど大規模だったり、許しが必要だったりということはない。一人でできることだ」
トマラはいくつかの例を挙げて話した。ジョウメイが知る魔法は、見渡す限りの平原を揺るがしたり高い山から水を湧き出させたりして、人に恵みを与えるものだ。この時魔法の行使者である〈ユイヌシ〉は、あくまで自然に力を使ってもらうように頼むのだ。ミギョウ系魔法は、自然の力を人間がうまく利用するものと考えられている。
そのためには多くの準備や人手が必要となる。カモス狩りもその一つだ。人が多く関わる分、厳しい統制が必要となる。魔法の行使者であるユイヌシの権威が強く、狩人らの身分を低くして、その下に〈エヒト〉を置いているのは、秩序を作るためだとトマラは締めくくった。
オドヤが憧れた魔法は違うらしい。誰もが好きなように魔法を使うことができ、高位の家柄でもない人物が新しい魔法を作ったり、その人物が栄転したりということが普通にあるという。
アルケミー系魔法も自然の力を利用する。しかしアルケミー系魔法では、自然の力を機械などの人工物の中に封じて人間が管理下に置く。そうすることで効果や範囲はごく小規模になるが、人間一人でも簡単に制御することができるようになる。
その手軽さが家柄や身分にとらわれない、活発な新陳代謝を生んだ。アルケミー系魔法が使われる国では、実力や才能を示せばたとえ貧民街の出身でも私塾を開くことができ、人も集まるという。
「しかし、これが広まることをアメヒ王族は怖れた。〈エヒト〉にも才能を示す者が現れるかもしれない。ユイヌシを頂点にしたミギョウ系魔法の構造が壊れることを怖れたんだ。だから初めてアルケミー系魔法を錬金術として紹介した錬金社は潰された」
アルケミー系魔法は、ヒムカシでは錬金術と呼ばれている。初めて伝来したのは、先代である一二〇代目赤藤王の治世下、赤藤ノ年七年であったとされる。今から数えて十二年前のことだ。
この年、港町であるソウビに、アルケミー系魔法を採用する国の一つであるエリフロルム王国が通商条約の締結を求めてやってきた。その時の乗組員がソウビの住民たちに魔法を伝え、興味を抱いた人々が錬金社という組織を作った。彼らは錬金術がアメヒ王族の権力基盤を揺るがすものであることを知りながら研究を続け、全国に潜伏していたが、その活動はやがて露見し、関係者の多くは死罪に処せられたという。赤藤ノ年十五年に起きた、錬金社の獄という事件である。
「四年前の出来事だ。ソウビにあった錬金社の本部は潰されたが、その時には支持者が全国にいた。その一人がオドヤと知り合って、あいつに錬金術を教えたのかもしれないな」
錬金術との出会いがオドヤの死の伏線になったのだろう。たった一つの物事でオドヤの人生が大きく縮んでしまったと思うと、やりきれない思いに胸が塞がれた。
「セキナンカの中にだけいるとわからないだろうが、国の外ではミギョウ系魔法とアルケミー系魔法の争いが起きている。今から七年前には、シーとエボロスの間で戦があった。取りも直さずミギョウ系魔法とアルケミー系魔法の戦でもあったんだが、結果はアルケミー系魔法の勝利だった。敗れたシーはエボロスに多くの領土を奪われる結果になったし、それを見て明日は我が身と危機感を抱いたヒムカシの錬金術支持者も多いはずだ。オドヤが行こうとしたウンベニは、その急先鋒だったわけだ」
「ウンベニとセキナンカは戦をするんですか」
普段使うことを許されない銃を持ち出してまで脱走しようとしたオドヤたちが繰り広げた銃撃戦が、もっと大規模に行われると思うと怖くなる。オドヤはその果てに哀れな死に様を晒したし、今でも科人扱いを受けている。
ジョウメイを見遣ったトマラは、そうだと思う、と冷静な面差しで言った。
「でもそれは、もっと大きな戦になる。錬金社の遺志を継ぐ、錬金術を支持するいくつかの領がアメヒ王族を倒すような反乱になるはずだ」
反乱が起き、それが終わった後の世界を思い描くことはできなかった。アメヒ王族が倒れ、自分たちがユイヌシのような立場になることなど想像もつかないし、戦となった時何をしたらいいのかもわからない。
数々の疑問を、トマラが答えてくれるわけではない。彼は月を見て立ち上がった。月の傾きで時間を見たらしい。すっかり話し込んでしまったな、とぼやくように言った。
トマラに言われるまま森を出る。音の質が変わり、ざわつく感じも薄らいだ。
「スズシが心配するといけないな」
独りごちたトマラに、ジョウメイは思い切って訊いた。
「トマラさんとスズシは、どういう知り合いなんですか」
友人というには歳が離れすぎているが、それ以外の関係が想像できなかった。
「ああ、義理の兄妹だよ」
トマラの答えはよくわからないものだった。その言葉を訊き返す。
「俺が駆け落ちに失敗した話は知っているだろう。その相手はスズシの姉だったんだ。つまり俺は、スズシの姉を死に追いやった男ということになる」
事も無げに暗い過去を語ったトマラだが、ジョウメイは違和感を覚えた。
「そんなふうには見えませんでした」
スズシと森の奥で会った時、彼女は最初にトマラの名を出した。あれは彼を頼りにしていたからこそではなかったか。
トマラは少し顔を伏せ、自嘲気味の笑みを見せた。
「俺はスズシに憎まれても仕方ないと思っているが、あの子はそうしなかった。それどころか感謝しているそうだ。失敗したとはいえ、姉を好きなように生かしてくれたことが嬉しいと言ってくれたよ」
トマラさんや姉さんのようになれたらいいのに。属さなければならない場所から逃げ出したものの、結局帰ることを考えてしまう自分たちを指して、スズシが言った言葉である。道ならぬ恋と言うのだろうか、それに殉じたスズシの姉と、失敗しながらも前向きに明るく生きているトマラ。思いを貫けなかった自分たちからは、確かにまぶしく見えた。
家に戻り、こっそり夜具に潜り込んだジョウメイは、朝を迎えるまで眠らずにいた。朝餉の前にシイゴと会うと眠そうにしていることを気遣われた。何となく眠れなかっただけという答えを追及することはなく、母はまな板に向き直った。
父も、弟妹も気にする様子はなく、いつもの朝餉が始まった。家族を再び騙してしまった気持ちを罪悪に感じたものの、何か大事なことを知ることができた気がした夜であった。
去年は目標数のクンツエが集められず、冬の猛威に手を焼かされたセキナンカ領だったが、今年は必要なカモスを滞りなく集めることができた。そのおかげで降雪量も抑えられ、道を行く時も去年より歩きやすく感じた。
年が明けて間もなく、ジョウメイは一人で村の共同墓地を訪れた。父がかつて使っていたという蓑と笠を着けて踏み入れた時、昨日降った雪で墓碑は雪化粧していた。雪がちらつく中を歩くと、目的の墓碑の前には人の姿があった。
その人物に呼びかけると、相手は屈託のない笑顔を見せた。
「一人か」
トマラに他意はないのだろうが、いるべき人がいないことを心配されたようで少し胸が痛んだ。
「ジケイはどうしても誘いにくくて」
そうだろうな、と言うような顔でトマラは笑った。
「ジンタの墓参りに来てくれたんですか」
今日はジンタの命日であった。本当ならジケイやジンタの家族と一緒に来た方がジンタも喜ぶだろうが、今の立場を考えると他人は誘いにくかった。
「ジンタとは直接会ったことがないのだがね。ジケイやオドヤと共に生きたのなら、冥福を祈る理由があるだろう」
「でも良いんですか。こんな堂々と外に出てきて」
ジンタの墓碑の前で、神妙な面持ちで手を合わせるトマラに訊いた。見張りがいるはずのホラクから白昼堂々抜け出してきただけでも驚きだったが、トマラの態度には落ち着きがある。誰かに見つかったらどうしようなどと、まるで考えていないようだった。
「良くはないが、どうしても二人を弔ってやりたくてね」
言いながらトマラは、ジンタの隣の墓碑の前に跪いた。
その墓碑は自然の石を無造作に積み上げただけの無味乾燥なものだった。墓というより骨の在処を示しているだけに見える。
「オドヤも弔ってくれるんですか」
「ジケイと共に、俺が狩りを教えた男だからな」
こんなことになって残念だが、とつけ加えてトマラは手を合わせた。
「ジケイは真面目で、その場にあるものを何とか守ろうとする男だったが、オドヤは自分の力を信じていたんだろう。少しでも良いものを求めていく男だったよ」
懐かしむように、トマラはジケイやオドヤが狩りを始めたばかりの頃を語り出した。当時とジョウメイが知る二人はあまり違わないようで、その性格の違い故に対立も多かったという。それでも狩りになればお互いの短所を補い合い、いつしか頼れる二人に成長していった。
「オドヤは夢を見て、その力で前へ進む男だった。ジケイは夢を見ない代わりに決して引かない男だった。ずっと二人が力を合わせていければ、これからこの国を襲うはずの強風も、皆を導きながら乗り切れると思っていた」
トマラは訥々と語り、オドヤの墓碑の前にしゃがみ込んだ。
手を合わせ、瞑目する。ジョウメイもそれに倣おうとした時、人の気配を感じた。
「ジケイ……」
オドヤの死後、別れ別れになっていた男との再会であったが、どんな顔をしてやればいいかわからず立ち尽くした。
ジケイは返事をせずにジンタの墓碑へ歩み寄る。花を供えて手を合わせる。そこまで全く声を出さなかった。
「オドヤには何もしないのか」
トマラを視界に入れないような動きで立ち去ろうとしたジケイを呼び止める。彼は肩越しに振り向き、すぐに前を向いた。
「オドヤは裏切り者だ。冥福を祈ってやる価値はない」
「ジケイ……」
失望感が胸に広がった。オドヤのしたことは大きな罪であっただろうが、 撃ち殺されたことは充分すぎる罰ではなかったか。許してやれるのは、陽気で人を引きつける魅力のあったオドヤを知る、自分たちだけであろう。
トマラも悲しげな眼差しでジケイを見ていたが、それ以上は何も言わない。頑ななジケイの心を解きほぐす言葉を持ち合わせないのが歯がゆかった。
「ジョウメイ、俺たちはヒムカシに生きている。アメヒ王族が形作った秩序の中で今まで生きてきて、これから先もずっと生きていく。それが一番良いんだ。オドヤや錬金社のような連中は、俺たちの暮らしに必要ない」
「そうかもしれない。この国は一二〇〇年間同じ魔法を使い続けて生きてきた。問題を感じたところで、今更変えるよりこのままずっと進んだ方がまだ良い」
トマラが今の時代を認めるようなことを言うのが少し意外だった。身分差のないアルケミー系魔法が根底にある国であれば、トマラとスズシの姉が結ばれるのに何の障害もなかっただろう。昔のことにはまるで未練がないようだった。
「俺もあまり変化は望まない。だが、変化は止められない。お前がどれほど喚いても聞く者は少ない」
静かな、しかし痛烈な言葉であった。ジケイは振り返り、トマラを挑むように睨んだ。
「ミギョウ系魔法が滅んでいくのは世界的な流れだ。このヒムカシも例外ではない。良いことかどうかはともかく、これからはアルケミー系魔法が世界を席巻するんだ」
「世迷い言を言うな。そんなことになったら、アメヒ王族が、この国が滅びるんだ」
ジケイの言う未来は恐るべきものであったが、見つめ返すトマラはそうなっても構わないとでも言うように静かな表情だった。
二人の間に言葉が絶える。それぞれ対照的な表情で視線を交わす。
やがてジケイは踵を返して立ち去った。追いかけようと踏み出したジョウメイだが、呼びかける言葉を持たないことに気づいて踏みとどまる。
「追わないのか。せっかく会えたんだろう」
何度かあった喧嘩の後も、互いの仕事ぶりや体調への気遣いを思い出していくうちに、いつの間にかわだかまりをなくしていったものだが、そのための言葉が今回は出てこない。
「ジケイの言葉と、トマラさんやオドヤの言葉、どっちが正しいのかわからないです」
先祖たちが守ってきた歴史や暮らしを語り継ぐことが、安らかな日々には必要なのだろう。ジケイをはじめ、誰もがそれに命を燃やす。
その一方で、戦においてミギョウ系魔法がアルケミー系魔法に負けたという事実もある。ジケイはその現実から目を逸らしているようにも思えた。
「その答えを下すのは誰でもないよ。ただ、俺はアメヒ王族が倒れる日が遠からずやって来ると思っている。その時何が起きるか。オドヤが夢見たようなことばかりが起きるとは限らないがね」
トマラでさえ見えず、動かすことのできない未来の到来が堪らなく不安であった。災害の兆しとされるクンツエの逃亡を見た時とは違った種類の暗さを感じる。生きていく方法があるとすれば、矛盾を感じつつも変化に身を委ねていくしかなさそうだった。
セキナンカの冬から初春は雪や寒さとの付き合いであり、時には戦いとなる。《冬隣の鎮》によって守られているとは言え、雪への警戒を怠ることのできない日々が続いた。今年は割合穏やかだったが、冷え込みが長引くのは決して愉快ではない。村を行く時往来は無口な人が多かったが、辻に咲く椿に春の微かな気配を感じ取った。
狩りに出た寅組の少年たちを迎えると、ジョウメイは淡々とフムクリを取りまとめ、棒手振りがするように担いで運べるようにした。相変わらず一人で一時に運ぶのは不可能な量であったが、最近は狩人たちも露骨にのけ者にするようなことはしなくなって、心持ちの面では少しだけ働きやすくなった。
ホラクへフムクリを運び込むとスズシが出迎える。初めの頃は心配そうな顔を見せていた彼女も、最近は感情の乏しい表情に戻っている。その顔にもどことなく生気を感じるのは、彼女の人となりを少しずつ知っていったからであろう。無表情の奥にも、彼女なりの思いやつながりがあるのだった。
「よく続くね」
その日最後のフムクリを運び込んだ時、スズシは労いとも感心とも取れる声をかけた。
「何も変わらないから、仕方ないよ」
「嫌にならないの」
「そうは言っても、自業自得だから」
「難しい言葉を使うのね」
スズシはフムクリをのぞき込みながら笑みを浮かべる。いかにも子供が背伸びをしていると微笑ましく感じているような顔だった。そんな横顔をどうしてか見つめていたくなる。
スズシは小柄な背中を見せてフムクリ処理に取りかかった。ホラクへ運ばれる死骸は心臓をえぐり取られた以外にはほとんど傷がない。持ち運ぶのに苦労するのは、解体することを狩人が認められていないからだ。それは穢れに触れる仕事のため、〈エヒト〉でなければやってはならないことになっている。
その〈エヒト〉であるスズシは、小振りなノコギリを取り出してキヨンの脚に鋸歯を食い込ませていく。その安定した手つきはノコギリを一度もたわませることなく脚を切断した。同じ要領で四本の脚を切り離すと大振りのノコギリに持ち替える。それを首に当て、淡々と首を切り落とす。
肉と骨を断ちきる時の、それぞれに特徴のある音を聞いたのは初めてだった。フムクリを渡せば狩人はその場に留まる必要はないので、〈エヒト〉がどうやって死骸を解体しているのか知らないのだ。
スズシは後ろに狩人が立っていることなど気にも留めていないように粛々と仕事を進めていく。笑顔の先にある穢れに満ちた仕事へ向き合うスズシを、どうしても一人にしておけなかった。仕事に慣れた様子の彼女にすればお節介も良いところだろうが、背中を見守ることで何かの役に立てるような気がした。
「あたしにこんなに構って、何か言われないの?」
ばらばらになったフムクリを、袋に入れてひとまとめにしていたスズシが、背を向けたまま訊いてきた。
「何で」
「ここはホラクで、あたしたちは〈エヒト〉でしょ」
「生きてる場所が違うって言いたいのか」
「違うよ」
ふと手を止め、スズシは振り返った。思いの外必死な面持ちを見せる彼女は、わずかな言葉の行き違いを怖れているようだった。
「いや、身分は確かに違うし、住むところも別だし、違うことばかりだけど」
スズシは決まり悪さを感じたように口ごもる。魔法が形作る見えない壁に戸惑うのは彼女も同じであった。偶然に夜虹を一緒に眺めて同じ思い出を胸に秘め、トマラとも親しくなっていく中で、領分の違いから来る後ろめたさをジョウメイも忘れられない。
「俺は大丈夫だよ。のけ者にされてるのもあるんだけど」
自分自身の境遇を自嘲すると、スズシはうつむけた顔を上げた。
「似たもの同士ってこと?」
その言葉の真意が読めずに困惑したが、
「そうかもな。スズシと違って、自分が悪いんだけど」
「じゃあ、そのうち狩人に復帰したら、他の狩人みたいになるの?」
ふとジョウメイはオドヤのことを思い出した。良いものを着ていることを生意気だと陰口を叩いていて、悪びれる様子もなかった。狩人の間にあった、〈エヒト〉をのけ者にするのが普通のような風潮を、あの時初めて感じた。
自分はどうであったか。〈エヒト〉たちの暮らしを汚らしいと思ったことはある。そして自分の暮らしと比べた時に心が舞うような感じを覚えるのだ。
それが落ち着いたのは、魔法が定めた枠組みでもがいていることを知ったり、稀な現象を同じく眺めて感動したりしているうちに、同じ人間だと思えたからだ。
「ならないよ」
今は身分や分限を超えて、スズシを一人の人間として見ていられる。咎められることを怖れるより、言葉を交わせる喜びの方が勝っていた。
スズシは返事の代わりに見つめてきた。本当に、と問いかけるようであった。
期待の陰に一抹の不安も潜むような、ほの暗い眼差しであった。それは自分たちが生まれる遙か以前に、完璧を期して描き出されたヒムカシという巨大な絵図の片隅にこびりつく、隠しきれない黒ずみのようであった。
その黒ずみを残したのは、〈エヒト〉を蔑む気持ちを抱いたことのある全ての人間だろう。自分も例外ではない。容易には超えられない見えない壁を再び感じながら、ジョウメイはスズシの眼差しをまっすぐに受け止め、瞳を見つめ返した。
「じゃあ、良い」
たっぷり時間をかけてからスズシは答え、作業に戻った。フムクリに向き直る瞬間、彼女の眼差しからほの暗さが消えたのは見間違いではなかったのだと思いたかった。
作業に集中しはじめたスズシであったが、その名を呼ぶ声で手が止まる。
それは舌足らずで、何年か前のリンナを思い出させた。
「ここには来るなって言ったでしょ」
スズシはその声の主と、しゃがみ込んで視線を合わせた。言葉遣いは素っ気ないが表情が和らいで見えた。
「あのね、みんなご飯が食べたいって」
小さな女の子の言葉に、もう一つのスズシの顔が見て取れた。
「お姉ちゃんにはやることがあるから、来るまで皆で遊んでて」
女の子は釈然としない顔をしながらも、頷いて奥へ消えていった。
「妹がいたのか」
何気なく訊くと、振り向いたスズシは苦笑を見せた。
「本当の妹じゃないけど。親なしだとどうしても生きていくのが辛いから、似たもの同士で集まるものよ」
愉快な境遇ではないはずだが、スズシは自分から暮らしぶりを語り出した。姉と二人で生きていながら死に別れたことを話す時には声を落としたが、トマラや子供たちの存在は死別の悲しみを補って余りあるもののようだった。
「あたしがご飯を作って、トマラさんがお金を稼いできてね」
それぞれの役目を果たして支える暮らしに、スズシは幸福を感じているようだった。眼差しからはいつしかほの暗さが消えていた。
「それで皆がやっと暮らせてる」
語られた暮らしにゆとりは感じなかったが、声音や表情は終始明るかった。恵まれた境遇ではないにせよ日々を楽しんでいるようであり、そこに自分が深く関われないのが残念なほどであった。
ふとジョウメイは思い至った。逃げたいと言いながら結局帰った理由である。
「あの子たちがいたから逃げなかったのか」
スズシは虚を突かれたような顔を見せた。
そして眉根を寄せて伏し目になった。
「妹たちのせいみたいには言いたくないけど、皆と一緒が良かったから」
影の差した表情には孤独への怖れがあって、自分が親しむ人々と手を取り合う暮らしを楽しむ気持ちと表裏を為しているようだった。
「その皆の中に、さ」
ジョウメイは薄闇へ踏み出すような慎重さで言った。再びスズシと視線が交わされる。会話する時何気なく行われることが、今だけは特別な意味を持ったように胸を高鳴らせた。
「俺がいても良いか」
言葉を口にした瞬間は、ダクワンの男に平伏しながら声を上げた時より緊張した。
スズシの返事は、不意を突かれたような顔をした後、ややあってのことだった。
「そんなの」
見つめていたいと思った笑みを浮かべた。続く言葉に期待が膨らむ。
ふとスズシの視線が横へ流れる。ジョウメイも音を聞いてその方を向いた。
「フムクリ処理をしてもらいたい」
強ばった顔のジケイが、やはりフムクリを包んだ風呂敷を持って立っていた。淀んだ目つきにただならぬものを感じ、それ以上スズシと交わす言葉が出てこなかった。
スズシは少し慌てたような返事をして、ジケイから風呂敷を受け取った。彼は何度か来ることを告げて立ち去る。その間にスズシはジョウメイが運び込んだフムクリをどこかへ持っていった。その間にジケイが戻ってくる。彼は三往復で四体のフムクリを持ち込んだ。
「これで全部ですか」
ジケイは頷き、ジョウメイを一顧だにせず立ち去った。
「多いんだな」
手持ち無沙汰になってとりあえず思いついた言葉を口にした。
「いつものことよ。それより、もう帰ったら。用事も終わったんだし」
ジョウメイはぎこちなく頷きながら、ジケイを追うのが億劫で踏み出せなかった。追いついてしまったらどうすれば良いのかわからない。
不意に背後から両肩を押された。加減の利いた力であったが、自然に足が前に出た。
「ジケイさんの仲間なんでしょ。だったらうじうじしてないで。助け合うしかないんだから。あたしだってジケイさんの思い詰めた顔は見たくないもの」
邪険に扱われたスズシが、ジケイを気遣うのが意外だった。
「きっとあたしやトマラさんじゃ、ジケイさんは心を開いてくれない。あんたに何とかしてもらうしかないの。トマラさんだって同じ気持ちよ」
「どうして、ジケイのことを気にするんだ。関係ないじゃないか」
「そんなことない。ジケイさんが意地悪であたしに冷たくしてるんじゃないのはわかってる。原因が姉さんにあったんだとしたら、せめてあたしが何とかしてあげたい。でも、あたしじゃ無理みたいだからあんたに頼むの。ジケイさんが本当はあんたやトマラさんみたいに良い人だって、知ってるから」
ジケイの素顔を取り戻すことに心を砕く健気さが胸を衝いた。原因はあくまでスズシとは離れたところにあって、彼女はとばっちりを受けているに過ぎない。それを理不尽と思わないばかりか、ジケイの頑なな心を解きほぐそうとする優しさに応えてやりたくなった。
「ジケイがあんな冷たい奴じゃないって、俺だってわかってる。何とか目を覚まさせなくちゃいけないよな」
前向きな気持ちを口にすると、迷いが嘘のように落ち着いた。ジケイが心を閉ざしてしまった原因の一つは自分でもある。しかし彼の家族を除けば、寄り添ってやれるのもまた自分であった。狩りにおいて苦楽を共にした仲間は、もう自分しかいないのだ。
「何とかやってみるよ」
自信が持てないまま言ったが、スズシに肩を叩かれた。
「頑張って」
歩き出す時までスズシの顔は見なかった。けれど声音や体に触れた時の力で、彼女の心は感じ取れる。何か大事なものを託された気分だった。
「トマラさんも、ジケイさんも、あんたも、皆大事だから」
それはさっき問いかけたことへの答えであった。スズシを中心に身分や分限を超えて一緒に過ごせるならどんなに素敵だろうと夢を見るほど嬉しくなった。
早足でジケイを追いかけると追いつくのに時間はかからなかった。彼の背を追うことが懐かしく思えてくる。どこへ行って何をすれば良いのかわからなかった頃は常にジケイの背中を追っていたものだ。
時に素早く動いた彼は、後ろを気遣って歩幅を小さくすることなどしなかった。だからこそついていくのに必死になり、いつしかジケイの隣を歩くこともできるようになった。
今でもその気になれば隣に立つことはできるし、彼の前に立ちはだかることさえできる。それができないのは、頑ななジケイの心を開く手がかりを見いだせないからだ。
「ジケイ、あのさ……」
考えあぐねたジョウメイは、名を呼ぶことから始めた。それも長い間できずにいたことで、口に載せるとしっくりこない感じがした。
「いつまで俺たち、狩りから外れたままなんだろう」
話の種を探した挙げ句、口を衝いたのは不安であった。疑問は変わらずくすぶっているが、居場所を失ったままでいるのは自分自身の形を保てないようで怖かった。
「お前はカモス狩りをやりたくないんじゃないのか」
ジケイが返すのは正論であった。
「そうだったけど、他にできることもないから」
「虫のいい話だな」
ジケイの返事はにべもないものだったが、嫌みは感じなかった。
「ジケイは狩人に戻りたいの」
「当然だろう。狩人として生きる他に何があるんだ」
声音に迷いはなかった。彼は痛みを顧みずに務めを果たそうとするのだろう。それが彼の生き方であるようだった。
その強烈な思いはしかし、周囲の変化にはあまりに鈍い。そして頑なになって変化を拒む。その果てに味方を失うとしたらあまりに哀れであった。
「俺、最近トマラさんとかスズシとよく話すんだ。二人ともジケイを心配してる。あまり思い詰めるなって」
ジケイは返事をしなかった。それぞれの間にあるはずの絆が復活するかどうか、ジョウメイにはわからなかった。
いつしか二人は辻に来ていた。互いの家に向かう道はここで分かれる。
夕日を背負うジケイは、この道で背を向け合ったら二度と会えないと思っているような、思い詰めた顔を見せた。
「俺はお前やオドヤを嫌ってはいない。大事なのは俺の親や先祖が守り続けてきた歴史や伝統で、そこから外れたお前たちを許せなかったんだ。お前たち自身が嫌いになったわけじゃない」
訥々と語ったジケイの胸に、相反する気持ちが渦巻いているのがわかった。扱い切れずに苦悩しているのを垣間見ると、仲間として何もしてやれないのが歯がゆい。今でも仲間であることを認めるのは容易いが、ジケイの大事なものを踏みにじった事実を避けられない。結局ジョウメイには応じる言葉がなかった。
ジケイはそれでも、何か言葉を期待しているようであった。その眼差しが初めて弱気に揺れて見えた。
「知ってるよ」
口を衝いて出たのは、自分でもどれほどの力を持つかわからない言葉であった。抗議したかったにしても、別の手段は採れなかったのかと後悔が募った。
ジケイは返事の代わりに、眼差しに真義を見出そうとするように見つめてきた。息を詰めてその視線を受け止めたが、踵を返した時に彼は寂しげな横顔を見せた。
時が経てばいずれ仲間に戻れて、あの顔も自然と明るくなると信じたい。それでもオドヤとジンタが帰ってくることはないと、暗い気持ちの奥でささやく声が聞こえた。
その後もジケイとはホラクで顔を合わせたが、会話に発展することはなかった。頑なさが和らいで見えたものの、その分迷いが強く表れたジケイに近づく術がなく、結局見送るしかできなかった。
「どう、ジケイさんは」
山の雪形が大きくなり始めた頃に、一度スズシが訊いてきた。
「俺のことは嫌いじゃないって。でも俺は、ジケイにとって許せないことをしたから、それがいけないんだ」
「決まりから外れたら、皆が駄目なわけじゃないでしょ」
「でも、ジケイにとっては駄目なんだ。だからトマラさんにも、うまく近づいていけないんだよ」
「わからないわ」
スズシは吐き捨てた。持ち込まれたフムクリの解体にかかるが、手つきがどうにも荒っぽくなっている。
ふと、錬金術がヒムカシを席巻することがあったら、このホラクと〈エヒト〉たちはどうなるのだろうと思った。〈エヒト〉は元々、ミギョウ系魔法でどうしても発生する獣の骸を処理するために生まれた階級で、そこに穢れの意識が結びついて差別的な言葉になった。きっと錬金術においてそれはなくなるから、〈エヒト〉も解放されるのではないか。
ジョウメイは思い切って、スズシの背に訊いた。
「ここを、ホラクを出て、〈エヒト〉でなくなるとしたら、どうする」
ノコギリで肉と骨を断つ音が止まった。
「トマラさんにも同じことを訊かれたわ。その時はあたしたちも、〈エヒト〉なんて言われて下に見られなくて済むようになる。夢みたいね」
「嬉しくないのか」
未来に希望を見ている割に、スズシの声は淡泊だった。
「だって良いことばかりが起きるなんて、有り得ないでしょう。魔法のせいであたしもあんたも嫌な思いをしてきたし、トマラさんやジケイさんもそうだった。だけど魔法があるから毎日食べるものにも困らない。水を動かしたり土を耕したり、そういうのって全部魔法でやってるんでしょ」
一二〇〇年に渡って使われてきた魔法はジンタやオドヤを殺したのかもしれない。その一方で人の暮らしに役立ってきた事実がある。農作物に使われる水の操作をはじめ、人の手に余る自然の営みをある程度御することができるようになったのは、ミギョウ系魔法の功績だっただろう。
先祖も親も、それに生かされてきたからこそ自分たちはここにいる。魔法が変わる時はヒムカシで築き上げられた歴史を捨て去ることにもなるのだろう。ジケイとオドヤの、アメヒ王族と錬金社の違いは、一二〇〇年分の重さに頓着するかどうかであるようだった。
「〈エヒト〉なんて言われなくなったら、やっぱり嬉しいと思う。でもその時は、皆が離れ離れになるような気がするの。トマラさんと姉さんだったらそれでも平気でいるかもしれないけど、あたしは駄目。いくら愛していたって、その人と二人きりじゃいられない。皆と一緒でいられなくなるぐらいなら、あたしは今のままで良い」
訥々と語った後、スズシはノコギリでの解体作業を再開した。ホラク全体を覆うほの暗い色彩は、見ているだけで気が滅入ってくる。錬金術が席巻したらここを出られるかもしれない。呼ばれることで傷ついた〈エヒト〉の呼び名を捨てることさえできる。それでもなお、人とのつながりを重んじるスズシに、ジョウメイは心の温もりと表裏を為す孤独を感じた。
スズシ自身の思いを聞いた後に、言い添える言葉はない。せめて彼女が孤独を感じないようにと思い、ジョウメイは立ち尽くしてその背を見守った。
フムクリとなる獣の中にクンツエが増えてくると《四温の鎮》の時期である。春先によくある雪崩を防ぐのが主な目的だが、これから迎える種蒔のために行われる《春耕技》の成功を祈願する意味もある。
毎年のことだが、四季にそれぞれ行われる行事で必要になるクンツエは大量である。人手が必要なため、狩人にならない女子供まで駆り出される。これまで狩りから外されていたジョウメイとジケイも、特例として狩りに加わることを許された。受け入れてくれる班がないため、家族と共にクンツエ狩りに精を出すことになったが、久しぶりに村を走り回り、クンツエを追い回すのは楽しかった。
《四温の鎮》が終わると再びフムクリ処理に戻るのかと思ったジョウメイだが、意外にもその役目が解かれることはなかった。一人で狩ることのできる小動物に限られたが、久しぶりに狩りができた。それを素直に喜べないのは、未だ特別な立場に置かれている状況に大人たちの思惑がわからないからであった。
その上、《水上技》の準備までさせられた。本来なら夏野の時期に行われる魔法で、まだ種蒔も行われていない頃に行使する理由がない。しかもあてがわれた土地は、人が長い間踏みならした街道だった。農作業に使われるとは思えない。
「あれは、罠だ」
コウザエはすぐには答えず、ややあって返事をした。それでいっそうジョウメイの疑問は深まる。誰が何を嵌めるために用意する罠なのか。獣が街道に迷い出ることもあるが、それは春先に限られる。
「あれって《水上技》じゃないのか」
田畑の水の管理をするのが目的の《水上技》は、せいぜい稲穂の三分の一程度が水に浸かるぐらいにしか水位を上げられないはずだ。獣の多くは流れの速い川を渡り切る強い脚力を持っている。足首程度の水かさなどものともしないはずだ。
「ずっと昔なら人を溺れさせるほど水位を上げられたらしいが、今は無理だ。それを補うのが呪文銃だ」
「何を言ってるんだ、お父」
思わずジョウメイは口を挟んだ。溺れさせるだの呪文銃だの、狩人として暮らしている限り無縁と思われるような言葉ばかりが出てくる。狩人として先を行き、背中を追わせてくれていた人が、突如として方向を変えてしまったような心許なさを感じた。
「街道に張った罠が、錬金術同盟を撃退するための手立てになる」
父の声がひどく淡泊になっているのに気がついた。ジョウメイは改めて、何のための罠なのかと訊いた。
「それは皆に話さなければならないことだ。家に着いたら詳しく話す」
コウザエは言ったが、どうしても訊いておきたいことが残った。
「錬金術同盟って言ったか」
その言葉を聞き咎めたように、コウザエは足を止めた。
「オドヤから聞いたのか」
オドヤが錬金術に傾倒していたことは知れ渡っていたらしい。コウザエの声には意外さがなかった。
「オドヤが殺される前に言ってた。錬金術を使うなら、俺たちは一人の人間として扱われるって。だけどそれは、やっちゃいけないことだってジケイは言ってる」
父は黙って歩き出した。その背中が続きを促すように見えた。
「俺にはどっちの言葉を聞いたら良いのか今でもわからないんだ。お父は狩人だから、オドヤのことを許せないだろうけど」
言葉を重ねる内に体は熱くなり、胸も高鳴っていった。ジケイよりも狩人として長く生きてきた父の生き方に対立するような言葉を並べることが、どれほど大それたことかと思ってしまう。
「ジケイの方が正しい」
どうして、と訊いても答えは返ってこない気がした。コウザエの言葉は努めて短くまとめられているようで、多くを語らないことで迷いから目を逸らす。そうして脇目を振らずに役目をこなしていく。ジケイとよく似た思いが父の胸にあるようだった。
家に着くとシイゴが夕餉の準備をして、ゲンとリンナが囲炉裏端で遊んでいた。シイゴが雑炊の入った鍋を持ってくるのを待って、コウザエは口を開いた。
「よく聞け。西のウンベニ領は周辺の領を巻き込んで錬金術同盟なるものを結成している。もちろんアメヒ王族にしてみれば許されることではない。錬金術を捨てるよう王族が命じているが、錬金術同盟は聞き入れようとはしない」
ジョウメイは家族に視線を走らせた。言葉を聞いた瞬間、母のシイゴの顔は青ざめ、幼いゲンとリンナの弟妹は呆気にとられた顔をしている。雰囲気で察したのか、一言も喋ることはない。
「これからどうなるのですか」
母の声には不安がにじんでいた。オドヤの事件があってウンベニの思惑は誰もが知るところとなったが、それが王族との対立に発展したとなれば、脳裏に描かれるのは戦の姿だ。まだ幼いゲンとリンナは重苦しい空気を察してか押し黙って父を見つめていた。
「今はまだ何も起きていないが、シオウと周辺で王族と錬金術同盟がにらみ合っている」
「何事もなく終わるでしょうか」
「わからん。ただ、セキナンカ領では衝突を想定している。そのために、狩人の班が兵の班として再編されることになった。俺もその中に入るだろう」
「ジョウメイはどうなりますか」
すかさず母が訊いた。
「アメヒ王族は魔法を使って万が一の時は戦う考えだ。知っての通り、魔法を使うには準備がいる。ジョウメイのような若い寅組の者たちはその準備を担当する。前線に立って危険な役目に就くことはない。ジョウメイも狩りに戻るかもしれん」
シイゴは一度ジョウメイを見遣り、それからコウザエに視線を戻した。夫の言葉に懐疑的らしく、沈黙した。
父は少し表情を緩めた。
「まだどうなるかわからん。何事も起きずに済むかもしれん。ただ、備えておけば不安もないだろうということだ」
父の声音は優しかったが、信じ切ることはできなかった。オドヤのような末端の狩人でさえ王族への不満を見せたのだ。ジケイが動揺したのは、これまで有り得ないことだったからだろう。それが領を挙げて行われている今、何事もなく終わるとは思えなかった。
雨で狩りが中止になることが増え、フムクリ運びが専業となっているジョウメイも仕事をしなくなる。狩人として過ごしていた頃なら道具の手入れができる貴重な時間であり、それは狩りから外された今も変わらない。狩りに戻った時に備えてのことだが、ナガサを手に取って獲物を追い回せる日を思い描いている自分自身が掴めないものに感じた。
これまでと変わったのは、父から銃の使い方を習うようになったことだ。狩りが中止になったある日、居間でナガサの手入れを始めようとすると、父は突然二挺の銃を持ってきた。
「狩人の組に属するものは銃の扱いを学んでおけとのお達しがあった」
そう言いながら父は銃を渡す。戸惑ったのは、銃が呪文を必要とする武器だからだ。
「呪文銃に関する魔法ならば使っても良いという許しも出ている」
ジョウメイが疑問を口にする前に父は言った。
「狩りでこれを使っても良いの」
そうだとすれば狩りで命を落とす危険が減る。そんな期待を込めて訊いたが、カモス狩りのために使わせるわけではないと父は答えた。
「だけど狩人が使うって」
「この銃を使うのは錬金術同盟がこのセキナンカに攻め入ってきた時だ」
ジョウメイは一瞬言葉を失った。オドヤが撃ち殺された瞬間が脳裏に蘇る。
「我が家で銃を持つことを許されたのは俺とお前だけだ。俺は家を離れなければならないかもしれない。その時はお前しか留守を託せない。今度は逃げまいな」
未だに迷いとなって胸でうずく記憶を、父の頼るような声が打った。
「当たり前だ」
いくつか浮かんだ疑問を封じるために短い言葉を選んだ。何を思ったところで、家族を守るという気持ちに勝るものはないはずだ。
ジョウメイの隣で父は銃の分解を始めた。ナガサを振り回すためにあると思っていた手が、今は正反対の繊細な動きで銃を小さな部品に分けていく。
一つ一つの動作を真似る。その繰り返しの果てに、お互いの銃は面影をなくすほど細やかになった。柄や刀身など、せいぜい五つぐらいの部品にしか分けられないナガサと比べると、驚くほど部品は多い。
鉄と木で占められる銃の部品の中にあって、一つだけ紙が交じっている。父はそれを取り上げた。書かれている文字は、いつも囲炉裏で雑炊の煮炊きに使っている札と同じだ。
「呪文銃の要がこの札だ。これがなければ銃は使えない」
言いながら父は、細かい部品に分けられた銃を再び組み始めた。札は遊底という部品の中に貼り付けられていたらしい。木製の銃把と金属製の銃身に挟まれて取り付けられている。遊底のどこかに弾を込め、銃身を通って標的へ向かうのだと何となくわかった。
銃を組み上げながら、父は呪文銃の構造について語り出した。引き金を引くと同時に詠唱された呪文を遊底内部に貼り付けられた札が受けて弾丸を加速させ、弓矢など比べものにならないほどの威力を標的にぶつける。一発撃ったら次の弾丸を遊底に装填し、再び撃つ。言葉で聞くだけでは難しく感じなかったが、雨が上がった数日後に寅組に属する少年たちが集められて訓練が行われ時、まともに発射できた者はいなかった。
「引き金を引くのと呪文を詠唱するのは一緒でなくてはならない。そもそも呪文をしっかり詠唱できている者がいない。こんなことでお役に立てると思うのか」
銃の扱いを教えるのは酉組に属する父と同じ年格好の男だった。少年たちを前にして懸命に声を張り上げていたが、ジョウメイには素直な返事がためらわれた。
「気の抜けた返事をするな」
不意に鋭い叱責が飛んだ。
「やがて敵が攻めてきた時、誰がここを守る」
男の声は傲慢に響いたが、迷いを振り払ってくれた。コウザエが言ったように、家族を守れる武器を使えるのは自分しかいないのだ。
訓練は火点し頃まで続けられた。その頃には呪文の詠唱十回につき一回は弾丸を発射できるようになった。
銃の訓練が課せられた狩人たちだったが、晴れた日の狩りが免除されたわけではない。呪文銃に不可欠な札は、カモスがなければ効果が持たせられないからだ。
狩りに加えて慣れない銃の訓練が課せられた狩人たちは疲れが溜まっているのか、傷を負って帰ってくる者が増えた。いつ何が起きるかわからない。死骸を運ぶ日々はそんな緊張感と共に過ぎていった。
季節が巡っても動きはなく、領の外で動乱が起きていることを忘れかけていたジョウメイは、年が明けたばかりのある日、家族を集めた父から衝突があったことを聞かされた。母のシイゴは青ざめ、幼い弟妹も雰囲気を察して黙りこくった。
「まだまだ我々が優勢だ。しかし万が一の時は、迷わず砦へ駆け込め」
「あなたはどうするんですか」
「俺は役目を果たす。ジョウメイも同じだ。しかしジョウメイ、お前は敵を倒すより家族と一緒に逃げることを先に考えろ」
家族を守るために身に着けた銃の扱いは、膝の上で握りしめた両手に染みついている。ジョウメイは無言で頷いた。
敵兵が進軍してきたという報せは、初めて動乱開始の報がもたらされてから五ヶ月後に届いた。王族に味方する領も御業同盟軍を結成して抵抗したが、ことごとく打ち破られたということだ。
進軍が予想される街道には《水上技》をはじめとする罠が仕込まれている。そこで足止めをしている間に、藪や物陰に潜んだジョウメイらが狙い撃つという手はずだった。身柄を預かっている班の連中と一緒に潜むのかと思うと気が重かったが、ジョウメイが組まされたのはジケイとトマラだった。
「どうしてトマラさんが」
トマラと同じ世代の者たちは前線へ送られている。彼の働く場ではないと思えた。
「〈エヒト〉と共に働くのを皆が拒むからだよ」
「厄介者たちでまとめようってことか」
ジケイが自嘲するように笑った。トマラによると、他の〈エヒト〉たちはホラクに残り、自分たちの身を守るので精一杯になっているという。トマラは数少ない戦場へ出られる人間だったが、敢えて使わないところにミギョウ系魔法の矛盾を感じた。
「それだけじゃない。アメヒ王族が勝った後に魔法を存続させるにはフムクリ処理が必要になる。それをやれるのは、やはり代々フムクリ処理をしてきた〈エヒト〉だけだ。〈エヒト〉がいなくなったら困るのは、皆だからだ」
ヒムカシの歴史は、誰もが拒む仕事を請け負う者がいたから成り立ったところもあったのだろう。その人々が蔑まれる現実が今は痛切だった。
「そんなことだったら、なくなった方がましだよ」
口を衝いて出た言葉を、ジケイが鋭く聞き咎める。スズシと夜虹を見た夜も、始まりは
こんなふうにして口げんかが始まって、自分が役目から逃げたことだった。
「ごめん。言い過ぎた」
素直に言うと、ジケイは気にするなと言った。少し恥ずかしそうであったが、それ以上は何も言わなかった。
「そろそろやるぞ。色々あったが、俺には守りたいものがある」
数々の疑念が心に空けた穴に、言葉が糸となって滑り込み、ジケイの心とつながる。そしてトマラがたぐり寄せた糸は、互いの隔たりを少しだけ小さくしたようだった。
三人は歩みを揃えて、決められた場所に木札を埋め込んでいく。そこは敵兵たちが進軍すると思われる道で、ある程度の兵士を引き込んだら合図を放ち、ユイヌシが《水上技》を発動する。敵兵を足止めしている間に攻撃するのだ。
平原を離れて茂みに隠れていると敵の兵士たちが現れる。皆幅の狭い黒光りする山笠のようなものをかぶっている。斬りかかっても弾かれそうだった。
動乱を肩から下げて、その下に上衣と下半身を覆う袴のようなものを着ている。動きにくそうに見えたが、あれが錬金術を使う国の兵士の服装なのだろう。
「そろそろだぞ」
ジケイがささやいた。ジョウメイは最後の一人が自分の前を通り過ぎるのを見届けると、報せ紙にその事実を書く。これでユイヌシの元には、敵兵が目論み通り進軍していることが伝わるはずだ。
その効果は程なくして現れる。兵士たちの進軍が突然止まった。足首まで水に浸かっていて、彼らは明らかに戸惑っていた。
最初に引き金を引いたのはトマラだった。弾丸を遊底へ送り、呪文の詠唱と引き金を引く動作を同時に行い、発砲する。一人が倒れた。前へ進もうとしていた兵士たちが振り返る。その間にトマラは二発目を装填し、再び発砲していた。
それにジケイも続き、ジョウメイも夢中で引き金を引いた。弾丸が当たったのかどうかわからない。敵兵は水と泥に足を取られながら散開し、撤退していった。
うまく役目を果たしたことに多少の充実感を覚えたのも束の間だった。魔法は一度使うたびに準備からやり直さなければならない。夜を徹して作業をしていたジョウメイは、夜明けの頃に遠くから地響きを聞いた。
ただならぬ気配を感じて避難場所に定めていた茂みに逃げ込んだジョウメイらは、程なくして目の前を石の塊が通り過ぎていくのを見た。
自分たちの役目を終え、交代で休んだ後拠点を訪れると、そこは壊滅していた。
「あれがゴーレムか」
トマラが呟いた。拠点の惨状には似つかわしくない落ち着きがあった。
「ちゃんと魔法は発動したのか」
ジケイの声は震えていた。大きな岩で押しつぶされたような跡が多い惨状を見回しながら、ジョウメイはゴーレムのことを訊いた。
「錬金術の象徴のようなものだ。今はまだ、まっすぐに一定速度で進ませるぐらいのことしかできないらしいが、アメヒ王族には充分な脅威だろう。何しろこれまで培ってきた魔法が効かないんだ。そして文字通り蹂躙していく」
「ジョウメイ、お前は早く戻った方が良い。小さい子がいるんだろう」
緊迫した面持ちでジケイが言った。
「それを言えば俺も同じだよ。いや、ジケイもそうかな」
ジケイにも弟たちがいるし、トマラにはスズシたちがいる。もはや戦う力がない以上、少しでも命を守るのに徹した方が賢明だ。
三人は頷き合ってオノニ村へ急いだ。トマラの話では、ゴーレムは動かすのに手間がかかるため、兵士だけで進軍するよりひどく時間がかかるという。近道を行けば敵軍を追い越せる。
果たしてたどり着いた時、夜になってしまったが、村に荒らされた形跡はない。王族軍の兵士ばかりで、女子供の姿はない。ジョウメイは家に戻ったが、その途中すれ違ったのは兵士だけであった。
居間に向かってそれぞれの名を呼んだが返事はなく、ジョウメイは月明かりを頼りに手がかりを探す。そうやって探り当てたのは、父の字で書かれた手紙であった。
敵軍の進撃を前に、村人たちは北に築かれた拠点へ避難しているという。ジョウメイも村に着いたら速やかに追いかけろというものであった。
そこに父の行方は書かれていない。そして戦いへ駆り立てる言葉もない。ジョウメイは父が帰らない覚悟でいること、いくら奮戦してももはや勝ち目がないことを悟った。
家を転がり出たジョウメイはホラクへ向かった。ほとんどは既に避難した後のようだった。その中でトマラとスズシを見つけるのは難しくなかった。
「良いのか。家族は」
「もう避難したみたいです。トマラさんとスズシは」
スズシと目配せしてから、トマラは語り出す。
「俺はすぐに出る。後のことは全てスズシに任せることにした」
スズシに目を転じると、彼女はゆっくり、しかししっかりと頷いた。
「あたしは一人でも皆を守るから」
「大丈夫なのか」
「これでも親代わりをやってきたんだから、平気よ」
スズシは笑ってみせたが、強ばった顔になった。不安感を隠しきれないようだった。
父は逃げるように言ったが、あの時のように逃げることは、今は許されないと思った。
「ジョウメイ、君はどうする」
トマラに訊かれ、命じられた通りのことをする、と返事をした。
「スズシだって自分一人で逃げるわけじゃないから、少しでも助けてやりたい」
再び大人の言うことに逆らうことになる。けれどもスズシたちを助けられると思うと、晴れやかな気分になれるのだった。
ジョウメイはジケイ、トマラと共に村に残ることになった。ゴーレムに対してアメヒ王族が培ってきた魔法が有効ではないことは明らかなはずだが、王族軍の兵士たちはそれを使って勝つ可能性を捨てきれないらしく、街道でやったのと同じように魔法の準備を求めてきた。
敵の進軍が遅れているのが幸いして、木札を埋める準備を妨害されることもなかった。街道の時と違って、士気の高い兵士たちの協力も得られたので作業は早く進んだが、見知った顔が全くないのが気になった。
皆の安否が気になって兵士の一人を捕まえて尋ねてみたが、
「皆別の場所で戦っているのだろう。ここに至る道で戦っているのかもしれん」
敵の進軍が遅れているのは、ここにいない知り合いたちの奮闘によるものかもしれないということであった。
作業が一段落すると、別命あるまで待機と命じられた。家族が避難した今、顔を合わせるべき相手はほとんどいない。別の場所にいるはずのジケイやトマラを探してみようと思って夜道を歩き出したジョウメイは、川の方から現れた人影に足を止める。
「誰だ」
鋭く誰何すると相手は小さく息を呑んだ。
「びっくりさせないでよ」
安堵感に満ちたスズシの声だった。
「こんな時間に何やってるんだ」
水色の生絹地の小袖を着た彼女の手には竹の手桶が握られていた。
「子供が一人熱を出しちゃったから、水を汲むの。ホラクに井戸はないから」
あれほど水気の多い場所に井戸がないことに、意外さより理不尽さが募る。魔法が作った枠組みに子供が苦しんでいると思うと胸が痛んだ。
「ジョウメイも頑張って」
挨拶を短く切り上げて川へ足を向けたスズシを、ジョウメイは追いかけた。
「俺が運ぶ」
「良いよ。あんただって疲れてるでしょ」
両手で桶を持つスズシの足取りはおぼつかなかった。その足が何かにつまずいた時、ジョウメイはとっさに肩を掴んだ。
「無理するなよ」
スズシの手から落ちた桶は、幸い水をこぼさなかった。それをジョウメイが持ち上げる。片手では辛く、ホラクまでの道のりを一人で運ぶのは骨であった。
スズシは陰りのある表情を見せ、ホラクの入り口に着くまで無言で歩き通した。彼女の後について水を運び込んだ先で見たのは、思うよりひどい光景であった。
「誰にやられたんだ」
子供たちに囲まれて幼い男の子が寝かされている。その周りの畳や薄い布団についた血に声が震えた。
「違うの。トマラさんから聞いたんだけど、こういう病気があるんだって。ちょっとした傷でも血がたくさん出て止まらなくなるって病気」
スズシは言いながら布団をめくった。血糊に紛れて傷が見える。誰の仕業でもないのかと訊くと、やはりスズシは首を振った。
「だいたい皆砦に逃げたもの」
桶の水に浸した手ぬぐいを絞り、男の子の頭に乗せる。微かに目が動いたように見えた。
周りの子供たちは最初こそジョウメイに不安げな眼差しを向けてきたが、スズシとの会話で信頼してくれたのか、布団に寝ている子供に関心を戻した。
「なあ、俺がこの子を背負うから、今からでも砦に行かないか」
どういう病気か知らないが、医者もいない場所にいたら治るものも治らなくなるだろう。
男の子の傍に座ったスズシは静かに首を振った。
「負ぶっていこうと思ったんだけど、ちょっと体を揺らしただけで皮が避けて血が出るの。それだけですごく痛がるから」
スズシの声は掠れていた。その苦しげな横顔を前にして何もできないことが歯がゆいものの、子供の一人にトマラの所在を訊かれて、立ち去るわけにはいかないと思った。
「トマラは今、別の役目があるんだ。戻ってくるまで代わりにいてやってくれって頼まれてる」
「ちょっと子供っぽいけど、頼れるから大丈夫」
スズシがさりげなく合いの手を入れた。少しだけ明るさが戻って聞こえた。
まだ蒸し暑い時期で、水を放っておくとすぐにぬるくなってしまう。そのたびにジョウメイが水を汲み直す。それを繰り返すうちに子供たちは眠ってしまったが、スズシは変わらずに看病を続けていた。
「少し休めよ。手ぬぐいを換えるだけなら俺にもできる」
川沿いでスズシと会って、どれほどの時間が経ったかわからない。トマラが帰ってくる気配はなく、ホラクに寄りつく人もいないのか、自分の声がやたら大きく聞こえた。
スズシは一息ついて、手ぬぐいを男の子の額に載せた。
「手ぬぐいがぬるくなったら換えてあげて」
そう言った途端、張り詰めたものが切れたようにスズシの額には汗が現れた。
体を横たえたスズシはほとんど間を置かずに寝息を立て始めた。手ぬぐいの温度はすぐに上がってしまうから、冷たさを保つために気の抜けない時間が続いた。
スズシに言われたように手ぬぐいの温度をこまめに確かめる。思ったほど早く手ぬぐいの温度は上がり、冷たさを保つためには気の抜けない時間が続いた。
「あんたは寝なくて良いの」
思いがけず背後から声をかけられてジョウメイは飛び上がった。
「何だよ、まだ寝てから全然経ってないぞ」
「眠れないもの。この子たちが気になって」
「俺を信じてくれないのか」
「違う。あたしが寝てる間にこの子たちに何かあったら、トマラさんに顔向けできないもの。そう思ったら、寝てなんかいられない」
気迫さえ感じる声に、ジョウメイは男の子の傍を譲った。
子供たちは皆眠っていて、間が持たないからといって語らうわけにもいかなかった。男の子を見つめていたスズシだったが、やがて船を漕ぐようになった。
倒れそうになってとっさに支えたが、それでもまどろみは消えないようだった。考えた挙げ句、ジョウメイは自分の体で支えてやった。
肩で受け止めた感触は驚くほど軽い。さっきの気迫が嘘のように、スズシは安らかな寝息を立て始めた。
「虹……」
身じろぎ一つせず睡魔と戦っていたジョウメイは、ふとスズシの口からこぼれ落ちた声にはっとした。出自や生きてきた道の違う自分たちが隣り合っていられるのも、きっとあの虹の感動を同じにしたからだろう。スズシの表情に惹かれたり胸を痛めたり、それを繰り返したくなる。隣り合っているうちはそれも叶うだろうか。
「きれいだったよな……」
ジョウメイは夢の中のスズシに向けてささやいた。
やがて薄い光が差し込んできた。スズシを軽く揺さぶると、ジョウメイの肩から跳ねるように離れた。
「あたし、寝てた?」
「俺が見てたから平気だ」
「そう、ありがとう」
スズシは何故か恥じらうような顔をしていた。
一度水を汲んで帰ってくる頃には日が昇っていた。スズシも帰った方が良いと言ってきたので素直に頷く。
「どうするんだ。そろそろ逃げないと」
見送りに出てきたスズシに言うと、彼女は小屋を振り向いて、意を決したように、背負って行く、と言った。
「あとの子は自分で歩いて行けるけど、あの子は自分じゃ歩けないから。痛いだろうけど、ここにいたら本当に危ないから」
「トマラさんを待たなくて良いのか」
「トマラさんはあたしに皆を託したんだ。皆で何とか逃げ切ってみせる」
笑顔に無理が見えて放っておけないが、彼女たちを助けてやる余裕はない。せめて皆の無事を願うだけであった。
スズシは自分たちが行こうと思っている道をトマラやジケイに伝えて欲しいと言った。そこは狩りで何度か通ったことがある道で、そのことを伝えると、あんたも追ってきてね、と頼まれた。
語らう間に日差しは強くなった。持ち場へ戻ろうとホラクの外へ足を向けた時、思いがけず腕を掴まれた。
「最後に言わせて。その、ありがとうって、いうのかな」
スズシは口に乗せた言葉をくすぐったく思うようにはにかんでいた。
「最後なんて言うなよ。それに、どうして」
「だって」
伏し目がちになったスズシは、もう一度、だって、と小さな声で付け加えた。
「あたしを厭わないでいてくれたのは、あんたとトマラさんだけだったから」
返す言葉を探している時であった。
微かで柔らかな感触が唇に当たった。
何をされたかわからないが、心の奥底ではとても大事なものをもらった喜びを感じている。いつの間にかスズシの顔が近くに迫ってきていて、すぐに離れた。
「がんばって」
笑顔を見せてからスズシは踵を返した。ジョウメイはぼんやりとその水色の小袖が遠ざかるのを眺めた。熱に浮かされたような感覚の中、最後になるという予感がある。立ち尽くす間にスズシは暗い色彩へ消えていった。
合流した二人にスズシの言葉を伝えると、それぞれに違った反応を見せた。トマラは少し心配そうにスズシの様子を訊き、ジケイは眉根を寄せて立ち尽くした。
オノニ村の周囲に罠を仕掛けて回っていたジョウメイは、再び銃を手に取った。他人とはいえ人を撃って平気ではいられない。できるなら二度とやりたくない役目であったが、逃げた後で家族の死を知ったらもっと苦しむのが目に見える。それぞれ覚悟を決めたような面持ちのトマラやジケイについていった。
「またゴーレムが来るのかな」
自分たちの攻撃がまるで通用しなかったことを思うと怖くなった。事実、敵がゴーレムを前に出して進軍してきたら打つ手がないだろう。
「動かすのに時間がかかっているようだからすぐにやってくることはないはずだ。もっとも、時間を作れたといって妙案が思いつくわけでもないが」
トマラの静かな語り口には諦めが漂っていた。言うな、とジケイが低い声を出す。
「ウンベニが使うのはゴーレムだけじゃない。歩兵用の呪文銃に似た武器もあるが、構造が違う。あれは自然にある火の精霊の力がやどった物質を加工して、札の代わりにしたものだ。札と違って六回ごとに換えれば済むようなものだから、連射能力も高い。あれがあったら、危険を冒して獣に剣や槍で立ち向かう必要もなくなっていたはずだ」
「それじゃ勝ち目がないんじゃ」
途中でジョウメイは気づいた。ミギョウ系魔法の産物が戦場においては劣っている。それではシーとエボロスの戦の再現にしかならないということだ。
そしてこれまでやってきた狩りにおいても、錬金術製の武器があったら、危険を大きく減らすことができる。
ジョウメイは〈回り舟〉が動き出したのを見た。引き金に指をかけ、敵が来るのを待つ。
「敵の方が正確に撃ってくる。俺たちのような失敗はないはずだ」
敵がゴーレムでなければまだ戦う術はあるが、呪文の詠唱に慣れないと正確な発砲ができない呪文銃に対し、敵の使う銃は決まり切った正確な動きを見せるから、自分たちは不利だろう。
狙い通りの場所に敵軍が差しかかる。ゴーレムの姿はない。息を詰める。集団の前を行く一人に狙いを定める。
一瞬、息を止めた。
「行け」
トマラは号令と共に引き金を引いた。それに続いてジケイ、ジョウメイも引き金を引く。呪文をそれぞれに唱えた。ジケイとトマラの銃は音を上げたが、ジョウメイの銃から銃声はなかった。何度も同じようにして、五回目にやっと銃声があった。その時には二人の兵士がくずおれていたが、敵兵の集団は全くひるんでいない。
「逃げるぞ!」
トマラが再び号令し、一目散に逃げていく。撃っては逃げる戦法を繰り返しても反撃が
ないから、もしかしたら思ったより効果は高いのかもしれないと思った。しかし弾込めをしている間に追いつかれ、茂みに向かって銃弾が撃ち込まれる。
自分たちを守るように前へ出ていたトマラが撃たれるのもわかっていたことだが、撃ち返すことも手当することも忘れて立ち尽くす。ジンタやオドヤの死に様が頭をよぎった。
「ジョウメイ、村へ行け……!」
トマラは絞り出すような声で叫んだ。直後に狙い撃ちされる。トマラはのけぞったが、膝をついて堪え、銃口を前へ向けた。
やがて銃撃はやんだ。ジケイは無事なようだった。敵軍は自分たちの横を通り過ぎてまっすぐ村へまっすぐ向かう道を行く。
頭がうまく考えをまとめられない。するべきこと、した方が良いこと、したいこと、すべてが一緒くたになって頭で渦巻く。トマラを助けるのか、敵軍を追いかけるのか、スズシの教えた道へ行くのか、どれもがやらなくてはならないことに思えてくる。
「村へ行け、ジョウメイ」
苦しげなジケイの声に頭の中の混乱が収まった。
「それが良い……、どうせここまで来たら敗北するだけだ……、なら、スズシを、せめてスズシたちだけでも……」
子供たちを連れて歩いているはずのスズシに追いつければ、支えられるかもしれない
「わかった。スズシは俺が」
ジョウメイは二人を顧みずに走った。村の周りには狩りで獲物に先回りをするための抜け道がたくさんある。それらを駆け抜ければ軍勢を追い越せるはずだった。
しかし村にたどり着いた時に見たのは、ウンベニの紋をつけた鉄笠を被った兵士たちであった。通り抜けようにも、村を抜ける道は残らず兵士たちが見張りをつけていて、ジョウメイは安全な道を探し当てるために歩き回らざるを得なかった。
それも長続きはせず、やがてジョウメイは兵士たちに見つかり、道を探すどころではなくなってしまう。
そして山道を下りると、そこにはウンベニの兵士たちが待ち構えていた。即座に組み伏せられたジョウメイは、スズシが向かったはずの方角を睨むことしかできなかった。
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